全国14億人の加藤学ファンの皆様

日本全国離島シリーズ第4弾〜沖縄 慶良間諸島 座間味島・阿嘉島・慶留間島〜
「座間味の海は最高やったで」


皆様、こんにちは。

この秋、沖縄に初上陸しました。「沖縄は時間かけて原チャで回る」というのが夢でしたが、会社員になった今としてはなかなか長期の休みは取れず、予定変更。今回、ついに沖縄上陸です。

仕事の都合上、今回は会社の携帯電話持参だったので無茶はできず、テントは止めて、始めからゲストハウスや民宿に泊まる予定でした。座間味に行こうと最終的に決めたのは、那覇に着いた夜。本島をバイクを借りて回るか、どこか離島に行こうか、那覇に着くまで決めていなかったのですが、那覇の人が多いのにうんざりして(着いた日は「那覇祭り」があったのもあって)、即、翌日離島に行くことを決定。行き先は、泊港に向かって探し、何となく座間味にしました。

私の場合、「旅には食」というテーマがつきものですが、沖縄料理屋は、東京には結構あり、これまでそれなりに行っていたので、正直、新鮮さはなかったですね。那覇の国際通り沿いは、いかにもという観光客相手の沖縄料理屋が並び、どうも入る気がせず、私は、裏通りにある小じんまりした飲み屋を転々としていました。泡盛も色んな種類が東京でも飲めるし。お土産に買おうと思った各種沖縄料理も、メーカーは大手食品メーカーで、結局は製造場所が内地であったり。結局、地場のメーカーが作ったものをいくつか買いました。

座間味は、何と言っても海でしょう。無茶苦茶きれかったですね。空気もきれいで、水もきれいで。日差しが強いので、水の中でも長時間泳いでいると、背中がヒリヒリしてきました。ある日、座間味から、漁師船で無人島である安慶名敷島に行きました。ちょうど、座間味と阿嘉の間にある無人島で、とにかく海が無茶苦茶きれいで、バヌアツ、小笠原よりもきれいだったかもしれません。天気が良かったのもありますが、かなり深いところまで日が仕込んでいました。ただ、うれしい反面、残念だったのが、たくさんいた熱帯魚君たちが、私が近づいても逃げていかなかったこと。近くで見られるのはうれしかったのですが、多くのダイバーによって餌付けされているのでは、と感じました。

座間味村は、全体で人口が1,000人程。人が住んでいるのが、座間味、阿嘉、慶留間島だけで、座間味島がその半分。慶留間島には、100人もいないのではないでしょうか。しかし、3島ともに学校があったのにはびっくり(小・中学校同じで、阿嘉、慶留間は幼稚園も同じ)。10月は観光のシーズンも過ぎ、観光客も比較的少なく、静かで時間がゆっくり過ぎていく感じでした。

今回、改めて「離島はええな」と感じましたね。大陸ではないため、独特の文化、空間、空気がある。東京にどっぷり浸かっていると、生活の空気の流れが単調で、たまに違った空気を感じないと、都会に麻痺しちゃいますね。旅の基本です。

さて、今後は、しばらく沖縄の離島を攻めてみます。残念ながら、短い有休期間だけですが…。では、また次回にお会いしましょう。





安慶名敷島の海
写真だと、うまくそのきれいさを表現できないのは残念
無茶苦茶きれいだった


P.S.
座間味に着いた夜、中日が優勝し、我がチームのシーズンが終わりました…。


「来年は、我がチームはやります!」
湘南より愛を込めて
29/Oct/2006/

Manabu Kato






Topics; "Kerama Islands" Vol. 151 - 153

自分の不注意で…

私は、今回の旅で、足を痛め、風邪を引くという情けない事態を引き起こしてしまった。

那覇空港に着いた私は、いつものように本も地図も何も持っていなかったので、とりあえずインフォメーションに行って、地図をもらって、街中にでる方法を教えてもらった。知人から、国際通りに行けば、安宿はいっぱいあると聞かされていたので、空港からモノレールに乗って、県庁前駅で下車し、国際通りへ向かった。

この日は天気もよく、「那覇祭り」のパレード、綱引きが開催されるとあって、観光客と地元の人で、国際通り近辺はかなりに人がいた。外人がおおかったのは、やはり沖縄と感じた。ある飲み屋におっちゃん曰く、米軍基地のアメリカ人連中は、お祭りとなったら、大抵家族を連れて街に出てくるらしい。その人ごみの中、私は、まず安宿を探した。

国際通りは、何となく、バンコクのカオサンの臭いがした。土産物屋が乱立し、飲み屋、レストランが並ぶ。通り沿いに簡単に安宿を見つけられると思っていたが、安宿は国際通り「沿い」ではなく、「近く」に多々あることがわかった。私は、なるべく人がいないマニアックなところが好きなので、しばらく裏通りを歩き続け、ある安宿に泊まることにした。ドミで1泊\1,500。那覇のような都会(交通の拠点)にドミがあるのは助かる。東京や大阪でも同じようなことをすれば、もっと観光客が増えるのに。これは、私がバックパッカー時代から提案していることだ。その後は、市場に行ったり、泊港まで行ったりとビーサン、単パンでかなりの距離を歩いた。

夕方、近くの奥武山公園で那覇祭りの色々な催しがあると聞いて、向かうことにしたのだが、ちょうど那覇祭りの綱引きが終わったところで、公園まで行くモノレールは長蛇の列。街中から公園までは、歩いて20分ほどで行けるのだが、私はそれまでかなり歩いていたので、足が疲れていた。しかし、モノレールは乗れる気配はないので、公園までの歩いていく人の群れに入って公園に行くことに。

公園に着いても、人の多さは変わりないし、数はどんどん増えてくる。出店も、どこの祭りでもある出店(やきそば、フランクフルトなど)がほとんどで、特に真新しいものなし。途中で、「ヤギ汁」を飲んで、オリオンビールを飲んだだけで、私は人の多いのにうんざりし帰ることに。この頃でもう私の足(特に右足首)は限界。

しかし、国際通り近辺に戻っても、飲み屋に行かず、宿に戻るのはもったいない。そこで、足を引きずりながら、裏通りのマニアックな飲み屋を探し回った。探してたまたま入った飲み屋は、店のおっちゃんのみで客はなし(こういうところを探していた)。で、おちゃんと色んな地元の話をしながら酒を飲むことに。無茶苦茶親切なおっちゃんやった。

翌朝、起きると、右足首が痛くて起きられない。そう、前日のつけがきた。ビーサンでのあれだけの長距離の歩行はやはりよくない。その日以降は、ずっと足を引きずっていたのだが、結局その痛みは旅行後の今となっても残っている。かなり、右足首に負荷がかかっていたのだ。

足を引きずったまま座間味に着いたのだが、座間味でももちろん何も予定は決めていない。とりあえず、港で地図をもらって、足を引きずりながら、人が少なさそうな外れの民宿に向かった。
民宿の場合、私も長年民宿で働いていたのでよく分かるのだが、一人のお客さんは余り受け入れたくない。私は相部屋で何も問題ないのだが、相部屋を受け付けない宿もあるし、シーズンオフになると、一人の客しかいない場合は、宿泊をわざと断ったりする。そういったことを懸念しながら、私はふらふらと集落の外れにある「民宿南星荘」に向かい、宿の人に宿泊を聞いたら、当日宿泊者がいないにもかかわらず、快くOKして頂いた。これには非常に助かったし、宿泊中も非常に親切にして頂いた(素泊まり¥3,500/泊)。

その日の晩、締め切った部屋に戻った私は、まずはクーラーをつけた。そこで、多種あるオリオンビールの飲み比べをしながら、上半身裸でウトウトしてしまった。ハッと気づいたら、AM2:00頃で私の身体は冷えきっていた。やばいかな、と思いながらも、翌日無人島で2時間ほど海に入っていたのもあって、その翌日はすっかり体調を壊してしまった。

阿嘉島に渡った後は、もうしんどくて、しんどくて。港で地図をもらって、外れの民宿に向って歩いていたが、一軒目は宿泊拒否。そして、二軒目も…。一人客の際の懸念事項が現実のものになった。私は、仕方なく港の方に戻りながらも、いかにも民宿というところを探し、「民宿末広」に辿り着き、その日は宿泊客ゼロにもかかわらず、一人客の私を快く引き受けてくれた。私は、民宿なら素泊まりにするのが普通だが、阿嘉島に食べるところがほとんどないのと、体調が最悪だったのもあって、今回は二食付きにした(\6,000/泊)。

宿にいる間は、ほとんど寝ていた。民宿のおばちゃんにも色々気を遣って頂いた。私の好みでめしも作って頂いたのだが、ボリュームがかなりある。体調が悪い中、このボリュームは結構辛かったので、ごはんはほとんど食べなかったのだが、それにおばちゃんはすごく気にして、「料理が口に合わないのでは?」と何度も聞いてきたほど。体調がよければ、もっといっぱい食べて、おばちゃんとゆっくり話もできたのに…。

余りにも体調がよくならないので、翌日は雑貨屋に薬を買いに行ったのだが、阿嘉島の民家には常備薬があり、薬は売っていないとのこと。そこで、民宿のおばちゃんに薬をもらうことに。常備薬の場合は、使った分、お金を払わないといけないので、私は薬代を払わせてくれと頼んだが、おばちゃんは半分しか受け取らなかった。民宿に泊まる客の中には、平気で薬を飲んで全くお金を払う素振りを見せない連中がいる中、私の行為は誠意に感じたらしい。

那覇に戻ってからは、体調はだいぶよくなったが、足の方は悪化する一方。帰りの飛行機が夜だったので、最終日は1日時間がある。ふと地図を見ると、モノレールの終点が首里と書いてあったので、たぶん首里城でも見ていこうと思い、首里に向かったが、駅から首里城まで歩いて20分程ある。またまた足を引きずって歩いたが、首里城に着くと、観光客の多いこと。軽く見ただけで、長い道を歩いてまた街に戻ったが、街に戻る頃にもう身体がボロボロ。足が痛いのもあったが、ずっと阿嘉島で寝ていたのもあって、背中が痛くて。これはやばいと思い、国際通りにあるマッサージ屋「てもみん」へ。40分程マッサージしてもらったが、店の人から身体全体かなりひどいと言われる始末。

今回改めて思ったが、体調が悪い時は、本当に人の温かみを感じる。また、体調が万全というのは本当に大事だ。体調が悪いだけで、旅の楽しさは半減する。何よりも、うまいものがおいしく食えない。身に染みて感じた。



那覇祭りで賑わう国際通り


「ざまみ食堂」で食べた海ぶとん定食
(海ぶどうとすぎの刺身)


数々のオリオンビール
スタンダードが一番うまかった


座間味島にある展望台から




な、な、なんと、バンジーの写真が・・・

座間味島にいる間は、色んな店でめしを食った。店と言っても数に限りがあり、宿のおっちゃんが色々アドバイスをくれた。座間味に着いた日は、海神祭という年に1度海に感謝するお祭りがあり、島の小さな公園で、地元の人と共に数時間一緒に酒を飲んだ。祭りでの村長の話の中の「島に富を育んでいるのは、海の幸だけではなく、ダイビング目当ての観光客もおかげでもある」という言葉は、まさしくこの村の産業を象徴していた。

昼は、港の「ざまみ食堂」でめしを食っていた。島にいくつかあるめし屋の一つで、島にいるほとんどのツーリスト、地元の人もここで食っているのではないだろうか。店に来る客の頼んだものを見るとツーリストか地元に住み着いている人かがすぐに分かる。観光客は沖縄料理を頼み、島の人は、カレーやラーメンなどを頼む。私が、礼文にいた時も同じだ。

1日目の夜は、「居酒屋シーサー」に行った。ここは、1,000円で泡盛飲み放題、食い放題。めしはバイキング形式で、泡盛は「久米仙」のボトルに入れられた泡盛と、ミネラルウォーター、氷が出て来た。これで、果たして店はやっていけるのか、と正直思った。思わず店の兄ちゃんに聞いた程だ。「久米仙」のボトルが運ばれたが、思った通り一度封を開けられて充填されたものだ。水も同じ。本当に「久米仙」が詰められているのかどうか疑問だが、この値段ならそんなことはどうでもいい。料理も悪くなく、この値段でかなり満足できた。

2日目の夜は、「居酒屋うりずん」に行った。私は、宿のおっちゃんに小鉢系の料理をつまみながらゆっくり飲めるような店に行きたいとリクエストしたら、ここを教えてくれた。
私が入った時は、客は誰もいなく、カウンターにこの店のねえちゃんがいた。店のオーナーにはママがいて、通常はねえちゃんだけでやり、忙しい時は、ママが手伝ってくれるらしい。彼女は、大阪出身だが各地を転々として、座間味を忘れなく戻ってきたらしい。初めて座間味に着てから10年になるとか。えらいのは、住民票をちゃんと移していることだ。そこまでこの島に拘っているのだろう。

島に10年前に来たと聞いて、私は「バンジー」のことを聞いてみた。バンジーは、私が礼文で最後の年(2000年)に一緒に働いたヘルパー。礼文に来る前は、沖縄にいて、私が将来沖縄を旅すると言ったような話をした時、確かこの座間味を推薦してくれたことを思い出した。座間味は小さな島で、集落も小さいので民宿、店などのヘルパーがすぐに知り合いになる。話のネタで、ひょっとしたら、この店の彼女もバンジーのことを知っているのではと思って聞いてみると、「知っている」と言って、店の壁の写真を指差した。そう、バンジーが島にいた当時のバンジーのアップではないですか。日付が1999年になっていたので、その次の年に礼文で一緒に私と働いたことになる。

いやー、それにしても偶然。彼女の話では、バンジーは結婚して北海道にいるとか…。バンジー、このWebを読んだら連絡して来い。当時の礼文の仲間はみんな元気で、それぞれの近況をわしが教えてやる。



島の人々とのお話

私は、旅に来て地元の人と触れ合うのを楽しみにしている。同じキャンプ場や宿に一緒になった人々とは、正直余り接したくないので、いつも人が少なさそうなところを選ぶ。旅先に行ってまでも、同じように都会で住む人と会って話したくもないし、そんな時間があったら、地元の人と触れ合いたい。それが、私のスタイルだ。

そういう意味では、今回、慶良間諸島に滞在中は、座間味、阿嘉島とも、私しか客がいない民宿に泊まり、また、座間味では、いくつかの飲み屋で店の人とゆっくり話せたりと、体調は壊したけど有意義であった。

座間味島には川がない。だから、飲料水は雨水を貯めるダムが島にある。台風が来ない時は、毎年断水が行われるほど。各家の屋根には、水保存用のタンクが置かれ、各家庭は、タンクに貯めた水を使うシステムになっている。

先にも述べたが、座間味はダイビングの島。海に行かなければ、この島に来た意味がないと言っても過言ではないほど、マリンスポーツの島。そう、となると、海から戻ったダイバーは、順次シャワーを浴びる。断水になった時期は、民宿はかなりこたえるらしい。

座間味も阿嘉共に感じたのだが、港周辺にはきれいな建物の宿が多く、少し離れたところでもきれいな宿には人が集まる。これは時代の流れなのだろう。礼文でもそうだった。阿嘉の民宿のおばちゃんが同じこと言っていた。おばちゃんところのような本当の民家の部屋を貸間にしているようなところは、他を断られた人しか来ないと。中には、食べ物をリクエストして来た好き嫌いが多い客もいたらしい。そういう客には、「二度と来ないで」と言ったそうだ。

阿嘉や慶留間に比べると、座間味はかなり開けている。夏は、一般の観光客がいるので問題ないが、シーズンオフになると、座間味には修学旅行生がやってきて分宿するが、阿嘉には来ない。私が泊まったおばちゅんとこの民宿は、おそらく年金をもらいながら、おばちゃんが一人でやっている。だから、一人で手が回らないような客数にならない限りは受け入れるが、それ以上になると断るらしい。シーズンオフはゆっくりと三線を習ったりしているが、育ち盛りの子供を抱えた阿嘉の民宿は、経営が大変らしい。そのため、阿嘉にも修学旅行の学生を分宿するように訴えているとか。宿をきれいにして、ダイビング関連に合うようにし、現状のニーズに合わせて集客に勤める。もう数年もすると、おばちゃんのところのような民宿がなくなるのでは、とふと思ったりもした。

そういった座間味への対抗心があるのか、座間味村全体で行われる運動会では、大抵阿嘉が優勝し、座間味は4位だとか。人口の少ない慶留間も2位とか3位と検討。おばちゃんは、今年は、運動会の日は民宿を休業して参加すると楽しみにしていた。

阿嘉と慶留間の間には、橋があるので、私は自転車を借りて慶留間に向かった。慶留間は、こんなところにも人が住んでいるのか、と思うほどの集落。しかし、ちゃんと立派な学校があるのにはびっくりした。慶留間には、重要文化財の「高良家住宅」というのがある。琉球王朝時代の先人の住宅である。ここの管理人のおっちゃんは、三線の先生でもある。民宿のおばちゃんの紹介で来たのだが、おばちゃんはシーズンオフになると、おっちゃんに三線を習いに来ているようだ。おっちゃんは、私しか客はいなかったが、三線で数曲歌ってくれた。おっちゃんもそうだが、おばちゃんが地元の人と話している会話は、全く何言っているのかわからない。まあ、それがまたいとおかしである。



座間味島の集落


阿嘉島の海


慶留間島