国境のないエンターテイメント

「食とは国境のないエンターテイメント。」

私はよく人にこうやって説明する。

実際、私が「食」というものに興味を持ち始めたのは、礼文島に行ってからか。北海道で一人暮らしを始めてからは、外食も多かったが自炊することになった。礼文島では、私も民宿の料理を作らないといけなかった。メインはうちの大将であるが、その補佐的な役割ではあったが、私自身も毎日何品も作っていた。NZで生活している時は、ほぼ毎日料理を作っていた。安宿に泊まりながら、他国の連中が作っている料理を目の当たりにし、シェフと一緒に旅することもあったので、必然的に「食」を感じざるを得なくなった。私の旅のスタイルはバックパックと、必ずビニール袋を一つ持つ。その袋の中には、調味料がぎっちり詰まっていて、それがないと私は不安で仕方ない。その袋について、「パスポートの次に大事なもの」とカナダの友人には形容していた。

アジア諸国を旅している最中に、国境越えの楽しみとして、国が変われば違った料理が味わえるということがあった。今考えると、「食」なくして旅はできないと言ってもいい。日本国内を旅する時もそう。日本は歴史があり、土地それぞれで色んな料理がある。これには本当に驚かされる。

料理は人を楽しませることができる。料理に言葉は要らない。うまいもんはうまい。特に、人の手で作られる料理は、その人の気持ちが反映される。料理にお金も要らない。要は気持ちだ。だから、私は高級レストランには全く興味がない。高級レストランもそうだが、お金を払って満足感を得るようなことは嫌いだ。お金を払うのだからいいに決まっている。逆に、悪い時にその悪さだけが強調され、そういった欲求の満たし方は私のポリシーに反する。

人間の手からは、うまみを呈するアミノ酸が分泌される。だから、機械で握ったおにぎりよりも、人が握ったおにぎりの方がうまい。つまり、手料理には目に見えない隠れたうまみ成分が混じる。私は日本、世界と色々なところでその土地の人々から料理の御持て成しを受けた。どれも印象に残っているが、一番印象に残っているのはバヌアツのジャングルでの料理だ。そこには、砂糖、塩とココナッツミルクしか調味量はない。それ以上にそこの料理からは温かさを感じた。私がトンゴア島からポートビラに帰る日の昼。世話になったロイの奥さんは、私がマニヨック(芋の一種で、タピオカとも言う)を好きと知って、朝にわざわざ畑に行ってマニヨックを取ってきて、ココナッツミルクと塩を使ってマニヨックを茹でてくれた。非常に質素な料理だが、この時の美味さは今でも忘れない。

私は旅先でよく人に料理を作る。それにより自分自身の料理の腕も上がり、「食」というものにかなりの興味を抱くようになった。人は私の料理に満足してくれる。バンクーバーからアラスカの北極海までヒッチで行く道中には、乗せて頂いた運転手にそのお礼として料理を作った。カナダ滞在時には日本料理中心のパーティを何度か開いた。カナダ人は、日本料理と言えば寿司だけと思っている人が多い。そんな中、小鉢系の家庭料理中心にしたパーティを開き、地元の友人たちから多大な評価を頂いた。と同時に、日本料理の奥深さを少しでも紹介できたと思う。

料理がある程度できるようになると、今度は自分の料理に飽きてくることがある。それは、作っている段階でその味が分かってきて、自分の味を認識としているからだ。そういった中、たまに人が作ってくれる料理は非常にうまく感じる。他人が作ってくれる料理ほどうまいものはない。それは、自分の認識にない味ということもあるが、手料理には心がこもっているからであろう。再び言うが、料理はお金じゃなく気持ちだ。そして、言葉も要らない。

 

 

国境のないエンターテイメント笑い

私は大阪で育ったので、いつも周りに「笑い」があった。テレビをつけるといつもお笑い番組が流れ、周りはボケとツッコミが当たり前の世界。言わば、「笑い」が身体に染み込んでいる。海外を旅している時は、別に日本は恋しいとは思わないが、大阪に戻ってお笑い番組を見るとほっとする。特に、子供の頃から知っている吉本や松竹の芸人が出てるテレビはなおさらだ。

中学、高校時代と周りにいつも面白い奴がいた。そして、気付くといつの間にか私がその面白い奴として周りから人権を得るようになって、特に高校の時は、

「お前、大学進学やめて吉本行けや。」

とみんなから言われた。北海道に行くと周りは大阪弁というだけで何でも笑う。始めは浮かれていたが、だんだんと、

「俺、ほんまはおもろないんちゃうかな。」

と思うようになり、たまに大阪に帰って、自分の笑いのレベルの低下を感じるのがある意味恐かったが、周りはいつものように、

「お前は相変わらずおもろいな。」

と認めてくれ、いつもほっとしていた。東京に行ってからも、いつもすぐに笑う周りに不満を感じていたが、人が喜ぶのを見るのが楽しみだった。日本国内だけでも、各地で「笑い」の質が違う。海外に行き始めると、今度はグローバルな「笑い」となり、

「これのどこがおもろいんやろう。」

と外国人と接する度に思っていた。外国人の中にいて周りはみんな笑ってるのに、私だけ笑わないのもと思い、つられて大阪の笑い屋のおばちゃんのように笑ったが、正直辛かった。

周りの人から、

「レストランを開いたら。」

「お笑い芸人になってよ。」

と今でもよく言われるが、私にとって「食」、「笑い」は趣味みたいなもの。これらをプロとしてやっていくと、世間の目も厳しくなり、人を楽しませるのが仕事となるのは嫌だ。好きな時に強制じゃなく、自らの気持ちとして人に料理を作り、人を笑わせる。私はこっちの方がいいな。

人間の感情には「喜怒哀楽」がある。もちろん、細かく見ればもっと枝分かれするが、大きく見るとこの4つだ。感情は本能と考えていい。しかし、「笑い」は理性だ。本能よりも理性の部分がかなり影響する。人は頭で「笑い」を深く分析し、それを感情に移す。もちろん、テレビの笑い屋のおばちゃんは論外だ。言葉を使った話芸は別にして、身体を使ったのや道具を使ったものは国関係なく人を笑わせることができる。また、「笑い」は理性と述べたように、人によって様々に異なる。国によっても「笑い」の質が違い、同じ国内でも人々によって好まれる「笑い」は異なる。それだけ、「笑い」は高度な芸術である。だから、お笑い芸人として地位を得ている人に対しては、私はいつも尊敬の眼差しで見ている。彼らの頭の回転の速さ、間の使い方には感心だ。

「笑い」は「食」と同じく国境のないエンターテイメントになりうる。特に、途上国や他国の文化に触れることがない国でその程度は高い。生きていくことに精一杯で、改めて「笑い」を求めるほど生活に余裕のない国々では、私がちょっとした事をしただけでも人々は笑う。それは、彼らに存在する「笑い」のプールが浅く、私の「笑い」が新鮮で、それが彼らの認識外であるからであろう。

その国の人々と仲良くなるためには、まずは子供と仲良くなる。すると、必然的に大人からの信頼を得る。子供は些細なことでも喜ぶ。その分、些細なことでも質問してくる。純粋ですごくパワーを持っていて、たまにしんどい時もあるが、いつも子供たちからパワーをもらう。私は礼文にいる時は、どうしてもお客さんと接する機会が多く、よくお客さんを笑わせた。それは特に苦でもなく、楽しんでいるお客さんを見るとほっとしていた。一体、何人と接しただろう。

世界には「食」とともに「笑い」に飢えている人々が多くいる。「笑い」によって何人の気持ちを和らげ、なごやかにできるか。とにかく、私は人が楽しんでいるのを見るのが好きだ。特に、子供の笑顔はたまらない。人を楽しませることによって、自分も心が豊かになれるような気がする。人を楽しませるために身体を張っている人もいる。私も今後もっと「笑い」を追求していくつもり。「笑い」は高度な芸術。人を楽しませることのできる数少ない国境のないエンターテイメントなのだから。

 

 

e-mailアドレスを持つ旅人達とその利点、欠点

私は20001月に久々にバンコクのカオサンに戻った。そして、その変わりようにびっくりした。それはきれいになっているのもそうだが、何よりもinternet店というものが至る所にある。そして、どこも人がいっぱいである。タイのどの町でもそうで、現在日本を除いてinternet cafeたるものが流行ってない国はないと思う。観光業の中で、internet産業は今では非常に重要な地位を占める。

私がe-mail addressたるものを取得したのは、東大に入ってからだ。個人的に取ったのは、1998年にNZに行く前で、それは電話をかけない私が家族との連絡を取るためである。もちろん、その頃には既にNZではinternet産業が普及していたが、今ほどではなかった。まだ、e-mail addressを持っていない旅行者も多く、その存在を知らない人も多かった。私自身は、lap topを持っていたので、どこかで部屋を借りて住んでいる時は、そこの電話線を使わせてもらったが、旅の最中は、それぞれの町でinternet cafeや図書館に行って交渉して、電話線を使わせてもらった。その当時は、まだパソコンを持って旅している人も少なく、今のように携帯電話を持っている人なんてほとんどいなかった。

日本ほど個々のパソコン普及率が高い国はない。今はI-modeたるものもあり、会社に入れば必然とe-mail accountを取得し、会社自体にパソコンがあるのが今や当たり前となっている。各家庭への普及率も高く、こういった中で仮に日本でinternet cafeたるものを各地に作っても、流行らないのは明らかだ。これは、海外からの旅行者にとっては非常に痛い。

日本で改めて図書館に行ったことはないが、OZ、カナダ、アメリカではe-mailのチェックによく図書館に足を運んだ。大体は予約をするか、待たないと使えないぐらい利用者は多い。図書館のメリットは、何と言っても使用料が無料なことだ。プリントアウトもできる。待っている間は新聞、雑誌も読める。エアコンで空調完備もされて、はっきり言ってこんなに図書館が快適だとは思わなかった。

今や旅行者のほとんどは、e-mail addressを持っており、お互い移動中の我々はその住所交換として、e-mail addressを交換し合う。e-mailでの連絡のやりとりは、一旦別れてもう会えないと思っていた人々と、またどこかで再会できる可能性を作れる。お互いの近況も報告しあえ、各地の情報交換もできる。何かを伝えたい時に、電話では相手がその場にいないと伝わらないが、e-mailは一度送っておけば、相手は時間が空いた時にその情報を得られる。最大のメリットは、郵便事情の悪い途上国での情報伝達が正確にできることである。アジア諸国の郵便局の人々は、平気でものを盗む。何冊か続きの単行本を送っても、そのうち何冊かがなくなっていたという話を聞いた。手紙を送ったはずなのに着いていないということも日常で、仮に郵便局で手紙を渡して切手代を払っても、そのまま切手を貼らないでお金だけ取って手紙を捨てる局員もいて、仮に切手を貼っても我々が立ち去ると、その切手を剥ぎ取る局員もいる。だから、アジア諸国から手紙を送る時は、切手をちゃんと貼って、スタンプを目の前で押すように指示しないといけない。

一方、e-mailの普及のデメリットももちろんある。手紙にはあってe-mailにないもの、それは文字を書くという温かみである。手で書いた文字は、伝えたいこと以外に気持ちが伝わる。その時の心境や体調がもろ文字に反映する。特に、自分の気持ちを伝えたい時なんてそうだ。それと、人独特の癖が文字にはある。自分の知っている文字の手紙が来ると、なぜか安心してしまうことがある。これが今までの手紙であった。しかし、タイプライターに始まり、ワープロ、パソコンと活字が日常化すると、読み易いのは確かだが、そこから人間らしさは消える。もちろん、その文章の書き方で個人差はあり、人によって癖があるのも確か。何かの提出書類は、今や活字で書くのが礼儀で、もちろん大学の論文もそうである。

私はe-mailの良い面、悪い面を考慮しても、やっぱりe-mailには賛成だ。e-mailはそれ程コスト、手間はかからない。出したい時にいつでも出せ、同じ内容を何人にも同時に出せる。やっぱり、私は賛成派だ。

 

 

利用される日本人気質

色々な国の人々と接してきた後、改めて日本人を考えると、日本人というのは面白い民族である。あらかじめ予定してたかのように固まり、そして固い口調で話し始める。昔から韻に馴染んできた我々日本人は、すぐに韻を含んだ呼び名を考える。「キムタク」、「マクド」、「関空」

日本人は頑張り屋だ。日本人ほど働く民族はない。手当てが付かない残業も平気でする。これは、海外の人々にとっては信じられない行為である。仕事のことを考えて休日出勤もし、仕事が生きがいの人々も多い。私はよく外国人に日本の社会のことを聞かれるが、特に日本の労働条件のことを言うと、

“Oh my god!!”

と多くの人々から同じ反応が来た。

日本人は儒教思想の影響を受けている。それと、戦国の武士社会に代表される「義理・人情」という感情がどこかにある。徳川家光の鎖国により、その国民性は益々閉鎖的となり、それが江戸後期のペリー来航により、軍国主義という狂気な思想を生み出し敗戦へとつながった。今も存在する封建的で儒教的な年功序列社会に対しては、外国人は敬意を表してる人も多い。我々は、当然のように敬語を使うし、逆に敬語をうまく使えない人を、

「生意気な奴だ。」

と言ったりする。帰国子女がいまいち受け入れられないのも、社会体制が大きく作用するからであろう。日本社会では受け入れてもらえなかった人々が、海外では成功する例も多くある。

日本の年功序列社会は、いい意味にも悪い意味にも作用する。「年上の人を敬う」という概念を、「年上がいつも正しい」と勘違いしている人が多い。そして、権力を乱用し、下の人間の意見を受け入れない。それにプライドが絡むと全くわやだ。たった1年早く生まれただけで、その上下関係を強調し、傲慢ぶりを発揮する人もいる。全く悲しい人間だ。私は、日本社会でどっぷり浸かっている人に対してはもちろん敬語で話すが、海外で会う日本人には明らかに年上とわかる人以外には敬語は使わない。それにより、機嫌を損ねた人もいるかもしれないが、海外にまで日本を持ち込みたくないというのが私の考えだ。もちろん相手の歳も聞かないし、そんなのは私には重要でない。すごい人は年齢関係なく尊敬でき、色々教えてもらう。海外でも、少し年上だけで年下を奴隷のように扱っている人をよく見る。そして、下の連中は上の人の意見を聞き入れ、その行為を繰り返す。全く困ったものだ。大学の部活動もそうで、就職の時に部活動をしていた学生を優先的に採用する企業もあるが、それは縦社会を経験したという理由からであろう。しかし、上級生になるとその傲慢ぶりは目に余るものがある。結局は、下積み時代の欝憤晴らしとして、その上下関係を多いに利用して、酒の飲めない後輩に無理矢理飲まし、嫌がる後輩を見て先輩連中は誇らしげな態度でいて、その当の後輩を急性アルコール中毒となって死亡させる事になる。新しい希望を持って入学した新入生に対して、くだらん上下関係で取り返しのつかない結果を招く。これは、信じられない行動で、なぜこういった連中を企業が取りたがるのかわからない。大体、上になって威張っている奴は、もう取り返しがつかない。

人間、歳を取れば偉い訳ではない。くだらん時間をだらだらと費やすよりも、経験は少ないが、色々自分なりに試行錯誤して生きている連中の方がよっぽど大人っぽい。要は、人を敬うか敬わないかは本人の問題で、他人が強制するものではない。

また、日本人がよく働くという性質は海外ではうまく利用される。特に、「ボランティア」、「exchange」という立場で働く場合は、その雇い主はこの日本人気質をうまく利用する。与えられた仕事を一生懸命やるという国民性を知って、日本人ばかり雇うところもあり、恥ずかしがり屋の国民性は時として詐欺に使われる。騙されたと分かっても、言葉もでず訴える事もできず、結局は相手の言うがままになる。特に、契約が絡む時は複雑な過程を理解できず、知ったような態度でサインすると思う壺だ。NZにいる時に、家の契約で騙されて泣いていた女の子を多く見た。私自身もピッキングをしている時に、最終的にもろ日本人気質が利用されている時に異常に腹が立った。

「気づかんかった俺らが悪いな。」

という結論を出したが、それまで絶大な信頼を抱いていたNZ人に対する見方が変わった。

日本人というのは、本当に独特な国民性を持っている。うまく利用されるのはいいが、悪く使われることが多いので、我々自身もっと注意を払わないといけない。そうでないと悪意に利用している奴等の思う壺だ。

 

 

日本人旅行者

観光化が許されている国には、日本人はどこにでもいる。その大半は、短期の休暇を取って個人で来ている人か、ツアーに参加して団体で来ている人であろう。もちろんバックパッカーもいるが、相対的な比率を考えるとその割合は低い。ツアー客は本当に質が悪い。私がNZにいる時に、あるポーランド人の女の子がこう言っていた。

「私がイメージする日本人旅行者は、いつも大勢でいて、カメラを首からぶら下げていて、どこでも写真を撮っていて、写真を撮ったと思ったらすぐに他の場所へ移るの。折角、ある所を訪れても、ゆっくりと見学しないで帰って行く。そういった人々がどこにでもいる。何のために旅行に来ているのか理解できない。」

シドニーのオペラハウス前で聞いた会話。

日本人観光客:「添乗員さん、早く写真撮って。」

添乗員:「でも、そこで他の人が写真を撮ってますから。」

日本人観光客:「そんなの気にせえへん。入ってもかまへん。」

おいおい、写真を撮ろうとした他の人が嫌がってるんや。おばはんらがあとから来たんやろ。

NZクイーンズタウン郊外のみやげ物屋での会話。

日本人観光客:「(日本語のできない店員に)だからこれはいくらやのんって聞いてるやん。なんぼに負けてくれんのん。」

店員:「What?

さらに、アメリカサンディエゴの野球場での会話。

日本人学生達:「(フェンス際で立ち並んで)新庄、新庄。」

係員:「後ろに座ってる人がいるんだから下がって。」

日本人学生達:「(無視して)新庄、新庄。」

こういった日本人のrudeな行為を旅している間は頻繁に見掛けた。

日本人は言葉の障害があり、国民性もあるので固まって行動しようとする。一人では何もできないが、固まると人が変わったように強気になる人が多い。確かに、自分の銭で好きなことしているのだから、人がとやかくいう問題ではない。しかし、周りに迷惑をかけるのはどうか。私も人のことを言えないが、景気が悪いって騒いでいる連中が平気で海外に行って銭を落して行く。どんどん、日本の通貨が海外に流れ、これで景気がよくなるはずがない。非常に矛盾した行動だ。短期の旅行者は、時間が限られているので時間よりもお金を取る。つまり、時間をお金で解決する。あらかじめホテルを予約し、移動も飛行機を使い、いわゆる観光客相手のレストランで食事し、一般的な観光地を見て回って、土産物をどっさり買って帰る。アジア諸国で物乞いする人々は、それに子供を使うことが多い。子供を使って人から同情を引く。それに、日本人観光客が拍車をかける訳だが、彼らはいいことをしたと思っているかもしれないが、それは大間違いだ。子供たちはこの味を占めてさらに同じ事を繰り返す。

タクシー、リキシャー、トゥクトゥクの運転手は必ずぼってくる。みやげ物屋の人もそうで、数倍の値段をぶっ掛けてくる。しかし、日本人にはそれでもどうってことない。特に、短期で来ている人々はなおさらだ。短期の旅行者であろうが、我々バックパッカーであろうが、現地の人々にとって我々は同じ日本人。だから、簡単に彼らの「ぼる行為」に同意すると、我々も迷惑する。同じ日本人としてもっと考えてもらいたい。お金ですべて解決する考えをいい加減止めて欲しい。

ネパール、カトマンズでの出来事。短期で来ているはずの日本人旅行者を乗せたバスが、日本料理屋に入った。おいおい、もう日本料理が恋しくなったのか。こういった光景はよく見かける。食はその国を味わうのに一番いい方法。どういったものを国民が食べ、どういった味を好んでいるのか、非常に勉強になる。日本人旅行者、と言うか、ほとんどの旅行者に言いたい。海外で自国を持ち込むなら、海外旅行をしないで欲しい。その国にはその国のルールがある。その国に行ってその国の言葉ができないのは、我々が悪い。純粋に旅を楽しみ、その先々で何かを感じ取ろうとしている連中がかなり迷惑する。

では、少し国内に目を向けてみよう。私は礼文島で接客業を8年ほどやってきた。仕事を始めた頃は、まだまだ個人旅行者が多かったが、今は団体さんがかなりの数を占めるようになった。もちろん、仕事として個人客も、団体客も平等に接する。団体さんは一気に片付くので楽と言えば楽だが、それまでが大変である。今の個人客は、昔に比べて個性があってバイタリティのある人々が少なくなったように思う。特に、若い世代。彼らはまるで温室で育ったような連中で、彼らを見ているとこれからの日本が不安になってくる。団体客は年配の人々が多いが、はっきり言ってあれは旅行ではない。遠足と言った方がいいだろう。添乗員さんが、

「皆さん、明日は朝8時に集合です。いいですか。おやつは500円までですよ。チョコレートとガムはだめです。」

と言っているようなものだ。ただ、添乗員の質も低下している。オーガナイズする立場の人間が、なぜもっと物事を大きく見て考えないのか。自分たちの客がよければ、周りはどうでもいいのか。派遣の添乗員は20代の連中が多いが、私は何度も叱った。旅行会社の社員が来ることもあるが、今度は変にプライドが高くなり扱いにくかった。否を追求しても必ず否定してくる。全く困ったものだ。彼らはどういった教育を受け、どういった基準で採用されているのか。私は旅行会社の人事を人事してみたい。

団体さんは、国内も国外も固まると本当にどうしようもない。騒いで周りに迷惑をかける。それと、何か不備があると必ず旅行会社を批判する。特に、売り上げのいい知名度の高い旅行会社のツアーに参加しているお客さんほど、その傲慢ぶりは著しい。人に文句言うのだったら、人に頼むな。自分で旅行を計画し、自分でスケジュールを決め、自分で責任を取るように。私の定義する「旅」は自分自身で築き上げていくもの。彼らのは「旅」でも「旅行」でもない。「遠足」だ。

ある年に来たお客さんから民宿に届いたクレーム。

「(礼文島はまだ下水設備が行き届いてなく、水洗便所の家庭はほとんどない。)水洗便所は日本の常識。」

おっさん、もっと日本を知ろうぜ。

 

 

質が低下する日本人バックパッカー

では、次に日本人バックパッカーについて考えてみよう。日本人バックパッカーも世界各地で目にする。最近得たNZにいる仲間からの報告。

「学、俺らがいた頃は携帯電話なんて持ってる連中ほとんどいなかったよな。今はほとんど持ってるぜ。それに、みんな固まって行動してる。それはそれでいいかもしれないが、旅を損してるな。」

私も同意。

日本人は言葉の障害があるので、バックパッカーと言えども大体は日本人同士固まってしまう。そして、固まるとわやだ。日本人は団結力が強い。安宿によっては宿泊者が自由に書いていいノートがあるが、そこには日本語で色々な情報が書き込まれ、それは国の情勢、国境状況と有益なものもあれば、単なる伝言板もあり、日本人宿、日本人レストランの紹介が書かれていることもある。カンボジアのプノンペンでは、売春情報が書かれていた。日本人が溜まるレストラン、宿にも必ずと言っていいほどそういったノートがある。そして、それで情報を得た連中が、次の町に言ってもそこで固まる。

「地球の歩き方」はかなりよくない。あれにも日本人経営宿、日本人宿が堂々と書かれている。固まってしまうとわやだ。朝から漫画を読んだり、ボーッとしたりと、私から見ると無意味に時間を費やしている。そして、目的を失った連中がドロップアウトしたり、ガンジャに走る。ノイローゼになっている連中も多く見た。

NZの安宿のvisitor bookを見ると笑える。海外のバックパッカーは、普通宿の感想とか、その土地での感想を書くが、日本人にとっては伝言板だ。

「なになにちゃん、元気。これからどこどこへ向かいます。これを見たら連絡下さい。」

日本語で書かれているのですぐに分かる。

先進国を旅しているバックパッカーとアジア諸国を旅している連中は、かなり人種が違う。私が思うに、アジア諸国を旅している連中の方がたくましい(最近はかなり質が低下してきたが)。先進国を旅している連中が、次はアジアと言っている奴も多いが、私は大体、

「止めといた方がいいよ。」

と彼らに言っていた。それは、アジアの悪い面ばかりを話すと、

「やっぱり、止めます。」

と言う連中がほとんどだったからだ。結局は、人の意見に簡単に左右されるような奴は何事もやらない方がいい。取り返しのつかないことになりかねない。アメリカで会った連中は本当にどうしようもなかった。通貨の強い国にもかかわらず、旅をしようと考えている連中なので、ある程度銭を持っていて、学生連中が多かったからかもしれない。たぶん、親からのお金で旅をしているのだろう。それは、外国人バックパッカーにも言えることだ。

ここ最近は、お嬢、坊ちゃんに育った連中が世間知らずのまま旅をしている。そういった連中が固まって行動しているので、個々になった時のバックパッカーとしての質は最悪だ。一人では何もできなくなっている。そして、

「一緒に付いて行っていいですか。」

で終わり。もちろん、たくましい連中もいる。そういった連中はアジアに多かった。彼らと会って色々勉強になり刺激になったが、そういった連中の割合は全体的に見るとかなり低いのが現実である。

基本的に、私は海外で固まっている日本人には話をしない。と言うか、する気もしないし一緒の空気にいるのも嫌だ。海外にまで来て日本語を使いたくないし、日本社会を経験したくない。ただ、一人旅の連中には私から話をすることが多い。それは、彼らも一旅行者で、何よりも自分からはあまり話し掛けられない典型的な日本人の国民性を私自身十分に把握しているからだ。あと、小さな宿に数日滞在し、そこに新しく来た連中にも私自身から話し掛ける。それは、先にいる連中の中に入りにくい空気を打破するためだ。

日本人は閉鎖的な民族なので、どうしても自分達で固まってしまい、新たに来た人を受け入れない。変な閉鎖的な社会をその安宿に形成する。NZのオークランドにあるホステルでは、長期滞在日本人と、短期で来た日本人のグループに分かれ、後者は「外れ会」と言われていた。全く下らんことをする。同じ旅行者なのにな。外国人とは話して、なぜ日本人とは話さないのか。本当に訳分からん。

日本人にとって、海外旅行は一種の拷問かもしれない。それは、常にどこの国でも日本人を目にしないといけないからだ。日本語も目にし、日本語も耳にする。

「海外に来てまでなぜ。」

と私と同じ事を思っている人々もいるかもしれない。しかし、それは旅が簡単にできるという日本人が得た権利の付属品と理解するしかない。

 

 

外国人バックパッカー

世界を旅していて、もちろんその国の人々、文化に触れその国々を感じるのは、私には一番の楽しみだが、それと同じぐらい海外の旅行者と触れ合うのも楽しみである。世界を旅できる人々は、ほぼ先進国の人々に限られるが、自分が実際行ったことのない国の人々の情報交換は楽しい。ドミに泊まると、同じ部屋になった連中とは嫌でも話をすることになる。小さな宿だと宿泊者全員が親しくなりやすい。

一般的に、西洋人は大らかだ。彼らは英語ができるのですぐにお互い仲良くなる。旅している連中で英語が下手なのは、日本人、韓国人、台湾人、香港人、フランス人、スペイン人ぐらいかな。

アングロサクソン、ゲルマン系の人々を中心とした外国人バックパッカーは、とにかく明るい。国民性が大らかで、敬語もなく、下手な年功序列もなく、年齢なんて誰も気にしないし、逆に聞くのが失礼になる時もある。日本人や、韓国人は敬語を使い、初対面の時は歳関係なく、敬語で話し、一旦敬語で話した相手にはそのまま敬語で通すことになり、非常にぎこちない。同じバックパッカーなのに、そこは日本じゃないのに、変に日本社会を持ち込まなくてもいいのに。だから、私は明らかに年上と分かる人以外には、ため口で話す。初対面なのに、私がなれなれしく話して嫌な思いをした人もいたかもしれないが、こっちがため口で話すことにより、相手もすぐにため口となり、お互いの関係が友達同士になることが多い。これは、私がいつも狙ってること。もちろん、年下の連中が私にため口で話すのに何の抵抗感もない。海外まで日本を持ち込まなくてもいい。

外国人バックパッカーは、海外に来てまでも自分達のペースで生活することが多い。めしの後は酒を飲んだり、自らが作った肉料理を赤ワインとアレンジしたり。読書している連中も多く、トランプやチェスをしている連中もいる。金曜日と土曜日の夜はわやだ。性格が明るくオープンなのは非常にいいことなのだが、その分かなり周りに迷惑をかける。騒いで自分達が楽しければ周りはいいと思っている連中が多い。私がNZのタウランガで働いている時に泊まっていた宿は、本当にひどかった。バンコクのカオサンの警察曰く、ゴミを捨てたり、トラブルを起す外国人ランキングは、一位イスラエル人、二位ドイツ人、三位日本人らしい。キッチンのある安宿では、本当に彼らは使った道具やお皿を洗わない。一人が洗わないでいると、他の奴も真似する。一番とばっちりを食らうのは、そういうのに気づく日本人である。安宿で日本人がいなかったら、宿のオーナーはいつも切れているだろう。

さて、ここで私の経験から個々の外国人について簡単に述べてみよう。

イングランド人

NZOZには圧倒的に多い。アメリカとは英語のアクセントが異なる。私の外国人の友人の中では、一番多いのがイングランド人で、いまだに連絡を取りあっている連中も多い。どちらかと言うと、私はアメリカ英語よりもイギリス英語の方が聞きやすい。私との相性もいい。

アメリカ、カナダ人

アメリカについては色々批判があるが、バックパッカーに関しては全く普通である。カナダ人バックパッカーは、バックパックに国旗をつけていることもあるぐらい、私が思うにアメリカ以上に愛国心は強い。カナダ人は非常に穏やかでフレンドリー。アメリカに住んでいるアメリカ人は傲慢さが目立つ人もいるが、アメリカ人バックパッカーはカナダ人によく似ている。カナダ、アメリカ人とも、いわゆるアメリカ英語を話し、イギリス英語と違ったアクセントであることがすぐに分かる。両国からのバックパッカーも私とは相性がいい。友人もたくさんいる。

スコットランド人

とにかく、英語が分からん。初めて彼らの英語を聞いた時は、これが英語かと思ったぐらいだ。ただ、人柄もよく、私のスコットランドの友人は皆いい連中ばかり。私との相性は非常にいい。

NZOZ

とにかく穏やかで、いい雰囲気を持っている連中が多い。英語はかなり聞きにくいが、私は特にNZ人が大好きだ。両国は私も長くいたので、ローカルネタでよく盛り上がったりする。ただ、両国とも通貨がそれほど強くないので、イギリス、アメリカ人に比べれば、そのバックパッカーの数は圧倒的に少ない。

ノルウェー、スウェーデン、フィンランド人、デンマーク人

まず彼らの英語のうまさに驚く。特に、私が会ったスウェーデン人達の英語は完璧だった。彼らもすごくフレンドリー。土地柄もあるのか、私とも相性がいい。海外でよく会う連中には、比較的スウェーデン人が多いような気がする。

スイス人

英語が下手な人もいるが、私が会ったスイス人は、ドイツ訛りだが英語がうまかった。彼らは穏やかで、あまり目立たないが、性格もよく、いい人が多かった。ただ、金持ちも多かった気がするな。私との相性もいい。

オランダ人

オランダは英語教育水準が世界一と言われている。彼らの英語は、本当にnative並である。オランダ人(特に女性)は、なんとなく外見でオランダ人と分かる。世界でタブーとされているドラッグを容認している国であるせいか、非常に大らかである。周りに一人オランダ人がいるだけで、その場はすごく明るくなる。私もオランダ人が大好き。相性もかなりいい。

フランス人

フランス人は、元々プライドの高い民族なのか、私の感想としては「高貴」という言葉が合うように思う。彼らの英語はうまくない。よって、周りにフランス人がいると、彼ら同士で固まることとなる。アメリカ、ベトナム、ラオスでは多く見かけたが、それ以外ではそれ程多くは見かけなかった。固まるとどうしようもないが、私の彼らへの印象は、「気高い」という感じ。

ドイツ人

ドイツ人に対しては余りいい印象はない。日本人と同じぐらい、ドイツ人はどこでも多く見かける。彼らも日本人同様固まる癖があり、固まるとどうしようもない。でかい声でしゃべり騒ぐ。周りからも嫌われてることが多い。ドイツの会社は、最低年4週間というまとまった休みが取れる。大体、みんな6週間は取ってくる。よって、1ヶ月ほどのバックパッカーも多くいる。彼らの英語は、独特のドイツ訛りであるがうまい方だ。私と仲良くなったドイツ人も多いが、とにかく固まるとどうしようもない。夏のカナダのユーコンとアラスカは、ほとんどの旅行者がアメリカ人かドイツ人だった。

イスラエル人

世界の嫌われ者がアメリカ人なら、バックパッカーの嫌われ者は間違いなくイスラエル人だろう。日本人、ドイツ人と共に、イスラエル人はどこにでもいる。そして、彼らも固まる習性があり、固まると手が付けられない。彼らは兵役の義務があり、それを終えて旅に来る連中が多く、その開放感でやりたい放題である。宿の人もイスラエル人を嫌がる人が多い。ちなみに、日本の各地の路上で、指輪やアクセサリーを売っているのはイスラエル人である。彼らの英語はかなりうまい。しかし、私ははっきり言ってイスラエル人は嫌いだ。いい奴やなっと思ったイスラエル人は、数多くのイスラエル人に会ったうちで一人だけだった。

韓国人

私は韓国人バックパッカーにも余りいい印象を持っていない。韓国は儒教社会で、その年功序列の厳しさは日本以上である。彼らは、初対面ではまず相手の年齢を聞いて、年下の連中が言葉を使い始める。彼らも日本人同様固まる習性があり、固まると日本人以上に質が悪い。韓国は他の先進国に比べてGNPが低いので、旅をできる連中はかなり裕福な奴である。そのせいか、世間知らず、わがまま、それにお金の使い方を知らない連中が多かったように思う。アジア諸国での旅行者よりも、先進国(特にNZ)で多かったのを考えると、なんとなく私が思っていることが間違っていないと言える。辛い旅よりも楽な旅を選ぼうってとこだろう。兵役を終えてきた連中もいる。もちろん、いい奴もいっぱいいるが、私が会った中で人に紹介できそうな韓国人は数人しかいない。彼らの英語は日本人同様うまくない。

 

 

ガイドブックを持つ人々へ

「ロスは危ないですよね。日本人は狙われやすいって聞きましたけど。」

と分かっているのに、街中で堂々とガイドブックを広げて立ち止まっている日本人の若者を多く見かけた。ロスに限らずどこの国でもそう。ガイドブックを持つことによる日本人に対する犯罪は、全体のかなりの割合を占めるであろう。そこで、旅行関係のガイドブックを出版している会社すべてに言いたい。

「公の場では絶対この本を見ないこと。」

というコメントを載せた目立つページを本に挿入してもらいたい。

私は、基本的にガイドブックを持たない。新しい町に行くと、そこの地図は手に入れる。先進国では、大抵の町に行くとinformation centerがある。そこに行くと、日本であらかじめ買ってきたガイドブックよりも、もっと詳しい情報が手に入る。日本のガイドブックは、読者からの投稿で成り立っているところが多い。もちろん、各地方自治体から、情報を入手していることもあるだろう。一番需要の多い「地球の歩き方」は、私に言わせれば最悪の本だ。廃止の方向にしたいと海外の外務省関係の人々が言っていたこともあった。

「地球の歩き方」は、表紙の黄色と背表紙の青色で、持っているだけで日本人とすぐに分かる。この目立った色合いは、現地の人からも目に付き、「この本を持っている観光客は日本人である」と認識している現地の人々も多い。この本を持っているだけで、被害に遭ったという話はよく耳にするし、私の友人の中にも盗難などの被害を受けた連中もいる。韓国でも同じような色合いの本があり、その色合いだけで日本人を狙ったつもりが、実は韓国人だったというとばっちりを受けた人も多いだろう。あと、「地球の歩き方」は基本的に読者の投稿により成り立っている。つまり、投稿されないとその情報は載らず、更新されない情報は昔のままである。これにより、多くのバックパッカーが迷惑し、ある現地人は、

「もう10年も前にそれはなくなったのに、なぜ日本人はいつも訪ねて来るんだ。」

と不思議に思っていた。本に載っていないところには情報がなくて怖くて行けないという坊ちゃん、譲ちゃんが多いのも事実。だから、本に載っている場所、宿に人は集中する。

商品の利益を考えると、どのガイドブックも売り上げに必死である。しかし、売れたら何でもいいのか。自分ところの売り上げがあがれば、消費者がどうなってもいいのか。いい面ばかりではなく、悪い面ももっと書いてほしい。いい面ばかりを期待していくと、悪い面ばかりが見えてくる。逆に、悪い面ばかり情報としてあると、今度はいい面ばかり見えてくる。いい面なんて自分で経験すればいい。その方が旅は面白い。

ガイドブックであらかじめ仕入れた情報通りに行動すると、現地ならではの情報、ガイドブックに書かれていないreasonableな情報を見落としがちになる。一旦、ガイドブックに頼ると、今度はそれに頼らないと不安になる。旅なんて何もないところから自分で作っていくのが楽しみで、それが旅の醍醐味である。何事も豊かになればなるほど、人は物事の本質を忘れがちで、どっぷりぬるま湯に浸かるようになる。いざ、ぬるま湯に浸かると、もうそこから抜け出せない。旅は自分自身を強くしてくれるもの。このぬるま湯状態なら意味がない。早くこのことに気付いてほしい。

 

 

安宿に泊まるメリット

私は先進国を旅している時は、基本的にヒッチで移動して、テントで寝泊まりする。近くにテントサイトがない時は、バックパッカーズと呼ばれる安宿(ホステル)に泊まることになる。日本国内はバイクで移動し、テント生活を送る。アジア諸国は、バスで移動し安宿(ゲストハウス)に泊まる。

先進国の安宿は大きく二つに分かれる。それは、個人で経営しているバックパッカーズ(BP)と、協会が運営するユースホステル(YHA)である。私はanti YHA派だ。YHAには日本人が固まり、協会が運営する分、どこも雰囲気が似ていて面白味がない。アルコール禁止のところも多く、その点BPは個人経営なので、オーナーの個性がもろ出る。これがまた面白い。余り規則もなく、自由で居心地がいい。部屋はシングルもあり、ツイン、ダブルもある。しかし、安宿に泊まるならドミトリーだろう。ドミに泊まらないのなら、安宿の意味がないと言ってもいいくらいだ。BPYHAともキッチン、シャワー、トイレが共同で付いている。食器や調理道具もあり、朝ご飯がフリーなところもある。

アジア諸国の安宿(ゲストハウス、ホテルもしくはバックパッカーズと呼ばれる)は、もちろんドミトリーもあるが、一般的なのはシングルかツインだ。ミャンマー、ラオス、ベトナムはツインのところがほとんどで、それは一人で泊まっても、2人で泊まっても料金は同じである(大体US$3-5)。だから、シェアーする方がより安くなる。部屋にトイレとシャワーが付いているところもあるが、共同のところもある。トイレは水洗であったり、そうでなかったり。特に、インド、ネパールでは、水洗の安宿なんて少ない。桶に水が溜まっていて、それを使ってお尻を拭く。トイレットペーパーは詰まることがあるので、余り使うことを薦めない。部屋の換気も悪く、イメージとしては薄暗く不気味と言った方がいいか。ミャンマーの安宿には驚かされる。これが安宿?っという規模で、ホテルと言った方がいいぐらい素晴らしい。ラオスもベトナムもそうであり、タイの安宿はまずまずかな。値段も安い。シンガポール、マレーシアでは値段は高め。どの国もシャワーは水が当たり前。ホットシャワーになると値が張るが(と言ってもしれている)、熱帯の国ではホットシャワーは必要ない。水の方が気持ちがいい。ただ、ミャンマー、ベトナムはホットシャワーのところも多く、本当に快適だった。アジアの安宿はキッチンが付いていないので、食事は外食となる。

私が安宿に泊まる理由にはいくつかある。まずは、何と言ってもその値段だ。日本ではこういった安宿がほとんど存在しないので(YHAはあるが全然高い)、宿泊費を考えると安宿の代金は驚くばかり。さらに、ドミに泊まることによって、世界各地の旅行者と話ができる。これは海外旅行の醍醐味の一つだ。大抵、私と同じようなバックパッカーは、「安宿に泊まるメリット」と考えると、これらを挙げるが、もう一つ大事なことがある。それは、キッチンがあるところでは、その地のいい素材を生かした料理ができるということだ。これは忘れてはならない。外食ばかりはコストがかかり、同じような店ばかりが続くと飽きてくる。なら、自分で作るに越したことなく、他国の人とシェアーすることによって、外国の料理が楽しめる。新鮮な魚を自分で刺身に下ろしたり、その地の特産物を自分好みの味付けで食べられる。私はOZのダーウィンにいる時は、スーパーでカンガルーの肉を買って塩、コショウで炒めて食べ、NZのコロマンデルではタイを刺身にした。NZのアカロアでは、実際に海に潜って鮑を取って、刺身や鮑ご飯にして食べた。魚介類の豊富なアメリカ、シアトルでも刺身で食べ、野菜、果物が豊富なカリフォルニアでは、簡単な味付けの野菜炒めや、和風に炒めて食べた。安宿で料理を覚えると止められなくなる。もちろん、いつも同じ味付けでは飽きてくるので、自分で試行錯誤し、レパートリーを増やすべし。他国の人々とシェアーすることによっても、新しい味付けの発想が起こる。

一方、安宿にはデメリットもある。色々な人が出入りするので、ものも盗まれやすく、ドミには自分以外にも数人いるので、周りのことを考えないといけない。特に、自分が早朝旅立つ時は、そのパッキングで周りに迷惑をかけることが多い。日本人が集まる安宿は特に要注意。拳銃を持った強盗が入ったという話も聞いたし、インドではインド人がその宿の周りにたむろし、宿から出てくる日本人を待っているという宿の噂も聞いた。ただ、自分でちゃんと貴重品を管理していれば、ホテルよりも安宿の方が盗難という意味では安全かもしれない。私はNZにいる時は、ずっとテントにパスポートとlap topを置きっぱなしであったが、誰もこんな所にそんなものがあるとは思わなかったのか、荒らされることもなかった。

あと、アジアでは値段の交渉が一番大変。もちろん、ぼってくる宿が多く、うまく折り合いがつくまでかなりの時間を要すところもある。数日同じ所に泊まるなら交渉すれば安くなる。シーツが汚く、蚊だらけなところもある。ヤモリなんてどこでもいて、ゴキブリ、クモも当たり前。ベッドにダニもいて、南京虫にやられるところもある。

色々考えても、一度安宿を転々とする旅をすると止められん。まるでカッパえびせんのようだ。

 

 

一人旅

旅で欠かせないのに、行く先々での人々との出逢いがある。それによって国境を越えた交流が広がる。その出逢いは一人旅に限る。数人での旅は出逢いを減らす。

「一緒に連れて行って下さい。」

と何度も言われたことがある。数日、時を共にするのなら特に問題はない。ただ、一緒に旅するからといって、四六時中行動を共にするのは嫌だ。自分の旅は自分のもの。人のためにしているのではない。一番人との出逢いを少なくするのは女の子との二人旅。私は大体断る。どんな関係であろうと、男女での旅は周りを自分達から遠ざける。それは、周りに我々は「カップル」であると認識させるからだ。二人の女の子を連れて旅したことはあった。その場合は「グループ」とみなされまだましだ。

私はアジア諸国では、誰かと宿をシェアーすることがある。そうした方がコスト的に宿泊費が安くなることが多いからだ。国籍なんて拘らず、たまたまバスの中であった奴と話して部屋を共有することになる。もちろん女の子もいる。日本の女の子とシェアーしたこともあり、ドイツ人、イギリス人もいた。ただ、部屋を共有するだけでお互い行動は別というのが条件だ。

一人旅は、自分のすべての行動に自分で責任を取らないといけない。何よりも、どんな事が起ころうとも、最終的に自分自身で納得する。そして、ある日たくましくなった自分に気づく時がある。他人と行動を共にしていると、相手に合わせたり、何かあった時に相手のせいにすることもある。それと、仮に相手が初対面でもだんだんと時間が経つと嫌な面が見えてきて、元々仲のいい友達でも、相手をさげすんで見かねない。何故、一人が楽だ。宿に私一人しか客がいない時は、

「こういう時は二人がいいな。」

と思ったりもしたが、改めて考えると一人の方がいい。

「かわいい子には旅させよ。」

この言い伝えはあっているな。

 

 

旅、それは一種の麻薬

旅を続ければ続けるほど、どんどん深みにはまってしまう。旅先で人の話を聞くと、他のところにも行きたくなる。旅は麻薬みたいなもので、やりだすと止められない。自分で終わりを決めなければ。私はもう旅はしないつもりだ。いつかは沖縄を原チャで駆け回りたいと思ってはいるが、それはいつかの夢として取っておこう。

旅は私に色んな事を教えてくれた。旅から学んだことを考えると、学校で学んだことはほんのこれっぽっちだった。ただ、これらは単なる経験でしかない。どれだけ私が人間的に大きくなろうと、それは自己満足に過ぎない。

「だから、何が言いたいの。」

と言われてしまえば終わりだ。しかし、今の私にはそんなのはどうでもいい。ものすごい経験が得られた。放浪生活を繰り返しながら、色々なことを感じ、今は人のくだらん意見が全く気にならなくなった。日本は世界の一つの国でしかない。その中で、つまらないことで悩んでいるのはあほらしすぎる。悩めるだけでも幸せだ。目先のことばかり考えるのも、私には興味がない。仮に人生を70年と考えた時に、今のこの5年と60歳を越えてからの5年は全く意味合いが違う。今は特に日本には住みたいとも思わない。この数年間を「遊び」と評価されてもいい。もしそうなら、それが正直な日本国民の評価である。ただ、そういう結論を出す人に、私と同じ事をすることを薦める。そして、その後でまた私への評価を聞きたい。今は何かをやり遂げた充実感でいっぱいだ。すがすがしい気分と言った方がいい。余り何かに対して怒ることも少なくなった。「怒り」は無駄なエネルギーを使うことになる。なら、もっと有益にそのエネルギーを使いたい。

色々なことを経験したからと言って別に偉い訳でもない。私には経験はあるが実績がない。日本国内で着々と土台を築き上げている人の方がよっぽど立派だ。旅先でよく先生になったらと薦められた。しかし、教育者はごめんだ。客観的にコメントはできるが、それが先生という立場になるとその責任は取れない。教育者とは、非常に大事な職業だ。私には他人を作ることはできない。自分を演じるだけで精一杯であるから。

もう旅ができないと考えると非常に寂しい。しかし、これは自分が決めたこと。私はミーハー旅行はしない。ツアーに参加した旅もすることはないだろう。短期の旅行もしないと思う。無駄な旅をするぐらいなら、映画を見ている方がまだいい。

最後に旅を通じて、特に身に染みて感じたことを二つ。

「日本が世界の一つの国でしかない」

「当たり前のことが当たり前でなくなった」

そして、一番人に伝えたいこと。

「自分が日本人であることを誇りに思う」