一概に賛成できない北方領土返還

北方領土問題の解決は我々日本人にとっては長年の目標であろう。何度も日露首脳会談が行われてるが、結局北方領土問題の解決への発展へは至っていない。

私は知床をバイクで旅している時に、初めて羅臼峠から国後島を見た。この時は、

「これは日本の領土やで。」

と改めて思った。ほとんどの日本国民が北方領土の返還を希望しているであろう。もちろん、そのうちの我々の世代以下は、周りの情報に流されて、

「北方領土って何?でも、みんな返還って言ってるんやから、その方向が正しいんやろう。」

と物事を考えずに周りに同意しているだけであろう。北方領土の拠点となると根室になる。根室に行くと、「北方領土返還」といった看板をよく目にする。

これからは、戦争を知らないいわゆる新人類が社会の中心になって行く。冷戦終結後に生まれた人々も多くなってくる。私も戦争を知らないので、今の教科書問題にしても、

「なぜ、否を認めないんやろう。」

といつも思う。否を認めることがそんなに恥ずかしいことなのか。これからの両国の首脳は、低年齢化が予想される。そういった中、過去の過ちよりも、現代の合理性を追求した考えを持った新しい世代が首脳会談を開き、北方領土が日本に返還される日が私はいずれやって来ると思う。もちろん、そういった柔軟性を持つ人が政権を握らないといけない。

では、仮に北方領土が日本に返還されたとしよう。一体どういうことが起こり得るのか?まずは、熱しやすくて冷めやすい日本の国民性がもろ利用されることになる。そう、それは観光業の世界だ。島々には、観光客相手のホテルや旅館の建設が進み、道路も舗装される。まず、これで自然破壊につながる。次に、住民をどうするか。本土に帰れとは言えない。となると、日本政府が面倒を見ることになる。その方法は、おそらく社会保障という名目で金銭的な援助をすることになる。間違っても彼らを日本社会に取り込んだりしないだろう。すると、彼らはNZのマオリ、OZのアボリジニー、北米のインディアンのような扱いをされることになる。

さて、私が北方領土返還に対して一番賛成できない点。それは他の道内の離島への影響だ。北方領土が日本の領土になり、観光業が始まると、私でも他の離島に行くなら北方領土に行くことを選択するであろう。すると、どうなるか。観光業と漁業で成り立ってる離島経済はどうなってしまうのか。漁師の高齢化、漁獲高の減少、それに観光業の衰退が加わると、離島経済は破滅に追い込まれ、益々離島の過疎化に拍車がかけられる。北方領土が日本領になるなら、他の離島はどうなってもいいのか。周りに流されて、北方領土返還を訴えている人は多いが、物事はよく考えて欲しい。

私は一概に賛成できない。それほど、北方領土問題は複雑な問題である。

 

 

海外勤務のred tape(お役人)

「海外での勤務は止められないよ。日本でのお金以外に手当てが付いて、その手当てだけでやっていけるんだもの。僕ら夫婦は年に何度も海外旅行に行くよ。」

とある国の日本大使館員は私に語っていた。

海外の日本大使館員の態度のでかさ、傲慢さは有名である。邦人たちからも余りいい評判は聞かない。海外に住む日本人のための機関のくせに、何か危険なことが起こると、邦人そっちのけで彼らが先に逃げる。我々が何か困って訪ねても、冷たい態度で接してくるのが当たり前だ。私がネパールにいる時に、カトマンズでバングラディッシュのビザを取ろうと、バングラディシュ大使館を探していた。しかし、バングラの大使館の所在は余り知られていなく、何人かの人に聞いてみたが誰も居場所は知らなかった。そこで、地元の人から日本大使館に聞くように薦められ、実際電話してみると、

「こっちは忙しいんだから、自分で探しなさい。」

で終わりだ。この対応には私はむちゃくちゃ切れた。

要するに、お役人なんて偉そうな態度でいるが、現実問題は我々の税金で食っている。我々の税金がなければ生きていけない。大体、国民の銭でめしを食っているという責任感がなぜない。銭をくれている日本人が、困っていたら助けるのが当たり前だ。

「そんなの構っていたらやりきれない。」

と思っているred tapeはどうぞ辞めて下さい。そういう人たちは要らないし、我々は望んでいない。いわゆる官僚と言われる連中は、本当に坊ちゃんが多い。人間との接し方、お金の使い方を知らずに社会に出て、周りの意見を聞かずに人を使う立場になっている。日本国内のお役人さんならまだいい。ただ、特に治安の悪い国々に住んでいる邦人に対してはちゃんとしてほしい。何かあったら、お前らが最後まで残る。邦人の安否を優先にして、お前らが命張るぐらいでいないと。それだけのことを皆様からしてもらっているやろ。

最後に、そういったお役人に一言。

「父ちゃん情けなくて涙出てくるわ(懐かしの「暴れはっちゃっく」、役故東野英心より)。」

 

 

見直すべきODA

外務省の海外での汚職や、JICA職員が税金でファーストクラスで移動したりと、本当にODAは無駄に使われている。途上国の連中が無駄に使うのならまだ分かるが、ODAという名目で、日本人が無駄使いするのは呆れてものも言えん。日本の政治家が海外を訪問して、その国から豪華な晩餐を用意される。その費用は、結局は日本のODAから使われることになるであろうが、全く矛盾した話だ。海外援助のための資金で、日本人が豪華なめしを食っている。現地に行けば現地ならではの料理を食えばいいのに。

途上国援助の資金ODAは、本当に無駄に使われている。その事は日本政府も知ってるはずなのに、なぜ無駄な援助をし続けるのだろう。それは形としてODAを継続してることに対する自分たちの満足感を求めているだけなのか。あるいは、本当に途上国の援助に貢献しようとしているのか。

日本は発展途上国への援助は絶対するべきである。それは、戦後貧しい中アメリカが見放さず日本に援助し続けた結果、今の日本があるように、今度はそのお返しとして我々の番であるからだ。援助として金銭が一番多いが、とにかく継続した金銭援助はいい結果をもたらさない事が多い。結局は、援助が特定の人間を駄目にするだけである。確かに、援助として送った金銭や物資は、使い方はその国が決めること。しかし、それが実際の目的通りに使われず、底辺まで行き届いていないとなると話は別だ。ある意味、それは国単位の詐欺事件で、国際裁判に訴えてもいいほどだ。無駄に使われたODAを日本国内に還元していたら、どんなに多くの人々が助かったか。

ODAにいくら税金を費やしても、肝心の途上国の受け入れ体勢ができていない。国民は先進国の援助を待っているだけで、自らの向上心、国に対する責任感は感じられない。当の政治家たちも、先進国の援助を自分たちの生活費にと待っている。それを分かっているのに、無駄な援助をし続ける我々にも問題がある。

現実的な食糧危機に苦しんでいる地域には、まずはお金よりも食料だ。米が余ってるなら金銭の代わりに大量に米を送ればいい。それによって減反の必要もなくなる。何か建造物を作りたいのなら、金銭よりも自分たちで作れるようにその技術を与えればいい。金銭という短期の援助よりも、技術という将来的な援助をする。 ODAの使い道まで我々が関与しないと悪人たちの思う壺だ。

日本は移民の受け入れが、他の先進諸国に比べて圧倒的に少ない。なぜ、移民の受け入れを嫌がるのか。自国風紀が乱れるからか。もし技術という援助をするなら、もっともっと奨学制度を作って、経歴、収入関係なく、本当にやる気のある人間を受け入れ、本人たちに技術を伝授すればいいのに。日本に来る留学生は、ある程度自国で裕福な連中がほとんどである。家が裕福な人々だけが選ばれ、そういった人々が将来的にも優遇され、常にお金と共にいるので、ODAからの莫大な援助についつい目が眩むことになる。金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、結局この輪廻の繰り返しで、途上国特有の凹型の人口分布を作り出す。

「うちは貧乏なのだから。」

と社会が底辺にいる人々のやる気を失わせる。同じ社会に生きる人々。もっともっと庶民にチャンスを与えてほしい。ODAによって、国民すべてに同等の権利を与える。そして、ここで競争させて向上心を植え付ける。こういったODAがあってもいい。

 

 

最低の仕事、それが政治家

この世にはどれだけの職業があるだろう。私は学生時代に色々なアルバイトをした。肉体労働もあれば楽なのもあった。頭を使うのもあれば、頭を下げるのもあった。私の経験した世界なんてほんの氷山の一角。私が思いつく日本社会を構成する職業は、政治家、サラリーマン社会、自営業、研究者、公務員、プロスポーツ選手、医者。これが世界規模となると、一体どれだけの仕事がこの世に存在するのか私には想像できない。

それぞれの分野では、個々が活躍して知名度を得る。そこまで至るためには、本人の並々ならぬ努力が必要で、そういった人々はすごい人たちだ。実際どれだけすごいかというのは、我々凡人には理解できないが、例えば私が携わってきた野球、マラソンなどを考えると、その分野で活躍している人々のすごさが身に染みて分かる。

各業界で一区切りついた人が、芸能界という世界に入り込んで来るのをよく目にする。特に、プロやアマとして活躍していた選手が多くいる。ただ、そういった人々をテレビで見ていると少しかわいそうになってくる。それは、彼らが元々いた現場での活躍と芸能界での仕事ぶりのギャップを画面を通じて感じられるからだ。中には、もうテレビに出ないでほしいと思わせるような人もいる。

いわゆる、タレントと言われてる職種の人々がマスメディアを通して、我々にその仕事ぶりを伝えるが、元々タレントとは英語で、”talent”。意味は「才能」で、芸能人という言葉は、その文字通り「芸に能力のある人々」という意味のはず。しかし、実際、

「なんでこんな連中がタレントと呼ばれているのか。」

と不思議に思うことが多い。要は認識不足で、結局芸能界という世界は誰でも入れるという風に受け取られがちである。

「引退したら芸能界。」

ってなもんだろう。

ランク的に、芸能界は誰でもできる仕事と考えると低いランクとも言えるが、その芸能界の人間でもなれる職業がある。それは政治家だ。今やタレント議員という言葉が人権を得る世の中となり、どんどんとテレビに出ていたタレントが政界に進出している。つまり、ランク的に政治家は最低の職業と言える。

政治家は選挙によって選ばれる。つまり、国民が政治家に仕事を与えている。

「お前ら、仕事与えてあげてるんやから、ちゃんとして俺らに還元せえよ。」

ってとこだろう。実際の政治家たちは、どのような気持ちで仕事に取り組んでいるのだろうか。富と名声を得て生活が派手になり、汚職で捕まった人がいる。言葉尻を非難して、他人を蹴落とすいたちごっこをしている連中がいる。地位を確保するためにいい訳ばかりしている人がいる。人員集めのために政党同士が結びついている。全く困ったものだ。

政治家は最低の仕事。国民が仕事と給料を与えている。政治家の皆様にはそういった気持ちを持って、もっと謙虚に仕事に取り組んでもらいたい。

 

 

政治への無関心

私:「この前の選挙行った?

OL:「行ってない。」

私:「なんで行かへんかったの?

OL:「入れたい人いないの。」

私:「誰が立候補してたの?

OL:「知らない。」

私:「入れたい人がいなかったんでしょ?そしたら、なんで候補者を知らないの?」

OL:「。」

私:「入れたい人がいなかったら、選挙に行って無記名で投票する。いいね。」

どこかの国でのやりとりだ。

今の日本人は余りにも政治に無関心すぎる。それは平和ボケのせいであろう。ユーゴや東チモール、あるいはジャカルタの若者が暴動を起している映像が、日本でも流れる。すると、

「あんな怖いところには行かないでおこう。」

というコメントが返ってくる。しかし、その見方を変えれば、彼らは自由を求めて身を捧げ必死に戦っている。私はこういった光景を目の当りにすると、いつもその勇気とパワーに圧倒され、自分自身の甘さ、愚かさを痛感する。

法治国家はどうしても法が国を支配する。法律で決められた事に関しては、我々は絶対に守らないといけない。たとえ、それが不当だと思うような事でも、守らなければ罰せられる。そして、その法を唯一いじれるのは国会で、国会に出席できるのは国会議員だけである。その国会議員を選ぶのが選挙であり、それは我々有権者からの投票で成り立っている。

豊かになればなるほど、「自分さえ良ければいい」という発想が起きてくる。

「今の政治はあかん、誰がやっても一緒。」

というのが言い訳になって、人は動こうとしない。

「今は景気が悪いから。」

も単なる人々の言い訳。言ってるだけではどうにもならないし、悪い政治家であろうと、景気が悪くなろうと、何か行動に移さなければ現状維持のままである。社会の文句ばかり言って選挙にも行かん奴は、文句を言う資格なし。やる事をちゃんとやってから文句は言うように。

タレントが立候補すると、その候補者に票が集中する現象が起きている。それは、違う捉え方をすると、政治に無知な人間が、タレントの出現によって、知っている人に投票するという何とも愚かな日本人気質を各政党が利用し、それに我々がまんまとはまった形になっている。今の選挙制度は何とかしないと政治家の質が益々下がって、無能な選挙人が益々強調される。政治家自身のレベルアップもそうだが、選挙人の我々のレベルアップも必要だ。

物事を判断するには、ある程度自分自身の知識が必要となる。知識を得る為には、常日頃から興味を示し、物事を考えていなけばならない。政治を変える為には底辺から変わる必要がある。不在者投票という制度もあるのだから、忙しい人はそれを活用すべし。何の為、誰の為の投票なの?法治国家は恐ろしい。法ですべてが制御されるのだから。

 

 

日本における英語教育

「今、一週間で1時間しか授業ができないの。理由は、私の授業が大学受験には必要ないからだって。だったら、何のために私は呼ばれたの。」

と青森で公立高校の英語教師をしていた私の友人が言っていた。

文部省が主催する英語教育の一環として、「JET」がある。我々日本人には馴染みがない制度だが、主旨は海外の英語教育を日本に導入しようということで、現在全国の小・中・高校で約2万人近い英語圏の若者が英語の先生として働いている。基本的に任期は1年で、希望があればもう1年延長ができ、大体2年働いて帰る連中が多い。もちろん、彼らの目的は英語教師という名目で日本に来てお金を稼ぐことだが、私も実際JETの派遣教師と何人も会ったが、彼らなりに努力して一生懸命働いている。日本の教育制度について、色々悩みを相談されたこともあった。まずは、何と言ってもカルチャーショックらしいが、最終的に日本を好きになって帰っていく連中が多かったように思う。

私の大親友であるカナダ人のクリスタとデイビットは、青森に2年間JETプログラムで英語の先生として時を過ごした。彼らを通じて、他のJETの先生方とも会う事ができ、色々な話を聞かせてもらった。旅の最中でも、英語教師として日本に数年滞在したという連中とも会い、日本人、日本における英語教育に付いて外国人から見た感想を色々聞いてみた。彼らが一番驚いたのは、日本の英語の先生は英語ができないということだ。彼らnativeが来ると、英語ができる先生であろうと、先生達は彼らを避ける傾向にあるという。それは自分の英語力の低さを認識しているからであろう。外国人が行う英語教育は、生徒も参加する会話中心の授業が多い。生徒が授業に参加するというのが一番大事で、クリスタとデイビットはいつもそれを念頭において授業していた。カナダでも先生を続けている二人は今でもそうだ。つまり、生徒達は能動的な態度で授業に接することができる。

一方、日本の英語教育は何とも消極的だ。はっきり言って、私は中・高6年間英語教育を受けてきたが、授業に対しての印象は残っていない。それ程くだらんかったしつまらなかった。グラマーの時間では、先生が一方的に黒板に書いたのを我々がノートに写すだけ。リーダーの時間では本文を訳すだけ。もちろん、それらすべては受験のためで、受験のための勉強なんて頭に残らない。

JETではかなりの予算を税金から使っているのに、最終的には日本の教育に外国人を従わせる事になる。「外国の英語教育を導入する」という主旨は一体どこに行ってしまったのか。受験英語は、実際の会話では本当に役に立たない。英語が必要になった社会人は、高い銭を払って英会話学校に通うが、結局はものになっていないはずだ。英語学校の宣伝で、上達したというのをアピールしているが、そういった人々は本当に一部であろう。本当の意味での英語教育が日本に浸透するためには、庶民レベルで英語の必要性を感じなければどうやっても意味がない。一部の人がその必要を感じても、結局は周りの無関心さに流され、自己との戦いに破れ無駄になる。親が強制的に子供に習わせても、その必然性を子供自身が感じないとものにならない。社会人がある程度英語力をつけても、最終的に外国人の中に入ってまでも、日本人であり続けるなら意味がない。

日本の英語教育は世界の英語水準から考えてもかなりレベルが低い。英語の先生であるからといって、その段階でプラトーに達しているのではいけない。先生自体もどんどんレベルアップする姿勢が必要だ。私自身の英語力もまだまだだが、海外を旅行している他の日本人に比べると、nativeの人々からはかなり誉められる。しかし、実際に向こうに住んでいる邦人や日系人と比較すると、英語を話すのも申し訳ないぐらい私のレベルは低い。私は私なりの英語の勉強方法を推進している。基本的に学校には行かない。できるだけ自分の力で試行錯誤して、自分の状況に応じた英語の勉強方法をいつも追求している。それは、おそらく終わる事はない。英語がある程度できると本当に楽しい。

 

 

学校教育、教師採用の見直し

大学の授業は別として、小学校から高校まで、私は一体何人の先生の授業を受けただろうか。そして、何人の先生に叱られただろうか。中には、非常に腹立つ先生もいた。頭ごなしにどついてきたり、罵声を浴びせてきたり。ただ、「先生」という立場の人間の人なので、我々生徒は従わざるを得なかった。もちろん、殴り返す生徒もいたが、そういった生徒は先生方にぼこぼこにやられる。

私が大学を卒業してからは、同級生が「先生」として職を得るようになった。それにより、私の中にある先生という立場が軽視される仕事となった。どう考えても、その同級生が先生になっているのが信じられない。学生時代は、特に何をする事もなく、サークルでチャラチャラして、授業には出ず、試験はカンペを使って克服する。そして、学生生活が終われば、今度は逆に教える立場になる。

「先生ってそんなものなんや。」

と考えざるをえず、たまに会って話をするとそいつらは学生のままで、

「こいつらには自分の子供は預けられへんな。」

と何度も思った。旅で会う先生たる人々も同じような連中がいた。

「なんで日本人は授業で寝るの?カナダでは考えられないし、カンペなんてばれたら退学よ。なんのために学校に行ってるのよ。」

とクリスタは言っていた。私も、高校の授業はほとんど毎日寝ていた。だから、受験勉強はほぼ独学でやった。いつも遅刻、朝はうどん屋でうどんをすすってから学校に行き、授業が面白くなければ早退。一度、学校から生活指導の手紙が来た事もあった。始業式にもほとんど出たことがない。くだらん先生達の話に立って聞いているだけの時間が勿体無い。先生はどうであれ、もちろん授業中寝る我々生徒が悪い。

「寝るなら出て行け。」

と言われても仕方がない。ただ、寝るぐらい授業がつまらないのも事実だ。先生方も、生徒を責める前に自分の授業をもっと考えるべき。教科書と黒板だけにしか目を通さない授業、一方通行の授業、何事に対しても生徒を悪者にするその態度、それらは考えものだ。大学に入ると、先生の授業はもっといい加減になる。大学院の授業ほど時間の無駄はなかった。出席を取るだけの授業、強制的に授業をやらされ、いい加減に時を経過させる先生達、まだ企業からの講演は楽しかったが、東大での授業は本当にくだらなかった。

「結局、何が言いたいの?

と何度も問いただしたかった。

「教師は公務員に過ぎない。」

と思っている人は辞めて欲しい。人を教えるなんて半端な気持ちではできない。無知な生徒はそれを真に受ける。企業の採用時も、もっと採用方法を変えるべきだ。成績表なんて全く意味がない。カンペを使った試験結果を採用の基準にしているなんて呆れてものも言えん。真面目にやっている奴が損をする時もあり、表面的な結果に惑わされて人の本質を見抜けない人は人事を辞めなさい。

人にものを教える事は自分自身の一番の勉強法でもある。人にものを教えるには、自分がものを知っておかないといけない。ものを知るためには、自分が勉強したり、何かを経験する必要がある。経験は一番の知識の獲得方法である。そのためにはどうしても時間を要す。どこかの大学では「一芸」を合格基準にしてるが、教師採用にもそういった方法を取り入れてもいいのではないか。最近、余りにも無能な先生が増えている。それは、彼らの採用前の生活を見てれば明らかで、生徒の立場でいた人々が、急に先生になれと言われても無理だ。先生になっても生徒という立場でいるならまだ分かるが、大抵は先生という立場を無理に行使する。人にものを教える立場にある仕事が、余りにも軽視されている。

そこで、私からの提案だが、教師の採用年齢を引き上げてもらえないだろうか。大学を出たばかりの生徒が、いきなり先生として権力を振るうのは余りも無理がある。もっと人生経験を積まないと。それと、教師を任期制にする。評判の悪い先生や先生と呼ぶ資格のない人間は、どんどん辞めさせる。そして、先生自体にプレッシャーを与えて、自己の向上心を促せる。もちろん、大学の教員に対しても同じことが言える。嫌なら辞めればいい。日本なんて仕事が選べるだけましだ。世間では「いい」とされている立場にある人間こそ、その世論に応えるようにもっともっと自分を厳しい立場に追いやるべきだ。

 

 

教育者に欠けてるもの

私は人からよく相談を受ける。時には、「先生」と呼ばれていたが、正直気持ちが良くない。私はまだまだ人から尊敬される立場ではないからだ。ただ、人から相談される分いい加減な対応はできないので、自分なりの心のこもった言葉を返す。それらの事柄に対して熟孝し自分なりの意見を持ち、何よりもそれが自分自身の勉強になる。一度ある女の子が、

「学さんは普通の日本人じゃないから、予期せぬ答えが返ってくる。だから、すごく新鮮でみんなが色々聞きたがると思うよ。」

と言っていた。相談に来る人の中には、私よりはるかに年上の方もいて先生もいる。先生で相談にくる人には常に、

「教師を他の公務員と考えているのなら辞めて欲しい。」

とまず始めに言う。ただ、相談にくる教師連中は、今の教育、生徒達に真剣に取り組もうとしててすごく気持ちがいい。アメリカで会った高校の英語教師は、自分が英語が全くできないのを恥ずかしがらず正直に話していた。そして、ヤンキー学校の生徒をいかにを学校に来させるか彼なりに色々悩んでいた。しかし、アメリカで会った別の教師は、

「僕は、将来途上国に行って豪遊したいんです。天国らしいですね。苦労する人だけが苦労すればいい。僕は楽に生きる人です。」

と堂々と語り、私はその後この教師とは一言も口を聞かなかった。

ラオスと中国の国境の町シェンコックでの出来事。私が自転車で中国の国境まで散歩している時に、村外れの小さな小学校を訪ねた。ちびっこ達は本当に可愛く、ラオスの子は恥ずかしがり屋なのだが、ここのちびっこ達は私を見つけて寄ってきた。先生も外国人が珍しいのか、片言の英語で私と話し始めた。先生達はほとんどが20歳前半。そして、子供たちが私に物乞いをしてきた。お金をくれだの、何かくれだの。しかし、先生達はその行為を注意しようとしない。むしろ、

「金持ちからはもっとたかれ。」

といった態度でいる。私はこの時に教育者の未熟さを痛感した。先生という立場が権力を振るっている。そして、生徒達はそれを崇拝してるような感じだった。その未熟さとは貧しいとかいう問題ではなく、人間が生きていく為の道徳、先生達の成長不足である。

子供たちからは色々教えてもらう。日本の子供たちと接してるだけでも勉強になるのに、海外の子供たちからは予想もつかない反応が返ってくる事が多い。つまり、教育者も生徒と同じように成長すべきで、その時点で満足して周りの意見を聞かないのなら、教師生活はもう終わりだろう。どうしても先生という立場が、先生達の向上心を邪魔させるが、その向上心は生徒と同じように先生にとっても一番大切で、地位が高い人ほど忘れがちな事柄がある。それは、否を認める勇気だ。先生も成長段階なので、もちろん間違うことがある。しかし、それは恥ずかしいことではなく、当たり前のことだ。大事なのは、その時点で否を認めて今後に繋げること。先生の尊厳なんて、戦前の軍国主義から伝授しているだけで、今の民主主義では何の意味もない。間違うことは決して悪いことじゃない。それは、進歩のための通過点で、否を放置しておくととんでもない事になりかねない。今の教師にもう一度。否を認める勇気を持って欲しい。

 

 

国家警察制度の必要性

警察関連の不祥事は、神奈川県警を中心として世間を賑わす事になった。何とも情けない話である。社会を守る人々が社会を汚すこととなる。日本の警察なんて、アジア諸国の警察に比べれば優等生である。アジアでは、警察が汚職するのは当たり前で、警察という権力を利用して、観光客からお金を巻き上げる。

日本国内では、ここ近年国際犯罪が増えてきた。中国系のマフィアが進出し、中国人犯罪が増えてきている。その結果、歌舞伎町の雰囲気はすっかり変わった。海外のマフィアが日本のやくざとつながり、これからもっともっと国際犯罪が多発するであろうし、2002年のサッカーのワールドカップは世界中のマフィアにとって狙い目かもしれない。

日本の警察による犯罪検挙率はかなり高い。しかし、国際犯罪となると、島国日本ではまだまだである。庶民レベルでの外貨の導入を考えると、どうしても外国人の日本進出が盛んとなり、それによる国際犯罪も増えてくる。今は、ドラッグの入手は昔ほど厳しくないと思う。どういったルートで国内に入ってくるかは謎だが、その流通経路はある意味感心させられる。路上で貴金属を売っているイスラエル人も昔以上に増えた。アメリカで会ったイスラエル人に聞くと、日本とイスラエルのマフィアがちゃんとつながっているらしい。バンコクのカオサンのイスラエル人専用の安宿では、日本での仕事を斡旋している。

日本の警察制度の盲点は、地方自治体単位であることだ。どうしても全国規模の捜査となると、その情報交換がうまく機能していないような気がする。それが国際犯罪ともなると、現在はまだどうやって手を付ければいいか試行錯誤の段階にある。そこで、これからの国際犯罪に向けて、アメリカのFBIのような組織の必要性を感じる。日本の地方自治体制度の警察だけではなく、国全体の大きな警察が必要だ。日本も凶悪犯罪がかなり増えた。警察の捜査の裏をかくような利己的な犯罪も増えた。つまり、国家警察制度を導入による日本全体の警察制度のレベルアップが早期に必要であり、早急に組織すべきだ。地方警察官の汚職なんてレベルの低い話はもうごめんだ。ノルマのためのスピード違反の検挙はもう十分だ。もっと税金を有効に使ってもいいのではないか。FBI制度を見習って、日本国内の優秀な人材を集めた国家警察団体をすぐに作るべし。