礼文島で漁業に携わって

原村のカナディアンファームの居候と並んで、私の人間形成に最も影響を与えたのは礼文島での民宿のヘルパーである。最もここ数年はヘルパーというよりもマネージメントを任されていた。大学2年の1992年に初めて礼文を訪れてから、1998年にNZにいた以外は、2000年の夏まで計8年礼文を訪れたことになり、ヘルパーとしてシーズンを働いたのは計5年になる。こうやって礼文と知り合えたのも、礼文のおかんこと、山田のおかんとうちの民宿の大将のおかげである。

民宿業の経験はもちろんのこと、ここで漁業に携わったことは第一次産業としての漁業を改めて考えさせられた。私の専攻は農学部で、農業と漁業は全く違う分野ではあるが、漁業も人間の営みの根底にある第一次産業を支えている重要な役割を占めている。元々、私は漁師の補佐としてうちの親方に雇われた。1992年の夏に、その年の昆布の量が多いってことで、その昆布漁の一員としてこの地を訪れることになり、漁のない日は民宿業に携わっていた。私がいる間で、1992年もそうだが、1997年の昆布の量は異常だった。漁も頻繁にあり、大抵8月中に自由操業となるのだが、その年は9月に入っても自由操業にならなかったぐらいだった。それ以降は年々昆布の量も減ってきている。

漁に出ている漁師さんは本当に格好いい。頭に巻いているねじり鉢巻きは何ともりりしい。漁師さんの言葉は非常に粗い。と言うか、初めて聞いた人には怖いと思う。ただ、彼らは命を張っている分、その言葉がきつくなるのは仕方がない。漁は死との隣り合わせと言ってもいい。漁師には定年がないので、60歳を越えてもバリバリ現役である。50歳なら若い方と言われる。漁師としてのプライドは高く、漁がある日に漁に出られないことほど惨めなことはないらしい。だから、知らず知らずのうちに身体が病に侵され、朝漁に出て、その昼亡くなってしまったってこともある。子供たちもそういった親の姿を見て育つので、都会の子供よりもはるかにたくましい。

また、漁師ほど演歌の似合う人もいない。演歌でも細川たかしよりも鳥羽一郎だ。飲み屋ではいつも漁師さんが演歌を歌っているが、J-popを歌っている漁師さんを見たことがない。性格と言葉はきついが義理と人情があり、思いやりのある人が多い。私もよく島の漁師さんと飲み可愛がってもらっていた。

農業と違って、漁業は海に生き物がいなくなればそれで終わり。農業の場合は干ばつが来ようが冷害が来ようが、まず植えるという作業ができる。今は、育てる漁業が盛んになってきているが、長年慣れ親しんだ天然漁からの方向転換は、後継者の少ない高齢化した漁師さんにはリスクが多すぎ、もちろんその設備投資への負担も大きすぎる。礼文では、年々昆布の数も減り、ウニの量も少なくなっている。昔の鰊の様に、いずれ礼文から昆布とウニがなくなる時代が来るかもしれない。そう考えると悲しくなってくる。それに、後継者問題。安定した収入の得られない漁業に、今のぬるま湯の社会で生きてきた我々の世代が興味を示さないのも分かる。それは時代背景も作用し、現在いる漁師さんは漁師の子で生まれたのだから漁師を継ぐといった固定概念があったと思うし、島の世界では高校や大学に行くのは親不孝と考えられている。しかし、我々の世代は高校から島を離れ、旭川や札幌の都会で堕落した学生生活を過ごした後、ほとんどが島に戻ろうとは考えていない。ただ、それは無理はない。一度楽な生活を知ってしまうとどうしようもない。仮に、礼文から漁業がなくなったとしたら、それはそれで時代の流れかもしれない。

ここ数年、昆布とウニの量が減ってきているのは、微妙な海水の化学変化によるものと私は思う。もちろん地球温暖化による海水温の上昇もあるであろう。それと、取ってはいけない小さなウニを平気で取って出荷する漁師さん自身の問題もある。自分の利益ばかり考えるよりは、もっと先のことを見据えて漁を営んで欲しい。礼文のウニは最高にうまい。この事は胸を張って言える。

 

 

植物栄養学を専攻して

農芸化学という分野に進路を決めた私は、その中の植物栄養学を専攻した。農芸化学と一言で言っても、その中には醗酵学、分子生物学、有機化学、食品栄養学、農薬化学、土壌学、生物化学、植物栄養学とかなり幅広い。大学の4年からは本格的に研究室に入り、私自身も日夜研究で没頭する毎日となった。と言っても、卒論レベルの研究は知れている。テーマを与えられ、言われたことをやるだけだ。今思えばどうってことなかった。私がいた研究室は、主に植物に対する栄養学的なことをやっていた。簡単に言えば、植物がどのように養分を吸収して体内をどのように進んでいくか。原始的な研究だが、最終的に植物栄養学の中では一番重要な分野であると私は思う。

研究室に配属になる前に、勉強に没頭するようになった私は、この研究室に進むことに決めたが、大学院進学を既に決めていた私は、大学院は他大学進学を頭に入れていた。その当時私のいた研究室には、実際に自分が学びたかった分野がまだなかったので、東大進学を決めた。大学入試の時に落ちた京大に入ることも考えたが、

「どうせならトップの大学に行くか。」

というまたまた安易な考えがそこにあった。

東大に進んでからは、自分が元々携わりたかった分子生物学を専攻した。と言っても、修士課程なので、今から思うと修士は誰でも卒業でき、実験云々は別にして世間が騒ぐほどすごいことをしたと私は思わない。私なんてたかが修士を出ただけだ。修士課程なんて相撲に例えると幕下か十両ぐらいだろう。

私は分子生物学という分野は初めてなので、修士課程ではあったが立場は卒論生同様だった。ゼロからの研究なので、たった2年で出せる結果なんてたいしたことない。現に私が行っていた研究なんて、恥ずかしくて人に言えないレベルだ。最終的に、分子生物学の人々と対等に話ができるようになったのは、M2の後半ぐらいになってからかな。もちろん、その段階でも周りの研究者の知識に比べれば、私のレベルなんて議論させてもらうのも厚かましいぐらいだ。

私が分子生物学に入り込むに連れて、植物栄養学という分野はかなり幅広いものであると痛感した。光合成を測定したり、植物体内の養分を計ったり、圃場で植物を育てるのも植物栄養学であり、実験室レベルで研究し、遺伝子を抽出して大腸菌で増やし、それを新たに植物に入れて個体を再生するのも植物栄養学である。北大で教わった植物栄養学は、実際に圃場に出て、土、植物と戯れ、汗をかきながら実験することであった。しかし、東大では研究室か温室での実験で、繊細な作業が多かった。しかし、同じ分野。ただ、今の世の中、どれだけ栄養学的な実験を繰り返しても、遺伝子レベルの研究が高く評価される。例えば、ある植物で特定の養分が過剰に吸収されることが分かったとしよう。それを、個体の養分を計って突き止めても、その機能を制御してる遺伝子を見つけた方がその原因が究明できる(実際は複雑に色んな要素が絡んでいて、そううまくはいかないが)。どうしても遺伝子レベルの実験が高く評価されるのは仕方ない。しかし、仮に形質転換体を作ってそれを有用化するとなると、どうしても圃場レベルの実験が必要となる。圃場レベルの実験となると、研究室のようにはいかない。害虫対策も考えないといけないし、土壌の養分含量、pH等色んなファクターが必要になってくる。

私が、東大と北大で違った植物栄養を学んで疑問に思ったのが、お互いの分野にいる人々がお互いを軽視しているということだ。私は何度か東大のゼミで北大でやってたような栄養学的なゼミをしてみたが、周りの反応はよろしくない。無関心と言った方がいい。

「結局、こういった研究は何が言いたいの?

で終わりだ。それは学会でも言える。北大の研究室の先輩の中には、私が東大で分子生物学を専攻して、頭ごなしに貶してきた人もいる。私がそれに意見を言おうとしても、所詮私は後輩で、先輩方が研究をしている年月に比べれば私は未熟で、対等に話そうとしてくれない。結局は、研究者は自分の分野以外のことなら、大きく見たら同じ分野であろうがどうでもいいのだ。研究する年月が増え、プライド、知名度が高くなればなるほど質が悪くなる。一番大事な新しいことを学ぼうという姿勢、周りに耳を傾け、周りを信じる態度がなくなっていくような気がする。もちろん、全員がそうじゃない。

「何をくだらんことし合ってるんやろう。」

私は常にそう感じていた。お互いもっと理解し合えばいいのに。両分野とも非常に大事なのにな。まあ、私がこうやって自分の意見を述べても、その分野の人々達からはお叱りの言葉が返ってくるだけであろう。

「数年しか研究をしていなかったお前が知ったような口をきくな。」

で終わりであろう。そう結論づける人は結局それだけの人。どうぞおもいっきり私を貶して下さい。

 

 

地球規模の環境破壊を口にする人々への疑問

人間の生活が豊かになればなるほど、当然その犠牲も発生する。何かを取れば何かを失う、この世とはそういうものであろう。お金を得ると時間を失い、地位・名声を得ると自由を失う。

我々がのうのうと日常生活を送っている間に、地球規模の環境破壊は進行している。窒素酸化物や一酸化炭素による温室効果、環境ホルモン、工場廃棄物による海洋汚染、土壌酸性化。これらの問題は、毎日のように新聞、テレビを賑わせているが、それに反して意識はしているものの人々の対応は杜撰なように思う。

地球温暖化防止京都会議の議定書のサインをアメリカは拒否した。この行為に対してアメリカは世界中から反感を買った。アメリカは車社会。街の外れに行くと人は歩いていない。野球場には大きな駐車場が隣接する。私は、アメリカ社会自体が車を前提に設計されているような印象を受けた。仮に車の排気量を制限すると、アメリカ社会は大変なことになる。何よりも国民が反対するはず。結局、人間はいい加減で、口先では理に適ったことを言っていても、自分たちの生活に直接影響するとなると話は別だ。他人よりも自分。それはどこの国でもそうであろう。

二酸化炭素の排出権たるものができると、環境をビジネスに使うことになる。環境保護に個々の利益が絡み、その駆け引きに成功した人々が、優先的に二酸化炭素を排出して地球を滅ぼす。全くくだらん取り決めだ。先進国の余りにも多い二酸化炭素排出量に、発展途上の国々が抗議している映像や記事をよく目にする。ただ、一概に先進国だけを否定できない。ネパールの車の排気ガスは真っ黒で、バングラのダッカは立ってるだけでも目が痛いぐらい空気が悪い。

「ガソリンが買えない。性能のいい車が買えないから。」

と言って、悪い燃料を使ったり、廃棄に問題があると分かっていながらもそういった車を乗っている現地人にも問題はある。結局、何でもありなのか。人を批判する前に自らを省みよう。

都市の超高層ビルには開閉式の窓はない。それは、安全面を考慮した設計だと思うが、そういったビルは空調設備が基本になっている。東京や大阪の都会の夏は赤道直下よりも暑い。空調設備からの排気のせいだ。原子力発電の反対を訴えている連中は、果たして開閉のない窓の高層ビルで、真夏にクーラーがない生活を我慢できるのか。地球温暖化を訴えている連中は、彼らの生活内だけでも一切の二酸化炭素排出廃止をできるのか。

人間の生活だけ被害を受けるのならいいが、何の罪もない魚たちが微妙な海水温度上昇で死んでいくのはかわいそうすぎる。南太平洋の島々で原始的な生活を送っている人々が、南極の氷山が溶けることにより住む場所を失うのはかわいそうすぎる。今の我々の生活に慣れた人々に、

「車を乗るな。」

と言っても無理であり、エアコンで慣れた人々に、

「エアコンを使うな。」

と言っても無理である。つまり、それらの代用になるものがない限り、結局は今の生活は何も変わらない。世界中の人々の意見を統一するのは不可能だ。

電力とソーラーパワーを使った車が世に浸透しつつある。風車を使った自然にやさしい発電が全国で目立つようになってきている。本当に地球規模の環境を考えた時に、今の生活の代用となるものの開発にどんどん予算を使って、我々ももっと深刻に考え、これらの問題に真剣に取り組んでいかないといけない。

「楽な生活ができるならどうなってもいい。」

と私がサンディエゴであった日本人観光客はそう言っていたが、こういった考えでいる人々が少なくない。人間はどうなってもいい。我々は好き勝手やってきた。ただ、他の動植物が犠牲になるのは筋違いだ。

 

 

軽視されている第一次産業

人間に直接関わる分野が医学なら、人間の根底にあり生活を支えている分野は漁業、農業といった第一次産業であろう。米が豊作となれば政府は農家に対して減反を要求する。それは単に収穫量が多くなると、価格は下がりその貯蔵に困るからであろう。米の自由化に伴い独自の流通経路を持つ農家は個々に米を販売できるようになったが、流通経路を持たない農家はどうしても政府を通すことになる。1993年の冷害の反省から、政府は米を貯蔵するようになったが、いざ余り始めると、単純に、

「減らせ、減らせ。」

と言うだけである。

そもそも、爆発的な人口増加による耕地面積の減少にもかかわらず、単位面積当たりの収量の増加は農業技術の進歩の他ならず、それは農家の常日頃からの努力の賜物である。その汗と涙の結晶を簡単に否定する政府のこの行動はどうか。同じ日本国民が行う行為か。世界には食糧難で苦しんでいる人々がいっぱいいる。ODAとして日本政府も多大な援助をしてるが、はっきり言って金銭的な援助は意味がない事が多い。底辺には行き渡らないし、金銭的な援助は一番人間を駄目にする。お米が余っているなら金銭の代わりに物資を供給すればいい。もちろん、底辺まで行き届かないことも予想されるが、お金と違って物資は目に見えるものなのでその動向も分かりやすい。

エイズやガンなどの治療には莫大な費用と関心が費やされる。それは、直接人間に関わるからだ。O-157の時もそうであったが、結局は人間を守るための原因究明にある農家が犠牲になり、

「その原因はカイワレダイコンである事を否定できない。」

と当時の管厚生大臣があいまいな発言をした。カイワレの可能性があるといったコメントなのに、人は、

「カイワレが犯人。」

と認識し、マスコミもそのように報道した。それ以降、人は他の作物、肉類に関しては安心しきった。非常に恐ろしい反応だ。私はこの時の農水省の対応の無さに愕然とした。一つの農家が一人の発言で非難を浴び、それに対してなぜ国の農業機関がフォローしないのだろう。私はそういった内容の文を実際農水省に送ったが、帰ってきたコメントは、

「お便りありがとう。」

といったラジオのコメントだった。

アジア諸国を旅してても、どうしても医療問題が重視されている。その後は、工学的な技術の普及。農業分野に関しては、全体から見ると本当にその援助は乏しいものだ。地球の人口は60億人を越えたが、仮に医学が進んで出生率が増加し、寿命が延びたとしたら、今度はそれだけの人を養っていかないといけない。人は多くなるのはいいが、多くなった段階で食糧がなくなってしまえば元も功もない。農業分野の開拓は時間もかかり、はっきりとした利益が予想できないので、どうしても軽視されがちなのは分かる。バブル崩壊後、バイオ産業から手を引いた企業も多くあったと思う。農業ではまだ土地の開拓、新しい品種の発明という事ができるが、漁業は取るものがなくなればそれで終わり。環境ホルモンや温室効果によって、微妙に生態系や海水中の物質組成に影響し始めている。釣り好きの人々が、周りを気にせず好き勝手にブラックバスを放流する事による被害もここ最近クローズアップされてきている。農業、漁業分野は後継者問題もある。

技術の革新、医療の進歩ばかり重要視されるが、ある特定の分野だけの進歩はその連鎖ピラミッド体系を崩す事になる。そのことをもっと真剣に考えて欲しい。確かに、農家、漁師と聞くと、

「しんどい。したくない。」

というイメージを持つと思うが、今第一次産業分野がどういった問題に直面しているかをもっとマスコミが報道して、国民からの関心を得る時ではないだろうか。食糧危機が来てからではもう遅い。来る前に何とかしないと。そのためには、人々の認識、関心をもっと増やし、世界の第一次産業の底上げが必要である。

 

 

オーガニックフリークに是非聞きたい

「有機栽培」、「無農薬野菜」と人は聞いて、一体どういったイメージを持つだろう。誰も悪いイメージは持たないと思う。逆に、「化学肥料」、「遺伝子組み換え体」と聞いたら、どうだろうか。誰もいいイメージは持たないと思う。

私が旅した西洋圏では、オーガニック野菜が非常に人々から関心を得ている。オーガニック専用のスーパーもあり、どこの大型スーパーでもオーガニックコーナーが充実している。もちろん、日本国内でもオーガニック野菜に関心を持つ人々は多いが、それらの国に比べればまだまだである。

一般に、有機栽培で作られた野菜は形的にはよくない。大きさも小さ目で、虫に食われている箇所もよく目にする。アメリカでは週末に近郊の有機栽培農家が集まって"Farmer's market"が開かれるところがある。私はバークレー、ハリウッド滞在時に、その市場に行ってみたが、その野菜、果実の質、味とも、私のオーガニックの価値観を覆すほどのレベルの高さ。おいしいし見た目も素晴らしい。これには本当に驚かされた。

世界を旅しているとベジタリアンをよく目にする。日本でもveg.の人も多くいるが、アメリカやカナダではその関心度も高く、veg.専用の店も多くある。飛行機の機内食では、宗教国の人々も考慮して、あらかじめ伝えておくと特別のメニューが来る。ただ、veg.に色々聞いてみると、体質的に動物性のタンパク質、脂肪が合わないというよりは、動物がかわいそうという同情からveg.になっている人が多い。全く身勝手なものだ。動物は殺さなくても植物を殺してもいいのか。また、そういったveg.に限って、オーガニックにこだわる連中が多い。動物の肉はだめで魚ならいいという訳の分からん臨機応変なveg.もいるし、卵や牛乳ならいいという都合のいい人もいる。

動物愛護協会もそうだ。毛皮に反対して全裸で庶民に訴えている団体をよく目にする。もちろん動物の獲り過ぎはよくない。その点では私も彼らに賛成。無意味に毛皮欲しさに動物を殺すのは人間のエゴだ。仮に、今の地球を霊長類のヒトが支配してるとすると、それは権力の乱用だ。しかし、旧石器時代に動物の毛皮を衣服に利用したヒトの発想は称えるべきで、極寒地で暮らすエスキモーにとって毛皮は大切なもの。考えても見て欲しい。動物は服を着ない。それで寒い冬を乗り越える。それだけ彼らの毛皮は耐寒性がある。昔からヒトが動物を食べ、肉食動物が草食動物を食べ、草食動物が植物を食べるといったヒエラルヒーがある。これが自然の摂理で、この階級の中で、各々の階級が生きていくための戦略を練る。仮に動物保護が過剰化すると、この階級が崩れる。もちろん獲り過ぎによる階級の変化もよくない。しかし、一概に毛皮反対を訴えるのもよくない。

さて、話はオーガニックに戻して、オーガニックフリークの人には思想が絡むことが多い。日本では、「オーガニック団体=宗教」と方程式を立てる人がいるが、私もそれに賛成。

「昔ながらの農業を見直すべし。」

と訴えているオーガニック団体もいるが、その連中に言いたい。昔ながらの農薬を使わない有機肥料だけでどうやって60億人の人々を養うのか。世界には今日生きるか死ぬかという問題にいつも直面してる人々の方が圧倒的に多い。彼らに、オーガニックも糞もない。食べるものがないのだ。まず、食べるものがあればいい。すべてはそれからだ。医療がどんどん発達して、仮に農業分野だけ過去に戻すとなると、結果的に人が生きていけない環境を作ることになる。そしたら、医療技術も過去に戻せ。そして、人と農業とのバランスを取れ。結局、オーガニックとかほざいてる連中はお金があって生活に余裕のある連中のわがままに過ぎない。もちろん、化学肥料、農薬の多投による土壌汚染、人体への影響を無視してはならない。医療技術が発達し、それに追いつこうと農業技術も発達する。周りを考えず自分のことしか眼中にない化学肥料、農薬をはなから否定する連中へ。どうぞ自分たちでオーガニック農家を営み、自分たちだけの社会を作って、人里離れた村で世捨て人となって、平和に余生を過ごして下さい。以上。

 

 

遺伝子組み換え植物に対する誤解

遺伝子組み換え植物という存在について、もうほとんどの主婦は知っているだろう。食品会社もその記載を義務づけられている。そして、遺伝子組み換え体に対していいイメージを持っていない人がほとんど、というか全員だろう。「殺人兵器」と形容したマスコミもある。私の友人の中にも、

「あんなのはなくなればいい。」

と私の前で堂々と言ってのけた連中がいたが、

「お前、セパタクローってスポーツ知ってるか?知らんやろ?俺もよく知らん。だから、そのスポーツには意見できないし、する義務はない。それと一緒。遺伝子組み換え体の何を知ってるの?知りもせんくせにとやかく言うな。」

と怒ったことがある。

新しい品種改良には、一般的に二つの方法ある。一つは、花粉の掛け合わせで、いわゆるハイブリッド。馴染みのある例を挙げると、お米の新品種。もう一つは、遺伝子操作による新品種の作成。これには大きく分けて二つある。一つは突然変異体(mutant)、もう一つは問題になっている形質転換体(transformant)。mutantにも色々あるが、簡単に言えば遺伝子操作によって、元々ある遺伝子機能を壊しその遺伝子の発現を防ぐ。変異体自体はある特定の蛋白質が発現されないだけである。一方、形質転換体は新たな遺伝子を導入して、それを過剰発現させたりする。それによって、新しい蛋白質の合成が起こり、それによるアレルギーが人体への影響として一番懸念されている。ただ、こういったtransgenic個体は人間の食生活に影響を及ぼすだけではない。環境問題へも大いに利用される。

世界中には重金属で汚染された土壌が多くある。重金属汚染のために、その土地は農地としての価値がない。しかし、そういった土地にも雑草が生えている。これらは重金属に対する戦略をちゃんと持っている。重金属をうまく排除する機能があるのか、重金属を体内に取り込んで無毒化する機能があるのか、そのメカニズムは二つに分かれるが、仮に体内に取り込むことのできる個体があったとする。ものは考えようで、そのメカニズムを解明し、その土地で育つことができる植物を作成し播種すると、重金属の回収と土壌の浄化が同時にできることとなる。土壌浄化ができれば、新たに農地として利用でき、砂漠の緑化、酸性土壌の改良にも同じような方法が応用できうる。

植物は根から無機養分を吸収し、葉で光合成によって固定した炭水化物と共にそれらが生命の糧となる。養分の三大要素と言われているのが窒素、リン、カリウム。窒素は工場的に空気中の窒素を固定して合成できるが、リンやカリウムは石油と同様に資源である。つまり、なくなればそれで終わり。仮に、無機養分がこの世からなくなると、もちろん生命は絶滅する。現に、カリウム欠乏、リン酸欠乏といった養分欠乏が最近ではクローズアップされつつある。しかし、そういった問題と我々は戦っていかないといけない。養分欠乏下でも生育可能な植物もあり、重金属汚染土壌と同じように、それら植物の戦略を解読して自然界への適応が養分欠乏への一つの解答につながる。

どうもマスメディアは、直接人間社会に関わることしかクローズアップしない。それと、報道する人々が余りにも無知すぎる。遺伝子組み換えはハイブリッド同様、農業分野のある一つの技術として考えて欲しい。農業分野の進歩とも言える。