Turning point

私は大学の4年間は札幌で過ごし、大学院の2年は東京で過ごした。高校までの18年間は大阪で過ごし、どっぷり大阪人だった。小学校から野球を始め、中学でも野球部に入り、高校からはハンドボールを始めた。学校での成績はいつもクラスの上位にいた。成績のいい連中は私も含め、時の流れのままに生きているような気がする。成績のいい人は進学校に入って、進学校ではもちろん大学入試のための教育が施される。進学校に入れば大学進学が当たり前のような空気が流れている。私の場合もそうだ。成績がいつもよかったので、周りからはいい高校、いい大学への期待が寄せられる。もちろん身内からもそうだが、学校の先生からも、

「君は合格してもらわないと困る。」

といったことを直接言われたこともあった。地元の進学高校に入学した後は、学校のカリキュラムは大学進学を見据えたものばかりで、私もなぜ大学進学を決意したのだろうと思い返しても、明確な理由は思い付かない。

「文系よりも理系の方が応用が利く。」

と言われていたので、数学と物理が余り好きでなかった私ではあるが理系を選択し、理系を選択したのはいいが、数学、物理中心の工学、理学系には興味なく、人がやることが昔から嫌いだった私は、「理系=工学部、医学部」といった方程式に逆らいたかったのもある。そんな中、「バイオテクノロジー」の世界に少し興味があり、いざ進路を選択する時期になって農学部に進学することに決めた。しかし、絶対農学部に行きたいということもなかった。とにかく、主体性のない高校生で、当時の私のクラスメートは皆そうであった。大学に進学してからも目的を持って進学してきた奴は周りにはいなかった。

元々私立の大学に行くつもりはなかったので、進路としてはいわゆる関西では一番と言われてる京都大学を選んだ。一応の目的は、大学でアメリカンフットボールをしたかったからだ。学校の先生からも、

「お前は合格する一員として数えてる。」

と言われていたが、正直私としては高校3年になってからの学力の伸びがいまいちだったので、五分五分かなという気がしていた。当時の国公立大学の入試は、前期、後期と二回受けられるシステムになっていた。もちろん、前期試験は京都大学に願書を出したが、後期試験は北海道大学に願書を出した。本当に京大に行きたかったら前後期とも京大にすべきなのだが、私自身浪人するのは嫌だったのと、「農学部なら北海道やろう」という単純な発想で、半ばすべり止めの気持ちで北大に願書を出した。そういった半端な気持ちでいたので、本命の京大はすべることになり、北大に行くことになったが、その時の気持ちはすごく複雑で、自分の取った行動に後悔した。この時の落ち込みは今まで経験したことがなかったと思う。真剣に浪人を考えようと思ったが、受かったのに行かないのは落ちた人に申し訳ないと考えて、結局北大に行くことにした。

北大に入ってからもいまいち乗り気じゃなかった。いい加減な気持ちでここに来たという後ろめたさがいつもあった。大学に入ってからも部活は続けようと思っていた。それは、今まで部活をずっとやってきたので、部活のない学生生活は自分では考えられなかったからだ。京大でアメフトをするのが目的だった私は、北大に入った時はアメフトかハンドボールか迷ったが、これもなんとなくの気持ちでハンドボール部に入ることにした。またまたいい加減な気持ちでだ。

高校の部活と違って、大学の部活は想像以上に厳しかった。特に、うちの部は当時北海道でも1,2を争うぐらい強く、毎年東日本インカレ、たまに全日本インカレに出場できるぐらいだった。練習もすごくハードで、元々体力のあった私ではあるが正直かなりきつかった。先輩やOBが厳しく、今の私の精神力はこの時の下積みがかなり根底にあると思う。4年生が卒業して、運よく1年の秋からレギュラーポジションをもらった私ではあるが、試合中も練習中も全然楽しくなかった。まだ球拾いしてる時の方がましだった。OBへの媚び諂い、無意味な厳しさ、先輩同士のけなし合いを肌で感じ、それらが次第に私からハンドボールを遠ざけて行った。

私の求めていたハンドボールじゃない。私は高校時のように楽しくやるハンドボールを求めていた。もちろん勝負の世界なので、勝ちに拘ってはいたが、勝つためなら何でもという体質は私に合わなかった。チームが目指しているハンドボールと私が目指してるハンドボールが違うと知ってからは、もう辞めるしかない。このまま卒業まで無意味に時を過ごすのも勿体無い。折角北海道に来たのだから。そして、春の大会の前にこの大会後に辞めようと決意した。レギュラーとして先輩方とそれまで練習に取り組んできたので、大会まではその責任を果たそうと考えていた。もちろん、ここまで私を育ててくれた先輩、OBの方々には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。一番、辛かったのは同級生に伝えること。正直、私の右足首はそれまでの疲労で突発的に痛みが来て、テーピングなしではプレーできなかったのもあった。いざ、部活を辞める時は本当に悩んだ。今まで部活のない学生活は考えられず、やり始めたことを中途半端にすることが嫌だった。

結局、今思えばいい加減な気持ちで北大に入ったこと、部活を辞めたことが今の自分形成のポイントとなった。もし、京大に進学し、あるいは部活を続けてたと思うとぞっとする。間違いなく、その後は日本社会にどっぷり浸かっていただろうし、今ごろ結婚して子供がいたかもしれない。想像するだけでも恐ろしい。



フライングしたくなかった

部活を辞めた後は、本当に色々なことをした。北大の4年間、東大の2年間の計6年間の大学生活で、アルバイトの数、そしてアルバイトから得た経験はその当時何百万という大学生がいたと思うが、その中でNo. 5に入るだろうと思っていたぐらいだ。今考えれば、本当にいい経験をしたと思う。

元々、子供の頃から海外志向はあった。いずれは世界を旅したいと漠然と思っていた。しかし、色々なバイトをしていくうちに改めて自分の無知を痛感した。日本国内だけで自分の知らない世界がたくさんある。自分が知ってるのは学生生活、そして大学を卒業したら一流企業に入る。会社員が日本では当たり前。そんな自分の考えが根底から覆された。

周りの連中や世間では休みになると短期で海外旅行というのがはやっていた。もちろん今もそうである。ただ、私の場合学生という身分でお金がなく、北海道という所にいて、海外よりもまず北海道という気があった。それと、日本のことも全然知らないのに何が海外やと、海外にしか目を向けない周りの連中を批判してたぐらいだ。そして、漠然と大学院を出たら旅に出ようと、いつの頃からか思うようになり、私は一度物事を決めると頑固でやり通す方なので、北大の研究室でその事を言うと、周りはみんな信じていなかったが、いざ東大を出た後旅を始めて、再び会った時には、

「あの時言ったことは本当だったんだ。」

と言われたぐらいだ。私も大学院を出る頃には、

「もうそろそろ海外デビューしてもいいかな。」

と自分自身の日本での達成感を感じてた。

よく、人は、

「君は社会を知らんな。」

といったコメントを平気でするが、そういう人に是非聞きたい。

「日本社会って何?

我々が知らない世界はたくさんあり、仮に人生80年としたら、80年生きてもその答えなんて見つからない。それだけ社会は複雑で、我々が知らない部分がたくさんある。と言うか、知らない分野ばかりだと思う。我々が生きている社会、例えば研究者なら研究の世界、会社員なら会社社会しか知らないはず。私は一度、旅の最中で知ったような口を利いてきた女の子を説教したことがある。

「そしたら、日本社会を形成してるのは日本人だけか。在日韓国人はどうやねん。外国人労働者もいるやろ。工場で働いてる人もいる。年金生活の人もいて、障害を持つ人もいる。仕事を選びたくても選べない人もいて、大学に行きたくても行けない人もいる。ホームレスの人々もいて、もちろん自営業の人もいる。学校を中退して自分を見つけるために新しいことに挑戦してる人もいる。お前みたいにぬるま湯に使ってお嬢に育って、少し人間関係が嫌になったぐらいで会社辞める奴がとやかく言うな、どあほ。」

私は学生時代に部活を辞めてからは、夏は礼文島、春は長野県原村でその休みの間を仕事で費やした。もちろん、その目的はお金を貯めるためであったが、仕事をしていくうちにお金以上の経験が得られた。礼文島や原村のカナディアンファームで一緒に働いていた連中は、もちろん学歴なんてない人々がほとんどだった。しかし、学校の連中よりも彼らの方がよっぽどしっかりしていた。その中で私は珍しく学歴がある人間だったので、みんなから尊敬の眼差しで見られていたが、特にファームにいる時は、私の方こそ周りの人間性のすごさに圧倒されるばかりであった。始めに、ファームに行った時は周りのみんなは、私は3日で辞めるものと思っていたらしい。それほどそこの生活は厳しかった。しかし、私自身は途中で投げ出すことが嫌いなので辞めようと思ったこともなく、逆に日が経つに連れて周りからの信用も得るようになった。そして、最後には、

「また帰ってこい。」
と周りは別れを惜しんでくれるようになり、私自身も自分に対してかなりの自信が付いた。

大学3年の秋。礼文、そしてファームと仕事をした後、いざ自分のメインの学生生活に戻ってみると、周りのやる気の無さ、幼さに愕然としたのを今でも覚えている。

「なんで、こいつらと俺は一緒におるんや。」

色々なバイトの経験、特に礼文と原村の経験が私にまじで勉強させる気にさせた。

「みんな、本当にすごい人ばかり。それに比べて俺は何をやってるんやろう。彼らにできなくて、俺にしかできないことは何やろう。そうか、それは大学での勉強か。」

それからは、勉強、研究にほとんどの学生生活の残りを費やしたと思う。

私自身も日本社会を語れと言われたら、自分の経験から知った社会しか知らない。帰国して日本を旅する時にはいつも新しい発見があった。もちろん、海外で会う様々なタイプの日本人からも色々教わった。特に、日本は歴史がある分その社会構造は非常に奥深い。私なりに学生時代に色々学んで海外に出てからも、日本での旅を繰り返していたのは、「フライングしたくなかった」という以前からあった気持ちが、いまだに自分の中に存在するからであろう。



東京大学での生活

東大大学院と言うと人は感心するが、大学院入試なんて大学入試に比べれば無茶苦茶簡単である。教科も専門分野になり、要はその大学の先生のノートと過去問を手に入れて、あとはその範囲内をひたすら勉強するだけ。もちろん試験自体は難しい。正直、私なんて「いかさま東大生」なので「東大生」と口にするのは厚かましいかもしれない。

東大に入って一番嬉しかったのは、私の周りにいた人間が東大を身近に感じてくれたことだ。

「お前みたいな人間でも東大に入れるんやから、東大もたいしたことないな。」

私が海外を旅してる間も定期的に知り合いに近況報告を送り、いつも多大な返事がきたが、一番嬉しかったことは私を通じて海外を身近に感じてくれたことである。自分には全く関係ないと思ってた分野が私の行動によって人々にとって身近になる。そして、私が感じた事柄を共有する。これは非常に素晴らしいことで、このことによって常に人々の中に新しい分野が開拓され新しい知識が身につく。

東大に移ってからも、もちろん色々なことをしてた。研究以外に週末は会社社会に入って仕事し、礼文や長野での仕事も時間がある限り続けていた。東大に入ったことで、周りの反応はがらっと変わった。学歴を毛嫌いしていた人も、

「うちには東大生がいる。」

「東大生を雇っている。」

と周りに自慢する有り様。人材派遣の仕事をしていた私は、女子大生を中心に女の子と接する機会が多かったが、東大と口にするとやたらもてた。

「お友達になって下さい。」

「付き合って下さい。」

といったコメントは聞き飽きた。周りのこの態度に浮かれた時期もあったが、だんだん腹が立ってきた。

東大社会では、もちろん東大という土台に皆がいる訳なので、改めて東大を意識することはない。大学から東大にいる人は特に東大を感じることはないだろう。野球で例えるなら、東大は巨人かな。巨人の選手は単なる一球団の野球選手という風に自分達を理解してるかも知らんが、他の5球団は常に巨人を意識し、他の5球団のファンはアンチ巨人の人が多い。私が北大にいる時も、東大に対して一種のコンプレックスを持っていたが、いざ東大に入るとその周りからの重圧は肌で感じた。

「巨人に来てしまったで。」

東大卒という学歴は嫌でも私に付いてくる。人は、

「さすがは東大生。」

「東大生なのにそんなこと分からんの。」

といったコメントをしてくる。東大生なら何でも知ってるという訳ではない。この辺りの贔屓目は是非止めて欲しいが、世間の目は厳しい。東大生自体は他大学の学生と変わりない。しかし、

「なんでこんなにもお嬢と坊ちゃんが多いんやろう。」

と第一印象はそう思った。趣味の全くない人、バイトをしたことない人、仕送りを見境なくもらってる人。そんな学生が周りには多くいた。

義務教育という点で考えると、大学院に行く人は最後まで社会に出られない甘えん坊とも言える。法律で日本の義務教育は中学までと定められている。それは、中学を出たら社会人として扱うぞと言うことであろう。中学卒業後に社会に出られない人は高校に進学する。高校でも物足らない人は大学に行く。大学卒業後でも社会に出られない人は、さらに修士課程に進み、どうしようもない甘えん坊が博士課程に進むことになる。実際に研究目当てで大学に入学した学生がどれだけいるだろうか。

「まあ、ここまで来たら大学院に行って研究でもするか。」

という考えの学生が私の周りではほとんどだったように思う。もちろん、私も人のことをとやかくいう資格はない。

東大に入って色々感じたことはあるが、一番印象に残ってるのは、

「なんてこいつらは頭がいいんや。」

と思ったことだ。決して北大の学生が頭が悪いと言ってるのではない。北大の研究室にいた人々も頭のいい知識の豊富な人ばかりだったが、東大生はそれをはるかに上回る。下の学生の大学院入試前の勉強状況を見ていても、私はあれだけ勉強をしたのに、彼らは試験前にちょこっと勉強しただけで簡単に合格する。話していても頭の切れる人が多く、これは理屈では絶対勝てないなとまじで思った。ただ、その頭の良さが悪く作用することが多いのは東大生の特徴かもしれない。それが今の官僚社会につながると思う。頭がよく、常に物事を考え、その結果自分に高いプライドを持つ人々がほとんど。そのプライドの高さゆえに、簡単に他人の意見を否定する。これは非常に恐ろしいこと。そういった人々が研究室に残ることとなり学歴を積み重ね、そして世間では重要視され、いわゆる官僚として日本国内に君臨する。大体、

「こいつは研究室に残って欲しいな。」

といった人材は大学院に進学することなく社会に出て、ちゃんと社会に溶け込んでいる。それはどこの研究室でもそうであろう。

東大の研究室はやたらお金がある。これは本当に不思議で、なんでこんなにも簡単に研究費が通るんやろうといつも疑問に思っていた。お金がある分、物を大事にしない。北大にいた時は研究室にお金がないことを皆が承知で、ものをすごく大事にした。ものが壊れたら修理。当たり前のことだが東大では違った。一度、研究室のある機械が壊れ、それは配線がショートしただけで修理すればどうってことない。私は北大でやってたようにその機械を修理した。しかし、次の日。先生に、

「危ないから捨てて、新しいのを買いましょう。」

と言われた時は唖然とした。こういったことが頻繁にあり、学生はこの行為を当たり前のように解釈してる。これも非常に恐ろしいこと。仮に彼らが東大を出て、国の機関や企業の研究所に進むならどうってことないが、地方大学に進んだらどうなるか。東大での常識は通じなくなり、プライドの高い彼らは不満ばかり言いかねない。

結局のところ、私自身東大生になりきれなかった。「あくまでも外様」という気があり、根本的に周りの他の本当の東大生とは人種が違った。私が彼らの前で東大生と口にするのは非常に厚かましいのかもしれない。



大阪哲学、大阪のおばちゃんの世界

大阪で生まれ育った私ではあるが、大阪は本当に特殊なところだ。日本で大阪みたいなところは他にはなく、世界でもないと思う。大阪という言葉を聞くだけでも、多大な形容が浮かんでくるのはその現われだ。

大阪はどちらかと言うとアングロサクソン社会的なところがある。比較的本音の社会で、テレビの制作でも台本というよりも出演者に任せているところがある。大阪弁を武器にして、自己を通し続ける人々もいる。今は大阪弁は全国で人権を得ているので、その分国民からの認知度も高い。ただ、大阪弁と聞くとすぐに笑いとイメージされがちで、私の場合仮にまじめなことを言っていても笑われることがたまにあった。また、大阪には独特の食文化もある。うす味系の趣向を凝らしたものが多い。京都の懐石料理で代表されるような芸術性を求めたものもある。たこ焼なんて、よくもあんな発想ができたなと改めて感心する。なんでボールの中にたこなのだろうか。関西で発明された品々も多いのは事実で、その個々の独創性をうまく生かしているのは関西の風土のおかげであろう。

大阪の人々に、大阪のことを聞くと、

「大阪は人情があってええところ。大阪人は親切やしな。それに比べて東京は。」

と大体同じような答えが返ってくる。潜在的に東京を敵対視し、東京に行ったことがない人でも平気でこういったコメントをする。私は大阪を離れて10年近く経つが、確かに大阪に戻ればほっとする。テレビで関西の芸人が出ているとなぜか落ち着く。しかし、大阪ほど閉鎖的なところも日本では存在しない。大阪人気質は、大阪人に対してしか当てはまらない。確かに、大阪は人情的なところであるが、それは大阪人に対してだけである。仮に周りで標準語を話している人がいると、大阪人は少し引いた態度を取る。この辺りがアングロサクソンの世界とは違うところ。大阪人にとっての大阪は天国みたいなところ。しかし、他の人々には住みにくい環境かもしれない。周りが大阪に合わせないといけないし、大阪で生きていくためにはある程度大阪のルールを把握しないといけない。その法則はどこでも同じだが、それを知らないで、大阪人は地方に行っても、大阪のままでいることが多い。そういった人々は周りからひんしゅくを買い、それに気づけばいいが、気づかないでだんだんと人が遠ざかっていく結果をもたらすことがある。そして、

「東京は最悪やで。やっぱり大阪やわ。」

と関西に帰って言いふらす。それが、益々人々の先入観に影響を与える。大阪は単民族のアングロサクソン世界という形容が適しているのかもしれない。比較的西洋的ではあるが、かなり保守的な要素も含んでいる。

人間歳を取ると、なぜか横柄な態度になってしまう。簡単に言うと図々しくなる。それはおっちゃんよりもおばちゃんに多く、その傾向は大阪のおばちゃんで顕著だ。図々しい態度を取るおばちゃんはどこでも見かけるが、そういった光景を目にすると、

「まあ、おばちゃんやから仕方ないな。」

となぜか満足してしまうのは、この「図々しさ」はおばちゃんの特権であるからだ。それに、大阪でいつも通りの図々しいおばちゃんを目にするとなぜかほっとしてしまう。

「さすが大阪のおばちゃんやな。」

ってな具合に。逆に、若い連中がおばちゃんと同じような行動をとると、

「近頃の若い者は。教育ができていない。」

negativeなイメージに取られる。なんともおばちゃんは得な生き物だ。

海外に行っても、そのおばちゃんの特権は健在で、特に大阪のおばちゃんは手が付けられない。日本人は固まらないと行動できないが、大阪のおばちゃんは別だ。一人でも堂々としている。あのおばちゃんたちも恥じらいの時期があったはず。いつからああいう風になってしまったのだろう。その変遷を「使用前」、「使用後」という風に追ってみたいものである。ただ、この大阪のおばちゃんの美学に対しては、我々日本人は見習うべきところもある。物事を学ぶ時のこのおばちゃんの図々しさがあれば、海外に留学している日本人の英語力ももっとアップしているはず。そしたら、おばちゃんが英語を学んだらという発想も起こるが、おばちゃんの場合海外であろうと、相手が日本語が分からなくても大阪弁で通すので、おばちゃん自身は困ることもなく周りが迷惑するだけである。そんなおばちゃんを海外で目撃すると非常に恥ずかしく感じるが、ある意味感心させられる。この気質が今の日本人全体にあったら、と考えると

世界中の人々の中で大阪のおばちゃんほど強い人種はいない。恥ずかしい反面、見習うべきところはたくさんある。おそらく仮に世界が滅びるようなことがあっても、大阪のおばちゃんは滅びないだろう。なんとかして生き延びるはず。それだけ生命力、活力があるすごい生き物だ。ただ、身内がそういう人種にならないことを祈るだけ。見ている側ならまだいいが、それが実際身内となると恥ずかしくて仕方がない。



麺ワールド

私の生活の中では、麺類はなくてはならない存在。大阪で過ごした私は、麺類と言えばとにかくうどんだった。大阪のうどんはむちゃくちゃうまい。昆布と鰹を活かしたあのだしは芸術品。北海道に行ってからはラーメン派に転向した。うまい味噌ラーメン屋の話を聞くと、いつもそこに足を運んだ。黄色でちりちりの西山ラーメンもラーメンに花を添える。東京のラーメンもうまい。これは意外だが、東京では店の需要も多いので、ラーメンが不味いと店が潰れてしまう。その分、各ラーメン屋は趣向を凝らし、人がよく集まる環七や環八沿いの立ち食いラーメン屋はたまらなくうまい。九州は何と言ってもトンコツラーメン。私は九州滞在時の1ヶ月間で、ラーメンを30杯近く食った。特に、博多のラーメンはレベルが高かった。需要が多い分、店側も味を追求し続ける。熊本のニンニクの効いたラーメンもたまらない。

四国の讃岐に行くと、今度は再びうどんだ。汁を重視する麺類の中で、讃岐うどんは麺を重視する。こしのある讃岐うどんはまじでうまい。讃岐うどんの食べ方は、できたての麺をぶっかっけか釜揚げで食べる。歯ごたえがありそれでいて表面が滑らかな麺はくせになる。四国ではお遍路さんで88ヵ所を回る人々が多いが、讃岐うどん88ヵ所と称して、うどん屋を88ヵ所回る人々もいるらしい。

私にとって、そばは余り馴染みのない世界だったが、そばも他の麺類と同様に奥深い芸術作品だ。山形、信州、出雲とそれぞれ違った趣きがあってうまかった。そば粉100%の徳島の祖谷そばを食べた時は、そば粉100%の麺は細く短く切れやすいと教わった。究極のそばつゆを求めて、礼文の昆布、土佐清水の宗田鰹、小豆島の醤油、徳島のゆずを使って作った完成品は、周りから多大な評価を頂いた。その究極のそばつゆを使ったカレーうどんはまたたまらない。カレーうどんは、うどんの中でも日本文化とインド文化が混ざった国際的な作品で、それを日本風に装飾した芸術の神髄だ。カレーうどんがうまい店は他のうどんもうまい。

タイにいる時は毎日クイッティアオを食べてた。クイッティアオは屋台で食べると60円ほど。こんなにうまいラーメンが安く食え、その麺の太さも自分で選べる。ベトナムのフォーも止められん。私は毎朝食べていた。ミャンマーのモヒンガは、味を舌で覚えておいて、つい最近カナダでその味を再現した。Veg.用の味噌ラーメン作りにも挑戦したが、汁のこくはどうしても出せなくて悔しい思いをした。そばつゆには昆布だしでは弱いことを認識し、それからは鰹かいりこで出すように心がけた。私が旅の最中には、必ず手元に韓国の辛ラーメンがある。なくなればすぐに買い、ソウルに行った時は100袋近く買って帰った。辛ラーメンやきそばを覚えてからは、辛ラーメンの活用法が広がった。やきそばも塩こしょうの簡単な味付けのものから、オイスターソースを使ったもの、あんかけにしたものと多種多様。パスタソースの作り方も覚え、麺類のレパートリーも増えた。

「私と食」を考えた時に、麺類はなくてはならない存在。最後にうまい麺類屋の見つけ方。それは、お店のメニューが少ないってこと。



お遍路さんここだけの話

私は無事お遍路さんを終えたわけだが、お遍路さんの大部分は車で移動している人々だ。そのうちの7割は団体さん。団体さんが来ると本当に困る。本堂は陣取られ、納経所は添乗員が時間を取る。その団体さんは、当然一気に88ヵ所を回るツアーもあるが、大体が分割して回る日帰りか一泊ツアー。一気に回るとなると1週間は家を空けなければならないので、それは少々しんどい。そこで、定期的(1ヶ月か2ヶ月毎)に今回は何番までといった風に、京阪神から日帰りか一泊で募集をかける。つまり、お遍路さんが立派なビジネスとして成り立っており、寺側も商売として受け入れているところが多かったような気がする。駐車代を取り、物を売っている。あと、本堂改築のための御布施も取っている。納経所ではパートのおばちゃんを雇っているところもあり、そのため時間になったら人が並んでいようがいまいがすぐに帰る。親切に対応してくれる人もいればいい加減にやっている人もいる。テレビや雑誌を見ていて、我々にはいい加減な坊主連中がいた時にはまじでむかついた。こっちが困っているのに不親切な人がいるし。従来の寺巡りにお金が絡むと、仏に仕えている人であろうが人格が変わる。本当に悟りを開いている人以外は、人間ってそんなもんやろう。寺自体の見栄もあるのか、別にこんなに派手に改築せんでもいい本堂もあり、鉄筋のお寺もあった。センサー付きの山門の手洗い所もあったな。

ただそういった中、本来のお遍路さんのスタイルである歩き遍路さんには頭が上がらない。あの人たちはすごい。私がバイクで走った道中をひたすら歩くんやから。大体、早い人で40日ぐらいかかる。当然接待も受け、所々乗せてもらったりするようだ。野宿の人もいて、宿を取る人もいる。全行程歩くとなるとかなりの精神力を要す。まずは、12番の焼山寺。ここをクリアしても、一番の難関が高知。高知は歩く距離が半端でない。大体の途中棄権する歩き遍路さんは高知内らしい。出釈迦寺の和尚さん曰く、

「どんな方法にせよ、やり遂げるというのが一番重要。」

だそうだ。

私は88ヵ所を無事回り切ったが、こんなことは何にもすごい事じゃない。すごい人は100回も200回も回っており、納経帳が真っ赤になってる人もいる。真のお遍路さんはお寺がどうであろうが、周りがどうであろうが関係ない。一身にお寺を巡って祈るだけ。それが真のお遍路さんだと私も思うし、私のように邪念の入ったお遍路さんは失格だろう。反省、反省。



阪神・淡路大震災の傷跡が… in 淡路島北淡町

お遍路さんで88ヵ所を無事終え、お礼参りも済ませた私は最後に淡路島に寄った。淡路島までは大阪からすぐなのに、小学生の時に家族でちょこっと行ったぐらいで、私は島についてはほとんど知らず、どんな雰囲気なのかも知らなかった。そこで、私は鳴門大橋を渡って、淡路島を一日回ることにした。島事体は思った以上に大きく、私のイメージしている島とはかけ離れており、都市と言った方がいいだろう。明石海峡大橋も間近で見られ、天気もまずまずで走っていて気持ちよかった。私は島の西部に差し掛かった時に、「野島断層記念館」という標識を目にしてそこに寄ることにした。

野島断層は1995年の阪神・淡路大震災で現れた断層で、この野島断層の活動に併発して他の断層も活発になり、そしてあの大震災が起こったと考えられている。大震災によってここ北淡町は淡路島の中でも一番被害を受け、この野島断層は100m近く形として残り、これは学術的にも貴重で、そしてこの断層を残すことにした。この保存館は、今や観光の名所となり、修学旅行生を乗せたバスや団体バスがいっぱい停まっていた。館内には、震災時の映像が上映され、断層は見事なぐらいくっきり残っており、また断層面に建っていた家を兵庫県が買い取り、この断層と共に公開していた。私はゆっくりと館内を見学して改めて震災の規模のでかさを感じた。

私はこの被害の大きかった北淡町を少しバイクで回ってみたが、確かに道路も家も新しいのが多かった。集落以外は田園が広がっていたが、普通昔ながらの農地周辺では道が細く、家も古い平屋ってところが多いが、ここ北淡町では道路も新しく、家も真新しい。いわゆる新興住宅地のようで、それだけこの辺りの被害の大きさを物語っていたのだろう。

私には今回のこの保存館訪問で気に食わなかったことがあり、それは保存館の周りに土産物屋が連なっていたことだ。大震災の傷跡を商売に利用している。入場料も広島や長崎の原爆記念館の数倍する。野島断層に対しても国の「天然記念物」という言葉を使っていた。土産物では地元淡路島の特産品を売っていたが、広島や長崎ではこんな事なかったぞ。ただ、これが地域の復興のためという意図なのかもしれないが、別に義援金を募ってたしな。うーん、どうもしっくりこん。



広島、長崎への原爆投下

礼文島から屋久島までの日本縦断の際に、長崎と広島で原爆資料館に寄った。そこは、修学旅行の学生、一般の旅行者、そして外国人で賑わっていた。原爆投下時の映像を中心にその物々しさが館内いっぱいに描かれている。その悲惨な光景に唖然としている外国人も多くいた。

私は両資料館とも見学最中に疑問に思うことがあった。それは、原爆投下に至る経緯が全く記されていないことだ。原爆による被害ばかりが強調されている。一体どうしたものか。一生懸命メモしているちびっこも多くしたが、これはちびっこたちに誤った認識を教えることになる。確かに、原爆投下によって何十万人という命が奪われ、その被害は今もなお続いている。しかし、どうだろう。多くの命が奪われる前に、我々はそれ以上の数の何の罪もない人々の命を奪った。ロスで会った台湾の学生に、

「日本人は南京大虐殺についてどうお考えですか?

と聞かれ、私は、

「同じ質問をこの宿にいる他の日本人にしてみな。間違いなく、彼らはこの言葉自体知らないから。日本人の意識ってそのレベル。受けた側の痛みは強調するが、与えた側の痛みはなんとも思っていない。」

と答えた。台湾人にとって、南京大虐殺は日本における原爆投下と同じぐらいの出来事のようだ。

アメリカの原爆投下がなければ、いわゆる国際A級犯罪人である当時の軍隊の上層部、政治家は更なる悪事を遂行していたはず。今の日本は北朝鮮のような軍事テロ国家になっていたと思う。仮にそうなっていたとしたら、私がこうやって世界を旅することもできなかったであろうし、ODAとしての日本からの海外援助もなかったので、ある程度の発展を遂げた今の途上国もいまだに貧困国であったはず。確かに、アメリカに対しては色々批判はあるが、原爆投下によって悪事を極めていたあほな連中が逮捕され、アメリカの監視下で今の日本が再建された。高度経済成長を遂げた日本は、すべては原爆投下に起因する。しかし、犠牲ばかりが強調され、加害者的な立場は軽視される。それはアメリカもそうで、ベトナムで戦争博物館を訪ねた時も、アメリカの美化を感じた。アメリカの戦争映画を見ると一目瞭然。戦争映画の題材はベトナム戦争が多く、攻撃を仕掛けた側のアメリカが、結論として自分たちを美化して、それが国民から支持を得ている。最近公開された「パール・ハーバー」の舞台は第二次世界大戦であるが、その中心は真珠湾攻撃というアメリカが被害者的な立場にある。そして、映画ビジネスという観点で、日本では北米で公開されたのとは違う結末になっており、戦争映画のはずだが日本では恋愛映画として紹介されている。日本の戦争映画もそう。原爆投下による日本の敗北を題材にした映画ばかりで、それが国民から支持を得ている。この傾向はどう評価したらいいのか。戦争を伝えるという主旨で、戦争を体験したご老人がちびっこたちにその時の出来事を伝えている番組をたまに見るが、なぜそこに被害を受けた側の中国人や朝鮮人の戦争体験者がいないのか。全く不思議だ。

原爆資料館は、原爆投下を通じて第二次世界大戦全般を記述する絶好の場所である。学校における原爆に関する教育も、教える側の立場が変わらないと事実を軽視した教育は益々エスカレートしていく。教科書の記載をいくら変えても、教える側の人間の意識が変わらないと意味がない。日本には言論、表現の自由が憲法で保障されている。軍国主義はもう昔の話。否をはっきりと記述して、原爆投下に対する認識を改める時が来てもいいのではないか。特に、我々は戦争を知らない世代。客観的な立場で事実をはっきりと認識して、真実の過程を後代に伝えていくべき。そうでないと、事実が風化してしまう。