全国17億人の加藤学ファンの皆様

特別編〜札幌弾丸ツアー〜
「農化のみんな、ほんまありがとう」


皆様、こんにちは。今回は特別編です。

先日の週末、大学の学部時代の仲間(通称:オヤジ)と「札幌弾丸ツアー」を決行し、学部時代(北大農学部農芸化学科)の同期と弾けてきました。東京で個々には会っていますが、札幌で農化の仲間と会うのは大学卒業以来約15年ぶりです。

そもそものきっかけは、今年1月に横浜の小ぢんまりした焼き鳥屋でオヤジで飲んでいた時。オヤジから、
「なんか面白いことしたいなあ。」
といった話が出たので、
「なら、週末に札幌で農化の同期を集めて、宴をするのはどう?」
という話になって二人で盛り上がり、この「札幌弾丸ツアー」の計画を温めていました。
そして、4月頃から2人でスケジュールを調整し始め、6月初旬に恵比寿で最終打ち合わせをして、ツアーの詳細を決めました。

また、今回札幌に行く目的は、同期との宴以外にもう一つありました。それは、我々がよく通った飲み屋「なんだかんだ(通称:なんかん)」のマスターが昨年亡くなり、マスターに線香をあげに行くことです。我々は、マスターには本当に可愛がって頂きました。

マスターがいなくなった「なんかん」を、一人でがんばっているママさんを元気つけるためにも。社会人になった我々の姿を見せるためにも、当日は仕事上がりにスーツのまま行こうと。

我々が考えたスケジュールは以下です。

7月24日(金)
AM7:30 仕事が終わってそのまま、羽田空港へ向って出発
AM9:00 大学時代の先輩(通称:のんだくれ)に新千歳空港にピックアップを頼み、札幌へ向う。
車の後部席でサッポロクラッシックを飲みながら行く。
AM10:30頃 札幌到着後、ホテルにチェックインし、「なんかん」に直行しそのまま飲む。
AM3:00頃まで飲んだ。

7月25日(土)
朝 爆睡予定に反して、お互い早く起きて、北大を散策
AM12:00 北大でジンギスカン(通称:ジンパ)→雨のため中止。代替で札幌ビール園へ。
PM4:00 大通公園のビアガーデン→雨のため、札幌駅地下街でお茶する。
PM6:00 「魚や一丁」で農化同期と宴→札幌在住の同期が10名ほど集まった。
PM10:00 「なんかん」で2次会
AM1:00 「つくしん坊(通称:つくし)」で3次会
結局、3次会まで8名残る。ホテルに戻ったのは、AM4:00近く。

7月26日(日)
朝、爆睡(夜までお互いフリー)

当日の私の行動
AM11:30 スープカレーを食う。その後、北大、札幌駅周辺を散策。
PM2:00 喉が渇いたので、札幌駅南口のビアガーデンで生ビールを飲む。
その後、3時間ほど札幌〜すすきのを散策。
PM5:00 礼文島の仲間と狸小路の「炭や」で塩ジンギスカンを食う。
PM9:00 すすきのにあるビルの上の観覧車に乗って、Barへ。
PM11:00 「なんかん」で飲む
PM1:00 「つくし」で飲む。ホテルに戻ったのは、AM3:00頃。

7月27日(月)
オヤジは、午前の便で先に東京へ戻る。

当日の私の行動
AM9:00頃 学生時代に住んでいた北31条西3丁目〜北24条付近を散策
AM11:00 学生時代によく通った「ラーメン大将」の肉味噌ラーメンを食う。
PM14:30 札幌発
PM18:00頃、無事湘南に帰宅


北大受験の際に、
「もう二度と来ないかもしれない。」
と思ってクラーク像の写真を撮ったのを思い出した。





北大生と言えばこれやろう。
「都ぞ弥生の 雲紫に・・・」


さすがに、3日間朝まで飲み続けは身体的にきつかったです。結局、ホテルの朝食券は一度も使わず、大浴場にも一度も入らず・・・。
しかし、ある意味この「非日常」を十分に満喫できました。

当初は、我々が勝手に勢いで決めたこの弾丸ツアーに、札幌の仲間を呼び出すのは申し訳ない、とも考えました。ただ、一方で、折角呼ぶなら、我々のルートを駆使して、札幌在住の仲間全員に声を掛けようとも。参加は10名ほどでしたが、結局全員には声を掛けられました。宴に参加した同期みんなからは、逆に今回の企画に感謝され、「大人になっても、たまにはこういったあほな企画も大事」と改めて感じました。

学生時代と今とでは、皆立場が違います。そういった中、今は学生時代とは違った話(子育て、ビジネスなど)ができるし、学生時代それ程話をしなかったが、今は仕事関係などで親しくなれることも考えられます。札幌というさいはての土地で、全国から仲間が集まって、同じ農化という学科に入り、同じ時代同じ場所で学生時代を過ごした同期・・・。今回のツアーで、「しばらく疎遠になっていた関係が、うまく繋がればいいな」とも思っていたので、お互いよかったかもしれません。折角の機会なので、同期のメーリングリストを作ろうという話になり、現在作成中です。

さて、この「非日常」も終わり、今ではすっかり「日常」に戻っています。
では、次は秋。宮古諸島でお会いしましょう。


P.S.
前半戦、我がトラは悔しい思いをした。しかし、先日の東京ドームでの読売戦で9回1アウトからの3ホーマーによる逆転勝利、及び延長10回アニキのタイムリー、能見の完璧なピッチング、球児が完璧に抑えた勝利を目の前にし、後半戦は行けると確信した。

で、昨日までの甲子園での読売3連戦。広大、ようやった。読売に連続勝ち越しで、後半戦首位や。トラ、このままロードも行ったれー!!


「あとは、新井サン、早く完全復活してくれ!!」
湘南より愛を込めて
03/Aug/2009
Manabu Kato



☆Topics; ”Sapporo” Vol. 176 - 178

 札幌青春プレイバック〜北大編〜



北18条から獣医学部へ続く道




北18条門近辺



北18条門から見る北大メインストリート



札幌農学校第二農場(モデル・バーン)
学生の時にも入ったことがなかった




モデル・バーン内




旧教養学部
大学2年までの間、ここで勉強した



オヤジと北大構内を歩いている時に感じたのは、
「まさか、我々も北大を観光するとは・・・。」

学生時代、多くの観光客が北大を観光しているのも毎日のように見ていたが、まさか自分たちがそういった立場になるとは思わなかった。ただ、観光客の目で見ると、やっぱり北大はすごい。こんなに緑が豊富で、広い構内を持っている大学はないだろう。フラットで歩きやすいし。そりゃ、みんな来るわな。

北18条近辺の変貌ぶりには驚きである。昔はこの近辺にポプラの並木があったのに・・・。北18条の通りが広くなり幹線道路となって、地下にエルムトンネルができた。ロータリーもでき、小ぎれいになっていた。


学生当時はなかった「はるにれ(食堂)」
ジンパ、したかったなあ・・・



ジンパを楽しむ学生たち



こんなたて看板ができていた




中央食堂のメニュー




ポプラ並木から見る第一農場 
ここで実験していた



我が作物栄養学講座の倉庫と実験農場



メインストリートから恵迪寮に向う通り沿いの原生林



北大生協




クラーク会館 
学部時代はよくここでめしを食った


雨でジンパができなかったのは非常に残念。北大と言えば、ジンパでしょう。何かあると、生協から七輪と炭を借りて来てよくジンパをした。

教養食堂、中央食堂、クラーク食堂とメニューを見てみたが、定食がなくなっているのに驚いた。ピュアカレーも・・・。昔は、「エルム」、「カレッジ」と定番の定食があったのに。今は、小鉢系が中心で、各メニューにカロリー計算もされている。食堂自体もきれいになったしなぁ。


中央ローン

ここでよくジンパもしたし昼寝もした。今はここでのジンパは禁止らしい。知人が札幌に遊びに来た時は、自分の部屋を知人に貸して、ここにテントを張ったりもした。




我が北海道大学正門



メインストリート



メインストリートから見る北13条門



農学部と理学部の間の芝生
ここでよくジンパやキャッチボールをした



クラーク像から農学部正面玄関へ続く道




ポプラ並木横の新渡戸稲造先生碑 
当時はなかった



北大を久しぶりに訪問して感じたこと。それは、やたらと建物が増えたことだ。建築会社の事務所らしきものもあり、常に建物を作り続けている。そのせいか、広場が少なくなり、若干圧迫感を感じた。どんどんと建物に敷地が占有されて、将来的にこの広大な土地がより狭く感じられるのでは・・・。

大学の周りにも高層な建物ができすぎ。ポプラ並木横の第一農場から石山通り方向の景色もすっかり変わった。昔はもっと遠くまで見えたのに・・・。

あと、構内を歩いていて、カラスの多さにびっくりした。昔はこんなにいただろうか?札幌の街の自然がどんどん破壊され、行き場を失ったカラスたちがまだまだ緑が残る北大に住処を求めに来ているのでは・・・?


ポプラ並木

5年前の台風18号の影響で、19本も倒木。倒木箇所には若いポプラの苗が植えられていた。

この周辺は本当にきれいになった。遊歩道もでき、より観光地化した(残念・・・)。この並木の横をテーラーに乗って、サンプリングしに圃場に通っていた。

大学4年のある日の夕方。私の実験作物にポプラがあり、3mほどに大きくなったポプラをこの並木に加えることを企てた。昼間は観光客が多いし、夜は暗くて見えないので、ちょうど黄昏時に。

一応、この計画を事前に担当教官に伝えると、
「聞かなかったことにする。」
と。

そして、決行日。まずは、仲間何人かで実験作物のポプラを掘り起こし、テーラーに乗せて、ポプラ並木最後尾に穴を掘った。そこに、水をたっぷり注ぎ、掘り起こした我々のポプラを移植した。
「数年後はこのポプラ並木の一員となるだろう。」
と我々はその達成感に満足して、その日は家路についた。

そして、その翌日。
様子を伺いに現場に直行すると、な、な、なんと、我々が苦労して移植したポプラが抜き取られているでは・・・。一体どういうことなのか?こんなひどいことをするのは誰の仕業だ??

その絶望感で研究室に戻ると、当時の技官が、
「ポプラ、抜いておいたから。」
と。しまった、我々の企てがばれてしまった。しかし、我に返ってよくよく考えてみると、
「なんで我々が実行犯だとわかったのだろうか?」
担当教官が、わざわざ技官に話したのだろうか?未だにそれが謎のままである。


何かある度の集合写真は、大体がこの農学部正面玄関をバックにしてだった。

大学4年の3月末、札幌を離れる日。バイクで小樽港に向う前に講座の皆様が見送りにこの玄関前に集まってくれた。

(今は絶対そういうことはしないが)お別れに渡されたビール1缶を飲み干し、まだ道路端に雪が残る国道5号線をバイクで小樽港に向って走った時のことを今でも覚えている。あの時は、本当に札幌を離れるのが寂しく辛かった。

私の北大時代は、まだ自分が東京に出る前であり、放浪に出るもっと前。北大を卒業してからが色んなことがありすぎて、今回構内を散策している時は、なんか変な気持ちだった。
「懐かしい」と思う気持ちと、「ほんとにこの大学にいたのだろうか?」という気持ちと。ここを出てからが色々ありすぎて・・・。
「北大にいたのって高校出てすぐやし、NZやアラスカ放浪する遥か前やしな・・・。」
時間の感覚がおかしくなっていた。

今の自分の生き方やものの考え方の原点は、間違いなく北大時代にある。北大に来なければ、平凡なありきたりの人生を送っていただろうし。北大時代、色んなことを経験させてもらったし、本当に来てよかった。辛いこともいっぱいあったが楽しいこともいっぱいあった。

歩きながらそんなことを考えていた。


北海道大学農学部正面





 相変わらずやなー

今回の旅の間、のんだくれにはかなりお世話になり、感謝感謝である。しかし、のんだくれは、相変わらず風変わりで、今回もその独特の個性を十分に発揮していた。全く訳分からん。

のんだくれは、私が学部にいた当時ドクターだった大先輩。現在、苫小牧に住んでいるが、週末は札幌に戻ってくる。昔から変なこだわりがあって、寂しがり屋。で、私がつけたあだ名「のんだくれ」を結構気に入っている。

学生時代のある日、昼間に同期とめしを食いにクラーク会館に向って歩いている時に、我々の方に向ってのんだくれが歩いてきて、私が、
「のんだくれ!!」
と叫ぶと、一緒にいた同期から、
「おい、大先輩にのんだくれはあかんやろ。」
と言われたので、
「心配せんでもええ。あれで結構喜んでんねん。」
と返すと、案の定、のんだくれがニコニコこっちを見て、
「なんやー。」
と。その光景を見た同期も、
「ほんまやなあ。」
と驚いていた。

今回の弾丸ツアーの打ち合わせの際、オヤジと新千歳空港から札幌までどうやって行こうか話していると、
「そや、のんだくれに迎えに来てもらおう。」
という結論になり、のんだくれも快く承諾してくれた。

また、車に乗って札幌に向う間、先に車の中でサッポロクラッシックを飲みたい。そう思って、のんだくれにサッポロクラッシックの購入もお願いした。

そして、新千歳空港に着いた日。のんだくれに一つ言うのを忘れたことに気づいた。そう、つまみの用意である。オヤジにも、
「すまん、つまみの用意を言うの忘れた。腹減ってるけど、とりあえず札幌までは飲みだけで行こう。」
と伝えた。

雨の新千歳空港でのんだくれの車を見つけ、いざ車に乗り込むと、用意されていたサッポロクラッシックにびっくり。なんと、中ビン2本なのである。普通は缶やろ。その光景に我々は驚いた(ちゃんと栓抜きは用意されていたが)。

そして、札幌に到着。
我々の考えでは、北口のホテルで一度降ろして、そこで少し待ってもらって、そのまま北大通りを「なんかん」に向って、「なんかん」の前で我々を先に降ろしてもらって、のんだくれは駐車場に車を置きに行く。もしくは、ホテルで降ろしてもらって、我々はそのままタクシーで「なんかん」に向う。この話をのんだくれに伝えると、ホテルで待って、一緒に「なんかん」に向うのはOK。但し、一緒に駐車場まで付いて行って、一緒に歩いて行こう、と。そうじゃないと乗せない、「なんかん」の前で先に我々だけを降ろすのは却下、とのこと。全く訳が分からん。理由は、駐車場から一人で「なんかん」に歩いていくのが寂しいから、とのこと。なんじゃ、それは。その理由に私もオヤジも唖然。

結局、我々はホテルからタクシーで「なんかん」に向った。ほんま訳分からん。のんだくれの訳の分からんこだわりは相変わらずだった。

しかし、今回の弾丸ツアーでは、我々の空港への出迎え、「ラーメン大将」へ付き合ってもらったり(おかげで肉チャーハンと肉味噌ラーメン両方食うことができた)など、のんだくれにはかなりお世話になった。感謝感謝である。



肉チャーハン



肉味噌ラーメン

学生時代に「ラーメン大将」にはよく通った。よく頼んでいたのは、肉チャーハンと肉味噌ラーメン。今回の札幌滞在時には、どうしてもこの2つを食べて帰りたかった。

札幌を出発する昼。「ラーメン大将」にのんだくれと「なんかん」ママさんが一緒に付き合ってくれた。実は、「ラーメン大将」の大将も「なんかん」の常連さん。事前に訪問を伝えたところ、特盛の特別バージョンを作って下さった。懐かしい味、うまい(余りの量の多さに最後は辛かったが・・・)。のんだくれとともに完食した。



 札幌青春プレイバック〜北大農化編〜



札幌ビール園」にて
札幌ビール園には、学生時代に1度しか来たことがないと思う。ジンギスカン、サッポロクラッシックの生ビールを十分楽しんだ。

植野の娘であるゆずかちゃん(写真中央)は、私と誕生日が同じである。一昨年、植野に、
「ゆずかちゃんの誕生日にトラッキーでも贈ろうか?」
と連絡すると、
「よろしくー。」
と。

おいおい、ちょっと待て。ゆずかちゃんが誕生日ってことは、わしも誕生日や。わしにもなんか贈らんかい!!


私は、学生時代、世界放浪などで色んな仲間と知り合って、今でも連絡を取り合っているが、中でも農芸化学科の仲間は一緒にいて楽なのである。しょっちゅう朝まで飲んだりしていたのもあって、プライベートな生活も学校生活も同じだった。そういうのもあって、一緒にいると非常に落ち着く。


今回は15年ぶりに会う連中もいたので、限られた時間、すぐに昔の雰囲気に戻れるように、意図的に始めから当時の乗りで飛ばした。

いやー、楽しかった。話し始めると昔に戻る。ほとんどが二次会、三次会と残ってくれた。

今回、札幌在住の同期を集めるに当たって各自と連絡を取っている時、正直、「忙しい中、我々のあほな企画のために申し訳ない。」と思った。しかし、反応は違った。来られない連中は残念がっており、参加者全員から、
「こういう機会を作ってくれてありがとう」
と。

疎遠になっていた関係が、これを機にうまく繋がればいい、お互い。


「魚や一丁」にて


「なんだかんだ」にて




北大病院近くの「ピカンティ」のスープカレー 
札幌のスープカレーが有名になったのは、私が卒業してからだいぶ後。今回、絶対食べようと思っていた。

北大近辺を散策していると、スープカレーの店の多さに驚いた。ラーメン屋よりもスープカレー屋の方がよく目に付いた。

結局、北大病院近くの「ピカンティ」で食べたのだが、ガイドブックを持った人々が行列を作っていた。カレーに比べるとボディ感はないが、こういったカレースープもサフランライスに合う。うまかった。ただ、もう少し体調がいい時に食いたかった。二日酔いで睡眠不足で・・・。完食がきつかった。

また、札幌と言えば、「サッポロクラッシック」の生ビールでしょう。ビール園で、ジンギスカンを食いながら飲みまくった。


「サッポロクラッシック」生ビール




久子さんと観覧車で




観覧車から見るすすきの交差点




観覧車から見るテレビ塔



久子さんは、私が礼文島時代の最終年に来て頂いたお客さん。普段もよく連絡を取り合うが、実際に久子さんに会ったのは今回が5度目。去年、今年も決行したが、札幌ドームでの阪神、日ハム戦観戦の際は、いつも自宅(平岸)に泊めて頂く。その時は、今回よりハードな札幌弾丸ツアー。

土曜日の昼過ぎ、札幌行きの飛行機に乗って、夕方新千歳空港に着いた後は、久子さん宅に荷物を置いて、そのまま札幌ドームに直行。試合後は、朝まで宴、翌日デーゲームを観戦、試合後はそのまま新千歳空港に向って、最終便で東京へ。で、自宅に着くのがAM1:00近くで、翌日出勤・・・(ほんま我ながらあほや)。

こんな感じで、久子さんと会う時はいつも慌ただしくしているので、今回、こうやって札幌でゆっくり飲んだのは初めて。狸小路で塩ホルモンをご馳走になった。




札幌駅南口




大通公園のビアガーデン




北31条西3丁目近辺



札幌駅南口は本当に変貌した。昔の面影が全くない。

札幌〜すすきの、及び北34条〜北18条近辺をゆっくりと散策したが、街自体きれいな建物が並び、すっかり小ぎれいになっていた。特に札幌駅周辺の開発は著しく、地上、地下街共に変わった(私的には悪い方向に・・・。きれいになりすぎ)。

昔住んでいた北31条西3丁目近辺も、当時からある家、建物はいくつも残っていたが、全体的にきれいになっていたし、コンビニが増えていた。私がいた貸間はすでになくなっており、新しいマンションが建っていた。裏にあった小さな公園は残っていたが・・・。

地下鉄南北線「北34条」の5番出口。夏はチャリかバイクで、冬の間は地下鉄で大学に通っていたのだが、この5番出口から改札口までの通路が長く、結構歩いた。今回、15年ぶりにこの通路を歩いたのだが、その通路の長さがなんか懐かしかった。当時、近くの札幌創成高校の学生何人かと知り合いだったのだが、朝の通学時間帯、この通路ですれ違って手を振ってもらっていたのを思い出した。

札幌駅近辺に比べると、北24条から北側は雰囲気は昔のままだが、建物は小ぎれいになっていたところが多かった。やっぱり、全体的に街がきれいになっている。今の学生で、我々が住んでいたような貸間で生活している連中は、どれだけいるのだろうか・・・?ほんま、変わったわ。




「つくしん坊」ママさんと

「つくし」には、教養時代の仲間とも通っていた。

ママさんは、昔のままで小柄で、今でもお人形さんみたいだった。何人も卒業生を送り出しているのに、私のこともよく覚えて頂いていたのには感激である。当時、ママさんによくネタを仕込んだのだが、今でもその話を覚えていた。

当時、「つくし」に向う頃は、二次会か三次会の深夜。夏場は夜が明けるのが早いので、店を出ると空が明るかったのを覚えている。

ママさん曰く、今の学生さんはすっかりおとなしくなり、我々の時代のように、明け方まで飲んでいる学生も減ったらしい。街もそうだが、学生もかなり小ぎれいになったからなあ。仕方ない、それが時代である。

そんなママさんも、3年後には店を閉める予定。
「もう疲れた。」
とおっしゃっていたが、寂しい限りである。閉店までには、また来ないと・・・。

そんなママさんの息子さんが大阪で居酒屋を始めたとのこと。やっぱり、遺伝子やね。
今度、行ってみる。


「なんだかんだ」ママさんと





「マスター、帰って来ましたよ!!」
今回の弾丸ツアーのもう一つの目的、そう、昨年亡くなった「なんかん」マスターに、無事我々が社会人になった報告と、ママさんに我々のスーツ姿を見せて、元気つけることであった。

我々が卒業して15年も経つのに、ママさんは我々のことを覚えて下さり、今でもたまに我々の話が出るとのこと。こんなうれしいことはない。当時の我々のエピソードもいくつも覚えていた。

特に大学3年時。私は、本当に「なんかん」によく通った。当時の常連メンバーは、のんだくれ、オヤジを含め数人。常に日本酒の1升瓶をキープし、深夜までよく飲んでいた(当然、飲んだ翌日の1限目の授業に出た記憶がない)。マスターとママさんには本当に可愛がって頂き、常連さんのみを集めたボーリング大会にも参加させて頂いた。

結局、残念ながら社会人になってからはマスターに会うことはできなかった。マスターは我々の学生時の汚い格好しか知らない。スーツ姿、見せたかったなあ・・・。

札幌を離れる直前、「ラーメン大将」で一緒にごはんを食べている時に、ママさんが、
「マスターが亡くなってからこんなに笑ったことはない。」
と。この言葉を聞いて、「今回来てよかった」と改めて思った。

札幌の街は変わった。大学も変わり、学生も変わった。
しかし、変わらないものもあった。それは一生変わらないだろう・・・。