11月11日(東京〜横浜)
「お客さんから見た礼文」
さあ、島抜け号、第3弾。ラストの東京、大阪間だ。仕事もしばらく休みをもらい、今日は昼近くまで寝て体調万全だ。少しラボに顔を出して、荷造りをして、午後4時に出発。東大の安田講堂と赤門の前で写真を撮り、今日は三島さんが住む横浜までだ。
三島さんと由紀ちゃんは8月12、13日と連泊してくれ、8時間コースも歩いた。一見、柄が悪そうでヤンキーみたいだが、ほんとに気持ちの優しいいい人たちだ。8時間コースの途中でお金がなくなり、元地からヒッチハイクしてうちの民宿まで帰ってきて、普通ならそれで終わりなんだが、ほんとにありがとうって気持ちがあったんやろう。車に乗せてくれた兄ちゃんが酒を好きなのを知って、酒でも買ってと言ってお金を渡していた。それに、由紀ちゃんは朝起きて洗面所で顔を洗う時に他のお客さんに対しても、大きな声で、
「おはようございます。」
と挨拶をしていた。こういう気遣いは今の若者ではなかなかでけへん。そういう訳で俺はこの2人のことは覚えていた。
俺は朝帰るお客さんには仕事が忙しくて見送ってあげられないが、昼間帰るお客さんに対しては自分の体調と時間が許す限りテープで見送ってあげることにしている。三島さんたちが帰る日は午後の便で帰るというのを聞いていたので、俺はどうしてもこの2人を見送ってあげたくなって、たまたま時間が空いたのでテープを持って見送ってあげた。そしたら、2人共すごく喜んでくれ、横浜の実家に戻ったらすぐに電話をくれ、今度横浜で会おうってことになった。そういうお客さんたちだ。
島抜け号は東大をスタートして本郷通りを南下し、やがて第一京浜に入った。もう横浜までなら庭みたいなものだ。しかし、今回は原チャだ。時間が読めん。だいたい横浜までは2時間ってとこか。
品川を越えた辺りからかなり寒くなってきて、川崎に着いた頃にはもうションベンがちびりそうだ。それに、かなりの交通量でかなり怖い。やがて、横浜をすぎ国道16号で関内に差し掛かったところでちょうど6時。予定通りだ。ここから三島さんがいる磯子まではすぐだが、なんせ寒くて死にそうだ。途中、たまらなくコンビニでションベンして、結局京急の屏風ヶ浦駅に着いたのは6時半。早速、三島さんに連絡すると由紀ちゃんが迎えに来てくれた。あっ、そうや。由紀ちゃんや。なんせ今年は1300人のお客さんの相手をしたんやから、顔までは覚えていない。しかし、印象に残っているお客さんを見ると思い出す。
やがて、三島家にお邪魔するとすごい御馳走や。三島さんも元気そうで、お好み焼き、焼きそば、もんじゃ焼き-----。全部三島さんが用意してくれたらしい。この前の内藤さん宅といい、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。俺は当たり前のようにお客さんと接してただけだ。それが俺の仕事なんやから。そんなに特定のお客さんだけに特別に接客した覚えはない。その代わりとして、お客さんには宿代をちゃんともらっている。そのお返しがこれだ。もうほんとに感謝の気持ちでいっぱいだ。
さあ、早速乾杯だ。うーん、セットレボーン。三島さんたちは今回の北海道の旅行中ずっとビデオを回していて、そのうちの礼文のビデオを俺に見せたいと言って見せてくれた。お客さんが撮ったビデオを見るのは6年間で初めてだ。実際見てみるとなんか恥ずかしい。なんや俺一生懸命仕事してるし、一生懸命説明してるやん。うあ、恥ずかしい。大将は照れまくっている。でも、お客さんから見るはまなすはこんなもんなんや。すごく新鮮でええ。お客さんから見る俺の見送り方はあんな感じなんや。うーん。すごく勉強になった。
それから、しばらくの間3人で色んな話をし、三島さんたちもまた礼文に行きたいから俺にいてくれと言ってくれた。ほんと民宿で接客をしていて、こういったコメントが一番うれしい。俺の立場からは三島さんと由紀ちゃんは今年の場合は1300分の2にすぎないが、お客さんからは常に1対1だ。そう考えると、俺もいい加減な対応はでけへんな。うーん。色々勉強になった。やっぱり、明日静岡から来てくれたお客さんの橘さんに会いに行こう。確か三島さんたちと橘さん御一行は同じ日に泊まったはず。突然で申し訳ないが連絡してみよう。
途中、三島さんのご両親も帰って来られたが、2人共すぐに部屋に戻られ、さあ俺らも寝ようかって時に三島さんはワインを1本あけてくれた。これは飲まな。三島さんと由紀ちゃんが寝た後、俺は1人でワインをあけ、気づいたらもう3時や。寝よ。
11月12日(横浜〜静岡)
「バスタオル姿で登場」
朝7時に目が覚めた。しもた、酒が残っている。それに、眠い。やべぇ。今日はどこまで行けるか見当がつかん。箱根以降は俺の愛車(DT200R)でも実際に走ったことがない道だ。とりあえず、橘さんと連絡がついたら静岡までがんばろう。朝、由紀ちゃんは俺のためにおにぎりを握ってくれ、
「加藤君、由紀が作った特大のおにぎり。途中で食べてね。」
と言って渡してくれた。昨日は三島さんが弁当にと特大のお好み焼きを焼いてくれた。もう涙もんだ。それに、由紀ちゃんは朝飯も作ってくれた。もう至れり尽くせりだ。
さあ、出発。ここから国道1号に出るのがややこしいらしく、三島さんが途中までナビしてくれた。お手数かけます。三島さんに原宿交差点まで来てもらって、また東京に帰ったら会おうと言って別れた。ほんとにありがとうございました。
原宿は相変わらずの渋滞だ。だいたい箱根午後1時と読んで国道1号を箱根に向かった。箱根には2年前に一度だけ行ったきりだ。しかし、藤沢までは結構巡回で来る。途中の小田原で橘さんに連絡すると、快くOKしてくれた。他のメンバーにも連絡してくれるらしい。いや、突然ですいません。静岡までがんばります。
やがて、小田原を抜けて箱根湯元を通り過ぎるとヘアピンカーブが俺を待っていた。俺はこういうコースは燃える。アウトからインへ。原チャでもなかなか様になってるで。でも、ようこんな坂を箱根駅伝で走るな。それにしても、箱根の紅葉はまだ早い。支笏湖に比べたらまだまだや。
それから、だいたい予定通り芦ノ湖に着いた。さあ、めしだ。とりあえず、三島さん作のお好み焼きを食おう。うーん、うまい。俺は芦ノ湖を見ながらお好み焼きを食べ、三島さんの顔を思い浮かべながら涙を流してた。それにしても、やっぱり箱根という観光地だけあってここに来る人は観光慣れしているのか。礼文のことを知っている人が多い。何人かの人に、
「へぇ、礼文から来たの。今度はいつ帰るの。」
と聞かれる。みんなびっくりしていた。
さあ、めしも食って目指すは静岡だ。ここからはバイクで走ったことのない世界だ。国道1号を尽き走り、やがて俺の前に
それから、ちんたら走っているとバイパスが現れた。おお、バイパスって原チャOKなんや。しかし、歩行者がいない分車は飛ばしまくってる。怖ぇ。俺は祈るのみだ。なんで原チャなんかで来たんや。始めて我を恨んだ。
やがて、沼津に入った。ここは去年イベントで来たとこや。でも、今回は軽く素通りすると目の前に富士山が。富士山の頂き近辺を俺はネパールでは歩いてたんや。しかし、残念なことに今日はガスが掛かっている。悔しい。富士山はじっくり拝みたかった。
それからしばらくすると、清水市に入った。サッカーの町だ。左手には海が見える。俺は海を見ると落ち着く。長渕の「JEEP」の世界だ。海はやっぱりええ。ちょうど夕暮れ時で夕日もグッド。
やがて、夕日が沈むとまたあの寒さ。とにかく湯。湯が欲しい。途中で、バイパスが有料になり、原チャ禁止ゾーンに差し掛かったので下に降り、しばらくするともう鼻水垂れ流し状態で地元の人に銭湯を聞いた。実は、この辺りはもう
それから、橘さんと連絡を取り、近くの公園で待ち合わせることにした。おお、ものすごくおしゃれな公園だ。今日はここで寝るか。
しばらくして、橘さん御一行のうちの1人、ナナさんが迎えに来てくれた。そうや、この顔や。やっぱり、会うと思い出すもんや。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。突然連絡してほんまはなんか予定があったんちゃうかな。でも、ナナさんはすごく感激してくれて、俺が11月に静岡に来ることを覚えていてくれた。やっぱり、お客さんからは1対1だ。2日前に四谷で弘子さんの会社を訪れた時も、
「忘れた頃に来るんじゃないの。もっと早く来なさい。」
と怒られた。待っていると言ってくれたお客さんはほんと待っていてくれる。うれしいもんだ。
ナナさんと橘さんの家に行こうということになったが、その前に俺は静岡駅でこの島抜け号とのツーショットがある。途中のそば屋でナナさんと待ち合わせることにし、俺は駅へ向かった。俺は静岡をなめていた。こんなbig city とは。こんなに都会とは。俺は静岡と言えば熱海、沼津、焼津しか知らん。さすが県庁所在地だ。
それから、待ち合わせ場所の途中まで全然知らん兄ちゃんがナビしてくれ、ナナさんといざ橘家へ。その前に三島さんに言われていた通り、無事静岡に着いたことを報告した。そして、橘家にお邪魔するとそうやそうや。橘さんや。またまた思い出した。うれしいことにシチューを用意してくれている。正直、俺はさっき由紀ちゃんお手製の特大おにぎりを食ったばかりなので腹がいっぱいやったが、これは食わな。うーん、うまい。やっぱり、人が作ってくれるもんはうまい。それから、御一行さんの3人目のエバさんが来られた。そうや、エバさんや。これで全員集合。
橘さん御一行が来られたのは三島さんたちが来られた同じ日か次の日の朝。この日はちょうどお盆に差し掛かっていて、浩一のおかんの知り合いも来たし、東大の後藤さんの息子さんも来た日で結構忙しかった。確か1便で来られ、橘さんは礼文の寒さをなめていてバスタオルを巻いて船から下りてきた。俺はその日どういったコースを薦めたかは覚えてないが、夜3人と大将と俺で飲んだのは覚えているがどんな話をしたんかは覚えていない。なんせ毎晩のようにお客さんと飲んだりしていたから。ひょっとしたら今日も俺はこの前と同じ話をしてたんちゃうかな。それに、俺は皆さんよりも年下なのに、皆さんは俺のくだらん話を聞いてくれている。それに、突然電話して集まってもらったのにだ。俺はほんまに恵まれた人間だ。こんなけ人に温かくされるとなんかお返しをしないと。
実は、ナナさんは今度北海道のスキー場で住み込みで働きたいようで、社会的にはナナさんの方が先輩だが住み込みは俺の方が先輩だ。よし、俺ができることならなんでも力になってあげよう。はっきり言って住み込みはほんとにつらい。プライベートも仕事も一緒に仲間と過ごす。当然、その中には合わない人もいる。そういう人間関係の中でいかに自分をコントロールできるか。しかし、ナナさんなら大丈夫だ。ナナさんの目はほんと子供のような純粋な目をしている。こういう人は人に好かれる。間違いない。是非がんばって欲しい。
それから、島抜け号と皆さんとの記念撮影。やがて、俺が公園に向かおうとすると雨が降ってきた。実は、始めから橘さんは今日は泊まっていきなと言ってくれたが、突然ぬけぬけと来た人間が女性の一人暮らしのアパートに泊まるのはあかん。しかし、雨が一段と強くなってきた。それに、今日はナナさんもここに泊まるみたいだ。すいません、そしたら車を貸して下さい。今日は車の中で寝ることにした。
11月13日(静岡〜菊川)
「寂しがり屋のヘルパー」
目が覚めたら朝7時。今日は菊川の真紀ちゃんに会わねば。橘さんも俺のためにおにぎりを握ってくれた。これは申し訳ない。昨日由紀ちゃんの話をしたから俺が無理に作らせようなもんだ。ほんとすいません。
橘さんたちとは今度また会おうということで別れた。ほんとありがとうございました。今日はまず最初に登呂遺跡に寄ろう。昨日この近辺に登呂遺跡があるのを知った。登呂遺跡は社会の教科書で見ただけだ。早速、俺は向かった。
おお、これが登呂遺跡か。今の農業の原点だ。弥生時代に大陸から稲作文化が日本に伝播し、日本にも米を作るという習慣が生まれた。元々弥生時代の「弥生」は東大農学部がある「弥生」で見つかったことから付いた名前だ。稲作が始まったことがやがて個人の能力の差を作り出し、それが貧富の差となって今までの平等社会から現在の民主主義の原点を生み出した。登呂遺跡を見学しながらこんなことを考えるなんて、俺って結構ロマンチックやん。
登呂遺跡で橘さんが握ってくれたおにぎりを食った。うーん。また涙を流した。それと、せっかくやから安倍川餅だ。俺は近くの和菓子屋で安倍川餅を頂き、そこのおばさんに安倍川餅の特徴を聞くと、どうやらこの黄粉の原料の大豆がこの近辺で採れるようだ。そしたらその大豆が特別なんかと聞くと、そこまではわからんと。そう考えると安倍川以外で食う安倍川餅は偽物か。まあ、この土地や気候にマッチした大豆なんやろう。
それから、国道150号で焼津に向かったが、この旅最大の危機。長いトンネルだ。全長5kmはある。始めは渋滞で、そうすると俺のメットはフルフェイスじゃないからものすごい排気ガスだ。気分が悪い。それから少しして、車が動き始めると後ろのダンプが俺をあおる。怖ぇ。俺はマジで祈った。
やがて、焼津に入り海とご対面だ。去年ここでハーフを走った。俺は無性に海を見てたそがれる俺のもの寂しげな後ろ姿をカメラに納めたくなってカメラ屋を探した。すると、駅から少し行ったところにカメラ屋があって、俺はおばちゃんに三脚が欲しいと言うと、おばちゃんは探しまくってくれ、ミニチュア三脚を出してくれた。俺はそれでいいと言ってしばらく礼文の話をしていると、なんとおばちゃんも高山植物に興味があるらしい。俺はおばちゃんと仲良くなって、3000円もする三脚を500円にしてくれた。一割引なら分かるが2500円も負けてくれた。おばちゃん、ありがとう。
そして、いざ焼津港へ。そやそや、去年ここ走ったわ。早速、俺はたそがれる俺のアングルを探し、タイマーをセット。うーん。石原裕次郎の気分で、海の男って感じだ。
それから、橘さんに教えてもらった御前崎に向かった。おお、目の前は海のみ。室蘭の地球岬みたいだ。俺はまたたそがれた。今日は石原裕次郎day だ。
その後、しばらく海岸沿いで眠ってしまい、1時間ぐらいして気づいたら寒い。これは湯がいる。すると、目の前に日帰り入浴ができるホテルがある。しかし、1500円だ。まあ、せっかくやからたまには贅沢しよう。それが結果的には正解だ。風呂場に行くと、おお。眼下には一面の海。その上、客は俺だけ。俺は素っ裸で仁王立ち。まるで天下を取った豊臣秀吉の気分だ。湯加減もグッド。久々のマハラジャ気分だ。
その後、ここのおばちゃんと感じのいい団らんをし、おばちゃんに礼文から来たと言うとすごく感激してくれ、
「好きなだけ麦茶を飲んで行きなさい。」
と言って麦茶を用意してくれた。なんや静岡の人はいい人ばっかりやん。そして、ロビーで橘さんにもらったおにぎりをほおばる。うーん、最高。
さあ、次は菊川だ。俺は農道らしきところを通って菊川に入った。途中、周りは茶畑だらけだ。さすがお茶の町だ。きれいに整備されている。
やがて、予定より早く菊川駅に着いた。しばらく休憩してから真紀ちゃんに電話すると話し中。30分ぐらいしても話し中。あれ、どうしたんやろう。とりあえず、真紀ちゃんの住所を頼りにして近くのローソンに行き、そこから電話しても話し中。怖ろしい。女の長電話。俺は真紀ちゃんのいるマンションを探して訪ねると、やっぱり電話してたらしい。
真紀ちゃんは俺が帰るまで民宿に残ってくれてがんばってくれたヘルパーだ。確かに不器用なところもあって、皿は一番よく割ったし、接客はダメやし、朝はよう起きんし。しかし、今年のうちの女の子の中で一番仕事をしてくれた子だ。俺はつくづく思うのだが、この6年間他の民宿も含めて色んなヘルパーを見てきたけど、年々ヘルパーの質が落ちている。どこの民宿の人もそう言ってて、ある民宿の経営者なんて、
「仕事ができる子はここまで来ないよ。」
とまで言っていた。特に、女の子のヘルパーはどの民宿もひどいようだ。今年はうちの民宿もひどかった。何度俺は切れかかったか。俺は滅多に怒らないが真紀ちゃんにも一度怒った。しかし、1人になるとしっかりやってくれた。おかげで漁の時なんか助かった。
寂しがり屋の真紀ちゃんはすごく喜んでくれた。当然、俺はビールを差し入れした。礼文ではよくみんなとビールを飲んだ。ほんまは腹一杯めしを食わせてやろうかと思ったが、時間的にもう遅い。真紀ちゃんは一人暮らしを始めたばかりなので金に困っているやろう。まだ俺の方が裕福だ。その代わりパンとかお菓子とかも差し入れしてあげた。せっかく久しぶりやから他のヘルパーの近況なんかも聞こうとしたが、そうやった。真紀ちゃんはビールを飲んだら眠くなるんや。どうぞ休んで下さい。その後、俺もかなり疲れているせいか、知らん間に眠ってしまった。
11月14日(菊川〜名古屋)
「名古屋在住の北大農化時代の仲間」
さあ、今日は名古屋まで。朝、真紀ちゃんがお茶を入れてくれたが、これがまたうまい。やっぱり静岡だ。普通のやぶきたやのにうまい。俺は3杯も飲んだ。よし、浜名湖で買って行こう。
それから、真紀ちゃんとお別れをし、掛川から久々に国道1号に戻った。やっぱり、交通量がすごい。今日は朝から雨がぱらぱら。なんとか名古屋までもってくれ。
しばらくすると磐田。おお、ジュビロのフランチャイズでは。思えば、札幌ではコンサドーレ、鹿嶋ではアントラーズ、川崎ではヴェルディ、横浜はマリノスにフリューゲルス、平塚はベルマーレ、清水ではエスパルス。そしてジュビロ。すげぇ。
やがて、浜松を過ぎて浜名湖に着いた。おお、思ったよりもでかい。早速、俺はたそがれる。そして、みやげ物屋でお茶を買おうとしたがもうシーズンオフだ。やってない。俺はもう少し行けばあるやろうと思い、バイクを走らせると
豊橋に入ると、さすが愛知県は交通事故死ワースト3だ。気を引き締めなあかん。それにしてもすごい交通量だ。それに、さすが愛知県だけあってサークルKだらけだ。なぜかCoCoカレーやマクドも多い。しかし、愛知と言えば味噌カツに味噌煮込みだ。両方とも絶対食うぞ。
やがて、音羽を過ぎた辺りから雨が本降りになってきた。もう寒くて、寒くて。震えが止まらんし、鼻水は垂れ流し状態。岡崎に差し掛かった頃にはかなり強くなってきた。岡崎と言えば家康様。そんなに私が憎いのですか、家康様。とにかく休みたい。おお、目の前にうどん屋がある。俺は迷わず止まって味噌煮込み定食を注文する。うーん、うみゃあ。やっぱりこれだ。身体が温まる。
ここで少し雨を止むのを待ったが止みそうもない。しゃあない、行くか。横を通り過ぎるトラックの水しぶき。すげぇ怖い。怖すぎる。途中、トラックが民家に突入してその周りは大渋滞。やっぱり、交通事故死ワースト3だ。とにかく、湯。湯につかりてぇ。おお、長島温泉という看板が。よっしゃ。なに、55km。なんじゃそりゃ。こんな所にややこしい看板を立てるな、どあほ。俺は5.5kmかと思ったやないか。
それから、安城を抜けて知立に入ると「スーパー銭湯朝日乃湯」。俺は迷わず入った。うーん、生き返った。今日は愛ちゃんと午後6時に会う予定でまだ少し時間がある。ちょっとここでくつろいでいくか。すると俺のPHSに電話が。
「もしもし、たま美です。今日暇?」
「今、名古屋の近くです。」
たま美さんは爆笑してた。原チャで来てるとつけ加えるとさらに爆笑してた。また東京に帰ってからお会いしましょう。
さあ、出発や。外はもうすっかり暗くなっている。東大の山口さんの故郷
愛ちゃんは北大の農化の同期で、名古屋大学大学院に進学したのだが、途中で名工大に編入して、現在設計の勉強をしている。なかなかパワフルな子で、よくバレーボールやハンドボールをした。愛ちゃんにも数日前に急きょ連絡したのに、喜んで時間をあけてくれた。それと、突然明日までに製図の提出になったようで、そんなんやったら無理せんでもよかったのに。愛ちゃんのラボの教授も北大出身らしく、ラボの皆さんも歓迎してくれた。ありがとうございます。俺は工学系のラボに初めて入ったので、なんかすごく新鮮だ。ラボの皆さんも良さそうな人々だ。
このラボでは愛ちゃんの個性はかなり強いみたいで、同じ北大生が来るっていうので皆さん興味津々やったらしい。俺が今までの道中のこととか東南アジアの旅行のこととかを話すると皆さんは爆笑してた。
「あなた、何者?」
って感じだ。そんなにおもろい話ちゃうのにな。
それから、愛ちゃんと味噌カツを食いに行った。うみゃあ。やっぱり、名古屋は味噌カツや。その後しばらくは、愛ちゃんとお互いの近況や農化のみんなの話などをして、やがて地図を見せてもらって四日市と大津の位置関係を確認した。地図買えって言うのに。愛ちゃんは、うち来るって言ってくれたが、これから課題を仕上げなあかんやろう。俺はここを出るよって言うとほんと申し訳なさそうに、ある部屋で寝てくれと。ほんとはうちに招待したかったらしいが、急きょ課題が。そんなめっそうもない。俺は駅に行くつもりやったが、外は雨。分かりました。愛ちゃんのお言葉に甘えさせて頂きます。ですから課題がんばって下さい。がんばれ、愛ちゃん。
11月15日(名古屋〜大津)
「親族一同様、ご無沙汰してます」
さあ、今日は大津まで。そもそも、今回の「島抜け号、第3弾」は今日という日のために逆算して東京を出た。というのは、うちのおかん方の柏家の親族が今日大津で集まる。元々柏家は
朝、愛ちゃんと少しお話をして、いざ出発。とその時、先生がいいタイミングで来られた。先生にも再度お礼を言い、愛ちゃんにもお礼を言って名工大を後にした。まずは四日市までだ。しかし、地図で方向は確認させてもらったが、国道1号まではこっちでええんか。とりあえず、なんとか国道1号に入り西へ向かう。おお、これが木曽川か。でけぇ。静岡では大井川、天竜川と渡ってきたが、比べもんにならんぐらいでかい。やがて、木曽川を過ぎると
その後は、長良川、揖斐川。濃尾平野輪中地帯だ。それにしても、静岡、愛知は社会の教科書に出てくるところが多い。
それから、桑名を越えて四日市。こんなことを言うと三重の人に大変申し訳ないが、三重はよく近畿か中部かと問題になるが、やっぱり三重は中部や。こんなに名古屋から近いんやから中部や。近畿にはいらん。
やがて、途中の亀山で昼食タイム。そうや、うどんや。うーん、関西風や。ちなみに、三重の人は関西弁をしゃべっている。箱根を越えると地元の人は静岡弁やった。静岡弁と名古屋弁の境界は同じようなイントネーションやったのでわからんかった。名古屋弁と関西弁の境界はどこやったんやろう。くそ、くやしい。調べとけばよかった。
そして、鈴鹿山脈を抜けるとそこは滋賀県。ついに近畿まで来たか。ここまで交通量も少なく順調やった。よし、もう一息。それから、トレーニングセンターのある栗東を越え、草津を過ぎて、ついに大津に入った。まだ夕方までは少し時間があるので、ちょっと休憩をしよう。
1時間ぐらい休憩して、やがて琵琶湖のほとりを北上し、ちょっと迷って雄琴で左折して今日の宿に着いた。俺が着いた頃にちょうどみんなも来たところだ。
「皆さん、お久しぶりです。」
うちの家族とも再会。みんな俺の島抜け号を見てびっくりしてた。そうですよ、
しばらくすると、宴会が始まった。やがて、それぞれの家族の紹介ってことになって、加藤家は俺がやるはめに。おいおい、帰ってへんからうちの人間が今なにやってるか知るわけないやろう。俺が知りたいわ。
その後、おじさんたちからもお呼びがかかる。おい、今日の主役はお婆ちゃんや。俺じゃないの。でも、お婆ちゃんの兄弟5 人はみんなまだまだ元気だ。これは非常にすばらしいこと。やっぱり、人間健康が一番。お婆ちゃんは健康の方はいいんやが、どうも精神面が衰えているらしい。お婆ちゃん、俺は当分まだバカなことをし続けます。そういう俺のくだらん話をお婆ちゃんはいつも楽しみに待っていてくれますね。これからしばらくの間、俺は自分なりにがんばりますので、もし俺のそういう話がお婆ちゃんの生活の糧になるなら俺は本望です。これからもこんなどうしようもない孫を温かく見守って下さい。ほんとに喜寿おめでとうございます。
11月16日(大津〜堅田)
「大学1年生へタイムスリップ」
今日は堅田に寄り道。元木こと中川君に会いに行く。元木は北大ハンドボールの仲間で俺は途中でやめたのだが、つい先日ばったり新宿で再会。元木とはその時少し話をしただけで、俺が今度大津に行くと言ったら、是非堅田に寄ってお前のハンドをやめてからの話を聞かせてくれと俺に言った。ほんとに偶然だ。こういう出会いは、神様がこれからの俺の人生で元木は必要な人間だと教えてくれたようなもんだ。是非、会いに行こう。
その前にみんなで比叡山に行こうってことになった。問題はドライブウェイだ。果たして、原チャは通れるのか。俺はおかんから近畿の地図をもらって、後で行くと言って琵琶湖のほとりをちんたら走っていたが、どこが入口なんかわからん。結局、1時間ぐらい走ったか。もう悔しくて、絶対行ってやろうと決めた。
やがて、比叡山という標識が見えて山を登っていくとガーン。やっぱり、原チャは進入禁止だ。こんなオチありか。この旅始まって以来の絶望感。俺は比叡山を恨んだ。車ばっかり優遇しやがって。
それから、少し琵琶湖のほとりでたそがれて、ちょっと早いが元木と連絡を取って堅田駅前で待ち合わせた。元木は昔と全然変わってへん。ちなみに、元木のバイクはvorty 250cc だ。かっこええやないか。わしのは原チャやで。元木と一緒に吉野屋で牛丼を食って、東洋紡の寮に行った。
やがて、舞鶴から白井も来てくれ、昔のハンドのメンバーが3人集まったところで、白井の京都ナンバーの車、元木の滋賀ナンバーのバイク、それに俺の
こうやってこの2人と飲むのは大学2年の春期リーグの打ち上げで北見で飲んで以来や。しかし、大学1年のあのつらかった時期を一緒にがんばった仲間だ。合宿でのあの意味のないモーニングパスにシュートノック。あの時のつらさは忘れんし、今の俺の精神力の支えになっている。あれ以上につらいもんはなかなかないぞ。改めて白井や元木と話すと楽しい。北大の農化の仲間といい、教養の仲間といい、北大の友達と飲むとやっぱり楽しい。俺も気分的にのっている。高校の友達や東大の友達とはどこか違う。なんか懐かしい。うーん、いいな。
それから、元木の部屋に戻って庄子さんに電話だ。庄子さんは小樽商科大学のハンドのマネージャーで今年礼文に客として来てくれ、この前札幌で会って今日みんなと会う時に連絡するよと言ってある。早速、電話すると庄子さんはすごく喜んでくれた。庄子さんはほんまに感じのいいええ子や。これを機会に白井や元木や他のハンドのメンバーともコンタクトを取り合って下さい。
やがて、白井は舞鶴に戻ってその後は元木と2人で色んな話をした。うーん、元木にも色々あるんやな。俺ができることなら力になるよ。なんでも言ってくれ、元木。いつでもいいよ。
その後、元木と久しぶりに風呂に入った。合宿とか遠征先ではよくみんなと入ったもんだ。それはそうと、今日はサッカーのワールドカップのイラン戦があるでは。おお、岡野。日本がついにフランスに行ける。うれしい。思えば、4年前のドーハのイラク戦。ようがんばったぞ日本。俺は感動してションベンしに行くと、外は雨。ああ、ブルーになった。
11月17日(堅田〜八幡)
「1本の缶コーヒーの思い出」
起きたら外はすごい雨。名古屋を思い出す。元木は雨が止むまでここにいていいよと言ってくれた。俺は少しその言葉に甘えることにした。当初の予定では、今日はまず京都にいるネパールで知り合ったラクシミさんに会いに行くつもりだったが、どうも出かけてて火曜日まで帰ってこないらしい。残念や。しかし、リニューアルした京都駅には行くつもりだ。
外はすごい雨。俺は元木を見送り、その時に元木は俺に向かって一言。
「気つけてな。お前に会えてよかった。」
俺もそうや、元木。仕事がんばれよ。また会おう。
その後、どうも雨が止みそうにないので出発することにした。
雨の中、国道161号を大津方面に走る。すごい水しぶきだ。途中、サークルKに寄って大津から国道1号に入り、しばらく行くと、えー。いつ京都に入ったんや。ついに京都まで来た。そして、京阪五条を過ぎ
それから、また国道1号に戻りようやく宇治川を越えた。しかし、今日は2度死ぬ目にあった。一つは、俺が直進しようとすると車が後方確認をせず左折してきた。俺は車に巻き込まれてマジでやばいと思った。とっさに俺は左側によけてなんとかクリアして運転手を思いっきりにらんでやったが、運転手は謝りもせず逃げて行きやがった。
もう一つは、反対車線の車が俺を確認せず右折してきた。運転手は携帯電話で話し中だ。俺はマジで切れてバイクを降りたが、またもや逃走。おい、関西人。マナーが悪すぎるぞ。
やがて、
早速、お婆ちゃんは昼飯を作ってくれた。うーん。お婆ちゃんが作ってくれる味噌汁はいつもこの味や。うまい。俺はかなり疲れがたまっていたせいか、夕方少し眠ってしまった。今日は礼文のお客さんの森田さんと会う。その前に少し休んだ。
今日の晩飯は鉄板焼だ。俺も少し野菜を切る。野菜切りは礼文で手慣れたものだ。お爺ちゃんは俺のためにビールを買ってきてくれた。うれしいが今から原チャに乗って人に会いに行かなあかん。でも、お婆ちゃんは、
「1本ぐらい飲んで行きいよ。」
と。そやな。それから、いつものように3人で話をした。お爺ちゃんもお婆ちゃんもすごく喜んでいた。俺もうれしい。
さあ、森田さんに会いに行こう。お婆ちゃんはお土産にみかんを渡してくれた。早速、森田さんの住む
やがて、木津川を越えて右折して
森田さんはお盆の終わりぐらいに1人で礼文に来られた。ちょうど忙しい時期だ。四谷の弘子さんたちも同じ日に来られ、こっちも忙しかったのと疲労がたまっていたのもあって少しいらいらしていて、大将と俺と森田さんの3人で夜ロビーで話をしてて、俺と大将は森田さんに向かって少しわがままな客だと言ってしまった。正直、その日泊まっていたお客さんの中で森田さんの要求が一番多かったのは事実だ。しかし、客商売をしている側が自分たちにゆとりがなくてこんなことを言うなんて最低だ。実は、8月末にも同じようなことがあって俺は後々反省した。
森田さんが帰る日に、俺がいつものように港で旗持ちをしていると、森田さんは俺のところにやって来て缶コーヒーを差し入れしてくれた。そして、森田さんは俺に向かって、
「もし大阪に帰るようなことがあったら、私が行きつけの新地の飲み屋に一緒に行きましょう。」
と言ってくれ、その時の森田さんの目がなんか寂しそうだったのを俺は覚えていて印象に残っていた。それで、突然ではあるが2日前に連絡した。
森田さんには大変申し訳ないことをした。お忙しい中急に呼び出してすいません。俺はそんな気持ちで一杯だ。しかし、森田さんはバイクを見て感激してくれた。それも、仕事でお忙しい中急に呼び出したのにだ。ほんとすいません。
それから、森田さんと2時間ぐらいお話をして、写真を撮って別れた。今度もしおれが日本を出る前にこっちに帰ってきたら必ず連絡します。是非、森田さんと撮った写真も入ったこのアルバムを見せてあげたい。
さあ、寒い中八幡に戻る。かなり冷える。そして、お婆ちゃん宅に戻ると、俺はお婆ちゃんに、
「せっかくお爺ちゃんが買ってきてくれたビールやから帰って飲むからおいといて。」
と言っていたせいか、気遣ってビールをテーブルの上に置いといてくれた。お婆ちゃん、気持ちはうれしい。でも、ビールは冷えた方がうまいやろ。ものすごいぬるいやんか。俺は冷えたビールを冷蔵庫から取り出し、それをあけて飲んだ。
11月18日(八幡〜羽曳野)
「1冊のアルバム」
さあ、ほんとにfinal day 。京都、大阪間だ。朝、お婆ちゃんが作ってくれためしを食っていざ出発。寒い。寒すぎる。国道1号を南下し、しばらくすると
それから、守口を過ぎて
やがて、京橋を過ぎた。ほんまは京橋にお勤めの渥美さんたちとも会いたかったが、今日から出張らしい。もっと早く連絡くれと怒られた。このおっちゃんたちと今日会う置田さんと俺の5人で一度礼文の飲み屋で飲んだ。7月の半ばぐらいだ。俺が旗持ちをしていると渥美さんたちがスーツ姿で船から下りて来られ、俺は旗持ちをしててびっくりした。スーツ姿で来たお客さんは初めてや。どうやら、出張帰りらしい。俺は思わず、
「なんやのん、スーツなんかで来て。」
と何気なく言った一言とその時の俺の接客が渥美さんたちには印象的やったみたいで、その日の夜に港のスナックから民宿に電話があり俺が呼ばれた。その時、たまたま1人で来ていた置田さんも誘ってあげた。そして、今度は大阪で飲もうってことになった。しかし、そう簡単にはいかん。みんな忙しいのだから。渥美さんも残念がっていた。しゃあない。また会いましょう。
それからしばらくして、ついに大阪駅に着いた。やったで。とりあえず、ションベンや。うーん、やっとここまで来たか。長かった道のり。色んなことが頭をよぎる。よし、次は難波や。ここから難波まではすぐや。
早速、御堂筋を南下し、まずは戎橋でツーショット。それから、高島屋で働いている置田さんと難波の駅前で待ち合わせた。置田さんは、渥美さんたちと同じ日に来られ、
「酔っぱらった。」
と言いながら、船を下りて俺のところに来た。もろ大阪弁のけったいなねえちゃんやなと俺は思った。なんやこのねえちゃんはって感じだ。確か、置田さんは予約なしで案内からの紹介で来て連泊したはずだ。
そやそや、置田さんや。今日は売場から抜け出してきたのでちゃんと制服を着ている。礼文とは印象が違う。なかなか大人っぽいやん。しかし、しゃべってみるとべたべたの大阪のねえちゃんや。最後のお客さんである置田さんとも写真を撮る。うーん、感無量だ。置田さんとは夜8時にロケット広場待ち合わせということで、いざ俺の故郷、羽曳野へ向かった。
さらに御堂筋を南下し、しばらくすると阿倍野に着いた。ここからは庭だ。とりあえず、国道309号で帰るか。国道309号に入ってしばらくすると喜連瓜破。おお、阿部の家の近くや。ようこの辺までチャリで来たもんや。一度、阿部の家で麻雀してて、途中俺と阿部が抜け出して野上とか呼び出して、チャリで難波まで行って金龍のラーメン食ったことがあったな。あれは高2の時か。懐かしい道だ。みんなどうしてるやろう。
それから、松原に入り、ついでや。我が母校、生野高校に寄って行こう。ここに来るのは7年ぶりか。よく考えたら俺の母校である北海道大学、東京大学、そして生野高校と1台の同じ原チャで訪れたことになる。すごいな。
そして、ローソンで左折して懐かしの生野高校に着いた。そやそや、この体操服や。懐かしい。加藤学青春グラフティーだ。それにしても、周りはきれいになったな。確か数年前に創立100周年とか。ついでやから通学路で帰ろう。
ほんまに懐かしい気持ちで一杯だ。あの頃はよく遅刻をしたものだ。この通学路が長くて、必死でチャリをこいでいた。それに、雨の日は大変やった。それと、部活が終わった後の家に帰るまでのつらいこと。しかし、あの長く感じた通学路が今や近く感じる。こんなけの距離を走って来たんやもんな。
さあ、ついに羽曳野に入った。よし、坂口石油でガスを入れていこう。やがて、サンエブリーを右折して、ついにゴール。よっしゃあ。感動のゴール。ありゃ、誰もいてへんがな。まあ、オチもこんなもんや。とりあえず、フィルムが余ったので、俺は焼津で買った三脚を使っての記念撮影。ああ、恥ずかし。これを現像して、今晩置田さんに見せてあげよう。
しばらくして、藤井寺のカメラ屋にフィルムを持って行き、やがておかんが帰ってきて俺は風呂につかって少し休んだ。かなり疲れている。特に今日は寒かったし、大阪というのがあって今まで以上にバイクに乗ってる間は気が張っていた。疲労のピークだ。それに、明後日からは東京でまた仕事だ。家に着くと正直ゆっくりしたくなった。しかし、置田さんと会わねば。
難波に行く前に、藤井寺のカメラ屋に写真を取りに行って、その写真を電車の中でアルバムに入れていき、出来上がりを見るとこれはすごい。写真に写っている人同士は赤の他人やのに、俺を通じて、俺の原チャを通じて一つに結ばれている。始めに会った稚内勇知の大介と今日会う置田さんとの接点はないはずだが、俺の原チャを通して1冊のアルバムの中にいる。それに、羽幌の吉里吉里でもらった
それから、ロケット広場で置田さんと待ち合わせた。置田さんもすごく喜んでくれ、
「私が最後なんて光栄。」
と。今度は渥美さんたちと森田さんも交えて飲もうという話をした。もし時間があれば、いや是非そうしたい。お互い俺とは接点があるが、全く赤の他人のお客さん同士が俺という接点で知り合ってこれからも付き合っていってくれれば俺もうれしい。せっかく礼文というさいはてで知り合った人たちだ。これからも大事にしたい。
やがて、終電近くなったので帰ることにした。置田さん、忙しい中ありがとうございました。
これで、finish 。思えば、北海道で世話になった伊達のお父さんやお母さん、今回会うことはできなかったが富良野麓郷の藤林商店の芳子おばさんから先日羽曳野にバレイショが届いた。こういう贈り物はほんとうれしい。原チャが作ってくれた新たな絆だ。浜田省吾の歌に、
「人と人との出会う確率は不思議なものだ。さらに、その出会った人を恋するなんてほんと魔法みたいなものだ。」
と言う意味のフレーズがある。特に、今回訪ねたお客さんたちは礼文というさいはてで出会った人たちだ。この出会いをいつまでも大切にしたい。
最後に、お疲れ様、島抜け号。あなたを通して、学生時代の友人との絆、礼文島というさいはての島で知り合った人々との切れかかった絆を改めて繋ぎ合わせることができました。ほんとに感謝してます。俺の人生の中で忘れられない秋となるでしょう。温かい空気に触れた24歳の秋。忘れられない24歳の秋。皆さん、また会いましょう。それと、全国のドライバーの皆さん。ご迷惑おかけしました。すいません。
P.S.
妹よ。これだけ気持ちのこもったバイクや。ちゃんと乗るんやぞ。
1997.11.18
M. Kato