全国7億5000万人の加藤学ファンの皆様

四国お遍路さん報告 第二弾
「ヒッピーも少しお遍路さんになれたかな?」




皆様、こんにちは。ようやくお遍路さんを終え、大阪に戻って来ました。いやー、疲れた。正直、88ヵ所は長かった。皆様、いつもいつも国内外から多大なメールありがとうございます。これからゆっくりと返事書きますね。それと、四国の皆様。各地で色々な差し入れ、声援をありがとうございました。ほんと四国の人は温かい。

今回の後半戦は色んな事がありました。その出来事を上記の
topicsにまとめましたので、興味のある方は読んでみて下さい。

13/10 松山(愛媛)−185km (call in 石鎚山)−内子町(愛媛)

石鎚山頂上付近の眺望はfantastic!! 内子にある「道の駅」の釣り橋を渡ったところにある公園は去年宮崎の日南で見つけた公園に次ぐgood tent site(和さん情報ありがとう)。しかし、近くの温泉から戻って来ると---

14/10 内子町138km−城辺町(愛媛)

内子の町並みを見学。宇和島のさつま定食はうまかった。麦味噌にだし汁を加えてご飯にかけるだけ。ミャンマーで食ったモヒンガと共に今度はこれに挑戦してやる。宇和島でなぜ薩摩か?さつまとは「薩摩」ではなく、「佐妻」と書く。国道56号から10kmほど山に入った山出(やまいだし)温泉はおすすめ(入湯料250円)。回りは山で何もなく(携帯も通じない)、温泉にキャンプ場が隣接。


第四十番札所 観自在寺 第四十一番札所 龍光寺 第四十二番札所 仏木寺 第四十三番札所 明石寺


15/10 城辺町140km−土佐清水(高知)

土佐清水は鰹も有名だが「清水サバ」としてサバの方が有名。むっちゃうまい。土佐清水に着いた日はちょうどお祭りで、地元の漁師さんに船に乗せてもらった。なかなか豪快な祭りだった。足摺港前の公園でテントを張ってると、香川大学のチャリダーがやって来て、香川の讃岐うどん情報をget

第三十八番札所 金剛福寺 第三十九番札所 延光寺


16/10 土佐清水−167km (call in 足摺岬)−西土佐村(高知)

土佐清水を出る時に、地元の人からめじか(宗田鰹)をget8年ぶりの足摺岬訪問。四万十川中流付近でテントを張ってると、面白い青年たちと出会った。

17/10 西土佐村177km−越知町(高知)

四万十川の源流点に到達。あのダート道はオフのバイクじゃないと辛い。河原でテントを張ってると、雨が---

第三十七番札所 岩本寺


18/10 越知町219km−大野原町(香川)

大歩危・小歩危を快走。大歩危・小歩危よりも祖谷渓のスケールの方がすごかった。祖谷そばはうまい。天気予報に反して雨のため剣山を断念。寒くて、寒くて。丘の上の公園にテント。

19/10 大野原町171km−観音寺(香川)

この秋一番の冷え込み。早朝は10を下回ってた。四国八十八霊場で最高峰の雲辺寺(約900m)。ここに来るならrope wayがいいかも。その頂上からは瀬戸内海が見えた。七十番に入った時は、思わず「よっしゃ。」と叫んでしまった。金刀比羅さんを訪問。本堂までの階段は辛かった。ここは観光地なので居辛かった。途中、NZ村というのがあったが、予想通りたいしたことなかった。観音寺近くのうどん屋「かじま」さんの親方から秘伝の醤油をget。ここのうどんはまじでうまかった。海岸線でテント。また天気予報に反して雨が---

第六十五番札所 三角寺 第六十六番札所 雲辺寺 第六十七番札所 大興寺 第六十八番札所 神恵寺
第六十九番札所 観音寺 第七十番札所本山寺


20/10 観音寺−86km−宇多津町(香川)

降りしきる雨の中の巡礼。この日が一番辛かったかな。弥谷寺の本堂までの階段はきつかった。出釈迦寺の和尚さんはすごくいい人だった。善通寺は弘法大師さんが生まれた総本山。寺の規模、人もすごかった。途中で雨のため巡礼を断念して、近くの健康ランドにstay。途中、少林寺の総本山に寄った。坂出の鎌田醤油の工場を訪ねて、だしのための醤油をget

第七十一番札所 弥谷寺 第七十二番札所 曼荼羅寺 第七十三番札所 出釈迦寺 第七十四番札所 甲山寺
第七十五番札所 善通寺 第七十六番札所 金倉寺 第七十七番札所 道隆寺 第七十八番札所 郷照寺


21/10 宇多津町154km−大川町(香川)

屋島寺までの歩きはきつかった。八栗寺に行くのにケーブルカーを使わないといけないのは頂けない。歩いたらよかった。大窪寺でついに88ヵ所を終えた。思わずガッツポーズ。県庁近くの「さか枝」さん、三木町の「寒川」さんのうどんはおすすめ。高松で小豆島の丸金醤油をget。大川町のキャンプ場でテント。ついに、この3年間世界各地を回ったNZで購入した私のテントが崩壊。やはり去年の礼文のやませがこたえたかな。

第七十九番札所 高照院 第八十番札所 国分寺 第八十一番札所 白峯寺 第八十二番札所 根香寺
第八十三番札所 一宮寺 第八十四番札所 屋島寺 第八十五番札所 八栗寺 第八十六番札所 志度寺
第八十七番札所 長尾寺 第八十八番札所 大窪寺



22/10 大川町−286km (including crossing 鳴門大橋 and driving aroud 淡路島)−津名町(淡路島、兵庫)
    津名町ferry−泉佐野(大阪)
    泉佐野−36km−羽曳野(大阪)

霊山寺にお礼回り。折り目の付いた白衣を着た初々しいお遍路さんがいっぱいいた。懐かしかった。鳴門公園でうず潮を見てきた。淡路島をなめてた。でかい。ジャスコ、サティ、イズミヤはあるし、至る所にコンビニ、GSがある。自動車教習所もあるでは。島一周200kmはあったと思う。島の西部から南部にかけての海岸線はライダーにとってはcosy!!そのせいかライダーがたくさんいた。明石海峡大橋を真下から見た。でかい。破れたテントと5リットル近くあった醤油を一度実家に持って帰った。

24/10 羽曳野−140km (visited 高野山金剛峰寺、奥の院)−羽曳野

総本山高野山を巡礼。これですべてfinish。高野山は広い。お寺がいっぱいあった。四国で私を見たという数人のお遍路さんと再会。これにはびっくりした。ここのクルミ餅、ごま豆腐は是非ご賞味頂きたい。それにしても大阪は走りにくい。

お遍路さんのほとんどが年配層。その中でライダーの私は珍しいようで、各地で声をかけられました。私自身元々お寺巡りに興味がない。ただ、お寺巡りというものを客観的に捉えた時に、我々の年代が老後になる頃に果たして存在するのか?大体、今のルーズソックスを履いた顔黒娘たちとお寺巡りとの接点なんて無いに等しい。そんな中、私はあるお遍路さんとお話してる時に、

「兄ちゃんら、こんな事思えへんか知らんけど、わしらもう死ぬまで一直線やねん。」

という言葉を耳にしました。他に、

「お遍路さんしてるから、我々は元気なんです。」

というコメントも耳にしました。日本という国は国教と言われる宗教がない。タイでは仏教、マレーシア、バングラではイスラム教、イスラエルではユダヤ教、インドではヒンドゥー教、シーク教etcといった風に宗教を持ってます。宗教があるって事は非常に心強いものであって、何かの時に頼れる。日本で言うと初詣でみたいなもの(神道)ですが、そんな都合のいいものじゃなく、もっとすごい精神的な支えになってます。定年を迎え、そしてお遍路さんをしている人がほとんどですが、やはり老後ということで何か寄りかかるようなものがほしくてお遍路さんをしてる人が多いような気がしました。

「お遍路さんをしたから長生きができる。」
「弘法大師さんが見守ってくれている。」
ってな具合に。そう考えると、我々が老後を迎えても、今は全然興味がないが、お寺巡りのような何か支えを求める行動に出るような気がします。つまり、お寺巡りは滅びないでしょう。今回そう思いました。四国ではお遍路さんを世界遺産にしようと盛り上がってますしね。私が感じた四国八十八ヵ所参りとは、

「肉体的、精神的に弱ってきた人々にパワーを与えてくれるもの。」
かな。





さて、東大の大学院を卒業して色んな事をしてきましたが、これでほぼ終了しました。辛いこともあり、楽しいこともありましたが、このすべての経験が今の自分にはプラスになってます。一番印象に残ってるのはバヌアツのジャングルでの原住民との生活ですね。国内では何と言っても礼文での経験でしょう。当然、北大の4年間、東大の2年間も行ってよかったと思いますし、将来の方向付けを作ってくれたのも植物栄養学を専攻したおかげです。特に、東大の2年間は辛かった分、自分自身で考えるという力がついたし、植物栄養学の幅広さを身に染みて感じました。それに、礼文での漁師の経験が重なって、広い意味での第一次産業を見つめ直せたし。東京では社会人も経験したし。しかし、これらの経験がどう活かされるかはこれからですね。是非、無駄にしたくない。今の自分にはどんな環境でも生きていけるspiritsflexibilityが付いたような気がします。

これからはビジネスとして世界と広い意味での農業に目を向けて行くつもりですが、しばらくは土台を海外に置くつもりです。しかし、そうなると数年は日本には戻りません。そんなに甘くはないですが、tryしてみます。日本を離れるに当たって、あと唯一国内でし残したことがあって、それは去年行かなかった鹿児島の奄美大島から沖縄の与那国まですべての離島を原チャで回ることです。これが最後の夢でありますが、自分の中では今すぐにでも渡米したい。沖縄に行くとなると半年を考えてますので、それからアメリカに行くとなると来春。大阪に戻ってから、どうしようかずっと悩んでました。

そして、今日。ついに結論を出しました。11月半ばまでに出国します。長時間旅をするにはそれなりのmotivationを要します。私はNZにいる時から、仕事、旅のローテーションを常に考え、気持ちをうまくコントロールしてましたが、今回沖縄に向かうとなると気持ちの上でもう一つ乗り切らない。お遍路さんでかなりのパワーを使ったので、旅はしばらくお休みします(海外でのバックパッカーはもうしません)。これから日も短くなるし。でも、行くなら今のこの時間しかないような気がしますが、沖縄は日本でのこれからの楽しみに取っておくことにしました(いつになることやら)。

まずは、始めにカナダのバンクーバーに入ります。あとはヴィザの関係上、アメリカにいつ入るかは未定。尚、今度はlap topを持って行きますので、このメールアドレスでいいですが、もし連絡がなければ、manabu1218@hotmail.comの方に連絡下さい。もちろん英語でお願いしますね。海外に行けば、しばらく日本の皆様とは会う機会がないですが、これからは日本の「加藤学」から世界の「Manabu Kato」を目指してがんばってきますので、ご期待を。

では、皆様早いですが、いい21世紀を迎えて下さい。
さようなら。

Hope you would have a wonderful Cristmas and happy new century.
Cheers.

P.S. 先日やっと1998年の長野オリンピックのビデオを見ました。ずっと見ようと思ってたのですが、やっと時間ができました。いやー、スキージャンプには感動しました。原田は役者ですね。

あと、「タイタニック」も見ました。NZで二度見たのですが、私の英語力では4割ほどしか会話が理解できなかったですが、ある程度英語力がついて、それに字幕を見て、
「あの場面ではこんなこと言ってたんか。」
と改めて感動しました。映画「キッド」もよかったですよ。

高知新聞によると高知商業出身の阪神の藤川という投手が来年は注目らしい
新庄、阪神に残ってくれ

吉本の芸人を見るとほっとする大阪から愛を込めて
27/10/2000
Manabu Kato




1012日の出来事 in 松山」

8日に大学の先輩の結婚式のために一時大阪に戻って来た私は、11日今度は親族(おかん、祖父母、叔父)と共に松山に戻った。祖父母(母方の)が故郷の松山でお墓を作り、その落慶のためだ。私は全然その話は聞いてなく、礼文から実家に荷物を送った時に初めて今回のことを知らされ、そして私もそのメンバーに含まれてると言う。おいおい、聞いてないぞ。当初は、先輩の結婚式前にお遍路さんを終わらせようと思っていたが、今回の落慶のため予定を急遽変更した。

叔父が祖父母を車に乗せ、私は方向音痴のおかんを大阪南港まで連れて行き、そこで合流して船で松山に向かったのだが、まずおかんを南港まで連れて行くのが大変だった。黙って付いてくればいいのに、

「えっ、こんなに乗り換えなあかんの?
とか、とにかくやかましい。しかし、無事叔父と合流して松山に向かった。

松山は祖父の柏家、祖母の渡部家の故郷。今回で5度目の松山訪問となる私は、松山市内の道は大体分かっていたので、私が皆をナビした。お墓の落慶は別として、それ以外に柏家の親族訪問があった。松山の土居町には柏家が集中してる。それがまたでかいお宅ばかり。当然、私も訪問するのは初めてやし、その豪邸ぞろいにはただただ驚くばかり。なかなか欄間がある家は都会ではそう見ない。各家庭には仏壇や神棚もあるし。

柏家の訪問、お墓の落慶とほぼ順調に事が過ぎ、夜は渡部家の皆様を呼んでの宴会。渡部家のおじさん、おばさんたちとは3年ほど前に初めてお会いして、今回が二度目。宴会ともなれば接客は私の本職。身内であろうが誰であろうが人のもてなしはお得意分野。渡部家の皆様、祖父母も楽しい時を過ごしてたようで、私も一安心。祖父母の昔話も聞けたし、ゆっくり話ができた。祖母曰く、私の曾おじいちゃんは明治後半か大正初めに16歳ぐらいで一人でアメリカに渡ったらしい。

「あんたはどうもおじいさんの血を引いてるな。」
と祖母は言ってた。

今回の一連の出来事で、親族一同私には感謝してた。叔母なんて、

「あんた、普段は役に立たへんのに、こういう時はいつも役に立つな。」
と笑ってた。でも、一番のお疲れ様は叔父であろう。あの狭い道を運転し、何と言っても車の中にはうるさいおばちゃんたちがいるんやから。さぞ、車の中はうるさかったであろう。私はバイクでナビはしていたが気楽だった。ほんま、おばちゃんは固まるとわやだ。

今回のことで、親族皆様の役に立てたことは、普段日本にいなくて全然お構いできなった私にとってもうれしかったし、松山がこんなに身近だとは知らなかった。おかげで、松山に対してより親しみを感じて、正直離れる時は寂しかった。松山はいいところだ。いやー、貴重な時を過ごさせてもらった。















「寄席、商人の町〜愛媛県内子町〜」

松山から40kmほど南西に下ったところに内子町がある。今回の旅で、この町にある内子座を訪ねることが目的の一つであった。内子は江戸時代後半から明治、大正時代にかけて商人、芸術・芸能の町として栄えたところ。中心産業としては木蝋生産。ハゼの実を使って蝋を作る。町の八日市・護国地区は国選定重要伝統的建造物保存区に指定され、白壁の家々が建ち並び、その白壁に朝日が照りつけ、それが真っ青な空に映えてきれかった。私はこの町並みをぶらぶら歩いていたが、お店の人々は、

「おはようございます。」
と皆私に声をかけてくれて非常に気持ちよかった。内子は、昨年訪ねた島根の小京都である津和野のように人工的に作られた感じの町だった(内子は国指定になってから人工的に整備された)が、その当時の面影を残しなかなか赴きがあった。

そして、庶民の娯楽の中心になったのが内子座。大正5年に大正天皇即位を祝って建てられた木造劇場であるが、歌舞伎、人形芝居、落語、映画等人々の心の糧になった。今でも定期的に文楽が上演されている。しかし、あまりの老朽化に取り壊し直前までいったが、昭和60年に修理され当時の内子座がよみがえった。私は場内をくまなく回ったが、こじんまりして雰囲気のある劇場だ。実際舞台上で座ってみたが、これぐらいの規模(約650人収容)なら二階席の客の顔まではっきり見える。奈落にも降りてみたが、きれいに作られている。比較的広い空間があったし。

内子の人は感じのいい人が多かった。松山から40kmしか離れていないのに、内子の人々の言葉は松山弁とは全然イントネーションが違った。地元の人にその事を言ってみると笑ってたが。今度行く時はここでゆっくり芝居を見たい。






「究極のそばつゆを求めて 土佐清水編」

土佐清水を訪れることも今回の目的の一つであった。何と言っても鰹。私はできれば1週間ぐらい鰹漁に連れて行ってもらおうかなと考えていた。私が土佐清水に着いた時はちょうど祭りの日で、地元の漁師さんに頼んで漁船に乗せてもらったりした。私は土佐清水と言えば、てっきり鰹と思っていたが、鰹以上に鯖が有名で「清水サバ」というブランドで町全体でサバをPRしてた。実際食ってみたがうまい。身は締まっていて、それでいて柔らかく歯ごたえもある。

鯖漁は縦縄漁で、釣った後は船の上ですぐに血をぬいて氷水(海水)に浸ける。清水サバの売りは何と言ってもその鮮度で、そのため漁の時間も短く鮮度のいい鯖をすぐに売り出す。ただ、満月の日の漁は通常よりも長くなると言ってた。鰹も確かに有名だが、鰹漁のピークは春先でどうも鰹漁船に乗れそうもなく、よって私は次の日にはここを出ることにした。

私は今回の旅で究極のそばつゆを作るべく食材を求めており、その一つとしてここの宗田鰹(めじか)に目を付けていた。そばつゆのベースはもちろん醤油だが、そのだしとしては昆布では弱すぎて、いりこや鰹に限る。土佐清水のめじかは、水揚げ全国一で、宗田節のうどん・そばのだしのシェアも全国の80%を占める。めじかは劣化の早い魚で、昔から商品として成り立たなかったが、近年ここ土佐清水では商品化に成功し、「姫かつお」というブランドで加工製品が売られている。鰹節にするためにも繊細な作業を要し、おいしくだしを取るには非常に手間がかかるようだ。めじかは年中獲れるようだが、春先に獲れるめじかは最高らしい。ちょうど脂が乗りかかる前で、地元の人は人間の女の子に例えると18歳と言ってた。その削り節を見せてもらったが、透明で色合い的にも鮮やかだった。逆に脂が乗りすぎると白っぽくよくないらしい。

私はここでめじかに対してすごい知識をお持ちのおじさんと出会って、私が究極のそばつゆ作りに挑戦している旨を伝えると、そのおじさんは普段は商品として売り出していない鰹節にする前のめじかを1kgほど仕入れ値で譲ってくれた。その上、だしを取る際の色々な注意点を1時間近く説いてくれた。なんと運がいいのだ。昆布では利尻昆布があるし、そして鰹ではこの宗田鰹。巨人で例えると、松井と清原みたいなものだ(阪神では新庄と坪井か)。あとは醤油である工藤を得るだけだ(阪神では薮)。
























「四万十川源流点への旅」

四万十川は全長200kmはある。3年前はガンジス河にこだわって、インド、バングラと渡り、そして今年はメコン川にこだわって、ラオス、カンボジア、ベトナムと下った。今回は四万十川。一度は走ってみようと思っていた川だ。

四万十川はほんとくねくねしてる。水自体はバスクリン色をしていて、マスコミが騒ぐほどきれいではない。河口の中村市では川幅は100m近くあったか。そこから上流に向けてスタートしたが、川の所々には沈下橋があり、その橋は水かさが増えると沈んでしまう。川の途中からはJR予土線があり単線ののどかな路線だった。川の周りでは予想通り農地が広がり、その中心は豊かな水の恵みを活かした水田だった。川沿いの道はバイクにはもってこいだ。ヘアピンが続き、交通量も比較的少なく、道幅は狭かったが非常に気持ちよかった。

上流に行くに従って山も深くなり、それに伴って川幅は狭くなり、水の流れも速くなってきた。国道197号を横切ってからは源流点へのクライマックス。途中から集落はなくなり、道もダートとなった。地元の人から道は悪くなることを告げられていたが、いざ行ってみると予想以上に悪かった。石だらけの道が3kmほど続き、これはオフのバイクじゃないときつい。ベトナムのフエからハノイ並みの悪路だ。

私は何とかこの悪路をクリアし、それから源流点までは山の中を歩いていかなければならない。私は道の端にバイクを停め、ちんたらと山の中へと入って行った。当然、この辺りは携帯の電波も入らないし、民家が一軒もない。川のほとりを登って行くこと約25分。上方から二つの小さな流れが合流する地点に到達し、そこが四万十川の源流点となってた。その先はもう入っていけない。さすがにこの辺りの水はきれいで冷たくておいしかった。この地点から最終的に太平洋に注ぐ200kmの旅が始まるのか。いやー、疲れた。






「明日を夢見る若者たち in 四万十川」

四万十川を北上する途中で、ある晩私は川の中流付近でテントを張った。近くにはヘルスセンターがあり、ひっそりとしたその温泉の雰囲気がよかった。このキャンプ場には、季節外れだというのに私のテント以外にもう一つテントがあった。そのテントの持ち主は長野県のチャリダーで、歳は私と同じぐらいか。彼の肌は真っ黒で、顔はひげだらけで頭には白い手ぬぐいを巻いていた。彼は長野県の岡谷出身で、チャリで旅を始めたのが昨年の6月で、それ以来すでに14ヶ月も全国をチャリンコで放浪してる。昨年の夏は北海道で働いていて、急がないと寒くなると急いで南下したらしが、沖縄に到達したのはもう春だったらしい。その間大阪でも雪にあったと言ってた。沖縄で働いた後はチャリで九州、山陰と走破し、これから紀伊半島、北陸と回って久しぶりに実家に帰るそうだ。

彼はトレッキング、カヤックそれにラフティングが好きで、将来カナダのユーコン川をカヌーで下りたいと言ってた。私はトレッキングやラフティングならNZを薦めてあげ、彼は熱心に私の情報に聞き入ってた。私も彼から沖縄情報をgetし、お互いいい情報交換になった。

また、ここにはバンガローも隣接しており、そこには現在1ヶ月ほど田舎暮らしを体験してる若者たちがいた。全国各地から田舎暮らしにあこがれて仕事を辞めてきた若者が10人ほどいて、中には家族で来てる人もいた。その中で、大阪からやって来た青年が私に興味を持ち、色々話す機会があった。彼は夕食後、地元の方に呼ばれて飲みに行ったのだが、酔っぱらって帰って来て、深夜私を起こしに来た。

「加藤さん、もう寝たんですか。飲みましょうよ。」

テント暮らしではいつも9時には寝てる私にとっては正直不愉快だった。私は修行の身ではあったが、折角なので一緒に飲むことにした。

彼は田舎暮らしにあこがれて会社を辞めてここに来たのだが、1ヶ月で他のメンバーは帰って行く中、彼は本気でここで住むことを決意し、彼女も一緒に連れて来ていた。できれば林業に携わりたい。彼の両親も、

「やるならやってみろ。」
と応援してくれている様子。私は都会育ちの人間が田舎で住むことの大変さを説いてあげ、彼は熱心に私の言葉に耳を傾けてた。しかし、やはり不安だらけなのか、彼は、

「加藤さんがもしまだ日本にいるのなら、またここまで訪ねて来て下さいよ。家が決まったらすぐに連絡しますから。」
と私の連絡先をメモしてた。

この川辺でタイプの違う二人の青年に会ったが、彼らに共通してるのは目が輝いていたこと。我々の年代になると後手に回る人間がほとんどだが、彼らは輝いていた。いやー、久しぶりにいいものを見せてもらった。ありがとう。















「究極のそばつゆを求めて 讃岐編」

昨年の日本縦断の際、最終的に四国に少し寄ったのだが、その時に讃岐うどんのうまさを改めて痛感した。讃岐うどんは何と言っても麺やろう。あのこしのある麺は、まず舌触りが滑らかで噛みごたえがある。ちなみに、こしがあるって事は塩分が多いらしい。

昨年、私は九州でトンコツラーメンを追求し続け、1ヶ月もの九州滞在中に各地で30杯以上は食った。そして、今回のターゲットは讃岐うどんだ。そのため、香川滞在時には私は毎日3杯はうどんを食ってた。

讃岐うどんは麺類では珍しく、売りは汁よりも麺。讃岐うどんの食べ方は、大体通の店はかけ、ざる、ぶっかけ、釜揚げうどんぐらいしかメニューにない。国道沿いや観光地では何種類もあるが、そういう所は値段も高い。しかし、味適には悪くなく、結論として讃岐うどんには当たり外れは少ないと考えて良い。不思議なことに、うどん屋には必ずと言っていいほどおでんがあり、店によっては天ぷらもある。おでんの汁はずっと代えていないので、味が染み込んでむちゃくちゃうまい。値段も一品80円ほどで、おでんの通は何と言っても大根か牛すじだろう。うどん自体は一杯大体150円ほど。二玉で200円ぐらい。店には地元民がうどん玉を買いに来るぐらい、やっぱり手打ちうどんのうまさは格別だ。私が行った中でお勧めは、県庁近くの「さか枝」さん。セルフの店だが、値段も安く味は申し分なし。観音寺の「かじま」さんでは、釜揚げがいいだろう。ここの親方はすごく感じのいい方で、私が究極のそばつゆを求めてると言うと、わざわざ秘伝の醤油を分けてくれた。親方曰く、

「おいしいと言って食べてくれることが一番うれしい。」

なかなかサービス業の心得を解っておられる。あと、三木町の「寒川」さん。ここのおばちゃんたちのat homeなこと。私はすっかりお友達になり、

「今うどんあがったから、ざるで食べなさい。」
と作り立てのざるうどんを食ったが、もう最高。言葉にはならん。

さあ、究極のそばつゆを求めてる私にとって、ざるうどんの汁は気になる。だし的にはいりこ派、鰹派と店によって味は違った。私は色んな店や地元のおばちゃんたちから色々情報を得たが、再確認したのは香川県には醤油会社が多いってことだ。、私はキッコーマン絶対派だが、ここまで来たら醤油にもこだわりたい。何度も言うが、キッコーマンが悪い訳でない。しかし、---。私はついつい浮気をしてしまった(五十嵐、すまん。今回だけは許してくれ)。

まず始めに、坂出の鎌田醤油の工場を訪ね、だしを取るための濃口醤油をgetした。しかし、香川にはまだまだ醤油がある。そして、私は高松で小豆島の丸金醤油、タケサン醤油をget。このすべての醤油を合わすと計5kgぐらいになり、私はこれでそばつゆの材料は揃ったという満足感でいっぱいだったが、ふと我に返った時に、

「俺、何やってんやろう。」
と自己嫌悪に陥った。あほだ。しかし、これで役者は揃った。讃岐うどんも手に入れたし。あと、土佐清水で教えてもらった隠し味として、徳島でゆずもgetした。巨人で言うと、醤油が工藤(阪神では薮)、ゆずは元木(阪神では八木)か。土佐清水では鰹も手に入れたし。あとはそれをうまく使いこなすのは私次第だ(巨人では長嶋監督、阪神では野村監督)。















「お遍路さんここだけの話」

私は無事お遍路さんを終えた訳だが、前回も報告したがお遍路さんの大部分は車で移動している人々だ。そのうちの7割は団体さん。団体さんが来ると本当に困る。本堂は陣取られるし、納経所は添乗員が時間を取る。その団体さんは、当然一気に88ヵ所を回るツアーもあるが、大体が分割して回る日帰りか一泊ツアー。まあ、一気に回るとなると1週間は家を空けなければならないので、それは少々しんどい。そこで、定期的(1ヶ月か2ヶ月毎)に今回は何番までといった風に、京阪神から日帰りか一泊で募集をかける。つまり、お遍路さんが立派なビジネスとして成り立っており、寺側も商売として受け入れてるところが多かったような気がする。駐車代は取るし、物は売ってるし。あと、本堂改築のための御布施も取ってるし。納経所ではパートのおばちゃんを雇ってるところもあり、そのため時間になったら人が並んでいようがいまいがすぐに帰る。親切に対応してくれる人もいればいい加減にやってる人もいる。テレビや雑誌を見て、我々にはいい加減な坊主連中がいた時にはまじでむかついた。こっちが困ってるのに不親切な人がいるし。従来の寺巡りにお金が絡むと、仏に仕えてる人であろうが人格が変わる。本当に悟りを開いてる人以外は、人間ってそんなもんやろう。寺自体の見栄もあるのか、別にこんなに派手に改築せんでもいい本堂もあったし、鉄筋のお寺もあった。センサー付きの山門の手洗い所もあったしな。

ただそういった中、本来のお遍路さんのスタイルである歩き遍路さんには頭が上がらない。あの人たちはすごい。私が走った道中をひたすら歩くんやから。大体、早い人で40日ぐらいかかる。当然接待も受け、所々乗せてもらったりするようだ。野宿の人もいるし、宿を取る人もいる。歩き遍路さんは確かにすごいが、やはり全行程歩くとなるとかなりの精神力を要す。まずは、12番の焼山寺。ここをクリアしても、一番の難関が高知。高知は何と言っても歩く距離が半端でない。大体の途中棄権する歩き遍路さんは高知内らしい。出釈迦寺の和尚さん曰く、

「どんな方法にせよ、やり遂げるというのが一番重要。」
だそうだ。

私は今回88ヵ所を無事回り切ったが、こんなことは何にもすごい事じゃない。すごい人は100回も200回も回ってるし、納経帳が真っ赤になってる人もいる。上には上がいる。

私はこのお遍路さん中も、色々客観的に物を見てしまったが、真のお遍路さんはお寺がどうであろうが、周りがどうであろうが関係ない。一身にお寺を巡って祈るだけ。それが真のお遍路さんだと私も思うし、私のように邪念の入ったお遍路さんは失格だろう。反省、反省。

ライダーお遍路さんって事で、私は各地で声をかけられ、差し入れをいっぱいもらった(本当にありがとうございました)。そのほとんどがおばちゃんからだ。私はほんとおばちゃんやちびっ子からの受けはいい。礼文でもそうであったが、反町やキムタクは若い女性層からの人気はすごいが、おばちゃんやちびっ子からは私の方が上やろうと自負している。

ある日の大阪のおばちゃんと私との会話

おばちゃん:兄ちゃん、大阪なん?どこ?
:羽曳野です。
おばちゃん:えっ、羽曳野?羽曳野やったら、坂口さん知ってる?
:知りません。

人口10万人以上いる羽曳野市の中で、どこの坂口さんか知らん人を知ってる訳ないやろ。こんなおばちゃんとも感じよく会話ができるか、反町、キムタク!!






「阪神・淡路大震災の傷跡が--- in 淡路島北淡町」

お遍路さんで88ヵ所を無事終え、お礼参りも済ませた私は最後に淡路島に寄った。大阪からこんなに近いところにあるのに、小学生の時に家族でちょこっと行ったぐらいで、島についてはほとんど知らなかったし、どんな雰囲気なのかも知らなかった。そこで、私は鳴門大橋を渡って、淡路島を一日回った。

島事体は思った以上に大きく、私のイメージしてる島とはかけ離れており、都市と言った方がいいだろう。明石海峡大橋も間近で見たし、天気もまずまずで走ってて気持ちよかった。私は島の西部に差し掛かった時に、「野島断層記念館」という標識を目にしてそこに寄ることにした。

野島断層は1995年の阪神・淡路大震災で現れた断層で、この野島断層の活動に併発して他の断層も活発になり、そしてあの大震災が起こったと考えられている。大震災によってここ北淡町は淡路島の中でも一番被害を受け、この野島断層は100m近く形として残り、これは学術的にも貴重で、そしてこの断層を残すことにした。この保存館は、今や観光の名所となり、修学旅行生を乗せたバスや団体バスがいっぱい停まってた。館内には、震災時の映像が上映され、断層は見事なぐらいくっきり残っており、また断層面に建っていた家を兵庫県が買い取り、この断層と共に公開していた。私はゆっくりと館内を見学して改めて震災の規模のでかさを感じた。

私はこの被害の大きかった北淡町を少しバイクで回ってみたが、確かに道路も家も新しいのが多かった。集落以外は田園が広がっていたが、普通昔ながらの農地周辺では道が細く、家も古い平屋ってとこが多いが、ここ北淡町では道路も新しく、家も真新しい。いわゆる新興住宅地のようで、それだけこの辺りの被害の大きさを物語っていたのだろう。

私には今回のこの保存館訪問で気に食わなかったことがあって、それは保存館の周りに土産物屋が連なっていたことだ。大震災の傷跡を商売に利用している。館内もあらゆる所に説明する女の子たちがいて、その姿はエレベーターガールのようだった。あの惨事を商売化してる。入場料も広島や長崎の原爆記念館の数倍する。野島断層に対しても国の「天然記念物」という言葉を使っていた。土産物では地元淡路島の特産品を売っていたが、広島や長崎ではこんな事なかったぞ。店自体も県や町の管轄じゃなくて、一般のお店だ。ただ、これが地域の復興のためという意図なのかもしれないが、別に義援金を募ってたしな。うーん、どうもしっくりこん。















”Manabu’s world” Update of my fuck’n crazy mate vol. 2

山本純さん
純さんは私のAuckland時代のflat mate。私はAucklandには1ヶ月しか住んでいなかったが、時々Aucklandに戻っては純さんにお世話になってた。昨年末に、純さんとは再会し、私とほぼ同時に東南アジアに旅立ち、向こうでもe-mailで連絡は取っていたが、結局会えなかった。先日のe-mailでは、純さんは今元気にインドにいる。

純さんは何と言っても絵がむちゃくちゃうまい。美術大を出て一旦就職したが、1年ほどヨーロッパを旅して、自分の英語力の無さを痛感してNZへ行くことを決意。そして、奈良公園で人力車を引き、資金を貯めてNZに来て私と同じフラット一期生になった(民家がフラットになったばかりだった)。私にとっては短いAuckland滞在であったが、一緒にBay of Islandに行ったり、Pot Luck Partyをしたり、All Blacksの試合を一緒に見に行ったりして楽しかった。よく一緒に飲んだし、ソフトボールもした。

純さんはある程度の英語力を身に付けて最終的に今回のアジアの旅が目標だったみたいで、帰国後は上高地で働いて資金を稼ぎ、今回は絵を描きながらアジア諸国を旅してる。純さんはおとなしい性格だが努力化。おそらく、純さんが今度帰国してくる頃には私はもう日本にはいないと思うが。純さん、もしこのメールを読んだなら連絡下さい。年末にみんなで撮った写真を渡そうと、私はこの半年間のアジアの旅の間ずっと写真を持ってました。どこに送ればいいでしょうか?


愛ちゃん、エアル(イスラエル)、アンニャ(ドイツ)
この3人とは、今年プノンペン(カンボジア)からサイゴン(ベトナム)に行くバスで一緒になり、ダラット(ベトナム)で再会した。それからはハノイまで一緒に旅して、アンニャとは部屋をshareしてた。だから、フエで私が倒れた時アンニャは看病してくれ、自分の予定まで変更してくれた。あれには本当に助かった。

この3人は数年前南米で知り合い、1年ほど一緒に旅するようになって(だからスペイン語ができる)、その後ニューヨークでしばらく働いたりした。そして、今回のアジア旅行のためにそれぞれ自分の国に戻って資金稼ぎし、愛ちゃんはなんと東京の五つ星ホテルで働いていた(すごい人たちがいっぱい来るらしい)。やがて、今年の始めバンコクで再会してベトナムで私と知り合い、よく国境を越えたクイズ合戦をしていた。体調を崩すまでは私も中国に行くつもりだったが、我々はハノイで送別会をして、私はバンコクに戻り、この3人はラオカイからクンミン(中国)に入って、先日モンゴルから私宛にAir Mailが来た。アンニャはこれから再び中国に戻って、チベットからネパールに入ってトレッキングするようで、愛ちゃんはエアルとイスラエルに行くか日本に帰るかは未定。愛ちゃんは私と同じ歳ぐらいだが、こんなタフな女の子と会うのも珍しい。彼女たちは私から新たなクイズを期待しているが、私も現在検討中。またどこかで会いたいな。


大畑光範君
大畑君とは、3年前ネパールのカトマンズからポカラに行くバスで知り合って、それから一緒にトレッキングした。シーズンオフだったので、地元民からガイドを付けろと言われたが(オフシーズンは山賊がよく出て、我々が歩く数日前にもスイス人が殺されていた)、我々は二人で1週間ほど歩いた。結局、大畑君は私と一緒にインドのデリーまで約1ヶ月ほど旅して、その後彼はパキスタン、私はバングラに向かった。

大畑君はこの資金稼ぎのために、マグロ漁船かトラックの運ちゃんを考え、トラックの運ちゃんをして資金を稼いだ。元々の専門学校での専攻は映画で、だから映画のことはよく知っている。世界最低と言われるインド映画を見に行った時は色々technical面を教えてくれた。また、大畑君はよく本を読んでいるので豆知識がすごい。私も色んな雑学を教えてもらった。帰国後も二度東京で再会し、私がNZにいる間礼文の「はまなす」で働いたのも彼だ。しかし、それ以降の彼の消息は不明だった。

そして、今年。私がラオスからタイに戻った時に、大畑君からメールが来てて、なんと今ラオスにいるとのこと。これにはびっくり。彼は彼女と共に中国からラオスに入ってこれからベトナムに行くという。私はそれからミャンマーに行く旨を伝えたが、私がタイに帰るためにマンダレーからヤンゴンに戻る時に、ちょうど大畑君はマンダレー方面に向かっていた。いやー、残念。今回は会えなかった。今はおそらく帰国しているであろうが、今度は何を企んでいるのか。


田中潤子さん
潤子さんとはAucklandの恩師Walterのクラスで出会い、始めは彼女が日本人であることは知らなかった。そう、潤子さんはタイ人にそっくりなのだ。どっから見てもタイ人で、彼女はAucklandの後バンコク経由でヨーロッパに向かったのだが、どこに行ってもタイ人と間違えられたらしい。それは当然。潤子さんとは、私がバヌアツから帰ってきた時にAucklandで偶然再会し、潤子さんはちょうどお金がなくなってヨーロッパからNZに戻って帰国するところだった。

日本にいる時は中学校で英語を教えていて潤子さんは、むちゃくちゃ英語がうまい。彼女自信OZに留学してたこともあったらしいが、彼女の英語の発音はnative並み。私は1年以上オセアニアを回っていたが、潤子さんほど英語のうまい日本人はいなかった。しかし、彼女の日本語はコテコテの大阪弁。それもきっつい。実は、潤子さんは私の実家と近い南河内郡太子町出身で、我々の言葉は河内弁と言って日本で一番汚い言葉と言われてるが、潤子さんに比べれば私の大阪弁はだいぶ柔らかい。とにかくきつすぎて、先生をしている時もよく生徒からきついと言われたそうだ。昨年末に、大阪で潤子さん、上述の純さん、そして前回紹介した和さんが集まった時はわやだったし、非常に楽しかった。潤子さんと私とは地元民って事で、私の最寄り駅の藤井寺で二人で飲んだこともあった。

そんな潤子さんは、私とほぼ同時に今年始めにスイスに向かって出発した。今度はドイツ語を勉強するという。たぶん、潤子さんは語学を習得するセンスがいい。あの英語力にドイツ語が加わると無敵やろう。ただ、問題はあのきっつい大阪弁。宮川花子並みやで、ほんまに。なんとかならんもんかな。

潤子さんにも一言。このメールを見たらすぐに居場所を教えて下さい。写真を送らなあかんから。


デビ(アメリカ)
デビはTaurangapruning(植木屋)をやってる時の仲間で、真冬のNZで宿でテント生活をしてたのも私とデビだけ。デビは小柄で可愛らしい顔をしているのだが、実はアメリカではrock climberのインストラクター。彼女は辛い仕事の毎日に関わらず、よくin doorrock climbに出かけてた。デビは私を気に入っていたのか、私とデビは仲良く、私はいつもrock climbに誘われていた。特に、私はrock climbに興味はなかったが、よくデビには英語を教えてもらったし、一度だけ一緒に行ったことがあったが、するといつものデビが急に先生に変身。私は手取り足取り教えられ時々怒られた。なんでこうならなあかんねん。そして、一度天井まで登ってる時に、疲れて私は降りたいと言うと、

「ダーメ。」
と降ろしてくれなかった。おいおい、付き合いで来ただけやのに。

Taurangaでデビと別れた後は、偶然にRotoruaで再会し、それから彼女はTurangiでインストラクターをし、OZ、東南アジア、インド、ネパールを回って、故郷のワシントンに帰った。私が近々アメリカに行くことはTaurangaで告げていたので、

「学、いつこっちに来るの?
と頻繁にメールはくれていた。そんなデビから最近メールが。なんと、今南米にいるという。今度は南米を旅し始めたのか。彼女のことやから旅を始めると長い。いやー、アメリカで会えるやろか。


クリスタ、デイビット(カナダ)
クリスタとは3年前にネパールのタラパニという標高3000mぐらいの山小屋で会い、その後カトマンズのGPO (General Post Office)で偶然再会。その年の夏からJETのプログラムで(文部省が推進する組織で、本場の英語教育を日本の学校教育に導入するのが目的。日本人にはあまり馴染みないが、現在1万人ぐらいの英語圏の若者が日本の小・中・高校で英語を教えており、その任期は2年間。)、日本に来ることが決まってた彼女は実際青森に派遣された。その時、恋人のデイビットも一緒に派遣されて来たのだが、彼らは元々バックパッカーであるので、すぐにどこでも出かける。車で青森から屋久島まで行ったり、雪祭りの時に札幌まで来て、泊まるところがないからと言ってあの真冬に大通り公園の横に車を置いてそこで寝たらしい。下手したら凍死してまうぞ。旅する時もテントとシュラフは必ず持参。我々日本人よりも日本国内を安く旅する方法を知ってるし、実際私も彼らから国内に関する色んな情報を得た。ただ、本業の教育に関しては熱心で、私が彼らを訪れた時はいつも日本の教育問題についてdiscussionした。礼文にも一度は来たいと言ってたのだが、昨年任期を終えバンクーバーに帰ってしまった。彼らは外人らしからぬ日本人並みの気の遣いようで、はるばる訪ねてきた私をいつも歓迎してくれたし、私がレゲエ好きなのを知って、私がNZに行く前には二人が餞別にオリジナルのレゲエのテープを送ってくれた。私には外人の友人も多いが、その中でも彼らとは特に頻繁にメールを交換していて、私がアメリカに行く旨は以前から承知で、

「我々ができることがあったら何でも協力するから。」
と言っていつも励ましてくれる。さらに、私がすぐに来るものと信じ、すでにバンクーバーで部屋を空けて待ってくれてるようだ。とにかく、パワフルだがすごく感じのいい二人。もうすぐ二人に会えると思うと楽しみだ。

私の周りにはまだまだつわものはいるが、機会があればまた紹介しよう。

P.S.
前回紹介したまさ君はエジプトの後、またイスラエルでトラブルがあって、スペイン、ポルトガルと急いで回った後、メキシコに入ったがまたトラブル。空港で預けた荷物がなかったらしい。まさ君、がんばれ。いつかはつきが来る。