全国1億2000万人の加藤学ファンの皆様へ〜最終回〜
最終回スペシャル、3時間半の完全保存版!!! 皆様、こんにちは。街路樹のエンジュの葉も日に日に黄色くなってきて、こちらはだんだんと秋めいてきました。日本では、そろそろ春ってところでしょうか。 さて、私は約5ヶ月ぶりに北島のAucklandに戻って来ました。南島での出来事が色々ありすぎて、北島にいたのははるか昔のようです。もうないやろう、と思っていたのですが、次から次へと、まあ面白い出来事が起こるものですね。2月半ばにCh-Chを出てからここに至るまでの1ヶ月間、またもや色んな事が起こりました。それについてはいつものように後述します。 さて、NZに来てから今日まで丸1年経つわけですが、私なりにNZという国を産業という点で批評してみました。まず、それをご紹介しましょう。 NZは人口約350万人の国で、主な産業としては、キュウイフルーツを代表とする農産業、羊を中心とする牧畜業、それと我々のような旅行者相手の観光産業です。とにかく、人口が少なく、そのため需要量には限界があり、どんな店でもいいのですが、店の中の品数を見ればそれは一目瞭然でしょう。そのため、この国が先進国として成り立っていく(正直、私にはこの国が先進国の仲間入りをしているのが信じられない)ためには、海外からどんどん外貨を入れるしかない。だから、農作物のほとんどは海外輸出用で、輸出されるのに不適切な質の悪いものが国内市場に出回るというのがこっちでは当たり前のスタイルです。特に、スーパーに出回る果物はひどいものです。色んな種類のピッキングをした私にとっては、自分がピッキングした果物はスーパーでは決して買えないですね。 |
この国のこういったスタイルが研究の分野にも反映しているのか、私は時間の合間を見て農学部で有名なPalmerston Nth.のMassey大学、Ch-Ch郊外のLincoln大学の農学部植物分野を訪ねてみましたが、純粋な植物栄養学、つまり養分の吸収転流、栄養成長と生殖成長、光合成、及び遺伝子レベルでの解析といった分野はほとんどなく、大半がhorticulture(育種)分野でした。各ラボが投稿しているジャーナルもほとんどが育種系で、まあ各ラボが掲げているポスターを見てもわかるのですが、純粋な植物栄養学を研究するより、どんどん品種の良い果物や野菜を栽培して輸出して儲けた方が現実的といった思考がそのまま研究費に変わるのでしょうか。2年前に東京で開かれた国際植物栄養学会議(IPNC)にNZからエントリーしてる人がいなかったのが肯けるような気がしました。研究者の絶対数が少ないというのもあるのかもしれませんし、その数に応じたラボしかないのかもしれません。
ただ、こういった果樹や野菜の手入れや収穫に、我々のような海外からの旅行者がいないとやっていけないのは不思議なもんでしょう。当然、国民だけでは人員不足ですから。日本人がNZで摘み取ったリンゴを、NZの企業が日本に輸出して、それを摘み取ったはずの日本人がまた買い取る、という図式。おもしろいものですね。
観光産業で外貨を入れるというのが、一番儲かっているのかもしれませんね。こっちの旅行案内所やaccommodationの管理は日本も見習わないといけないぐらい進んでいると言っていいでしょう。どんな小さな町にも大抵motor campもしくはバックパッカーズはあります。
来年は西暦2000年。世界で一番早く夜が明ける国として知られているNZではそれに向けて様々なイベントを企画中です。特に、その中でも一番夜が早く明けるGisborneではもうすでにaccommodationの予約はいっぱいとか。私が、立ち寄った時も西暦2000年をスローガンに着々と色んな催しの準備が進んでました。
あと、観光案内所は本当に便利で、我々も助かっています。旅行者向けのactivityやtramping trackの整備はたいしたものです。この国の観光産業にかける意気込みというものを嫌と言うほど感じさせられます。
あと、こっちの人の国民性ですが、以前皆さんに報告したように、こっちの人は働かないですね。まあ、こっちではそれが普通なのですが。そのくせ、プライベートな時間や家族サービスには仕事以上に一生懸命になり、銭が手に入ればすぐにボートを買ったり、キャンピングカーを買ったり。あまり、貯蓄ということをしないのでしょうかね。まあ、これがこちらの国民性なのでしょう。良く言えばおおらか、悪く言えばその日暮らし。
こんなところでしょうか。
さあ、ここで私が感じたNZランキングの発表!!NZから帰られた皆さんは自身の考えと照らし合わせて、それ以外の方はこれからの参考にして下さい。
問題1 もしNZで住むとしたら、どこの町がいいか?
1位 Tauranga---町であって、景色もいい。物も安いしここ以外考えられない。
2位 Wanaka---湖に面していて、スーパーもあって住むには問題ない。
3位 Wanganui---かわいいという言葉が最もふさわしい町。
4位 Napier---海がきれいで、オシャレな町。
5位 Christchurch---大都会でありながらどことなく落ち着いた雰囲気の町。
問題2 もし住みたくないとしたら、どこの町が嫌か?
1位 Palmerston North--- just city, noting to do.
2位 Invercargill---不気味な雰囲気のする町。
3位 Auckland---でかすぎるし、人が多すぎる。それに坂も多い。
4位 Wellington---どことなく落ち着かない。
5位 Dunedin---坂が多い上に、暗い雰囲気がする町。
問題3 もし観光旅行するなら?
1位 Coromandel peninsula
2位 Lake Tekapo, Lake Pukaki, Mt. Cook周辺
3位 Franz Josef, Fox Glacierの氷河地帯
4位 Te Anau周辺のFiord National Park
5位 Turangi周辺のTongariro National Park
それではいつものように、この1ヶ月間の近況報告をお伝えしましょう。暇な時にでも読んで下さい。
18-19/2 Blenheim
「史上最強のワーホリ」こと子呼呂さんの車で一緒にPictonに向かうことになっていたが、宿で働いているリリアナにもう一泊だけしてと頼まれそうすることにしたが、この事が後でとんでもないハプニングを引き起こすとはこの時は夢にも思わなかった。
予定より1日遅れて、私と子呼呂さんはPicton方面に向かい、リリアナが作ってくれたマフィンを、折角なのでKaikouraの海でも見ながら食べようということになり、少し長めにbeachで休憩してしまった。そして、車に戻ってしばらくすると、どこかで見たようなヒッチハイカーが道路脇に立っているでは。なんと、敏君では。敏君とは去年の7月にTaurangaでいっしょにpruningをし、今年1月に偶然にAlexのorchardで再会し、いっしょにapricot pickingをしたところ。ライダーのはずの敏君は、帰国前にch-chでバイクを売って、ヒッチでAucklandに戻るところだった。私も敏君も突然の再会にびっくり。当然、子呼呂さんと敏君は初対面だが、我々3人の共通する友人は私が前回報告したつわもの5人衆の一人の和さん。全く、人の繋がりとは不思議なもんだ。
それから、我々3人は北を目指し、Blenheimに差し掛かったところで敏君は、今晩この町に泊まるから、motor campに行きたいと言ってきた。そこで、私はふと以前Blenheimでフラットのブローカーをしていたことを思い出し、とりあえずオーナーのいる中華料理屋を訪ねることにした。すると、オーナーは、
「来週、あの家を売りに出すから、2,3日ならいいよ。その代わり庭を掃除してもらおうかな。」
と言って、我々は庭掃除が条件でただで泊まれることになった。当然、敏君は大喜び。私は次の日の早朝の船で北に渡らないといけなかったので、子呼呂さんと相談した結果、次の日の船に間に合うように子呼呂さんがフェリーターミナルまで送ってくれることになり、その時間までこのフラットにいようということになった。そうなると、ブローカーとしての私の出番だ。2人を家の隅々まで案内し、ブローカーとしての仕事を全うすると、子呼呂さんは、
「なんで、そんなに詳しく知っているのだ。」
と言ってきた。そんな事は分かりきっている。なぜなら、私はブローカーだからだ。
店に戻ると、オーナーはいつものようにチキンを丸ごと2匹くれ、奥さんはご飯をくれた。相変わらず、この2人はいい人たちだ。チキンをもらったとなると、ここからは料理人である子呼呂さんの腕の見せ所。その前に料理人が一言。
「学。俺、鳥を丸ごとさばいた事ない。」
しかし、さすがは料理人。2匹の鳥が、鳥のごま油野菜炒め、鳥のトマトソース煮と全く違った形になって返ってきた。味の方は言うまでもない。まさしく絶品。「美味しんぼ」の究極のメニュー対至高のメニューといったところか。うまいものを食って、ビールも飲んで。そして、食後の後は風呂。ここのフラットの最大のメリットは湯船がある事。我々は順番にまずはシャワーで体をきれいにして、その後湯船でゆっくりと南島の疲れを癒した。私より1日後れで北に向かうはずの子呼呂さんは、次の日はPictonで泊まるつもりだったのに、風呂上がりに一言。
「学。明日、俺、ここにもう一泊するわ。」
その気持ちはよーく分かる。我々がch-chを出るのを1日遅らせた事、Kaikouraでゆっくりしすぎた事、敏君を拾った事、敏君がBlenheimに泊まりたいと言い出した事、私が以前たまたまBlenheimでフラットのブローカーをやっていた事、これらのすべての偶然がこういった最高のひとときを生み出してくれた。私はこの日はほんと生きてて良かったと痛感した。
19-20/2 Hastings
結局、我々3人は眠らずに飲みながらしゃべり続け、午前4時に子呼呂さんにPictonまで送ってもらった。子呼呂さんとはSydneyで会うことになっている。
さあ、約4ヶ月ぶりの北島。フェリーに乗るやいなや、私は速攻寝てしまい、気づいたらWellingtonに着いていた。さあ、ヒッチといきたかったが、着いたとたんにいきなり豪雨。これにはまいった。ここまで来たらバスは乗りたくないが、私には何といっても時間がない。ただ、以前Palmerston Nth.からWellingtonに来る時に、大雨のため旅始まって以来バスに乗ってしまった屈辱を味わったので、今日はそのrevengeを果たしたかった。そこで、私は2時間近く雨が止むのを待つことにしてヒッチを開始した。
しかし、私は元々Aucklandがフランチャイズ。よって、敵地の地理が分かるわけがない。ヒッチポイントを色々試行錯誤しているうちに、最終的にヒッチを開始したのはその3時間後の午後12時を回っていた。しまった、このままでは今日中にHastingsに着けない。しかし、私の予想に反して、一台getした後は所々待ったりしたが、阪神の勝ちパターンの継投策のように、次の町まで行くというおっちゃん、ただで乗せてくれたバス、ドラマでいつもオチ役が似合いそうなおやじ、義足のねえちゃんと乗り継いでPalmerston Nth.までたどり着き、revengeを果たした。
しかし、ここからが苦労した。何もないところで1時間以上待ち、その危機を救ってくれたのが、オランダから45年前に移住して来たじいさん。そのじいさんのおかげで、何とか午後7時過ぎにHastingsに着いた。
最後に乗せてもらった兄ちゃんにある宿で降ろしてもらったが、私の予想通りどこの宿もピッキングの連中でいっぱいで、それに1週間だけのピッキングは絶対どこも雇ってくれないと言われた。最低1ヶ月。まいった。数々のピッキングを経験した私としては、「ピッキングの王様」であるapple pickingをせずには日本に帰れない。私は色々考えた結果、とりあえずその日はキャンプ場にテントを張り、時間がなく、輸送手段がなかった私は最終手段に出た。そう、トニーに電話することにした。トニーは、私が去年7月にTaurangaで地獄のpruningをしていた時のボスで、この近くのHavelock Nth.でpickingのcontractorをやっている。もうここに行くしかない。しかし、正直なところ私は乗り気ではなかった。なぜなら、トニーはインド人で、私がこの世の中で一番嫌いなものは、そうインド人だからだ。しかし、そんな事は言ってられない。早速、トニーに電話すると、
「おお、来い来い。いつからでもいいぞ。」
と、あっさり仕事がgetできたので、私はおかしいなと思ったがまあいい。とりあえず、トニーの元へ行くことにした。
20-22/2 Havelock North (before
apple picking)
Havelock Nth.までは日本人の3人組みが乗せてくれ、トニー宅に着いた。トニーは相変わらず人相が悪い。おそらく、初対面で見知らぬちびっこがトニーの顔を見ると、間違いなく泣き出すだろう。
私はトニー宅でテントを張らしてもらうつもりだったが、夜になるとここのドーベルマンを放し飼いにするため、中のベッドで寝ることになった。同じ部屋には、なんとTaurangaで一緒に働いていた韓国人の少しホモっぽいおやじ、チャールズがいた。ビックリだ。そして、早速トニーと仕事の話をすると、ガーーーーン!!squash(カボチャ)picking?????電話でちゃんとリンゴのピッキングをしたいと言ったやろ、トニー。それも、私以外はすべてインド人とネパール人。まあ、Blenheimでいっしょのmotor campにいたネパリのビーノと再会できたのはうれしかったが。私はトニーに何とか一日だけでもapple pickingがしたい旨を伝え、トニーは何とかしてやろうと言ってくれた。まあ、それを信じるしかないだろう。
それにしても、トニー宅にはおびただしい数のインド人が集まってくる。毎日、かかっているのはインドの音楽だし、毎晩のようにインド映画のビデオを見ている。相変わらず、役者が映画の途中で踊り出すし、世界最低のインド映画を見て爆笑しているインド人の心境がわからん。まあ、わかりたくもないが。彼らはいつもチャパティーとカレーを食っていて、食後はチャイ。トニーは毎晩のように銭の事で誰かともめているし、部屋に戻ればホモがいるし。庭のドーベルマンは私の大のお気に入りの小結サンダルを噛みちぎり、私の思い入れの深いホーキンスのワークブーツも噛みちぎりやがった。ここはどこだ!!!!NZじゃないのか???私はインドに来たわけじゃない。ああ、普通の生活に戻りたい。私は、かすかに記憶にある昔懐かしのキャンディーズの蘭ちゃんの引退会見のコメントを思い出した。
Squash pickingは、あれは地獄だ。私が嫌だったのは、何といってもインド人たちの視線。往年の大関北天佑(現二十山親方)対大関若嶋津(現松ヶ根親方)戦の仕切り時のあの両者の鋭い目とそっくり。それに比べて、ネパリたちのやさしいこと。ネパリたちもインド人を心の底で嫌っており、
「学、我々の方に来て一緒に仕事した方がいい。インド人は自分の得にならないことはしないから。」
と気遣ってくれた。仕事は炎天下の中、大型のコンベアに選別したカボチャをひたすら投げ込むだけ。これは旅行者がやらないわけだ。長年これをやってるネパリの一人が、
「おそらく、日本人でsquash pickingをしたのはお前だけだ。」
と言ってたぐらいだ。
仕事を終えた夜、私は明日のことをトニーに尋ねると、
「お前にはsquash pickingは無理だ。」
と言い出した。現場にも居なかったくせに何を言う。その理由を聞くためにトニーを問質してみると、どうやら何人かのインド人が素人の私と仕事をするのが嫌で、私が仕事中あまりのしんどさにずっと座ってたと嘘を言ったらしい。やっぱり、インド人は好きになれん。だから、トニーに始めに素人が入ってもいいのかと何度も確認したのに。ビーノにこのことを言うと、
「インド人のしそうなことだ。」
と言ってた。全く信じられん。Indianは嘘つかないはずなのに。そしたら、私はどうしたらいいのか。
「自分でapple farmを探せ。」
と、トニーは言ってきた。そのことを先に言え。できれば、そうしてた。この時点でここを出ても良かったが、時間のない私にはどうしようもないし、apple pickingを諦めきれない。よし、こうなったら自分でやろう。人に頼った自分が悪かった。そう思わないとやってられん。次の日に、トニーに庭の自転車を借りて仕事探しに行こうと思ったら、奥さんが、
「その自転車は私の姪のだからだめ。」
と言ってきた。乗っていいと言ったんちゃうんか、トニー。もう、トニーの馬鹿さ加減には涙が出てくるで、全く。私はまたもやあばれはっちゃくのおやじ(役は東野英心、昔の水戸黄門役の東野英治郎の息子)の心境だった。
よし、こうなったら賭けだ。ここから一番近いorchardに行ってだめなら諦めよう。私は歩いて20分ぐらいのapple orchardを訪ね、ここのオーナーのモーリスに、
「4,5日だけでいいから働かせて。」
と自分のapple pickingに対する思いを切実と語り、するとその願いが通じたのか、快くOKしてくれた。なんと、いい人なのか。私は再び有森裕子の心境になると共に、お金以上に仕事ができる喜びを感じ、阪神を回顧されオリックスに拾われ、野球ができる喜びを味わった元阪神タイガースの脅威の5番打者岡田(現阪神二軍監督)を生まれて初めて意識した。
23-28/2 Havelock North (apple
picking)
apple pickingができるとなって、私はうれしくて仕方なかった。暑さ、仕事の辛さは全く気にならない。Alexのapricotの方が100倍辛かった。私は一日だけのsquashを含めてこのappleでpicking 6種類目になるが、私がpickingに求めている美学は「超一流のpicker」だ。松山千春がよく言う「超一流」とは、野球で例えるなら打率王、打点王、ホームラン王はいわゆる一流選手。このすべてを兼ねそろえた選手こそ「超一流選手」。つまり、pickingのスピードは速く、それでいて取った物のqualityも問題なしという「超一流picker」こそ私の最終的な到達点だ。
ここのorchardは、1bin(箱)に二度も検査員のおばちゃんがチェックに来るほど、qualityの管理は徹底していて、モーリスはほとんどのリンゴをアメリカを中心とした海外向けに考えており、国内市場には目を向けていない。当然、その方が儲かるし、モーリスのorchardのリンゴのqualityがいいとモーリス自身の評判も上がるからだ。そうなると、お得意様も増える。
そのチェック方法は、ランダムに25個リンゴを抽出して、その形、色、大きさ、傷のあらゆる要素のチェックを二度した後、つまりtotal50個のリンゴを検査した結果、それにパスできなかった割合をパーセンテージで表わし、全体の90%以上のgood qualityなら$32/bin、85%〜90%(85%と見なされる)なら$30/binと値段が下がっていく。他のorchardではこれほど厳しくはチェックしないようで、AlexのorchardでNo.1 pickerと言われqualityには自信があった私だが、この自信はおばちゃんによって尽く崩された。そう、ここのorchardのqualityの水準は私のレベルよりもはるかに上回っていたのだ。それでも、一回目の検査で88%を出した私に対して、おばちゃんもモーリスも、
「学、すごいよ。」
と誉めてくれたが、「超一流」を目指している私としては自分のレベルの低さにショックだった。85%は頑張れば誰でも取れる。まあ、これは関脇レベルで、90%は大関。コンスタントに90%以上を取れる人は横綱で、ここで長年働いているデイビットは98%という驚異的な数字を難なく出してしまい、彼は悪くて92%。スピードも速いし、デイビットは横綱の中でも大鵬、北の海、千代の富士レベルで、まさしく私が目指すところの「超一流」。それに比べて、私は常に大関候補の魁皇、武双山レベルか。まだまだ稽古が必要だ。
ただ、私のpickerとしてのレベルが首脳陣の予想を上回っていたのか、トラクターのおっちゃん、おばっちゃん、モーリスも、
「もう帰っちゃうの。来年、絶対戻っておいでよ。」
と言ってくれた。広島を回顧された小早川がヤクルトに移って、開幕戦の巨人戦で3ホームランを打ったようなもんだ。こういったコメントは心の底からうれしい。
最終的に、デイビットに速さではほぼ互角に対抗できるようになったが、qualityでは到底及ばない。琴錦が突き押しでは貴乃花に対抗できるが、四つになるとどうしようもないのと同じだろう。私の5日間のaverage qualityは88%。90%を越えたことも結構あったが、まだまだ「超一流」には程遠い。それにしても、ここの人々にはお世話になった。本当にいい人たちで、楽しい5日間だった。
仕事が終わって、家に帰ってもインド人世界。それを救ってくれのは、私がHavelock Nth.に来る時にpick upしてくれた日本人の一人、由紀ちゃんだ。由紀ちゃんはこの近くの大屋敷でハウスキーパーをしていて、私はしょっちゅうこの大屋敷に遊びに行ってた。ここのオーナーもすごくいい人で、また悪ガキ四姉妹がかわいこと。私はすっかりここの一員になって、ちびっこたちと遊んだり、算数を教えてあげたり、楽しい一時を過ごした。由紀ちゃんには本当にお世話になった。そのお礼に南島情報を隅から隅まで教えてあげた。ほんと人との繋がりは分からんもんだ。
28/2-2/3 Napier
Havelock Nth.を出る前に、私はNapier在住のさとるさんに電話した。さとるさんとは、去年8月にWanganuiのBPで知り合って、New Plymouthまで乗せてもらった事があった。そのさとるさんは、アメリカが本社のいわゆる外資系企業Heinzの社員で、現在Hastingsにあるその工場に勤務している。HeinzはNZで「Watties」という名で、食糧品の缶詰を中心に生産していて、その生産高はNZ市場の8割は占めるという。当然、海外向けの商品も作っていて、私は以前その話を聞き、工場を訪ねてみたくなり、忙しい中さとるさんに時間を取って頂いた。
この日は日曜日だったので、トマトソース部門しか動いていなかったが、大量のトマトが一連の流れで業務用のケチャップに変っていった。それと、実際こっちで作って、日本語でパッケージされた商品を見る事もでき、短い時間だったが貴重なものを見せてもらった。さとるさん、忙しい中有り難うございました。
Napierまでのヒッチは速攻で、久しぶりにこの地を訪れた。相変わらず海がきれいで、私のお気に入りのところ。とにかく、この1週間の生活がhardだったので、Napierではのんびりしていた。
2-4/3 Gisborne
私はこっちに来てもうヒッチでgetした車の台数は150台を越えるが、こんな運転手は始めてだった。私がヒッチポイントに向けて歩いていると、一人のアメリカ人がpick upしてくれたのだが、この兄ちゃんは次々とヒッチハイカーを拾っていき最終的に見知らぬ4人が同じ車になった。こんな事は今までなかった。
次にpick upしてくれたおばちゃんも面白いおばちゃんで、おばちゃんの今の最大の悩みは韓国に留学している次男の事で、この次男が韓国人の女の子と結婚して、Soulに住みたいという。
「何とかならんもんかね、兄ちゃん。」
と言ってきたが、そんな事は知らん。とにかく、話題豊富なおばちゃんだった。
GisborneもNapier同様、海のきれいな町。世界で一番夜が早く明ける町として、西暦2000年に向けて着々と準備が進んでいた。
私はここで体調を崩し、ここに滞在している間テントの中で闘病生活を送ってた。体がだるくて、寒気がする。扁桃腺も腫れてきたし、私特有の風邪だ。体調を壊したのは、バヌアツを除いてはこっちに来て初めて。出国間近というのに。私はありったけの薬を飲んで、テントで闘病生活を送ってた。
4-5/3 Gisborneの近くの知らない町
何とか熱っぽいのは治まったが、体調は依然良くない。しかし、私には出国まで時間がない。バスで行くかどうするか。ここまで来たらヒッチしかないやろう。そう思って、体調が最悪の中ヒッチ開始。
30分ぐらいして、町外れまで行くというおっちゃんに乗せてもらったが、ここからが悪夢の始まり。車の数が少ない上に、全く無視状態で通りすぎていく車ばかり。その上、雨が降ってきて、その雨は一段と強くなってきた。私は何とか大きな木を見つけ、その下で雨宿りしていたが、体はずぶ濡れで完全に冷え切っていた。体調が良くない上にこの状態はきつい。途中、近くに住んでいるおばあちゃんが辛そうな私を見かねて、リンゴを持ってきてくれた。
結局、5時間近く経っても車は止まってくれず、雨は強くなる一方。とその時、さっきリンゴをくれたおばあちゃんが、
「もし急いでなかったら、今晩家に泊まっていきなさい。」
と言ってくれた。どうしよう。次の日までには絶対Taurangaに着きたいし。しかし、今日は立っているだけでも辛いぐらい体調が良くなかった。そこで、この親切なおばあちゃん宅にお世話になる事にした。
おばあちゃんは私に温かいコーヒーとお菓子を作ってくれ、私は涙が出そうになっていると、
「ところで、Jesus Christの話知ってる?」
と言ってきた。なに????言われてみれば家の至る所にイエスの肖像画があるし、ドアには十字架が。そこからはおばあちゃんの天下。どんどんと私にイエスの教えを説いていき、聖書やそれ関連の色んな本を持ってきて、
「これを読みなさい。私がここにいると読む邪魔になるね。ここのソファーに腰掛けてゆっくり読みなさい。」
と、最悪の体調の私がイエスの教えの本を読む事になった。辛い上に、訳の分からん内容。私は宗教には全く興味がなく、第一体調が悪くて座っているのも辛い。なぜ、私はいつもこういう目にあうのか。とりあえず、私はシャワーを浴びて体を温めたかったが、おばあちゃんはお金がかかるからといってお湯のタンクを持っていない。私はイエスを恨んだ。皆に平等のはずのイエスに一言。
「どうして、私をこの危機から救ってくれないのか。」
晩飯前に少し眠らしてもらったが、食事中もずっとおばあちゃんの教義。
「イエスが私の中にいる。私はイエスの声が聞こえる。」
とか、
「あなたを救ってあげたのもイエスのおかげよ。」
とか。頭がおかしくなりそうだった。
40年前に夫を亡くしたおばあちゃんの宝物は4人の息子さん。だから、子供や孫の話をする時はほんといい顔をしていたし、4人の息子さんもいい顔をしている。イエスに頼らざるを得ないぐらい今まで辛かったのかもしれない。イエスの教えは余計だったがほんとに心の優しい親切なおばあちゃんだった。そんなおばあちゃんも今年80歳。いつまでも長生きして下さい。ありがとう。
5-9/3 Tauranga
お世話になったおばあちゃんの元を離れて、再びヒッチ。私はこの日ヒッチして以来始めて「Tauranga」と書いたボードを持った。少し作戦変更だ。たまに葛西を先発から中継ぎ、押えに持ってくるようなもんだ。ただ、この日もヒッチは絶不調で、ようやく見るからにヤンキーという2人組みが乗せてくれた。彼らの行き先は運良くAuckland。Taurangaを通るではないか。私のヒッチの危機をいつも救ってくれるのは、不良学生、ヒッピー、ヤンキー、ホモといった世間では煙たがられている連中。彼らはほんとに心の底からやさしい連中だ。
「近頃の若いものは。」
と言っている連中こそ、自分を省みるべきではないだろうか。
ついに帰った来た我が故郷、Tauranga。私のNZ200%生活はここから始まったと言っていい。Aucklandの拠点があのフラット、ch-chがFoley tower BPとしたら、TaurangaはJust the Ducks Nuts BP。もう我が家のようだ。ここに3ヶ月もいた。昔の仲間はすでに誰もいないが、ここに帰ると落ち着く。宿もすっかり変っていたが、ここにいるだけで世界中に帰っていった仲間たちとの思い出が浮かんでくる。町に出ても懐かしさでいっぱい。やっぱり、Taurangaは最高だ。
Taurangaにいる間はずっと雨。私はどうしてももう一度だけMt. Maunganuiに登りたかったので、一日出発を遅らせた。一日延ばしても天気は良くならなかったが、念願の山登りができ、beautiful sceneryが見られた。この一日延ばしたのが、ある人との再会を招いた。そう、昔のオーナー、JackieがたまたまTaurangaに帰ってきて、私がいるという情報を聞きつけてわざわざ忙しい中を会いに来てくれた。それも、二度も。こんなにうれしい事は今まであっただろうか。1985年我が阪神タイガースが日本一になった時のようだ。Jackieも大喜んでくれた。よし、これでもうAucklandに行ける。
TaurangaではInland Revenue(税務署)にtax returnの申請に行った。Taurangaで働いている時に、仲間であるLynnとKellyが、 「学は税金の8割返ってくるからね。役人に騙されない様にね。」 「8割返ってくるはずやろ。」 「人によって違う。制度が変った。」 |
9-13/3 Auckland
私のNZ最後のヒッチはすんなりいった。それも、TaurangaからAucklandの南のManukauまで行くというトラック野郎。私の最後のヒッチにふさわしいトラック野郎。一番星の桃次郎ってタイプのいかにもトラック野郎。こんなすんなりいっていいのか。しかし、やっぱりおちがあった。途中での荷物の積み下ろしがあった。前回(11月末)は、冷凍物、今回は、なんと重機。重かった。長距離のトラックはなんかおちがある。最後にして疲れた。
久しぶりの大都会、Auckland。今年のAPEC(アジア太平洋経済会議)に向けて、町が徐々にきれいになっている。Aucklandでの予定はカジノざんまいのつもりだった。というのは、もう昔の仲間はいない。いるのは、元フラットメートの尚史さんと、恩師ウォルター。この2人に会って、それ以外はカジノかなと思っていたら、私がバックパッカーに向かう途中に、のりのりと真吾君がいるでは。彼らとはBlenheimで一緒に働いて、Onukuで漁生活もし、Alexでも一緒に仕事をした仲間。おお、またもや再会。のりのりは次の日に帰国し、真吾君は銭がなくなって困っているとか。我々は思わぬ再会に言葉を失い、そうこうしているうちに、Blenheimで一緒だった甲斐夫婦の敬子婦人とも再会。夫の裕二郎さんと共に私と約束した通りバヌアツに行って一日前に帰ってきて、来週帰国するという。なんとも偶然。それに、彼らの宿にはBlenheimでいっしょだった弥生ちゃんもいるとか。あと、Queenstownで出会って、Te Anau、Alexで再会した淳一さんもいるらしい。偶然とは恐いものだ。カジノざんまいのつもりが、うれしい誤算でみんなと会う予定が次々に入った。これで、おそらくカジノへ行く時間はなくなるだろう。私はなぜいつもこう忙しくなるのか。甲斐夫妻のいる宿でも、
「学さんですよね。覚えていますか。」
と何人もの人に聞かれた。人を覚えるのが苦手な私は当然忘れていたが、私も有名になったものだとつくづく感じた。ちなみに、私が泊まっていた宿でもStewartで会った学生と再会した。
Aucklandに戻っても私の体調は優れない。扁桃腺が腫れている上に、リンパ腺も腫れており、頭痛、さらに肺と胃が痛い。どうなっているのだ、この体は。しかし、休んでいる場合ではない。旅先であったメンバー以外にも、恩師ウォルターと尚史さんに会わねば。
私が生まれて今まで会った先生の中で、先生として、人間として尊敬できる人はこのウォルターただ一人。学校では先生、それ以外では友達という付き合いをしていた。私がNZで情報屋になったのもウォルターのおかげ。NZに来て間もない頃にkiwi fruit pickingをしたかった私に、Keri keriを薦めてくれた多くの日本人とは違って、
「学、Taurangaに行け。」
と言ってくれたり、
「stone fruitはBlenheimよりもAlexかRoxbough。」
と教えてくれた。今回ナウル共和国の事を聞くと、さすがは情報屋でナウルの事を詳しく知っていて、
「お前にナウルは合わない。あそこはオーストラリアの金持ちが行く国。お前に合うのはキリバスかマーシャル諸島やな。」
と教えてくれた。私のNZヒッチハイクマップを見せても、にこっと笑う反面、
「なぜここの道を通らなかったの。ここ、最高にいいのに。」
と、さすがは情報屋。ウゥルターは忙しい中、時間を取ってくれて一緒に飲んだ。我々が生徒の時が一番楽しかったという。今の生徒はおとなしくてつまらないと言っていた。彼に出会えて本当に良かった。ウォルターも我々出来の悪い生徒とはこれからも連絡を取り続けたい様で、私にあの時のメンバーの住所を聞いてきた。。
元フラットメート、尚史さんとも再会。尚史さんにはサーフィンを教えてもらおうと思ったが、私の体調がいまいちなので断念した。しかし、昔からのフラットの住人直子さんとともに、3人で再会できうれしかった。よし、これでNZはもういい。出国できる。丸1年間のNZ生活がとうとう終わった。
ここで、私が行ったpickingのうち主要なkiwi fruit, cherry, apricot, appleのデータをまとめてみましょう。このデータはあくまでも私の能力に基づいた、pickingのmain seasonでの数字で、時期、天候、労働時間、個人差によって大きく左右します。NZの前評判ではapple pickingはいわゆるpickingの「王様」として知られています。そうすると、cherryは「角行」、kiwi fruitは「飛車」でしょうか。まあ、apricotは「桂馬」ですね。
実質労働時間 1日に取る個数 日給(including tax, 20.7%) 時給(including tax, 20.7%)(contractの時、時給制の相場は$7.00〜8.50) 100個当たり(including tax, 20.7%) |
さあ、この慣れ親しんだこの国とも13日でお別れです。次は、Sydneyです。私のOZ行きはあくまでもナウル共和国情報を得るためですが、問題はお金の方ですね。この先の2ヶ月の展開が全く読めません。
当初の予定では、2,3年日本に帰らないつもりでしたが、5月に帰国する事にした理由が3つあります。一つ目は、お金の問題。お金はなんとかなるやろう、と甘い考えでいましたが、見知らぬ国で一人で生きていくというのは大変ですね。それに我々は言葉のハンデがあるし。いくら景気が悪いからといっても、日本で稼ぐ方が断然いい。
二つ目は、礼文に戻りたくなった事。こっちの色々な宿の人に親切にされ、もう一度私も礼文で客商売がしたくなりました。2年前に大将には、もうこの年で終わりと伝えたのですが、今年の夏にまた戻ります。その旨は大将に伝え、快く受け入れて頂きました。
礼文に帰るに当たって一つ思い付いたのは、実は南島のPunakaikiというところにTe nikau retreatというBPがあるのですが、ここのオーナーは自身の撮った写真をアルバムに挟んでそれをラウンジに置き、これがお客さんに評判よく、私はこれにヒントを得て、今年の夏にうちの民宿のカウンターに、私が今まで旅した紀行文、写真をすべて置こうと決めました。そして、お客さんに十分に当民宿を楽しんでもらおうというのが今回の主旨です。
では、ここで礼文島ならびに当民宿「はまなす」のご紹介。
花の浮島礼文島。来るお客様に対しては「お帰りなさい」と迎え、去っていくお客様に対しては「行ってらっしゃい」と送る礼文の皆様。日本最北限のスコトン岬、その名の通りの澄海(スカイ)岬、国の天然記念物レブンアツモリソウの群棲地。奇妙な形をした桃岩に猫岩、レブンウスユキソウの群棲地のある礼文林道、桃岩から元地灯台までのお花畑散策路。見所沢山の礼文島。食材も豊富で、最高級の馬糞うにをはじめ、紫うに、ホッケ、ツブ、タコ、イカ、カレイ。ろばた焼き「ちどり」でホッケのちゃんちゃん焼きを食べ、その後は「さざなみ」のソフトクリームという私が考え出したフルコースを経験してしまうと、もうあの世に行っても悔いはないでしょう。それと、何といっても最高級の利尻昆布。昆布漁の日はたまに小学校も休みになるぐらい昆布漁は島で重要なイベント。この日だけは私も大将も漁を優先させます。ちなみに、うに漁の日の夕食には、当民宿でもうにをおかずに出します。
香深港から当民宿までは車で5分(その送迎は私が行います)。部屋からはお隣の島、利尻島の利尻富士がそびえたち、ここから見る夕日はまさに絶景。人数次第で約3時間半かけて私がバスで島内観光を致します。もうこの夏は礼文しかない。礼文、礼文、礼文。日本最後の秘境、礼文島。この夏は礼文があつい!!!
アクセス方法
東京〜稚内(飛行機)2時間、稚内港〜香深港(フェリー)2時間弱
東京〜札幌(飛行機)1時間半、札幌〜稚内(バスまたは電車)6時間
東京〜旭川(飛行機)2時間弱、旭川〜稚内(バスまたは電車)4時間
香深港からは私が送迎致します。
北海道礼文郡礼文島香深字知床
民宿はまなす
tel 01638-6-1513
営業期間 5月末〜9月いっぱい(9月は昆布作りのため閉めるかもしれません)
では、大将ならびに当民宿従業員一同が皆様のおこしをお待ちしております。
三つ目の理由は、日本の事をあまりにも知らなさすぎると思った事。日本で色々な事をしてきたつもりですが、まだまだ日本は広いなと痛感しました。そこで、今年度の最大の企画、「日本縦断、バヌアツ大使親善ツアー」を決行します。民宿を閉める10月頃から、稚内を皮切に、バイクでバヌアツの旗を持ちながら、NZで知り合った人ならびに今年来るであろう民宿のお客さんを中心に訪ね、その絆をより深めながら東北、北陸、山陰、九州と私にとっては余りなじみのない日本海側を回ってみようという事を思い付きました。大体期間は2ヶ月ぐらいで、鹿児島まで行ってお金がなくなれば、沖縄県与那国島に渡ってサトウキビ狩りに行きます。でも、できれば沖縄は後に残しておきたい。予定では、九州の後山陽を通って大阪に戻り、すぐにタイに飛んでラオスに入り、そこからカンボジア、ベトナム、中国、韓国と渡って、プサン港から船で日本に戻るというのが西暦2000年の計画です。さあ、まだほとんど日本の皆様に教えていなかったこの企画。いかがなものでしょう?問題は、東京に置いている私のバイクが動くかどうか。これがすごく重要です。
海外を旅していると「日本人で良かった」という事を痛感します。国内にいる皆様にはわからないと思いますが、それは私が日本人だけの特権を十分利用しているからでしょう。その特権とは、「日本人である事」です。私がどういう事を意味しているかは皆様でお考え下さい。私はもうしばらくの間この特権を使って、色んな所を飛び回ってきます。まだまだ落ち着きそうにないですね。
いかがでしたか、今回の企画。E-mailというメディアを使ってほぼリアルタイムでこちらの情報を伝える。正直、疲れました。もうこういった事は二度としたくないですね。
長い間御静聴有り難うございました。また、世界中のどこかで会いましょう。
P.S.
Notice
尚、今からこのパソコンは日本に送り返します。ですから、私のアドレス(S471218@aol.com)とは交信できなくなります。5月半ばまでには帰国しますが、もし何かあればこっちで作った私のもう一つのアドレス(manabu1218@hotmail.com)に連絡下さい。このhotmailはe-mailが使える国ではどこでも使えると思うますが、当然今度は英語のみです。帰国して日本にいる間は、携帯電話やPHSに時間を取られるのが煩わしいのでおそらく携帯しませんが、パソコンを持って礼文に行ったり旅に出たりすると思うので、適当に送ってみて下さい。
謝辞 長い間ホームページの編集有り難うございました。実験がお忙しい中、本当にすいませんでした。おかげさまで色々な方からご好評で、時にはうまくアクセスできないとか、更新が遅いといった苦情も来ましたが、何とか1年間うまくやってこれました。今年1年はポスドクとして研究室のために頑張られるそうですが、但野教授を始め、皆様によろしくお伝え下さい。本当に有り難うございました。 |