9月18日

「これで何回目やろ、稚内−札幌間」

3ヶ月以上もいた礼文を出る日がついに来た。もう礼文が長い俺としては寂しさも悲しさもない。それ以上にこれから先のことを考えるとそっちの方が不安だ。果たして無事旅を続けられるか。バイクは大丈夫か。

この最後の1週間はとにかく忙しかった。何と言ってもHP。民宿の仕事をしながらのHPの編集は辛い。仕事を引き受けへんかったらよかったと後悔もしたが、人に任せて嘘を書かれるのだけは嫌だ。自分でやれば納得するし。大将はどういうつもりかは知らんが、この1週間の俺への負担は異常やった。season中よりも忙しかったかもしらん。それと、島の人々との送別会。今さら送ってもらうのもどうかと思うが、それは好意として受け取ろう。孝やあんちゃんと飲んだ時は本当に申し訳なかった。主役が途中で帰ってしまったからな。昨日は昨日でおかんや友美ねえ、それに知子には悪いことをした。一度でみんなと楽しもうというのは自分勝手だ。合う人もおりゃ、合わん人もいる。それをうまくまとめるのが俺の仕事だが、島の人は我が強すぎてあかん。こうなるとは予想がついたが。俺は欲張りすぎだ。もっと周りのことを考えんとな。

結局、早朝まで出発準備がかかった。出発する時はいつも慌しい。見送りはいいと言ってはいるが、島の人々が黙ってるわけない。大将、友美ねえ、知子によぴ、こうやさん、孝、あんちゃん、越後さん、今野さん、まりちゃんetc.。皆様の好意には感激だ。しかし俺は眠い。船が出てしばらくすると俺は速攻客室に入って爆睡した。今年の礼文も終わった。来年はどうするか。それは来年にならなわからん。

久々に稚内に戻った。文明社会に戻った感じだ。そして2年前に真紀ちゃんと一緒に行った食堂でラーメンを食い、俺の旅が出発した。バヌアツの旗を掲げての「バヌアツ親善大使全国縦断」ツアー。稚内−札幌間はこれで何度目やろう。俺にとってはこの道のりは単調だ。今日は西風が強いし、気温は低い。特に、天塩までは寒くて寒くて。途中で冬用のグローブに替えた。

小平のコンビニで少し休憩し、留萌で給油した以外は休まないでひたすら札幌に向かって走った。もう眠くて眠くて。このまま寝てまおうかなとも思ったぐらいだ。それぐらい俺にとってはこの間は単調な道。稚内から約5時間半ぐらいで札幌に着いた。久々の札幌だ。俺の旅の道中で最初に会うのは、そう、北大農化のメンツだ。この連中はほんとにいい。一緒にいるだけで居心地いい。歳は取ったが集まれば昔のまま。いつまでも学生時代のノリ。いいね、いいね。こいつらとはいつまでも付き合っていきたい。

稚内−札幌 314km

9月18日−24日

「札幌滞在記」

札幌での仕事は何と言ってもHPの編集。礼文で文章だけ作って、札幌ではそれを完全なものにする。石狩にいる鈴木さんのofficeで編集したわけだが、初日の道中でとんでもないことが起きた。そう、石狩に向かう途中でエンジンから煙が出てた。俺は心臓が止まりそうやった。よく見るとエンジンオイルが切れかけ寸前やった。なんとか応急処置としてGSで車のオイルを補充したが、バイクの手入れには気つけなあかん。

HPの出来はまずまずってところか。久しぶりにマックを作って緊張したが、パソコンの技術の進歩の速さには脱帽だ。俺が東大時代に最新だった技術はとっくの昔だ。でも、今回の件でHPの作り方がわかった。鈴木さんにはほんまに世話になった。めしをおごってくれた上に、色々教えてくれた。1人での編集は大変だと思うが、鈴木さん本人が言ってたように仕事を楽しんでいるってことはいいことで、それが一番の理想やろう。とにかく、HP楽しみにしています。

但野先生と会えたこともよかった。忙しい中をわざわざ俺のために時間をあけて下さった。元々は俺の生き方に反対していた先生だが、どうやら最近は認めてくれたようだ。それに、たかだか1年しかラボにいなかった俺にラボの内情を語ってくれた。今回は筋を通せてよかった。和崎さんにも感謝やな。先生と飲む機会や泊めてくれたりと色々世話になった。結婚式には行かれへんかったからな。嫁になった木戸っちとも再会できたし。もう感謝、感謝。

札幌の仲間はいつ会ってもいい。しかし、札幌に来ると辛い。毎日飲み会やからな。久しぶりに彼らに会ったが、みんな心が病んでるな。これが今の日本人なんかな。まあ、その悩みを打ち明けてくれることはうれしいし、何とかしてあげたい気はあるが、その前に本人が強くならんとあかん。昔の仲間が今の自分自身に納得していないのは当たり前と言えば当たり前。生きていく、銭を儲けるってことはそんな簡単やない。このことはみんなわかってるようでわかってない。こんな世知辛い世の中にいるんやから心が病んでくるのは無理ないが、大好きな仲間が辛い顔をしているのを見るのは俺も辛い。なんかあったらいつでも頼ってほしい。俺でよければ力になるで、また会おう。

9月24日

「台風のおかげで…」

眠い。とにかく、飲み疲れた。のんだくれの家を朝7時過ぎに出て、徳さんのところにバイクを取りに行ったが、眠くてあかん。それと、何と言っても気になんのは台風。天気予報では今日の深夜から明け方にかけて北海道に上陸するとのこと。こはれやばい。室蘭から八戸へ渡るか、函館から青森もしくは大間に渡るか。微妙なところだ。函館まで行って欠航ならどうしようもないし。フェリー会社に電話してもわからんとしか言わんし。そして、昼までウトウトしながら考えてると雨が止んだ。よし函館に行こう。さあ、出発と思ってもう一度フェリー会社に電話すると、な、なんと、今日のフェリーはすべて満席とのこと。あほや。台風のことばかり気にしてて肝心のフェリーの空席状況を忘れてた。ああ、情けない。

徳さんには色々世話になった。お母さんにも世話になったな。俺が来るといつもめしを作ってくれ、どんな時も笑顔で迎えてくれる。今朝も早くに眠かったと思う。それに、いつものケーキ。徳さんのケーキがまたうまい。ほんまにありがとう。

函館までの道のりは久しぶりだ。中山峠を過ぎると晴れ間が見え、洞爺に着く頃には青空だ。しかし、八雲に入る頃になるとすごい霧。視界が見えん。ガスがかかってる上にもう夕暮れ。俺は少しペースを上げ札幌を出て約5時間で函館港に着いた。函館港に着いたんはいいが、台風のため大間、青森行き共に欠航が決まっていて、次にいつ出るかわからん。しまった、札幌にいればよかったかな。しかし、明日中には青森に入りたいし。とりあえず、俺は手続きを済ませ、バイクのキャンセル番号3で港で待つことになった。テレビではしきりに台風情報が流れる。果たして俺はいつ青森に行けるんや。港のロビーでは俺と同じような人々が心配でテレビを見てる。ライダーもかなりいるが、車の人がほとんどや。となると、船が動けばライダーは乗れるやろ。この待ち時間はどうしようか考えていたが、こういう時は携帯電話だ。みんな心配してかけてくれる。全部で10件以上はあったんちゃうか。こういうのはうれしいね。お陰でいい暇つぶしができた。

札幌−函館 250km

9月25日

「再び本州へ & 薄井との再会」

深夜を過ぎてからか、外が騒がしくなってきた。そう、すごい風だ。雨量はそれほどでもないが、風はすごい。海から波が防波堤を越してターミナル近くまで打ち寄せて来た。参ったな。俺はバイクを建物の近くまで移動させたが、これだけでは心配だ。心配で寝られん。参ったね。

朝7時ぐらいには風も収まった。しかし、大しけだ。これじゃ船は動けんな。とにかく、いつ出られるかはわからん。全く台風18号のおかげでこっちはえらい迷惑だ。周りの人々もイライラしている。今日中に秋田まで行かなあかんのにな。

午前10時前かな。いきなり放送がかかってバイクのキャンセル待ち9番までは4番乗り場に来いとのこと。おい、おい、ほんまかいな、このしけで。でも、動くのに越したことはない。俺は言われた通りバイクを積み込んだが船内は揺れまくっている。しかし俺にはそんなことはどうでもええ。客室に入るやいなや、速攻寝てしまった。

午後4時前に無事青森港に着いた。さあ、薄井のいる秋田県大潟村までだ。青森に来たのはこれで3度目だが、青森市は初めてだ。さすがに町中は混んでいる。NZを旅して以来俺には都市は興味ない。よって、青森市内は軽く通り過ぎた。

国道7号を南下し弘前周辺になるとapple orchardが道端に広がり始めた。全く懐かしい。今年の2月にはHavelock Nth.でapple pickingをやったもんな。これからはリンゴの季節。NZのorchardに比べればかなり質がいい。orchard自体手入れができてるし、実を1コずつ袋にかぶせてるのもあり、またマルチをしているのもある。広さ的にはNZの方がでかい。まあ、多くのpickerを雇うぐらいやからな。俺が心配なんは台風の影響だ。当然、被害はあったと思うがそれが最小限であることを祈るだけだ。

国道7号をさらに南下し、青森と秋田の県境を通過する頃には辺りは暗くなり雨が降り始めた。やばい。台風が過ぎた後やろ、なんで雨が降んねん。峠は冷えるし雨には濡れるし。いやー、これには参った。そして、バスケットで有名な能代市に入り、さらに20kmほど行くとようやく薄井との待ち合わせ場所に到着し、そこからさらに15kmほど西へ向かって、やっと大潟村に着いた。薄井は元気そうでなによりだが、おいおい田舎やんけ大潟村。こんな田舎に俺が驚いたのは、なんと立派なホテルがあるじゃないですか。俺は始めカジノかと思ったで。1泊6,000円ぐらい。このホテルの横には温泉があって、入浴料300円。コインロッカーが10円やったのはいかにも村らしい。ここの温泉はなかなかgood。疲れがとれる。

薄井とは何年ぶりに会うだろうか。北大を辞めたとは聞いていたが、色々あったようだ。別に辞めたことは恥ずかしいことではないし、今の仕事を一生懸命してるならそれでいい。ドクターに残っても博論に必死になって提出したら就職活動が間に合わず、教授に仕事を世話してもらうしかない坊ちゃんよりはよっほどましだ。薄井、俺は応援してるぞ。

函館−青森  ferry

青森−大潟村 178km

9月26日

「社会で習った八郎潟干拓地」

今日は1日薄井に大潟村を案内してもらうことになっている。昨日は暗くてわからんかったが、薄井の住んでいる村民住宅の裏側はラグビー(サッカー)場。このグランドはよく合宿に使われるようで、合宿者がホテルに宿泊するとかなり宿泊費も安くなる。いいところやね。隣りには温泉があるし。ちなみに、村民住宅は一軒家、アパートかかわらず¥20,000/月。これはおいしい。

大潟村は八郎潟の水を汲み出して作った村で、堤防と周りの用水路でその境界をなし、村全体海抜0m以下のところ。当然、外側に汲み出した水分は堤防の内側に入り込んでくるが、それをまたポンプで日本海に汲み出している。なんとも厄介なところだが村の土地はかなりでかく、集落はポツンと1ヶ所にあり(人口約3,400人)、その周りはほとんど田んぼといっていいだろう。秋田と言えば、そう、「あきたこまち」。この村にはカントリエレベーターと(収穫したもみを低温貯蔵する塔状の貯蔵庫)があり、その規模は巨大だ。また、村ではカボチャを原料としたパンプキンパイや青大豆から作った豆腐など村おこしに力を入れていて、なんと言っても博物館。村が約17億円もかけて建設中の博物館。果たして村おこしとなるのか。来年5月オープンを前に薄井も不安気だ。村人宅の庭先にはきれいな花々が植えられているが、どうやらオランダを意識しているようだ。大潟村と同じくオランダも海抜0m以下やからな。俺らが教科書でしか知らなかった八郎潟の干拓地がこんなに身近に感じるとは。

村案内の後は近くの寒風山に向かった。ここからは大潟村が一望できるが、それにしても見事に水に囲まれた村だ。集落がポツンとあり、それ以外は一面田んぼ。またここから見る男鹿半島も絶景。なかなかいいところだ。

俺は特に意識していなかったが、秋田と言えばなまはげ。その中でも、ここ男鹿半島はなまはげで有名で、なまはげ館がある。ここには各市町村のなまはげがマネキンとして展示され、資料並びに実演コーナーもあった。なまはげについては小学校の教科書でチラッと見たぐらいだが、俺のイメージでは勝手に家にあがり込んで子供をいじめる悪党という感じだが、少し勉強してみるとこうだ。

なまはげ行事は12月31日の夜に男鹿半島全域で行われるのだが、なまはげとは「ナモミを剥ぎ取ること」、ナモミとは炉端にかじりついていると手足にできる火型で、つまり炉にひがみついているような怠け者をいましめて、次の年の豊年豊漁をもたらす神としてなまはげは考えられている。悪党ではなく実は神だったのだ。いやー、勉強になった。

その後、この半島の先端部、入道崎で秋田名物稲庭うどんを食った。めん的にはきしめんに近いがこしがあった、なかなかgood。だしもやや関西風でなおさらgood。俺のイメージとしては秋田は「あきたこまち」に代表されるように農作物のイメージがあったが、そう言えば海に面してるやん。ハタハタも秋田名物。ただ、入道崎ではわかめや昆布、それにイクラやウニも売っていたが、俺には今さらそれらには興味ないし、ウニは俺の思ってた通りノナをふかして売ってた。俺は食う気もせんな。

男鹿半島一周した後は少し秋田県立大学を見て、その後セリオンという高さ100mのタワーに登り秋田市近辺を眺めてた。やっぱり、秋田市はでかい。と言っても、人口30万ぐらいだ。町を外れればすぐに田園。この辺はさすがに秋田かな。秋田ってすごく不便なところのような気がする。東京から考えたら果ての果てやからな。新潟よりも向こう、山形よりも向こう、盛岡よりも向こう。秋田美人とは言われるが俺には普通のように見える。俺にとって秋田県は男鹿半島で十分のような気がする。満喫した。秋田市には興味ねえ。

今晩、温泉に入った後は薄井がきりたんぽ鍋を御馳走してくれた。きりたんぽは以前、しょう油をつけて焼いたやつを食ったが、鍋で食うのもいい。これはビールも進むわ。正直、薄井におごってもらうのは申し訳ないし、俺が銭を持ってへんわけでもない。ただ、薄井の立場もあるし、俺も礼文に知り合いが来た時はそうしてる。今日は薄井にありがたくおごってもらおう。ほんまに薄井には世話になった、折角の休みを俺のためにありがとう。

9月27日

「津軽海峡冬景色の世界」

さあ、今日は津軽に逆戻りだ。天気もええし絶好のバイク日和だ。薄井と一緒に朝めしを食って、準備をしているとあんちゃんから電話があった。なんと大潟村のあのホテルの前まで美幸ちゃんと来ているらしい。わざわざここまで来てくれたんや。あんちゃんには礼文でバイクの件では世話になったな。礼文以外で礼文の仲間に会うのはまた感慨も一塩だ。彼らはこれから南下して、10月3日には東京に入る。またその時にでも会えればいいな。

能代の手前まであんちゃんと共に国道101号を突き進み、一度国道7号に入って、再び国道101号を北上した。ここからの日本海沿いの道は最高。左手には日本海の荒波、道路はカーブの連続。いいね。ちなみにこの辺りではイカが有名なんかな。特に、スルメイカ。軒下に干してある光景をよく目にした。

鰺ヶ沢から内陸を通り、しばらくすると十三湖に出た。十三湖なんて聞いたことはなかったが、ここはシジミが有名だ。湖の規模もなかなかでかい。ここから国道339号に入り、小泊から龍飛岬に向かうつもりだったが、権現崎という看板を目にしたのでおもろそうで行ってみたが失敗した。駐車場から1kmほど山道を歩くのだが、これがまた急。途中で引き返そうとも思ったが、中途半端は嫌やしな。最終的に行き着いたのは鳥居がポツンとある神社だった。やられた。

さあ、ここからは石川さゆりの世界、そう、龍飛岬だ。カーブ、up、downの連続を過ぎて俺はとうとう龍飛岬にたどり着いた。強い、風が強い。これはスコトン並みだ。この地から北海道に抜ける海底トンネルに入るわけやな。ここには海軍の基地があるみたいだ。それにしても、最近風車による発電が増えたな。苫前もそうやった。環境にやさしい発電方法やから、これからはクローズアップされるやろう。それにしても、北海道って近いな。ほんまにすぐ目の前だ。トンネルを作ったりせんと、橋でも作ればいいのに。俺の思った通りここには石川さゆりの歌碑があった。そう、名曲「津軽海峡冬景色」の2番だ。

「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれと」

ほんまに演歌は心やわ。今は横文字のグループが流行ってるが、演歌の根強さには勝てんわな。でも、演歌の世代やない俺たちが年老いていくと演歌はすたれていくんかな。いやー、それは寂しいな。それにしても、その土地土地に来ると、歌詞の意味を考えてまうな。三陸を走ってる時は、もちろん山本譲二の「みちのく一人旅」で、

「ここで一緒に 死ねたらいいと」

の「ここ」ってどこやろうとまじで考えた。今回もそうだ。

「上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中」

上野からの夜行って北斗星がない時代では何時に青森着いたんやろ。

「北へ帰る人の群れは 誰も無口で」

おいおい、ここからさらに北へ帰るんか。それとも、北へ向かってる乗客のことを言ってるのか。

「私も1人 連絡船に乗り」

1人の客が多いんやな。そうか、船の上から龍飛岬を見たんやな。でも、北の外れは大間やろ。

ってな具合に。やっぱり演歌は心やで。

ここからは津軽半島を縦断して、今日は蟹田町でテントを張ることにした。俺がテントを張ったのは夏はキャンプ場らしいが、今は誰もいない。適当な芝生にテントを張ってみたが、やっぱり俺はキャンパーやな。キャンパーに戻るのは5ヶ月ぶりで、日本では初めてだが俺もたくましくなったもんやな。昔のことを思えば俺はへたれやったな。こういうところでテントを張ると地元の人と触れ合えるのはいい。気も楽やしな。知人を訪ねるのもいいが、テントもいい。今日も地元の人々が気軽に話しかけてくれた。う−ん、田舎で張るテントはいいね。

日が暮れてから少し離れた平館不老不死温泉に向かった。水はぬるかったが風情があってまずまずとしよう。風呂の後は海を眺めながら街灯の元で日記を書いてた。空には月明かり、波は穏やかで周りは俺だけ。いいね、いいね。

大潟−蟹田 294km

9月28日

「本州最北端の地」

今朝もええ天気だ。久しぶりのテントはいい。礼文で40日ほどテント生活をしてたが、あの時は風や雨やらで辛かった。おかげで10ヶ所ほど破損してしまった。

今日は下北へ向かう予定だ。青森市内を通ってもいいのだが、折角なので下北汽船に乗って陸奥湾を横断してみよう。蟹田から下北の脇野沢までは船で1時間ほど。ここから国道338号を北上して本州最北端の大間崎に向かうのだが、途中で仏ヶ浦に寄った。この辺りには仏像の形をした奇怪な形の岩々が点在する。海もきれいでなかなかええところだが、ここの売店のおばちゃんは昆布切りをしていた。この辺りでも昆布がとれるんやな。頭を切って赤葉取りをしていたが、店で袋に入れて売る程度のものだから等級としては3等ってところか。

それから、さらに北上して本州最北の大間崎に着いた。大間ってマグロで有名やったんや。それと、この辺りでも昆布干しをしていたのにはびっくりだ。下北でも昆布がとれるんやな。それにしても、ほんまに北海道は近い。目の前やないかい。しかし、この津軽海峡を隔てて動物は違うものになるらしい。この津軽の激しい荒波を渡れる動物はいなかったようで、この海峡を境に動物種が変わると1883年にトーマス・ブラキストンというイギリスの学者が提唱した。そして、この海峡の境界線をブラキストン線というらしい。

大間崎で軽くうどんをすすって国道279号を大畑方面に走り、今日は恐山の近くの薬研のキャンプ場に泊まることにした。もう少し南下してもよかったが時間的に限界かな。ここのキャンプ場には数人ライダーがstayしていたが、みんなat homeで、オーナーのおばちゃんもやさしそうな人。やっぱり、ライダー同士はすぐ仲良くなれるな。ただ、いい人なのはいいのだが、彼らは長期stayしている。そして、今日は何しようかと考える日々。俺にはできないlife styleだが、日本にもこういった人々がいるんやなと改めて感じた。こういった時間は俺には無駄なように思えるが、彼らが満足してるならそれでいいやろう。とにかく、ここにいたライダーたちは日本人らしくなく、感じがよく社交的な人たちだった。晩めしも御馳走になったし。ほんとありがとう。

日も暮れて周りが静かになった頃、俺は近くの奥薬研温泉かっぱの湯へ向かった。もちろん無料の露天風呂だ。俺が行った時にはじいさんが2人いて、しばらくして家族が入ってきたが、みんな帰った後は暗闇の中風呂の中は俺1人だけだ。うーん、いいね。横には小川のせせらぎが。最高のsituation。湯加減もまずまず。やっぱり、温泉やな。

キャンプ場に戻ると事務所で八戸から来たおっちゃん2人が酒を飲んでた。今晩仕事を終えて、明日1日休暇をとってここに釣りに来たようだ。俺はおっちゃんに酒をもらってしばらく話してた。いやー、やっぱり地元の人と話すのはいいわ。ライダーたちと話して色々交流を深めるのもいいが、地元の人とゆっくりと地元のことを話したり、地元の人々の世界を聞くのもいい。おっちゃんは俺の質問に対して色々答えてくれた上に、おっちゃんの人生や生活までも語ってくれた。おっちゃんたちの世界は俺が歩んできた世界とは全く違うが、体を張って守るものは守って、しっかり生きてきたその生き様がおっちゃんの言葉、態度からにじみ出てる。おっちゃんの話を聞いて青森に対する見方が変わった。ほんまに勉強になったな。このキャンプ場に来てよかった。俺の知り合いを訪ね歩くのもいいが、キャンパーと話したり、地元の人と話すのも大事やな。

蟹田−大畑 132km

9月29日

「火曜サスペンスの世界」

今日も絶好のバイク日和。ここのキャンプ場の人にはほんと世話になった。オーナーのおばちゃんもええ人やったし。またここには戻ってきたいな。薬研を出て、まず恐山に向かった。恐山は名前では聞いていたが霊場だったとは。昔々、銭に困った人々がおばあちゃんを捨てに行った場所という風にしか俺には認識がなかった。それにしても、すごいtouristだ。こんなに観光地とは知らんかった。墓場が観光地なんてけったいな話だ。またこの周辺の硫黄臭さがなんとも言えん。なかなかgoodだ。

恐山からはむつ市内に入り、国道279号を南下して野辺地に入り、そこから国道4号を突き進み、七戸から国道394号で八甲田方面へ向かった。この辺りの八甲田、奥入瀬、十和田は実にいい。火曜サスペンス劇場に出てきそうな殺人ルートだ。景色もよくて、カーブの連続で走っててもおもしろい。春に続いてここは2度目だが、ここはまた来たいと思わせてくれるところだ。ただ、今日はここまでの道中がカーブの連続やったので十和田湖に着いた時点で死にそうやった。けつは痛いし、背中は痛いし、手はだるいし。

十和田湖からは田沢湖を目指すつもりだったが、国道103号を進んで行くと気づいたら大館市に入っていた。しまった、八幡平方面に左折するのを忘れていた。俺は久しぶりにあばれはっちゃくのおやじの気分になり、さらにかなりの疲労とで途中の北あきた空港の芝生の上で1時間ぐらい寝てしまった。

それから、能代市内に入り、今日の晩めしの食材を調達しにスーパーへ向かった。この前、薄井にきりたんぽを御馳走になったからにはお返ししないと。俺は活きのいいさんまを買ってさんま丼を作ってあげようかと思ったが、店の人に聞いてみると刺身で食うのはやめた方がいいとのこと。三陸沖でとれたさんまだが一度冷凍し、それを解凍してるので鮮度が落ちている。これには参った。しゃあないから、この近海でとれた鯵と鯖、それに冷凍イカを買い、さらにはカンパチの頭も鍋用に付け足した。

夕方、大潟村に戻った俺は薄井が帰って来るまで温泉にゆっくりつかり、その後2人で食材をさらに購入して俺は早速料理人に転身した。まずはあじ、さば、いかを刺身にし、片やカンパチの頭でだしを取り、それにみそを加えてカンパチ鍋を作った。当然、米はあきたこまちだ。味はまずまず。鍋のだしはいい味してる。何よりも薄井が満足してくれたんでそれでいい。薄井宅はこれで3泊目やからな。ほんまに世話になった。ありがとう。

大畑町−大潟村 307km

9月30日

「月山湖での一時 & 祐子さんとの再会」

今朝は少し曇り空。3日もお世話になった大潟村から今日は祐子さんのいる白鷹町鮎貝に向かう。薄井とお別れをして国道101号で秋田市内に入り、そこから国道7号で南下したが、本荘を通過した頃から雲行きが怪しくなり途中から雨が降ってきた。しまったな。結局、1時間ぐらい雨宿りしてたかな。

雨が上がったんはいいが、短時間でかなり降ったので道路は水浸し。ブーツカバーをしてなかった俺の膝から下は水でびちょびちょだ。おまけにすれ違う車の水しぶきで、一気に全身水浸しになった。まいった、まいった。

酒田の手前に差し掛かると、全く雨が降った形跡はない。まさしく山沿いではにわか雨だ。途中のコンビニで休憩し、そこには千葉のライダー青年がいて、俺らは何気なくあいさつを交わし、何もなかったように別れたが・・・。俺は国道7号をさらに南下して鶴岡から国道112号に入って月山方面へ向かった。俺には町中は興味ない。この辺りは軽く通過だ。

月山方面の国道112号にはまいった。おびただしい数の道路工事だ。計30ヶ所ぐらいはあったやろう。その度に止められるのはかなわん。トンネル内で止めるのだけはやめてくれ。空気が悪すぎて気分が悪くなる。

途中の「道の駅月山湖」で休憩しようとバイクを停めると、さっきのライダー青年がいた。さらに、tour busで旅行してるおっちゃんの1人が、

「スーパーマンだ。」

と俺を指示して言ってきた。なんか俺を誰かと勘違いしたようだが、おっちゃんは俺にコーヒーをおごってくれた上に、俺と千葉の青年にそばまで御馳走してくれた。おっちゃんは、

「バイク乗ってる人はアルコールはだめだぞ。まあ、一杯だけ飲みなさい。」

と理にかなってないことを言いながらビールまでくれ、俺ら2人にそばのおかわりまでくれた。なんていい人なんや。山形はそばが有名なところ。めんはこしがあって、だしも濃くなってなかなかgood。おっちゃんはバスの出発時間があるからと言って、先に銭だけ払って行ったが、そのおつりを俺らに、

「なんか食べなさい。」

と言ってくれた。うあ、ほんまにええ人や。これはお礼せんとな。千葉の兄ちゃんは今日中に千葉に帰る。彼は民宿やとほ宿に泊まってるようだが、

「僕はまだまだ甘いですね。」

と言ってた。そんなことはない。旅のスタイルは人それぞれ。またどこかで会おう。

さあ、腹も満たされて、俺は祐子さんの元へ急いだ。国道112号から287号に入り白鷹町の看板が見えた頃にはかなり山奥だった。おいおい、祐子さんこんなところからNZに来てたんや。鮎貝駅に着いてから祐子さんに電話して迎えに来てもらった。NZで丸坊主にしたとは聞いたがあのうわさは本当やったんや。今はかなり髪の毛も伸びてきたが。

ch-chのfoleyで祐子さんと初めて会い、ここまで親しくなるとは思わんかった。祐子さんと言えば、よし君、のりちゃん、リリアナが思い出される。あの頃が懐かしいね。俺が初めてch-chに入ったのは去年の10月末ぐらいかな。もう1年近くなる。祐子さんは日本にいるのがしんどいと言っていたが、その気持ちはわかる。ほんと日本人の心は病んでいる。生きるのが辛くて辛くてたまらないって感じだ。祐子さんは少し太ったがch-chで会った祐子さんそのままだった。祐子さんには全然気遣わんでええな。

夜、2人で近くの温泉に向かって、その後は祐子さんのお母さんが作ってくれためしを食った。あの煮込んだやつは郷土料理らしいがうまかった。祐子さんの両親とはあまり話ができなかったが、両親が働いている車の合宿所で泊まらせてもらったりめしを食わせてもらったりとここでも皆様にお世話になった。祐子さんはひょっとしたら来月にはまたNZに行くかもしれないが、いつまでも俺が知っているそのままの祐子さんでいて下さい。ほんとありがとう。

大潟村−白鷹町 284km

10月1日

「Boringな移動だけの日」

今日から10月。昨夜のニュースで俺はとんでもないことを知った。茨城の東海村の原子力発電所で核がもれ出して中性子が飛びまくってるとのこと。おいおい、どうなってんねん。俺は昨日さんまを食いに小名浜に戻ろうと決めたところなのに。これじゃ国道6号は通られへんやんけ。

さあ、今日は野田までの遠い道のり。祐子さんとさよならして国道287号で米沢に入った。ここは、米沢牛で有名なところだ。しかし、この辺りで少し迷って時間をlossしてしまった。地図をあまり見ない俺には町中はつらい。それから、国道121号に入り、喜多方を抜けて会津若松に入ったが、ここでもまた迷ってしまった。だから町中は嫌いやねん。

やっとのことで国道294号に入って猪苗代湖から磐梯山を望もうと思ったがあいにく今日は曇り空。折角、ここまで来たのにな。しかし、この294号はヒットかもしらん。むっちゃすいてる。これは4号なんかよりもいい。294号に入ってからは途中の白河でバタバタしたぐらいで、真岡まではほとんど止まらんで行けた。うーん、この道は人に勧められる。

真岡まで来れば俺のテリトリーだ。この辺は巡回でよく来た。しかし、さすがにこの辺りまで来ると交通量は増えてきた。そうなると走るのもたるくなってくる。水海道から野田市方面は渋滞。さすがに、これにはまいった。今日は単なる移動日。山形、福島、栃木、茨城、千葉と進んで来た。県が変わる度によっしゃあと思ったが、千葉に入った時にはもうくたくたやった。野田では当然五十嵐家だ。五十嵐とめしを食いに行って、ビールを買い込んで飲んだ。五十嵐にはいつもいつも世話になりっぱなしだ。五十嵐を始めとして北大農化時代の連中はほんまに一緒にいて楽だ。俺の数多くいる友人の仲でもこいつらが一番居心地いい。

さあ、明日から2日ほど大阪で、旅は中断。少し休憩しよう。

白鷹町−野田市 378km

10月5日

「さんまを求めて再び北上 & 文枝さんとの再会」

姉貴の結婚式のために少し大阪に戻っていたが、今日から旅は再開だ。昨晩は礼文の仲間と新宿で会って楽しかった。礼文にしろどこにしろ、再び違うところで再会すると絆が深まる。今年のこのメンバーとはおそらくもう会えないと思うし、会ったとしても個人的にか2,3人でしか会えんやろう。またみんなではじけたいね。

さあ、今日は仙台まで再北上。しかし、ほんまに俺はあほや。さんまの刺身が食いたいがために北上する。バイクを走らせてる間もほんまにあほやと自己嫌悪に陥った。またもやあばれはっちゃくのおやじの心境だ。しかし、さんまの刺身は俺の大好物。石巻や小名浜でもう水揚げされているとくれば行かんわけにはいかない。当初の予定では小名浜に2泊するつもりだったが、昨日たまたま五十嵐を待っている間に、今年の礼文のお客さんの文枝さんに電話したら、

「おいでよ。大歓迎だよ。」

と言われ、調子に乗って文枝さんのいる仙台に行くことにした。いわきから仙台までは100km以上もある。ほんまに俺はあほや。五十嵐にも、

「ほんと計画性のない奴だな。」

と叱られた。

野田から国道16号を通ってまずは柏に入った。そこからは国道6号だが、ほんまにこの辺りを走るのは嫌だ。空気は汚いし交通量は多いし、それに、東海村を通らなあかんしな。あの事故発生から4日ぐらいしか経ってないやろう。ネタ的にはここを通って被爆したでってのもいいが、今回の事故はギャクで済まされない。呆れるほどの初歩的ミスで起こったんやからな。どうしようもない。この周辺にはまだまだパトカーがうろうろしてたし、マスコミも時々見た。途中の高萩で警察に寄った。そう、春に落とした手帳とカメラが見つかってないかどうかを確認するためだ。残念ながら届け出はなかったが、手帳だけは帰って来てほしい。

いわきに入って少し小名浜港に寄ってみた。近くの水産業のおばちゃんに聞くと、小名浜のさんまの水揚げは今年はまだ2回目らしい。やっぱりこの時期は気仙沼や石巻の方がいいとのこと。まあ、明日はここに来よう。

小名浜から仙台まではまだ150kmもある。ほんまにこの道のりはboringだ。2回目ってのもあるかな。だんだん暗くなってくるし、疲れてくるし。仙台の手前の名取市に入るともう渋滞の真っ只中。既に300kmは走ってるやろう。くたくたな上に俺のコンタクトの調子がどうもよくないせいか、標識がはっきり見えない。夜になるとちょっと辛いで。

仙台駅の近くのコンビニで文枝さんと合流した。はっきり言って顔は覚えてなかった。文枝さんに対してはそれ程印象はない。大将と文枝さんが2人で港に飲みに行ったのは覚えてるが、民宿にいる時は俺との接点はあまりなかった。次の日に天気がよかったので俺は文枝さんの荷物を港に持って行く時にバイクで出かけ、たまたま俺が港に着いた時に文枝さんと遭遇した。そして、俺は文枝さんを連れて元地までドライブに行き、その時に文枝さんにaddress渡された。addressをもらうことを趣味のレベルで終わらせたくない。くれるってことは来てほしいからであって、そしたらずうずうしく訪ねてやる。そして今日訪ねたのだが、待っている人は待っている。文枝さんは俺がいつ来るものかと待っていたそうだ。

文枝さんと2人で仙台駅近くに飲みに行った。魚料理中心の繁盛している居酒屋で、俺はあえてさんまの刺身は頼まなかった。こんなところで食ってる場合じゃない。しかし、目の前で一匹のさんまが刺身にされていく姿はまさに職人技。よし、俺はこの技術を盗んだ。明日はついに本番だ。

野田−仙台 349km

10月6日

「石巻のさんまの刺身」

今日は最高のドライブ日和。文枝さんの仕事は、今日は昼からなので文枝さんの車で一緒に石巻港へ向かった。文枝さんに包丁とまな板を借り、手作りのおにぎりと役者はそろった。あとは港の近くでキッコーマンのしょう油としょうがを買ったが、刺身じょう油がなかったので薄口にした。漁港に行ってみるとちょうどさんまが水揚げされていた。船が港に戻って来ると船底からおびただしい数のさんまがユニックらしきもので取り出され、それがそのままトラックに空けられる。まあ、なんともダイナミックなこと。あんなにさんまが雑に扱われているとは。

石巻と言えばさんま以外にカキも有名だ。俺は近くの魚市場でさんまを4匹、カキを4つ、それに生イカを買った。ほんとは水揚げされたばかりのを直接買いたかったが、そういう訳にはいかないみたいだ。俺と文枝さんは早速近くの公園へ向かったが、ちょうど近くのちびっ子たちが遠足に来てた。これじゃゆっくりでけへんやんけ。俺は昨日仙台駅前の居酒屋で技を盗んだあの手つきでさんまを丸裸にし、それと生イカを刺身にした。そしてキッコーマンのしょう油としょうがでさんまの切身をほおばった。うーん、うめえ。やっぱり、さんまは刺身や。生臭くなく、歯ごたえはもうたまらない。脂も乗っていて身もしまっていて。ああ、これや、俺が求めてたんわ。文枝さんも大満足。石巻に来てよかった。みんなにあほ、あほ言われてたが、来てよかった。ほんまに今日は自分で自分を誉めたい。またもや、有森裕子だ。文枝さんには世話になった。忙しい中をわざわざ車まで出してくれて。今度会うのはまた礼文かな。

さあ、小名浜まで戻ろう。一度来た道を戻るのはほんまにかったるい。まあ、今日はそれほど距離がないからな。俺は小名浜の手前の海岸近くでテントを張った。しかし、残念なのはこの近くに温泉がないことだ。ライダーにとって湯は命みたいに大切なもの。仕方がないので俺はここから少し離れた温泉らしきところに向かった。その名はUSA温泉。怪しい。

仙台−いわき 146km

10月7日

「小名浜のさんま丼」

今朝は少し小雨がパラついている。そうなるとテントをたたむのが厄介だ。乾くまで待たなあかんからな。

東京に帰る前に、そう、今日もさんまだ。この時期の小名浜はまだ頻繁にはさんまは揚がってない。しかし、ネタは新鮮だ。俺は2日前色々情報を教えてくれた佐藤水産のおばちゃんを訪ね、約束通りさんまを買ったが、親切におばちゃんは包丁とまな板を貸してくれた。それに、割りばしやパックじょう油、わさびもくれた。ええ人やな。おばちゃんはさんまを刺身にしたことがないのか、

「へえ、さんまってこうやってさばくんだ。」

と感心してた。俺もつい先日この技をパクッたばかりやけどな。

主役がそろえばまたもや近くの公園だ。その上、今日は海の見える公園だ。しかし、またこのsituationをじゃまするものが。そう、ちびっ子だ。なんでちびっ子の遠足はこんなに頻繁にあるねん。お前らはおとなしく学校で勉強してろ。おいおい、俺の周りで走り回るな。お菓子をばらまくな。ハトが寄ってくるやないか。

昨日はさんまの刺身だけやったが、今日はさんま丼にしよう。近くの弁当屋で買ったごはんにたっぷりさんまを乗せ、それにキッコーマンのしょう油としょうがをかけできあがり。うーん、ほくほくのごはんに脂の乗ったさんま。やめられんな。よし、もう満足した。東京に戻ろう。

俺は小雨の中国道6号を再び東京方面に走った。高萩を越えると道路が混み始めた。ああ、まいった、まいった。日立、水戸を過ぎ取手に入った頃にはもう夕方。この辺りから東京方面を見ると、まあ空気の淀んでいること。よう俺はこんな所に住んでいたな。息するのも嫌になってくるで。

柏に入ると渋滞の度合いも激しくなってきた。ああ、嫌や。金町を過ぎて、環七に入って国道4号経由で東大に向かおうとしたが渋滞だ。よって水戸街道を直進して入谷から根津へ向かった。東京を離れて数年経つがやっぱり覚えてるもんやな。

東大の正門前で真野君と再会した。今年はわざわざ礼文まで来てくれたからな。今日は東大のラボの連中と再会。わざわざ石渡さんや佐々木も来てくれた。みんな変わってない。そんな俺も変わってへんやろう。正直、東大生と一緒にいるのは少し辛い。まあ、全員がそうじゃないが相手のプライドを傷つけないように普段以上に俺はみんなに気を遣ってるつもりだ。プライドが傷つけられるのを嫌う連中が多いからな。だから、俺は他の人に接する以上に自分をあほに演じて自分を下げている。これが結構辛い。しかし、こうやってみんなが集まってくれるのはほんとにうれしい。俺が東京に来るきっかけになったのは東大に受かったからやしな。東大がなければ俺は東京に来なかった。別の世界に感じてた東京がこんなに身近に感じることもなかったしな。よし、明日はラボに行ってみよう。

いわき−東京 223km

10月8日−9日

「東京滞在記」

おかげさまで東京近辺には知り合いが多い。大阪以上だ。しかし、短い期間で会える人は限られる。会おうと言ってくれる人が多いのはうれしいこと。この前は北大連中を中心に時間を考えたから、今回は東大と会社関係の人々と会うのを中心に考えた。ラボに寄ったのもよかった。後藤さんや林先生も喜んでくれたし。正直、ラボには行きたくない。それは、学生たちに変な空気を吹き込みたくないからだ。

日本の社会体系から考えれば今の俺の立場はよろしくない。仮に、まじめに研究に取り組んでいる学生たちに変な選択肢を与えてしまったら…。彼らは放っておいてもエリートでいける。まあ、このシステムが日本をだめにしているのは事実だが。茅野先生が俺に言ってた。

「君みたいに何でもできる奴の方が心配だ。最終的にどっちつかずになる。だから研究しかできない奴の方がよっぽどいいよ。」

うん、それは確かだ。世の中知らない方がいいってことも多い。でも、俺自身が今のスタイルを気に入ってるんやからしゃあない。

会社はいかにもofficeって感じに変わってた。みんな元気そうやしな。滝口さんと再会できたのはうれしいね。NZで会って、また東京で会って。でも、相変わらず滝口さんは感じがいい。悔しいな。昔の仲間も元気モリモリ。社員と飲むとどうしても仕事の話になってしまうが、スタッフと飲むと楽しい。またみんなで会いたい。瑤美さんや礼文のお客さんとも少し時間が取れたが、OZで一緒に旅した、あき、ちあき、それにきよと再会できたのもなんか不思議だ。もう、こいつらとは二度と会わんやろうと思っていたが、まさか東京で会うとはな。しかし、このお嬢ちゃんたちはまだまだ子供。礼文の知子やよびと一緒やな。でも、お嬢ちゃんなりに色々考えてんのはわかる。OZでの経験がうまくいい方にいけばいいんやけどな。