週刊はまなす(925日号)


感動の最終回!!スペシャル
「ありがとう、礼文」

「さいはての国から'99 〜お返し〜」

第一部
1997年で礼文を最後にした私は、前年はニュージーランドにいた。ニュージーランドでの一年間は、半年間は働き、それ以外はトレッキングをしたり、旅をしたり、バヌアツ共和国でのジャングル生活をしたりと密度の濃い一年だった。ヒッチとテント暮らしだった私は、基本的にはバックパッカーの芝生にテントを張らしてもらい、あまりにも天気の悪い日はドミトリーで寝てた。見ず知らずの町で、見ず知らずの人に車に乗せてもらい、見ず知らずの人によくされたりと、私が一年間ニュージーランドで過ごせたのも周りの人によくしてもらったからである。そういう周りの温かい空気に触れ、

「これは申し訳ない。」
という気持ちが私の中で強くなり、

「これはお返しをしないと。」
という決心をし、なら礼文に来るお客さんにこのお礼をしようと思い立った。そして、次の年の1999年に2年ぶりに礼文に戻ることにした。

お返しということが礼文に戻る気にさせたのは事実だが、それ以外にパソコンを「はまなす」に持ち込んでみようという試みがあった。ニュージーランドにいる間もlap topを携帯し、一月毎に近況報告を日本のファンの皆様に送ってた。海外ではinternet cafeも流行ってるし、これからの情報社会に対応していくためにも、大将にパソコンというものを知らせてあげよう。そういう気持ちもあった。

礼文まではバイクで向かった。この年の主旨として、お世話になったバヌアツ共和国の国旗を持って、全国にいる仲間と写真を撮っていこうというのがあった。行きは一度長野に入って東京に抜け、そして三陸を通って道内に入って稚内に向かった。

2年ぶりに戻った礼文は、益々きれいになってた。「はまなす」も大改造。すっかりきれいになっており、そのきれいさは旅館にも匹敵してたし、これならお客さんや友達を呼べるなと正直思った。仕事に関しては特に問題なかったし、要領も分かっている。この年のヘルパーは、2年目の小田原のいづみさん、元すすきののホステスのひかるさん、そして1年間小笠原にいたちえみさん。皆個性のある人々だったが、仕事に関しては私は厳しかった。特に、2年目のいづみさんにはよく怒った。私が要求してる仕事量をこなしていなかったし、他のヘルパーのミスもよくいづみさんに怒ったりしてた。私にとっては民宿の仕事に対してはある種のプロ意識が芽生えてた。大将が私に要求する仕事量では私自身満足しない。私自身も従業員に違いないが、大将には、よく「支配人」の名札をつけろと言われたぐらいだ。仕事をさぼろうという気は起こらないし、逆に仕事をさぼってる大将を何度も注意した。それはヘルパーの女の子達にも一緒で、いづみさんには、

「加藤君、怖すぎる。」
とよく言われたし、大将はひかるさんに、

「加藤は神経質すぎるから気にするな。」
と影で言ってたみたい。でも、それぐらいしないとお客さんに申し訳ないと自ら思ってたし、人に厳しくする分自分を追い込んだりしてた。

この年の私のスタイルは、ニュージーランド帰りってことでカンタベリーのラガーシャツに、ニュージーランドの国旗を貼り付けたジーンズ。ニュージーランド一色だった。

第二部
この年のお客さんの数は異常だった。礼文島観光業始まって以来の人手だったらしい。この年からツアー客が中心になったのもあって、民宿への分宿がシーズン中の主流となった。それに伴って客層もすっかり変わった。年配層がほとんどとなり、そうなると要求されるのが料理の質、宿のきれいさ、そして接客。

この3つが伴わないとお客さんは満足しない。私はお客さんに礼文をより楽しんでもらおうという試みで、私の旅行記、写真をロビーの棚に置くことにした。このアイデアはNZのプナカイキという小さな町のバックパッカーで思いついた。礼文に観光で来るというのと私のワイルドな旅は、スタイルで言うと全然違うが、同じ旅という観点とこんな旅の仕方もあるんだということを感じてもらいたかったし、何よりも宿にいるお客さんにより礼文を楽しんでほしいというのがねらいだった。

お客さんの数が異常な分、私への仕事の負担も異常だった。民宿の仕事以外にも漁もあったが、それ以外にレンタカー屋からの依頼が毎日あった。他の宿のお客さんの送迎と観光。なんで私がこんなことせなあかんねや、と正直思ったが、レンタのお父さんは同じ知床の人だし、うちの団体さんをバスで運んでもらうことも多かったのでお互い様だった。

それと、大将の同級生が港に民宿「やざわ」をオープンした。民宿業をしたことのない矢沢さんとかあちゃん、それにヘルパーの美幸ちゃん。うちとの分宿もあったし、仕事慣れしていないかあちゃんと美幸ちゃんを軌道に乗るまではほぼ毎日手伝いに行ってたし、美幸ちゃんが辛そうなのを見ててほっとけなかった。あと、島の人々との付き合いもあるし。だから、「はまなす」での仕事以外がたくさんあって、毎晩へとへとになってた。

第三部
この年の昆布はそれ程なかった。その分、昆布作りも9月上旬には終わっていた。ウニは例年並で、ウニ剥きはもうすっかり大将から任されていたので、送迎をしながらのウニ剥きはいつも大変だった。了子さんがいなかったらと思うと、いつもぞっとした。

仕事で一番大変だったのは部屋割りだった。団体さんの予定した人数が越えることが多かったので、その度に頭を悩ませていた。予定しているようにはいかない。お客さんの数は予定通りでも、急に添乗員さんや乗務員さん分も入ってくる。仕方ない、我々の部屋を空けるか。そう思って、シーズン中はいづみさんたちを私の部屋に寝かせて、私は宿の前にテントを張ることにした。従業員がここまでする必要はないのだが、坊ちゃんの大将がテントで寝られるわけがない。一度寝ようと試みたらしいがすぐに諦めていた。へたに車やソファで寝るよりも、テント生活に慣れていた私はテントの方が落ち着けた。それに、ネタにもなる。私の思惑は的中して、お客さんが宿の前に張ったテントを話題にするようになり、あるお客さんは私に向かって、

「あんた、売れないミュージシャンかい?」
と言ってきたり(売れないだけ余計や)、

「何悪いことしたの。」
という人もいた。ただ、風雨の日は正直辛かったし、礼文の強いやませに一度テントが破壊したし、7月はずっと天気が悪くテント内はカビだらけになり虫がわいたりもした。だから、40日ぶりに布団で寝た時は涙が出るほど嬉しかった。

「布団ってこんなにいいもんなんや。」

第四部
島の人との付き合いは、

「俺は島の人間か。」
と思うぐらい親密になってた。夜は呼ばれることも多く、港の飲み屋によく連れ出された。ひかるさんが酒が好きなのと、ちえみさんがカラオケが好きなのもあって、我々は大将に連れられてよく飲みに行ってた。うちの民宿にも地元の漁師さんを始め、他のヘルパーさんもよく遊びに来てた。お客さんともよく飲んだ方かもしらん。年配層が多かったせいか、若いお客さんが来るとよく飲んでいた。

この年、山梨学院大学の陸上部に推薦で入学した浩一も帰って来た。高校時代に全道大会で優勝した浩一は駅伝の名門山梨学院からスカウトを受けて、忙しい中休暇を取って帰省してきた。浩一はすっかり大学生らしくなっていたが、推薦入学の厳しさ、周りのレベルの高さ等、私が学生時代味わったことのない悩みに直面してた。

「周りの学生はちやほや遊んでいるのが羨ましい。なのになぜ俺はあんなつらい毎日を送らなあかんのか。寮生活で先輩と一緒やし。全国からすごい奴ばかりいるし。」

私も浩一の悩みに何とか応えてあげたかったが、

「まだやりもせんくせにとやかく言うな。入ったばかりやろ。とにかく、がんばってみろ。」
と言うのが精一杯だった。浩一のおかんからも色々頼まれているし。自分の悩みなら自分で解決できるが、他の人となるとそうはいかん。まして、浩一はまだ18歳やから。

第五部
そんな忙しいこの年にも終わりが来た。あまりの忙しさにお盆明けに私は倒れた。39℃前後の熱が数日引かなかった。私が倒れたのを聞いて地元の人々がお見舞いに来てくれたこともあった。

9月に入って、お客さんがいなくなると、私は時間を見つけて取材に出かけた。そう、ホームページ用のネタの収集だ。この夏にパソコンを導入した私の最終的なねらいはホームページの作成だ。最近のお客さんの傾向で、団体さんは別として、個人客は会社や自宅でインターネットを使って情報収集してくる人が多くなった。間違いなくインターネットの波が礼文にもやって来る。幸い、礼文の他の民宿・旅館は本格的にホームページを使ってやってる所はまだない。なら、うちが始めにやってみよう。そう考えてる時に、運良く札幌の出版社の方からホームページのお声がかかって、私は大将にホームページ作りを進め、単純な大将もすっかりその気になってた。責任は私が持つからってことで。

ホームページの重要性は独創性だろう。だから、私は他のホームページを一切見ずに、自分なりの構成を考えていた。ただ、民宿の紹介だけではあかん。これは普通だ。お客さんが実際礼文に来て、何ができるのか。そこまで情報として載せてやろう。それなら、実際自分も体験してみないといけない。私はそう思って、ガイドの友美ねえに情報をもらったり、忙しい中自分で歩いたりした。そして、出発直前まで文章だけ作っておいて、後は札幌の出版社で完成させることにした。おかげで、折角島の人が開いてくれた送別会にもあまり参加できず、非常に悪いことをしたと後悔した。私が出る前の日も大将が送別会を開いてくれた。もう個々には会ってる時間がないので、この送別会に色んな人を呼んだ。しかし、これが失敗した。怒って帰る人もいりゃ、酔って女の子に絡む人もいて、泣き出す子もいた。

「何をやってんのやろう、俺は。」
折角の送別会が台無しになってしまいみんなに申し訳なかった。

第六部
出発の日は睡眠不足で最悪だった。でも、夕方までにバイクで札幌に着かなあかん。いつも通り見送りには何人も来てくれたが、私には寂しさも何もない。「今年も仕事が終わった。」

という安堵感と、これからバイクでの日本縦断「バヌアツ親善大使、日本上陸」ツアーが始まるので、その道中の安全を祈るだけだった。前年にお世話になったバヌアツ共和国を日本に広めながら、知人を中心に訪ねて、まだ走ったことのない北陸、山陰、九州を中心に回って、もう少し日本のことを知ろうというのが今回の主旨であった。海外を旅してると日本のことをあまりにも知らない自分に気付かされ、なら旅を通じて少し勉強してみようという衝動に駆られた。その旅に出る前にやらなければならないことが。そう、札幌での「はまなす」のホームページの完成だ。その旨は出版社である旅企画の鈴木さんには伝えてあった。そして、みんなに見送られて礼文を後にした私は、札幌で仲間と再会しながら、ホームページ作りを開始し、学生時代にマッキントッシュを使っていた私は3日ほどでホームページを仕上げた。当然、鈴木さんのアドバイスがなければこんなに早くはできなかった。ホームページの出来具合は、見てる側が決めることで、特に私には重要じゃなかった。とにかく、ホームページという形ができたことで私は満足だった。

それから、全国縦断の旅が始まった。台風のせいで函館で足止めを食らうという思わぬハプニングから始まり、東北、北陸、山陰、九州と回り、離島では島根の隠岐、長崎の壱岐、対馬、鹿児島の種子島、屋久島、そして瀬戸内のしまなみ海道、小豆島を経て、918日に礼文を出発したバイク、テント生活が、125日に無事終了した。バヌアツ共和国の旗を持っての全国縦断ツアー。旅先で会った皆様、楽しんでいただけたかな。

これがこの年の夏の出来事だった。


13日はお隣の「岬しれとこ」さんにお邪魔した。岬さんには前からお邪魔したいと思ってたし、てる子さんや岬の大将とも一度飲もうと約束してた。岬さんは以前は毎晩ミーティングをしてた。でも、客層の変化等で今はそのミーティングルームが子供部屋になってた。岬さんもインターネットを始め、そのホームページを見せてもらったが、なかなかメルヘンチックでいい。岬の大将はパソコンをまだ始めたばかりだが、それしてはかなりの出来栄えだ。てる子さんはホームページには関与していないが、e-mailはちょくちょくチェックしてるらしい。

私は「はまなす」で働いているが、別にうちの民宿だけよくしようとは思わない。「はまなす」も好きだが、それ以上に礼文自体が好きなので、島全体がよくなればいいと思っている。他の民宿もお互い様で、いいものは伝えてあげたいし、逆に皆様によくしてもらっている。だから、私の知ってる色んな知識をてる子さんたちに教えてあげた。それが役に立ってもらえれば私も嬉しい。ああ、もっとゆっくり話す時間があればなぁ。「岬しれとこ」さんのhomepage addressは、http://chance.gaiax.com/home/misaki_siretoko
です。

14日は、「山光」さんにお邪魔した。「山光」さんとは前から飲もうと約束してて、この日は焼き肉を用意してくれてた。「山光」さんご夫婦と私、それとバスガイドの友美ねえ、江利子嬢、真紀嬢の6人での宴だった。「山光」さんの奥さんは大阪出身。江利子嬢、奥さん、私は大阪の同じ学区出身で、もうこてこての大阪弁。一番きついのは江利子嬢だ。私なんてかわいいもんだ。奥さんは久々の濃い大阪人に大喜び。

そもそも御夫婦の出会いは大阪のミナミで、今は冬は札幌、夏は礼文での生活となってる。娘のえりちゃんが学校に行き始めると礼文だけに生活の場を移すようだ。二人ともとても感じのいい美男美女夫婦で、見ているだけですがすがしい。旦那さんは大の日本酒好き。結構味にはうるさい。岬さんと飲んだ時もそうだったが、「山光」さんとももう少し始めの時期に飲んでたらよかった。そしたらもっともっと色んな話ができたのに。港で会って挨拶を交わすぐらいやったからな。

「山光」さん夫婦とは、これからは個人的に付き合っていこうと約束した。礼文を出る直前でまた新しい仲間ができた。「山光」さんもhomepageを持っている。

そのアドレスは、
http://members.aol.com/ogakunda/index.htm
です。

14日から三連泊で札幌のひちゃこちゃまが来られた。ひちゃこちゃまは2年前にお客で来て、それから約一ヶ月も居候したお方。いづみさんは札幌に寄るといつもひちゃこちゃまのお宅にお世話になるぐらいの親密な仲。ひちゃこちゃまは強烈なキャラのおばちゃまで、また酔っぱらうと色気ムンムンとなり、その色気には大将もたじたじ。私が「山光」さんから帰ってきた時には、もう酔いも絶頂。いづみさんはいつも通り目が据わっており、逆にひちゃこちゃまのエロチックなおトークは絶好調。さすがの私も始めはびびった。

「なんじゃ、これは。」

塾女パワー炸裂で、そのパワーはデビ夫人を越えたな。結局、いづみさんはいつも通り記憶を無くして、大将もお色気ムンムンに降参で、最後は私とひちゃこちゃまだけになってしまった。全く、塾女パワーは恐ろしい。1516日と私の友人のあやちゃんとその友人久美子さんが札幌からやって来た。あやきちは「はまなす」はこれで3度目。大将やいづみさんとも顔見知り。15日の夜は前日の疲れで、大将、いづみさん、ひちゃこちゃまは早めにお休みになったが、私とあやきち、久美子さんは11時過ぎまで酒盛りし、あやきちとは結局深夜2時まで飲んでしまった。こうやって二人で飲むのは初めてかもしらんし、これで最後かもしらん。

そして、次の日は昼前から私が運転手で、いづみさん、ひちゃこちゃま、あやきち、そして久美子さんとで島内観光をした。この日はお客さんも少なかったので、礼文空港、金田岬、そして久種湖畔の山道と礼文フルコースを回った。当然、スコトンではソフトクリームジャンをしたが、あやきちは前日の酒が残ってて棄権。結局久美子さんが負けた。

元地ではひちゃこちゃまがトド肉を御馳走してくれ、船泊の「よこの」の鯛焼きも食ったし、みんな満足してくれたかな?

その晩は大宴会。片川の孝さんも呼んでの酒盛りとなったが、ここでもひちゃこちゃまが大爆発。さすがの孝さんも塾女パワーにグロッキー。あやきちや久美子さんも唖然。このパワーなら大阪のおばちゃんにも勝てるかもしれない。

「大阪のおばちゃん vs ひちゃこちゃま」

この戦いが実現すれば、私は是非実況をしてみたい。入場料を取ってもいいな。

17日はひちゃこちゃま、あやきち、久美子さんが帰っていったが、その船で鎌倉の伊藤さん、草川さんが来られた。

伊藤さんは今年二度目の来島。草川さんも常連さん。ひちゃこちゃま達を一緒に見送った後、私は伊藤さん、草川さんをスコトンまで送って行ったが、この日はすごい雨だった。よって、4時間コースを歩くのは断念して、その日の夜は大将、いづみさんと盛り上がったみたい。

17日の夜は、私は山田のおかん宅にお邪魔した。私と礼文との出逢いはそもそも山田のおかんのおかげだ(週刊はまなす95日号参照)。私は山田家とはすっかり溶け込み、おとん、息子の大介、娘のあいとも親しい仲で、稚内にいる大介、旭川のあいは、私にとっては本当の弟、妹みたいだ。お盆で礼文に帰って来た時も、あいはわざわざ訪ねて来てくれ、大介が帰省してきた時はおかん宅にお邪魔した。この日は、夕食ぬきで山田家を訪ね、ステーキ、毛がに、鮑、あさりご飯、タコの刺身etcが私を迎えてくれた。おかんとはしょっちゅう飲んでいるが、おとんとはなかなかない。いつも、訪ねた時には寝てしまってる。しかし、この日はちゃんと私を待っていてくれた。いや、山田家はいつ来てもほっとする。

おとんはいつものように先に寝てしまったが、おかんとは色んな話をした。いつもは大介やあいの話をすることが多いが、この日は昔の話で盛り上がった。おかんが観光案内にいる時のことがほとんどだったが、その時私はまだ若干二十歳。頭にバンダナを巻いて長渕チックな時だ。その時に船泊の民宿「ゆうなぎ」さんに山城の父さんがいた。父さんとは私も仲がよく、3年前に倒れて入院したと聞いた時は、私は仕事そっちのけでお見舞いに行ったことがあった。その父さんと今年偶然にも港で再会。私は札幌に行ってるもんだと思っていたが、今は浜中にいるようだ。おかんも山城の父さんには色々世話になったようで、私はおかんに父さんが島にいることを教えてあげた。本当は、おかんと二人で父さんを訪ねる時間があったらよかったのだが。いやー、ほんと色々なことがあったな。

おかんは泊まって行きなさいと言ってくれたが、次の日にお客さんの送迎があったので、私は帰ることにした。おかんには今までに散々世話になったからな。別れると思うと寂しい。私は幸運なことに日本中で帰るところがいっぱいあるが、その中でも山田家は特にほっとさせてくれるところ。おかん、おとん、長い間本当にありがとう。今度は個人的に遊びに来るよ。


918日の出来事」
去年のことがあったので、私は前日までにほぼ荷造りは終えていた。朝、お客さんを港まで送って行き、そして伊藤さん、草川さん、いづみさんを香深井側の林道の入口まで送って行った。この日の天気は晴れ時々雨。南西の風も強く、回るにはいまいちの天気だったが、私は荷物を出した後、友美ねえのバイクを借りて、最後に島を回ることにした。

私は最後にどうしても行きたいところが。それは、ゴロタ岬、鉄府そして林道から礼文滝までのハイジの丘コース。

天気はいまいちすっきりしなかったが、私はバイクを飛ばして江戸屋の山道にバイクを置いてゴロタまで歩いた。ここを歩いたのは8年前。浩一と8時間コースを歩いて以来だ。ここから見た海の色のきれいさを今でも覚えてるし、あの時はまじで感動した。私が遊歩道を登って行くうちに、空は真っ青になってきて、ゴロタに着いた頃には8年前に見た海が私を待っていた。いやー、ほんときれいだ。しかし、この8年間できれいなものを見過ぎたのかな。昔ほどの感動はなかった。それから、スコトンでソフトクリームを食って、売店の連中と少し話してた。

ゴロタの次に行きたかったところは鉄府。ここで特に何かをしたいということはなかったが、一度ゆっくり行ってみたかったところ。鉄府には思ったほど集落があった。こんなに開けていたとは。私は宇遠内を想像していたのだがバスも通るのか。

そして、西上泊で仁吉さんを訪ねた。仁吉さんとはゆっくり話したかったが、なんせ西上泊にはめったに来ない。観光でここに来る時は、お客さんと一緒にスカイ岬まで行ってたので、仁吉さんの店に寄ることはなかった。仁吉さんは感じがよくすごく温かい空気を持ってる人。間接的に私のことも知っていて、私に対して最後にこういう言葉を残してくれた。

「礼文はまた大事なものを失ってしまった。」
ありがとう、仁吉さん。

それから、一旦港に戻り「酒壷」で生海苔ラーメンを食った。ここの生海苔ラーメンがうまい。最後にもう一度食いたかった。

その後、礼文林道へ。途中で、伊藤さんたちとすれ違って、いざ礼文滝へ。私は礼文の数あるトレッキングコースの中でここのハイジの丘コースだけ歩いたことがなかった。

ハイジの丘コースは景色的に宇遠内に行くコースによく似てる。遊歩道は礼文岳似かな。この日はとにかく風が強かったが、ロープを伝って急な坂を下って行った。確かに風は強かったが、ここは花の時期は最高やろう。人も少ないし。さあ、これで礼文の歩く道はすべて制覇した。もう、思い残すことはない。

礼文を出る前に最後にすることが。そう、断髪式だ。私の伸び乱れた髪の毛を切っていこう。案内所の今野さんに美容室を教えてもらい、今野さんはその美容室に電話で、

「今から髪の長い兄ちゃんが行くから、キムタク風にしてあげて。」
と訳の分からんことを言っていた。そしてその美容室に向かうと、そこのおばちゃんはカタログを見てキムタクを探し、何を勘違いしたのかキムタク似の人が来ると思ってたらしい。あほか。そして、断髪の前に切り終わったお客さんを私は止め、カメラを渡し、髪をくくった私にはさみを入れる瞬間、切り終わった後と写真を撮ってもらい、そしてゴムで縛ったその髪の毛をおばちゃんが包んでくれた。いやー、これは筆にせなあかん。来年はこの筆を使って書き初めをしよう。それにしてもかなり傷んでいる。約3年伸ばし続けた(今年の正月に20cm切ったが)髪の毛がなくなると寂しいものだ。急に頭は軽くなったが。たかが3年でこういう気になるのだから、相撲取りの断髪時の気持ちはよっぽどだ。私は生まれて初めて千代の富士の気持ちが分かった。

私の短くなったヘアーはものすごい評判が悪い。礼文に始めてきた19歳の頃と同じ髪型になった私だが、大将は懐かしがってくれた。ただ、この髪型にアジアンチックなスタイルは合わないと伊藤さんに言われたし、地元の小学生には、似合わんとはっきり言われた。港の連中からも評判が悪い。ほっとけ。

夜は私の送別会。大将は寿司を取ってくれて、友美ねえ、真紀ちゃん、松岡のこうやさんが来てくれた。宴は去年ほど乱れなかったが深夜まで続いた。いづみさんは目が据わっていたが、何とか記憶がなくなるまではいかなかった。

その目は力士の立ち合い時の目で、もう少し酒が入れば立ち合って突っ張りでもしそうな雰囲気だ。友美ねえは酔っぱらっており、いつも通りソファで寝かせたが、友美ねえはとにかく寝相が悪い。この日もソファから頭だけ床に落ち、足はソファに乗ったまま、首の骨が折れるんちゃうかなというぐらいの体勢でいびきをかいてた。草川さんは飲み屋のママに変身し、伊藤さんは色っぽく、大将の耳元で「悲しみ本線日本海」を熱唱してた。雰囲気を出すために浴衣を着込んだ伊藤さんは、大将の耳元に息を吹きかけるように歌ってた。その姿に大将はもうたじたじ。いやー、

大将も大変や。先日のひちゃこちゃまといい、伊藤さんといい。横ではいづみさんの目が据わってるし。私は女難とよく形容されるが大将も大変だ。大将の場合塾女が多いからな。この日はなかなか楽しい宴だったし、密度の濃い一日だった。


「さいはての国から'00 〜卒業〜」

第一部
記念すべきミレニアムの今年。正月明けに日本を出た私は、シンガポール、マレーシア、タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムと渡った。金銭的に今回は東南アジア諸国半年かなと思っていたが、最後にベトナムから中国に入ってもう1ヶ月居られる余裕はあった。

昨年、「はまなす」のホームページを仕上げた私は、正直「はまなす」にはもう未練はなかった。大将に特に会いたいとも思わないし、礼文ももういいかなと思っていた。しかし、ホームページを作ったままで放っておくのは無責任かなと考え、今年もまた戻ることにしてた。ただ、治安の悪い中を旅するわけなので、もし私の身に何かあったら逆に大将に迷惑がかかるので、大将には私は当てにしないでと伝えていた。礼文に行くには6月上旬には日本に戻らなあかん。旅の目処が立ってベトナムのニャチャンから礼文に国際電話をした私だが、その直後原因不明の病魔に襲われた。高熱が下がらない。マラリアか?結局、原因がわからぬまま4,5日寝たきりになって、中国に行くのを断念した

私は、ハノイからバンコクに戻り、ソウルに少し滞在して、半年ぶりに帰国した。しかし、体調は最悪。帰国直前まで咳が止まらなかった。

その一週間後には礼文に戻ったが、体調の悪さとあまりの寒さに始めは調子が出なかった。今年は有珠山の噴火の影響で6月のお客さんの入りがいまいちだったのは、私には幸いだった。その間に体調を戻さなければ。そうこうしているうちに満室のピークが来た。

今年のヘルパーは、もうご存知だと思うが、私、朝君、いづみさんそしてバンジー。いづみさんは3年目。そして、強烈なキャラのバンジー。とにかく、よう笑わせてもらったし、ネタにさせてもらった。朝君は洗濯専門の大将の甥っ子。始めはどうなるかと思ったがよくがんばってくれた。

私の今年のスタイルはアジアンチックにきめた。東南アジア各国で仕入れた衣装と伸び乱れた髪の毛。よく桃岩荘の連中と間違われた。

第二部
仕事に関しては昨年以上のプロ意識を持ってた。今年も昨年同様、団体さんがお客さんの半分を占めていた。年配層には、料理、宿のきれいさ、接客が伴わなければならない。昨年以上の接客を心がけようと、私は今年度は昨年以上に宿の管理を厳しくし、それはヘルパーにも及んだ。だから、バンジーは常に私を恐れていた。お客さんが楽しんで帰らないと私自身気が済まない。仕事以上に私のプライドが許さない。当然、今年も私の旅日記や写真を公開した。

それと、インターネット。より多くのお客さんの目を引きつけるのと、今年来たお客さんとのアフターケア的な対話を考慮して、私は一週間毎にホームページを更新することにした。これは昨年から考えていたアイデアで、肝心のデータベースは札幌の出版社にあったので、その送信に少々戸惑ったが、それが実際この「週刊はまなす」という形に

なり、その反響が予想以上だったのには私自身驚いていたし、皆様が毎週楽しみにしてくれているという気持ちが私に拍車をかけた。確かにつらい週もあった。と言うか、毎週つらかった。大体、書いている時間帯が仕事終了後の深夜だった。しかし、私は頑固な正確なので、中途半端で仕事を投げ出すことができない。それよりも、いかに毎週皆様を楽しませるか。でも嘘は書けないので、ネタで勝負しよう。そういう意味で、毎回企画を考え、朝君の詩を導入したり、バンジーに書かせたりしてた。バンジーにはある意味助かった。毎週ネタになる。あれは計算してるのだろうか。だとしたら天才かもしらん。

ホームページを見てきたというお客さんも予想以上だった。毎日いたような気がする。私自身ホームページの経費が取れればいいかなとも思っていたが、全体で200人以上はいたと思う。団体さんは別にして、個人客ではかなりの確立だった。ホームページの評判もまずまずで、これからの[IT]社会の足がかりができたように思えた。大将もその気になってきたし。

今年はテント生活はする気はなかったのだが、やっぱりする羽目になった。テントを持って来なかった私は、港の仲間にテントを借り、底にダンボール、むしろを敷いた。部屋割りには昨年以上に気を付けたが、突然団体さんの添乗員や乗務員が入ってくる。団体さんはホテルからまわってくるのだが、団体さんが居ないと満室にならなくなってしまったこの御時世に、ホテルからの無理な要求も聞かざるを得ない。これが中小企業の辛いところか。大将に予約を任せるとトラブルが相次ぐし。ここまでしなくてもいいといつも思っていたが、お客さんに何かあると私のプライドが許さない。責任感を感じれば感じるほど自分が辛くなる。ああ、始めの使われてる頃に戻りたい。今年は何度もそう思った。

第三部
今年はいつも以上に漁の回数が多かった。トン数的にはウニでは例年並だが、短い時間で多く取らすという傾向が強く、一度一週間漁が続いた時もあり、あの時はまじで死ぬかと思った。体調が万全でなかった今年は、昆布漁も少々辛かった。昨年よりは昆布の量も多かったし。

ウニ剥きが仕事になってしまった今は、ウニを食べたくもない。正直、見るのも嫌なぐらいだ。昆布はとにかく手間がかかる。乾くまで何日も干し続け、そして昆布作りに入るのだが、民宿業をやっている我々は、一段落着くまでは昆布に手を付けられない。普通の漁師さんは、昆布を乾かした後はすぐにしわを伸ばし等級に分けて作り始める。我々は取った昆布はそのままにし、お客さんが居なくなった8月下旬から作り始めるが、その頃は比較的天候がいいので、空気が乾燥し始め、昆布ががちがちになり、しわだらけの昆布を一旦伸ばし、そしてはさみを入れていくのは至難の業となる。特に、今年は昨年以上の漁だったので、民宿をしながらの昆布作りは結局一ヶ月近くかかった。

礼文での民宿業の中で、この漁師の経験というのは私には貴重な体験になった。農芸化学専攻の私は、将来的にもその方向に進む予定だが、我々人類を支えていて底辺にある第一次産業のうちの漁業に携われたことは大きかった。直に漁師さんたちの声も聞けたし、漁業に対して興味も持ち始めた。農業では、天災たとえば冷害や干ばつがあろうが、まず作物を植えるという作業がある。しかし、漁業では海に中の生物がなくなればなくなり、なくなってしまえばどうしようもない。例えば礼文ではかつての鰊のように。育てる漁業というのが流行り始めているが、昔ながらの天然漁中心の年配層には方向転換のリスクは大きすぎる。コスト的にも無理だろうし。人間中心の世の中で、その底辺を支えている食糧問題はあまりにも軽視されつつある。農学の研究に携わってきた私としては、この世の中の風潮に不安を感じるし、礼文で実際に漁師さんたちの生活に触れ、ますます農業問題に携わっていこうという気持ちが強くなった。漁業自体は直接農業とのリンクは少ないかもしれないが、私にはすごくいい経験になったし、自分の視野が広がったような気がした。

第四部
島の人とはもう家族同然な人もいて、逆に今年が最後というのは辛かった。私が始めに来た当時まだ幼稚園に行ってたちびっ子はもう小学6年生。すっかりやんちゃ坊主になっている。あと、子供たちのファンも増え、夏休み中私に会いに港に来る中学生もいた。島の子供たちは本当にかわいい。私はいつもパワーをもらう。

島から巣立っていった連中も帰省時には私に顔を出してくれ、そのうち浩一も今年も帰ってきた。山梨学院2年生の浩一は、自分の伸び悩みに落ち込み、しばらく練習にも行ってなかった。そして、その悩みを私に打ち明けてくれたが、私にすれば浩一の考えはまだまだ子供だ。ただ、そう言ってしまえば、まだまだ未熟な浩一には答えにはならないので、私は肯定的に色々アドバイスしてやった。しかし、失意のどん底にいた浩一には効果なく、あとは時が解決してくれるのを待つしかない。浩一のおかんも呆れていたが、浩一には我々が体験できない推薦入学というプレッシャーがある。私が浩一にできることは、あいつが困った時に力になってやり、あいつが帰れる場所を作ってやることしかない。あとは浩一自信の問題。今逃げ出せば浩一はそれだけの人間。とにかく、浩一には精一杯がんばってもらいたい。

おかんの息子大介、娘のあいも顔を出してくれた。二人とも私にとっては弟や妹のようなもの。特に、あいは進路や恋愛について悩んでいたので、私は私なりのアドバイスをしてやった。大介はしっかりしてきてる。あいにとっても尊敬してるお兄ちゃんだし、私も大介には一目置いている。おかんと話すと子供という感覚で話されるようだが、おかんが分かってくれない大介の考えを私には話してくれる。大介は礼文で生まれて、札幌の高校、専門学校を出て、現在稚内の勇知の郵便局にいる。勇知といういわゆる閉鎖的で、刺激のない空間で生活している大介だが、都会でちんたらしてる同世代の若者よりもずっと物事を考えている立派な男だ。人間的にもすばらしい。これからもこのままでいてほしいし、あいのいい兄ちゃんでいてほしい。

第五部
そして礼文とお別れする時が来た。今年は最後ということもあって、今までゆっくり訪ねたくても訪ねられなかった人と会えた。それが「かぶか荘」であり、「山光」であり、「岬しれとこ」である。もっともっと約束してた島の連中がいたが、その人たちを訪ねて回る時間がなかったのが今となっては悔いが残る。山田のおかんには本当に世話になったし、私が礼文に来れたのもあの時たまたま電話を取ってくれたのがおかんだったからだ。その他、島の人々にはよくしてもらった。島を出る時にも色んな人から餞別やお土産をもらった。こんなによくされると、逆に申し訳なくて。

「はまなす」を通じて、何千人というお客さんと出会えたのも大きかった。色んなタイプのお客さん。始めのうちはがむしゃらに接していたが、段々とものを考えて接するようになり、去年ぐらいからは接客に対してプロ意識が芽生えた。お客さんには色々教わったし、楽しい思い出を数多くもらった。いまだに付き合ってるお客さんも多数いるし、頻繁に手紙やメールをくれる人もいる。それは、1992年のお客さんもいるし、去年や今年のお客さんもいる。こういった「WORLD」はお金では買えないしすばらしい事だと思う。今年も常連さんがたくさん来てくれたが、私自身がもう来ないということは正直辛かった。仮に来年以降来てくれても、私はもう「はまなす」では働かない。「はまなす」では遣り残したことはないし、もうこれ以上のことはできない。

「今年と同じ事をやればいい。」
と言われても、常に上を目指してきた私にとって、それは自分自身満足しない。今年戻った要因はホームページを軌道に乗せることしかなかった。それ以外はもう「はまなす」はいい。私が長くなればなるほど、大将の私に対する対応も杜撰になってきたし、私自身も知識をつければつけるほど人のあらが見え出してきた。

「親しき中にも礼儀あり。」
この気持ちがお互いなくなってきたような気がする。私目当てのお客さん、私を訪ねてくる島の連中が増えてくる中で、

「これは大将に申し訳ない。こうなれば潮時だ。」
と思うようになった。仮に仕事をするなら他の民宿に行くだろう。とにかく、「はまなす」はもういい。そろそろ私も礼文卒業の時期かもしらん。私自身の将来をもう少し真剣に考える時かもしらんし。でも、こうやって礼文でやって来られたのは、山田のおかんのおかげであり、大将のおかげでもある。

大将は最後に送別会を開いてくれた。でも、お互いなんか照れ臭く、まともに会話はできなかった。帰る日もみんなへの挨拶回りに時間を取られ、知らず知らずのうちに船に乗り込み、気付いたらテープで見送られていた。当然、今の私には寂しさや悲しみの感情は一つもない。それよりも、

「もういいや。」
という気持ちしかなかった。今度来る時は、ゆっくりお客さんとして昔を楽しみたいね。そうそう、大将に言い忘れたことがあった。
「ありがとう。」

第六部
稚内から大阪に飛ぶつもりだった私は、札幌の仲間に説得されて札幌に行くことにした。稚内に着いた私を大介が迎えに来てくれ、私はそのまま大介に車を借りて、礼文で私を見送ってくれた伊藤さんと草川さんを稚内空港まで見送りに行った。そして、最後にどうしても行きたかった宗谷岬に寄って、酒を買ってその晩は大介と飲んだ。

札幌まではバスで行ってもいいが、普通に帰るのは面白くない。ヒッチしかないやろう。ヒッチハイカーの私は、次の日の朝大介に稚咲内まで送ってもらい、車が止まりやすいヒッチポイントを探して、立って速攻遠別まで行くという車を捕まえた。そのおっちゃんは、なんと礼文に出入りしている業者さんで、礼文、利尻の話で盛り上がった。

二台目はまたもや速攻で、今度は札幌に向かうというビジネスマン。おいおい、こんな早く着いていいんかい。このおっちゃんは、

「飛ばすぞ。」
と言って、国道を時速140kmで走り、深川から高速に乗って、今度は時速180kmで走った。恐ろしい。私はNZでホモをヒッチしてしまった時以来の恐怖を覚えた。ただ、このおやじのおかげで稚内からなんと4時間半で札幌に着き、おかげで夕方の予定まで時間が余りまくった。

札幌に来る予定がなかった私だが、来るとなれば色々することが。まずは教授へのご挨拶。今年3月の御退官の最終講義に出席できなかったので、そのお詫びもかねて、忙しい中教授に時間を取って頂いた。それから、板さん宅訪問。

20年前のヘルパーさんたちが9月に礼文で集結した時に、私は板さんと約束した。7年前にも板さんは来てくれたが、その時は寄るのを忘れていた。板さんと話すことは礼文の話ばかり。板さんがいた20年前に私もヘルパーをしてみたかった。

そして最後に大宴会。私の友人、今年の礼文のお客さん、そして朝君を呼んでの15名ほどの大宴会。全然知らん仲間同士だったが、みんな楽しんでくれたようだ。私も動きまくって話しまくったが、みんなが帰った後はさすがにほっとした。なんか肩の荷が降りたようで、体がだるくなってしまった。

いやー、今年の夏も色々あったな。これが今年の夏の出来事だった。



長い間「週刊はまなす」を御愛読頂いてありがとうございました。来年以降も民宿はまなすをよろしくお願い致します。
では、またどこかで会いましょう。