週刊はまなす(915日号)

5日に東京の大学の旅行サークル7人組がやって来た。若い子は18歳で、みんな元気もりもりだった。その日の晩、ある女の子が洗濯をしたいというので、私は洗剤を貸してあげ、いざ洗濯という時に女の子は戸惑った。そう、二層式の洗濯機の使い方が分からないのだ。我々は普段から二層式を使っているので、二層式には特に抵抗感はないが、言われてみれば今の一人暮らしの学生達は全自動が当たり前なので、二層式の使い方が分からないのも無理はない。確かに全自動は楽だが、二層式の方が絶対汚れはよく落ちる。しかし、汚れが一番よく落ちる方法は手洗いにはかなわない。全自動洗濯機がどんどん普及し、作業的に楽になっては来ているが、衣服を洗うという質は落ちてきているのが現実だ。これから、こういった若者ばかりになると思うと少し残念な気がする。

8日、はまなすの20年前のヘルパーさん達4人が集まった。札幌の板さん、群馬のチャコさん、そして九州の山さん、柳井さん。4人は礼文で知り合ってから20年を記念して集まろうと計画し、8日はうちに泊まり、9日は久種湖の湖畔のバンガローを借りて、当時の他の民宿のヘルパーさん達計10名ほどが宴を開いた。私にとって板さん達は大先輩。この日は、たまたまお客さんはこの4人しかいなかったので、午前2時までの酒盛りとなった。大将も懐かしそうで、もちろん昔の話で盛り上がり、古いアルバムを引っ張ってきたりした。当然、いつも通りいづみさんは酔っぱらい、途中から意識がなかったみたい。チャコさんは学生時代に落研にいて、当時からよく古典を中心とした落語をやっていたらしい。では、やってもらいましょう。私はチャコさんに三題噺を要求してお題を与えたが、オチが落ちん。こんなんはオチやない。落研のチャコさんとしてもプライドがある。そして、再び題を与えてやってもらったがまたまた落ちん。板さん曰く、昔からオチが落ちんので有名やったらしい。

柳井さんはミュージシャン。「忘れないでおくれ」を作ったのも柳井さん。我々は数曲リクエストし、実際に弾き語りをしてもらったがもうたまらん。あの声は反則や。そりゃ、女の子がころっといくはず。

次の日は運よくノナの旗が揚がり4人とも満足して召し上がってた。いい時に来ましたね。

そして、帰る日。先に帰る仲間を板さん達は昔のようにギターで見送ってた。その表情は皆生き生きしてた。私は皆さんをテープで見送ってあげ、さらにそのボルテージが盛り上がった。礼文で知り合ってからもう20年。そして、こうやって20年ぶりに礼文で再会するってのはすごいこと。私は改めて礼文の奥深さを知ったし歴史を感じた。私が礼文と出会った時期なんて、板さん達の10年以上も後。礼文ってすごい。

9日、横浜の島貫さん、東京の太田さんが今シーズン再び来島した。二人は71日に別々でうちに泊まり、意気投合してすっかり仲良くなり、我々もその日の晩は色々お話した。その後、二人は東京で会ったり連絡は取り続けていて、最初にもう一度礼文に来たいと言い出したのは島貫さん。太田さんも行きたそうだったらしいが予定があり、元々は今回来ないつもりだった。それが、8日の夜、急に太田さんから連絡があり、今羽田でこれから札幌に向かうとのこと。そして、島貫さん、太田さんが礼文で再会。この行動力には我々もびっくりやし当然嬉しかった。そして、夜は一緒にチャンチャン焼きを食べ、それから私がお気に入りの尺忍小学校の裏に星を見に行った。太田さんなんて、最終で礼文に来て始発で稚内に向かったのだから、今回は我々に会いに来るために高い銭をはたいて来てくれた。島貫さんも、少しでも礼文に長くいたいからと言って、わざわざ稚内から飛行機で来た。二人とも本当にありがとう。

9日から三連泊でいづみさんの先輩の頼子様が来られた。頼子様はさすがにいづみさんの先輩だけあって、いづみさんのことを名字の「立林」と呼び捨てしてた。この3日間はお客さんも少なかったので、いづみさんと礼文ライフを楽しんでおられた。桃岩周辺を歩いたり、ドライブに出かけたり、あとはウニ剥き、昆布切り、そして最後は大将に船に乗せてもらってた。それには頼子様も大変満足のご様子。

9,10日と横浜の大学の旅行サークルの8人組が来た。彼らはちょっといただけない学生達だった。4時間コースを歩いたのはいいが、西上泊でバスに乗り遅れ、私が迎えに行くはめになった。迎えに行くのは仕方ないとして、いざ着いてみると彼らはスカイ岬で遊んでいて、その態度に私の怒りも頂点。そして、次の日の朝。私は彼らに再三時間に遅れないように前の夜に注意はしたが、結局30分近くも出発が遅れ、朝の忙しい時間にまたもや私は切れた。旅行サークルで本人達が楽しむのはいいが、その周りには常に人がいるってことを覚えといてほしい。周りに迷惑をかけてまで旅行を続けるのは考えもんやぞ。

10日の夜、かぶか荘にお邪魔した。山田のおかんと一緒に伺ったが、かぶか荘にお邪魔するのは7年ぶりか。私が礼文を後にする時に、かふか荘のお父さん、お母さんが送別会をしてくれたことがあるぐらい私は親しくさせてもらっている。娘の真理ちゃんと飲むのは初めてかもしらん。もう25歳になってた。今は中学校の先生をしている。お母さんの顔を見るとほんとホッとする。残念ながらお父さんはもう寝てしまっていたが。真理ちゃんもきれいになってた。お母さんも年を取ったな。いつまでも元気でね。

かふか荘を出た後は、山田のおかんとおとんと港の飲み屋に行った。我々が店に入った時はホテルのバイト達が盛り上がっていて、そのうちの一人が誕生日でマスターからケーキとシャンパンのプレゼントがあった。それを見たおかんは何を血迷ったか、

「この席にも誕生日の人がいる。」
と言って私を指差し、いきなり「Happy Birthday」の歌が流れてみんなで合唱となり、シャンパンが運ばれてきた。おいおい、わしの誕生日は12月やぞ。なんで、わしもロウソク消してんねん。

9,10日とノナの旗が揚がった。ノナ漁もあと二回だけとの話。昆布は自由操業だが、我々は昆布作りで必死。大体、赤葉切りのめどは立ったがあとは梱包。梱包となると大将の仕事。あともう少し。

天気:ここ最近天気がいい。夕日もすごくきれいに見える。日中は暑い日もあるが、朝晩は上着なしではいれないぐらい寒い。



加藤学礼文青春グラフティ−
2
「さいはての国から ’93 〜責任〜」

第一部
この年になぜ礼文に来たのかは定かではない。大将に言われたのか、私が連絡したのか。とにかく、大将は私が来るものと考えていたようだ。この年、私はまだ20歳。ヘルパーはきみちゃんと真奈美ちゃん。当然、二人とも私よりも年上。大将の奥さん、息子の健太、そして生まれたばかりのまちちゃんもいて、奥さんは色々手伝ってくれたので助かったが、おばあちゃんは途中から体調を壊し、寝たきりになってしまった。前年の秋におじいちゃんが亡くなったことで、精神的にもガクッと来たのかもしれない。

そんな中、大将は私に民宿の仕事をほとんど任せた。送迎、掃除、洗濯はもちろんのこと、接客、精算、ヘルパーの管理までも。礼文2年目といえども私はまだ20歳で、年上のヘルパーの管理なんて荷が重過ぎる。当然、それに漁が加わるし、何と言っても当時はまだ観光をしてた。ほぼ毎日一回は走ってて、多い時で一日三回は走ってた。大体、一回走るので100km3時間半。お客さんを乗せているのでかなり気も遣う。今思えばよくやったなと思う。

ちなみに、この年の私の格好は毎日バンダナの色を変えて、Tシャツにジーパンという長渕チックだった。

第二部
仕事に関しては昨年で要領が分かっているので特に大きな問題はなかったが、昨年と違って毎日お客さんと接しなければならないので大変だった。色んなタイプのお客さんがいる。若い子もいれば年配もいる。感じのいいお客さんもいれば嫌な人もいる。でも、来てしまったお客さんを選ぶことはできない。さあ、どうするか。自分なりにない知恵を絞って色々考えた。

その年も、民宿・旅館案内所には山田のおかんが座ってた。おかんはなぜか若い女の子をうちに回してくれたが、正直私も嬉しかったが仕事が忙しくて忙しくてそれどころではなかった。一番こたえたのが何と言っても送迎。前年は、実さんがしんどい時に私が代わりに港に行くだけだったが、当然この年は私一人でそれをこなし、忙しい時には大将に手伝ってもらってた。港の往復が約9km、それを110回近くやってたので、それだけで100kmは走ることになる。さらに、観光が加わるとなると今思い出すだけでも嫌になってくる。観光中はしゃべらなあかんし。だから、夜はいつもグタッとなってた。

接客はとにかく必死だった。お客さんになんかあってはいけない。何とかミスのないように、民宿に迷惑をかけないように。常にそう気をつけていたせいか、特に大きなトラブルはなかったが、今考えればぎこちない接客だった。みんなに同じような対応。機転の利かない応対。思い出すだけで恥ずかしくなってくる。

第三部
ヘルパーのきみちゃん、真奈美ちゃんは茶髪の女の子。真奈美ちゃんはホッケが大好きで、毎日5匹近く食っていたような。脂の乗ったホッケをそんなに食い続ければそりゃ太るやろう。帰る直前には、けつが5倍ぐらいにでかくなってて、ドアによく引っかかってた(ごめん、言い過ぎた)。

二人ともタバコが大好きで、風呂掃除を終えた私が台所に戻り、そのドアを開けると、煙だらけなことがたまたまあった。おいおい、ここは厨房やぞ。あと、昼寝坊もよくしてたしな。でも、元気な二人だった。

健太はすっかり私になついていた。

「おっちゃん。」
と言って、よく私に近づいてきた。奥さんは赤ん坊に付きっきりで、大将は昼間疲れて寝ることが多かった。そうなると、走り回る健太の世話は私しかない。そう思って、私は昼の船の迎えによく健太を連れて行った。連れて行くのはいいが、健太は港でも走り回る。これが結構危ない。でも、私は色んなネタを健太に仕込んだ。健太も私の言うがままにそのボケをこなし、港では結構みんなから可愛がられていた。でも、

「お前がしこんだんやろう。」
と私はよくみんなから怒られた。

奥さんはすごく感じがいい。大将家族は母屋でご飯を食べていたので、我々のまかない料理は我々で作っていたのだが、奥さんは気を遣ってくれて、我々の分も余計に作ってくれることが多かった。さらに、私がネギとタマネギがあまり好きでないのを知って、私にはネギ、タマネギ抜きの専用の料理を作ってくれていた。

「奥さん、感じええわ。」
これがこの年の私の口癖だった。

第四部
島の人ともすっかり仲良くなり、また旗持ちにいつも行ってたので他のヘルパーさん達とも仲良くなった。山田のおかんの家にも度々お邪魔したり、他のヘルパー連中とたまに港で飲んだりしてた。都会生活に慣れていた私にとって、島の人々は新鮮だった。なんて言うんやろう。すごく温かいし、戻りたくなるような雰囲気にさせてくれる。島の人々も私のことを気に入ってくれ、私は港に行く度に土産物屋にお邪魔したり、案内所でおしゃべりをするのが楽しみだった。観光で立ち寄るスコトン岬の売店の人たち、元地の人々とも知り合いができて、そこに行く度にいつも会いに行ってた。

浩一とも1年ぶりの再会。この年、浩一は中学一年。部活が始まって、前の年に比べると接する時間は減ったが、浩一の妹のゆき、あき、そして弟のみつおとも仲良くなった。

第五部
そんな忙しい礼文生活にも前年同様終わりが来た。私はとにかく自分なりに一生懸命やった。きみちゃんや真奈美ちゃんにもよく怒った。年上であろうが、嫌われようが、やることをやってない時は怒った。そうしないとお客さんに迷惑がかかる。その分私もやらなければという衝動にかられて頑張った。いわゆる「責任感」。それを生まれて初めて意識したような気がする。

大将や島の人は私のことをよく褒めてくれた。大将は「ヘルパーの鏡」とまで言ってくれた。でも、私自身しっくり来ない。こんなんでいいんやろうか、もっともっとできたんちゃうやろか。

帰る前の日は、かふか荘のお父さんとお母さんが、かふか荘のヘルパーも帰るというので合同で送別会を開いてくれた。そこには山田のおかんもいたし、島の人も数人いた。帰る日の朝は、また浩一がやって来た。この年は浩一は絶対私を見送ると言っていたのだが、急に部活が入って見送りに来れなくなってしまった。学校に行く日の朝、浩一はまたお土産を持って来て、私と握手だけしてめそめそしながら走って帰った。いや、浩一には参ったな。

そして、船出の時が。その日の午後、稚内で友達と待ち合わせをしていた私は、朝の便にバイクを積んだ。次の年は大学4年なので来れないし、大学院に進学希望の私としてはこれで礼文最後かなと覚悟してた。今年も色々あったし仲間もできた。一生懸命やったし、自分なりに充実感はあった。見送りには島の人もたくさん来てくれ、出港と同時に自然と涙が出てきた。

「あれ、なんで俺泣いてるんやろう。」
泣くことがほとんどなかった私は、自然と出てくる涙が不思議でたまらなかった。でも、涙は止まらない。今度いつ礼文と会えるんやろう。

第六部
礼文を出た私は稚内で大学の仲間と待ち合わせて、道東の方にツーリングに出かけた。宗谷岬、サロマ湖、網走、知床、野付、開陽台、摩周湖、帯広、そして富良野、美瑛。我々はライダーハウスに泊まりながら札幌を目指したのだが、富良野で私がよく行ってたカレー屋「唯我独尊」に寄った時のこと。何気なくカウンターを見ると、どっかで見たような顔が。な、なんと、前の年に礼文で一緒に働いてた実さんではないですか。なんで実さんがこんな所に。実さんも私を見て驚き、さらに驚いたことは、近くのペンションにあけみさん(おねえさん)もいるとのこと。そして、私がそのペンションを訪ねると、

「かとちゃん。」
とおねえさんは驚いてた。ほんと偶然の再会。おねえさん、実さんとは前の年、礼文を出た後は連絡が途絶えていた。こんな再会ありか。これはドラマか、いや現実だ。私はまたもや高倉健の心境だった。ちなみに、この年の秋からおねえさんは札幌に住むことになり、それからは頻繁に会って私の研究室にもしょっちゅう出入りするようになった。私が東京に行ってからも研究室の仲間を頻繁に訪れ、終いにはほぼ研究室の一員になってた。人との繋がりは分からんもんだ。私は改めてそう感じた。これがこの年の夏の出来事だった。



大砂賀朝君からのメッセージ
民宿はまなすのHPをご覧の皆さん、こんにちは。大砂賀 朝です。(自己紹介がどっかの局の音楽情報番組風になっちゃいました。どの番組かはご想像にお任せします。)

実は私の作詞活動において新作の詞が完成しました。以前、「Sun Flower」を作っています、と言いましたが別の詞が出来ました。タイトルは「Wish and Dream」です。この詞のエピソードはここでは言えないほどスゴいので勘弁してください。この詞を書いていて思ったこととして人からもらう「エネルギー」とは本当にすごいもので、普段出来ないことがいつのまにか出来てしまう、改めて人からもらう「エネルギー」のすごさに感激・驚愕してしまいました。では「 Wish and Dream」です。どうぞ。

Wish and Dream

夢に出てきたキミが 突然発した言葉
それは「頑張ろうね」 ただ一言だった
それでも嬉しくて 言葉が力に換わる

キミに支えられて 僕はまた動き出す

支える人がいて初めて 力が引き出されていくよ
今見ぬ明日(あした)を走るため 今日の夜は羽を休める

キミに会えると信じて 約束の場所で待つ
キミは来てくれて Heartが飛び跳ねた
願いが叶うと 鼓動が鳴り止まないもの
キミが居てくれるならば 僕は期待に応えたい

支える人が居てくれなきゃ 何にも出来ないままなのか?
Looseな人間脱出だ! 独りになってもやっていかなきゃ
キミに出会えて幸せだった日々も いつかは想い出になって
消えていってしまう・・・

そんな日が来たとしても 僕は絶対忘れない!
支える人がいて初めて 力が引き出されていくよ
将来夢を叶えるため 今日を必死に生き抜いてく
Wish and Dreamを持ちつづけて!

曲について触れるのを忘れていました。メロディーはT.M.Revolutionの曲にありがちな「テンションが段々上がっていく」ような感じになりそうです。

もしかしたら今年度はこの詞が最後の発表になるかもしれません。HPを見て頂いた皆様有難うございました。(もしかしたらもう1つくらい発表できるかもしれないので・・・。あえて書いておきます。)来年、はまなすに戻ってくることが出来れば作詞集を作ってお客様に読んでいただけるようにしたいなと考えています。

あと、私への感想・意見・リクエストのメールが1通もありません。非常に寂しいものです。HPを見て頂いた方、いつでも構いません。感想のメールをください。お待ちしています。メールアドレスは学校のものになっていますが、私の家のノートパソコンに直通になっています。メールアドレスを教えていただければ返信もします。

e-mailアドレスは下に載せています。
j000402@dohto.ac.jp


加藤学礼文青春グラフティ− 3
「さいはての国から ’97 〜初心〜」

第一部
東京で大学院を2年間過ごして、卒業後、タイ、ネパール、インド、バングラデッシュと回った私は、その年の夏礼文に戻った。それまでの3年間はヘルパーとしてではないが、やっぱり礼文に来てしまった。東京での2年間、そしてアジアの旅はこの年の礼文の私自身を大きく変えた。自分が一回りも二回りも大きくなったし、少し自分自身に自信がついた。大学院時代に物を考えるということを覚えたし、研究者をしながら社会人もどきのことをしていて、そこで現場の接客、マーケティング、人の採用、使い方を経験できたし。それに、初めてのバックパッカーの旅は私の価値観を根底から変えてくれた。

最終的にタイから帰って来た私は体調が最悪だった。カトマンズとデリーで倒れて、デリーで倒れてからはずっと体調が悪く、正直日本に帰ってからも下痢は治らず、体重も10kg減っていた。礼文に行く前に少しゆっくりしたかったが、大将からお呼びがかかりすぐに来いとのこと。そして、帰国後3日ほどで礼文に向かい、4年ぶりにヘルパーとして働くことになった。

この年のヘルパーは、泰子、真紀ちゃん、たかこ。真紀ちゃんは私よりも一つ上だったが、泰子とたかこは初めて同い年のヘルパー。おばあちゃんはもう死んでしまっていなかったし、奥さんもこの年は来なかった。代わりに、近所の平井の母さんが来てくれていたが、父さんは漁師なので、肝心の忙しい日は母さんは来なかった。

ヘルパーとして3年目の私は、今までよりも心の中でゆとりがあった。仕事は分かっているし、何といってもこの3年間の経験が自信になっていて、逆に今までの2年間のヘルパー生活はなんやったんやろうとまで思っていた。

この年の私の格好はインドの民族衣装のクルーター。バナラシでorder madeしてもらったのとカルカッタで買った二着のクルーター。それと、カトマンズで買ったベストに、ポカラで物物交換したネックレスと指輪。旗持ちに行くと他のヘルパーさんから、

「お前、礼文なめてんな。」
とよくからかわれた。

第二部
この年はとにかくもてた。自分でもびっくりするぐらいだった。それは、若い女性のみならず、年配の御夫婦や子供までも私のことを好意に思ってくれた。毎日私にお弁当を作ってくれる他の民宿の女の子もいた。ただ、スキー場で見る人がいざ街に戻るとたいしたことないとよく言われるように、これは一時的なのものだと自分に言い聞かせ、好意は好意として受け取って私は常に平常心を心がけた。そうじゃないと、他のお客さんへの対応が杜撰になってしまう。

私のヘルパー時代の中で、この年のお客さんが一番印象に残っているし、いまだに連絡を取り合ってるお客さんも多い。東京での接客業のおかげで、接客に対して余裕ができたし、お客さんに応じた対応を常に心がけ、また接客に対して一種のプロ意識を感じていた。余り観光をしなかったので、体力的にゆとりがあったのも事実だ。

ヘルパーの管理もそれなりに厳しくした。嫌われてもいい。なあなあでやってるとしまらん。仕事とプライベートが一緒の住み込みバイトは、自分自身のコントロールが非常に重要になる。特に、礼文では逃げ道がない。仕事が忙しくなると体力的にも辛くなってくるし、働く期間が長くなるに連れてホームシックもどきものにかかってしまい、精神的にも辛くなってくる。私は送迎で港に行ったり、他のヘルパーと接したり、お客さんと話したりと毎日の変化はあるが、中で働いている女の子達はそうはいかない。Routineな仕事は飽きてくるが、かと言ってそれからは抜けられない。仕事は仕事。私はその辺りのことは十分に理解していたので、自分なりにみんなに気を遣った。でも、怒る時は怒らないといけない。大将は、その辺のところは私にすべて任せてた。

第三部
この年の昆布の漁は異常だった。9月に入っても自由操業にならないぐらい多かった。朝、ウニ、昼から昆布って時もたまにあった。朝、昆布の時は、大砂賀さん家族が来てくれたので助かったが、昼から昆布の時は私一人で運んで干さないといけない。その間に送迎は入ってくるし。この時はまじで辛かったし、大将も辛かったはず。

ウニ剥きを一人前と見てくれたのもこの年からだ。大体、漁のバイトで来ている連中もウニの殻割りまではさせてくれるが、剥くのはさせてくれない。身を崩してしまえば元も功もない。以前はウニ剥きの時は大将に怒られてばかりで、ほとんど剥かせてもらえなかったが、この年からは任されるようになった。速さ的には全然遅いが、大将の手助けはできたはず。ただ、この年は何と言っても昆布の多さ。昆布漁がある日は正直嫌だった。

第四部
島の人ともすっかり仲間になってた。地元の漁師さんもそうだし、他のヘルパーとも仲がよかった。よく港に飲みに行ったしうちにもよく来た。私は地元の漁師さんと話をするのが好きだった。昆布漁の時は、我々が干し終わっても他の人がまだ干し終わっていなければ手伝ってあげる。当然、逆の場合も同じで、どちらかというと我々が手伝ってもらうことが多かった。私は干しながらも送迎があったので、そのことを部落の人々はみんな承知で、

「あとやっといてあげるから、早くお客さん送ってあげなさい。」
と言って、よく助けてもらった。その代わり、部落の人達が港に行きたい時は車に乗せてあげたり、港から帰る時も拾ってあげたりした。都会ではこういったことはまずない。同じアパートでも隣の人が誰なのかも知らないのが普通だ。都会生活に慣れていた私にとって、部落の人々との触れ合いは新鮮で、何か忘れていたものを思い出させてくれたような心境だった。

ある日、見知らぬきれいな女性が我々の昆布干しを手伝ってくれていて、

「ねえちゃん、かわいいな。」
と私は何気なく声をかけると、その場にいた小学生が、

「加藤君、あれ学校の先生だよ。」
と怒られた。あれ、まあ。私はなんと感じの悪い失言をしてしまったのか。

「おっちゃん、ありがとう。」
と、同じようなことを教頭先生にも言ってしまって、後で謝りに行ったこともあった。そのせいか、地元の小学生曰く、あのきれいな先生はいまだに私のことを覚えてるらしい。

浩一はこの年高校2年生。お盆に帰省してきた浩一はすっかり大人っぽくなっていた。そして、本当はいけないのだが、

「加藤君と酒が飲みてえ。」
と浩一に言われ、一緒に飲んだことがあった。浩一と酒が飲めるなんて。始めて会った時は小学生で、一緒に8時間を歩いたあの浩一と酒を飲んでいる。そして、浩一の進路について相談に乗ってあげている。あの浩一が大学受験か。私は浩一と酒を飲みながら語ってるのが妙に嬉しかった。

第五部
この年も礼文と別れる時が来た。もう島を出るのは寂しくない。それよりも何とか仕事が終わったという安堵感でいっぱいだった。私はこの年を最後にしようとこの島に戻ってきた。次の年からは海外に行くつもりだったから。いつまでもきりがない。

港の前のレンタバイク屋「さいはて」の山崎の父さんはこの年で店を閉める。脳梗塞でもう左半身は不随になってしまった。一人では何もできない身体。私は父さん、母さんとも仲良し。そんな父さんは私に原チャリを一台安く譲ってくれた。「礼文町」ナンバーの50ccの原チャリ。よし、折角もらったんやからこれで大阪まで帰ろう。

帰る日の朝、運悪く昆布の旗が揚がったが、大将は最後だからと言って私を起しに来た。そして、一緒に船を降ろして、

「気つけて帰ってよ。」
と一言だけ私に声をかけた。漁師さん達も私に温かい声をかけてくれた。そして、最後のお客さんの朝食の準備をし、洗濯も済ませ、最後まで残ったヘルパーの真紀ちゃんとお客さんをまず港まで送って行き、その後私も原チャリで港へ向かった。

そして、真紀ちゃんと一緒に船に乗り込み、島の人々に見送られて出港した。もう、島を出る際に寂しさとかは感じなくなってしまった。もう礼文はいいかな。それが正直な心境だった。それよりもこれからの原チャの旅のことを考えると―――。果たして無事たどり着けるか。

第六部
稚内で真紀ちゃんと別れた後、私はまず大介を訪ねた。大介は山田のおかんの息子で、勇知の郵便局にいる。そして、次に訪ねた羽幌の「吉里吉里」で私の原チャは「島抜け号」と命名されて、そこから知人、お客さんを訪ねる旅が始まった。一度、札幌から飛行機で東京に帰り、国際学会に出て、再び札幌まで飛行機で戻って、旅は再スタート。伊達に戻ったバイクをくれた山崎の父さんも約束通り訪ねて、東京で少し仕事をして、結局大阪にたどり着いたのは11月末。島抜け号は特に大きなトラブルもなく無事ゴール。原チャで礼文から大阪まで帰った後の一言。

「二度とやらない。」
これがこの夏の出来事だった。


さて、次回は最終回。スペシャルバージョンでいきましょう。私は19日にここを出て少しぶらぶらしますので、25日ぐらいに実家の大阪から書きます。こうご期待。

次回予告

挨拶回り記録
「さいはての国から’99 〜お返し〜」
「さいはての国から’00 〜卒業〜」

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