全国8億人の加藤学ファンの皆様

カナダ報告第1弾
「クリスマス前のバンクーバーはきれいやで」
Written in Vancouver, 12/12/2000



皆様、こんにちは。私のこのweb siteはいかがなものでしょう。ちょっと派手かもしれませんが、基本は我が阪神タイガースをイメージしました。来年こそは頑張ってもらわないと。今、忙しくて余り更新できませんが、徐々に装飾していきます。旅行記の方もまだ清書していないのも多く、時間を見つけてはちょこちょこやってます。あと、皆様も既にweb siteを持っている方は是非リンクしましょう。

さて、私は今カナダのバンクーバーにいます。大学を出てほぼしたいことは沖縄を原チャで回ること以外は終了しました。で、これからは将来的なことをふまえてまずカナダに来ました。もう、バックパッカーはしません。卒業です(ただ、一度だけケベックまでヒッチで行きます。私の友人がここからケベックまで10日という驚異的な速さでヒッチでのカナダ横断を達成したので、私はその記録を抜くべく挑戦します)。来年のアメリカ進出を目指して、今カナダで英語のリハビリ中です。と言っても、学校に行くなんてべたなことは私のスタイルに反しますので、家から歩いて40分ほどの喫茶店で働いてます。周りはカナダ人ばかりで、仲間もフレンドリーでいい奴が多く、英語の勉強にはもってこいです。ただ、人によって英語の癖があるのでなかなか聞きづらい。お客さんとも結構話せますが、新米の私にはまだまだ雑用が多いです。確かに、仕事は辛いですが、今まで散々辛いことをやってきたので、精神的にもかなり成長したのか、はっきり言って余裕ですね。銭を儲けるってのは楽なもんじゃないってのがすっかり身に染み込んでいて、余りその辛さが気にならない。

英語でのプレゼンテーションとなると私の英語力はまだまだですね。言葉が思うように出てこない。周りのみんなは私の英語力を高く評価してくれていますが、私が目指してるのはもっとレベルの高いところです。自分に自信がつくまでしばらくここで働くつもりです。仕事ぶりについては後日報告します。

私は今、町外れでカナダ人のChristaDavid2人のことについては後日紹介)とともに暮らしています。

(芽衣ちゃんへ、DowntownからGranville St.49th Ave.まで行って、そこからUBC方面にSW Marine Dr.に入って、少し下ったところにいます。どう、懐かしいでしょう?DowntownBroadwayDunber St.辺りでいい店があったら宜しく。)

川を挟んで向こう側は空港で、ここからの夕日が最高。しかし、基本的にこの時期は毎日雨で、予想はしてましたが嫌になります。出かける時に傘は必需です。

Downtownの向こうにはきれいな山々が見えて、もう頂きはすっかり雪化粧しており、たまに見える時は最高にきれい。あと、クリスマス前なので、町のイルミネーションは最高です。NZで経験した真夏のクリスマスとはまた違った趣があって、やっぱり冬の方がいいですね。バンクーバーはほんとNZに似てます。だから、懐かしい感じで逆に私にとっては新鮮味がない。

外国に来たなって思うのが、スーパーに行って野菜売り場に売ってる巨大なナス(余りうまくない)とマッシュルーム、アボガドがたくさんあるのを見る時です。それと、米コーナーが小さく、パン、パスタ、小麦粉関係の棚がたくさんあることです。私は何度かChristaにアボガド丼を作ってやりましたが、これがまた大好評。たまに私がめしを作ってあげますが、結構好評ですよ。私が持ってきたあの究極のそばつゆ(お遍路さんページ参照)は彼らにも大評判。年末は年越しそばを作ってあげる約束しました。

あと、side businessとして、internet marketingを始めました。ここでは詳しくは述べませんが、もし興味のある方は、私が所属する「teamglobe」のプレゼンテーション用のアドレスにアクセスしてみて下さい。日本語で書いてますから。

http://networkingalliance.com/japan.htm

でも、最近はほとんど本業の方が忙しく、こっちの方には時間が回りません。あと時間を見つけてはChristaDavidの知り合いと飲んだり、パーティに招かれたりと日本にいる時と同じぐらい忙しい日々を過ごしており、毎日寝る前は疲れ果てています。

「なんで俺はいつもこんなに忙しいんやろう?
と不思議で不思議で。とにかく、毎日今までと同じぐらい充実しています。

さあ、これからもっともっと寒い時期になりますが、皆様も体に気をつけてクリスマス、そして新しい世紀を迎えて下さい。では、次回にまたお会いしましょう。

P.S.
阪神の新庄の選択に対しての世論は?
松田聖子はどうしようもないですね。

クリスマスのイルミネーションが本当にきれいなバンクーバーから愛を込めて
12/12/2000
Manabu Kato





Monthly Topics in December(12月号)
Written in Vancouver, 18/12/2000


「Christa & Davidとの出逢い」

Christaと出会ったのは1997年の
5月。ネパールの標高3000mぐらいのタラパニという集落の山小屋。私はその時カトマンズからポカラに行くバスで知り合った大畑君とトレッキングをしてた。

我々はポカラからゴレパニ経由でポカラに戻る1週間ほどのトレッキングを計画し、Christaは友人のTaraと共にアンナプルナのベースキャンプに行く予定で、ここタラパニでたまたま我々は同じ山小屋に泊まった。電気のないこの辺りでは、我々はソーラーパワー(これがあるだけでも開けてる方)のお湯でシャワーを浴びていたが、この日はシンガポールのボンボン学生のお嬢ちゃん達が交代交代でシャワーを独占し、私に順番が回ってきた頃はもう日が沈みかけで、お湯がすっかり水になってた。シャワーを浴びたはずの私がぶるぶる震えてるのを見てたのがChristaで、彼女はその年の夏から日本に来るというので、私は少し日本のことを教えてあげた。この時は住所交換も何もしていない。

それから2週間後、私がインドに向かう前にカトマンズの郵便局に手紙を出しに行くと、偶然にもChristaと再会し、そこで初めて住所交換した。そして、その夏。私はいつものように礼文で働いてると、実家に青森からChristaからの手紙が届き、それからは時々手紙の交換をしてた。

私はその次の春からNZに行く予定だったので、礼文が終わった後も東京で働きながら資金稼ぎをしていた。本当は礼文が終わった後青森を訪ねる予定だったが、それができなくなり、Christaにがっかりさせたのが日本を離れる前に心残りだった。そして、出国の2週間ほど前、私は東京からほぼ日帰り状態で八戸にいるChristaを訪ねることを決意し、実際訪ねて再会した。

Christaは彼氏のDavidと共に、当時JET(文部省管轄の組織)で青森の中、高校で英語を教えていた。彼らは日本の英語教育、日本の教育にほぼ絶望してた感じで、私が訪ねた時は落ち込んでいた。私が数週間後にNZに向かう旨を伝えると、

「学用にオリジナルのテープを餞別に作ってやるよ。」
と言って、実際出国の2日ほど前に彼らから私の好きなレゲエ中心のテープが届いた。私はそのテープを今でも大事に持っている。

NZからも彼らとは一番よく手紙のやりとりをし、1999年の春に礼文に行く前にはもう一度八戸を訪ねた。彼らの日本滞在の期間はその年の夏までで、日本で会うのはこの時が最後となった。その後はe-mailでお互い連絡を取り合い、そして今回の旨を伝えるとすごく喜んでくれ、わざわざ空港まで来てくれた。

彼らは日本に2年いたのもあって、日本人の気質をかなり理解している。それに、英語を教えていたのもあって、私が英語を勉強したい旨もよく理解してくれており、毎晩のように一緒になって話すし、私に気を遣ってくれてるのはよく分かる。Christaの家族も私を大歓迎してくれ、彼らも日本に来たことがあるので、日本のことをすごく身近に思ってくれている。二人は外人にしては日本人並みに義理堅い。本当にいい奴等だ。ちなみに、私が初めてネパールでChristaと出会った時に彼女と一緒にいたTaraは、今彼らと同じJETで山形県の米沢にいる。しかし、今少々ホームシックになってるらしい。



 「なんで俺だけ・・・」

私がバンクーバーの空港に着いた時は、時差ぼけもあって非常に眠かった。一応、念のためにカナダ入国にworking holiday visaを取得していたが、これは2001年度からで、とりあえず観光で入って一度アメリカに下って、そして2001年度に再入国して、そのvisaを使おうと予定していた。元々、カナダには数ヶ月だけの滞在でアメリカに下るつもりだったので、余りワーホリのvisaも使う気はなかったし、それ程深刻に考えていなかったのが大きな間違いだった。

空港のイミグレで、他の人はすんなり通過するのに、私だけ色々聞かれ、

「カナダには何の目的で来たの?
「友達と会って、その後アメリカに行く。」
「どれぐらいいるつもり?
2ヶ月はいないと思う。」

と何気ない会話をしていたが、いざ入国しようとすると私だけ止められ、税関の方に連れて行かれて、汚れまくった私のバックパックを全部調べられた。私はその時点でムカッとしてた。いつもそうだ。OZから帰って来た時も、私だけ関空でかばんを調べられた。どうも税関の連中は好かん。税関でも、

「お前のその友達は何をしてるんや?
「そんなん知るか。」
「知らん?お前の友達ちゃうんか。」
「知らんかったらあかんのかい。」

と私も半分切れかけで、今度は特別室みたいなところに連れて行かれ、

「帰りのチケットを見せろ。何で2ヶ月の滞在やのに1年オープンやねん。」
とまたもや色々聞かれた。もうこの時点で到着から1時間ほど経ってた。Christa達は待ってくれてるはずやのに。申し訳ない。私はあまりにも眠いのと、かなりむかついていたのもあって、

「おい、一応来年度からのワーホリの資格持ってんねん。これでもあかんのかい、われ。」
と半ば私の英語が河内弁混ざりだった。すると、

「何でそれを先に言わんの。」
と逆に怒られ、

「これは来年度からのんとちゃうんか。」
と私が言い返すと、

「もう何も言うな。」
と私の質問を一切受け付けない。いい加減な連中だ。2001年であろうがいつであろうが彼らには関係ないようだ。どうも役人は好かん。

おかげで、出国口にChristaたちはいなかった。

私はインフォメでテレホンカードを買って、とりあえず連絡しようとしたがカードの使い方が分からん。隣りにいたアジア人らしいねえちゃんに聞いたら、ものすごい感じのいい日本人のねえちゃんで、市内通話は¢25で話し放題と言って、親切にコインをくれた。おまけに、

「これからよかったら私たちと一緒に街まで行きませんか」
と誘ってくれたが、Christaたちと電話が通じて今から空港に来てくれるというし、余り日本人といたくないので、ねえちゃんには悪いが断った。やっぱり、Christaたちは私があまりにも遅いので一旦帰ったらしい。悪いことをした。

そして、出口。私はさっきのねえちゃんにお礼を言って、Christaの到着を待っていると、なんとさっきのねえちゃんにはリムジンが迎えに来たでは。しまった、一緒に行っておけばよかった。この時、私はまるでバッターが清原で、次の由信のために遠山をファーストに回して、ピッチャー葛西にしたが、代打に後藤を出されてホームランを打たれた後の野村監督の心境だった。



 「Russel家の人々 その1」

Lee (Christaのおとん)
LeeAir Canadaのパイロット。なかなかハンサムで、紳士的でスポーツマン。暇があればジョギングしたりスカッシュに行ってる。彼の定期便はVancouver、名古屋間。名古屋では名駅の東急ホテルに泊まり、帰りの便まで名古屋城の周りをよくジョギングするという。家族思いで、本当にいいパパ。

Jan (Christaのおかん)
Janは色んな仕事を持ってる。学校の先生や、パソコンを使ってのビジネス。我々のこの家のオーナーも彼女で、我々は彼女に毎月の家賃払ってる。彼女もすごく活動的で、テニスの試合に出かけたり、仲間とシアトルまで行ったりと、ママとして、そして個人的にも私生活をenjoyしてる。私に対してもすごく気を遣ってくれ、と言うか私ももうRussel家の一員のような扱いになってる。ちなみに、彼女には双子の妹Judyがいて、私はまだこの二人の見分けがつかない。Davidは二人の区別に5年かかったと言う。

Laura(Christaの妹)
Lauraは現在高校生。活動的なかわいい女の子。彼女は馬を持っていて、乗馬が趣味。その姿はなかなか様になってる。少し甘えん坊の末っ子娘だが、最近車の免許を取って、何かあるごとにLeeの車に乗って学校に行く。免許を取って初めての運転の実験台にされたのはDavidで、彼はその日は助手席で緊張しまくったらしい。Rolaとは私もかなり仲がいい。一度勉強を教えてあげたこともあるが、算数の問題を電卓を使って解いてたので注意したこともある。とにかく、本当にかわいらしいお茶目な高校生。日本の高校生よりもよっぽど高校生らしい。

Christa
彼女は現在私立の小学校の非常勤講師。そして、side businessとして、アジア諸国(特にタイ)から衣服を買いつけて、個人的に商売している。だから、定期的にバンコクに行っているので、正式な教師としては仕事ができないらしい。彼女も活動的。毎週スカッシュに行ってるし、暇があればジョギングしてる。友達もたくさんいて、毎週のように私に紹介してくれ、何人かとはすっかり私も仲良くなり、年末にpartyをすることを約束している。彼女も私に色々気を遣ってくれ、逆にこっちが申し訳ないぐらいだ。その代わり、私はよく日本料理を作って御馳走してあげている。これはなかなか好評。

David
彼は私立の小学校の教師。とにかく、無茶苦茶いい奴。彼は自然が心の底から好きで、毎朝雨であろうが雪であろうが、マウンテンバイクでわざわざ遠回りしてtrailを通って学校に行く。彼の学校からのDowntownの景色は最高で、晴れた日はその向こうに山々が見えて、それはなんとも言えない光景。私はどちらかと言うとDavidと一緒にいる時間の方が長い。彼は私の質問にはほぼすべて答えてくれる。アイスホッケーのルールも教えてくれるし、今度試合を見に行く約束もした。彼は何と言っても自然が大好きで、時間がある時は友人と一緒に山に出かけ、trailを歩いたり、マウンテンバイクでサイクリングを楽しんでる。冬であろうがキャンプをする。将来的には、もっともっと自然がいっぱいのところに住みたいらしい。



 「Noと言えない日本人」

エピソード
その1「笑い事件」
カナダ人というか、西洋人の笑いは分からん。彼らの会話を聞いていても、何にもおもろないのに笑いまくってる。Christaたちといる時に困るのが、面白くないのにみんなが笑ってる時に私が笑わないと、

「マナブ、今の話わかった?
と必ず聞いてくる。分かってるって言うてんのに。でも、笑わんといつうもこう聞かれるので、私はよく彼らの笑いに対しては愛想笑いをする。笑いに対して厳しい私が、おもろくもないネタに無理矢理笑うのは言わば拷問に近い。寒い冬の日に、足の小指を机の角で打つぐらい辛い。一言、

Noと言えばいいのに、感じのいい私には言えない。

エピソード その2「サーモン事件」
ある日の晩、私はJudy宅のpartyに呼ばれた。私が西洋人式のpartyを経験するのは、home stayをしたことがない私にとってこれが初めてと言っていいかもしらん。まず、フォーク、ナイフが並べられ、どれをどのdishに使えばいいかわからん。普段は箸、インドでは手で食ってた私には、こんなお上品な食い方は別世界のようだ。Judyは親切に、

「外側から使うのよ。」
と教えてくれた。

そして、メイン。この日のメインはサーモンのグラタン風のもの。これがなかなかうまい。私はこの時点で結構満足してたが、まだサーモンがかなり残ってる。しかし、その後にはデザートがあるし、その分の腹のスペースを作っとかないと。そして、誰かお代わりを食わないかという話になったが、誰も食おうとしない。そう、もうみんな満腹に近いのだ。そうなると、折角作ったJudyがかわいそう。Judyが、

「マナブ、もう少し食べない?
と言うから、正直私も辛かったが、

「えっ、食べていいの?
と言うと、Judyは喜んでそれを私の皿によそってくれたが、その量がまた多い。その後のデザートを食うのがどれだけ辛かったか。それは、往年の旭道山の張り手を土俵際でもろに受けて、土俵を割りたいのにたまたま足の裏がスパイクシューズで、それが俵に引っかかって動きようにも動けない時のようだ。一言、

Noと言えばいいのに、感じのいい私には言えない。

エピソード その3「休日事件」
ある日の火曜日、私は休日だった。その日の予定は銀行の口座を作って、映画を見ると決めていた。しかし、その前日私宛てに1本の電話があった。なんで私宛てに連絡があるのだろうか。その当時、こっちに来てほとんど知り合いもいなかったのに。電話は私が働いてる喫茶店の仲間のクリスからで、

「どうしても明日代わってくれ。」
と言ってきた。嫌なら断ればいいのだが、我々の仕事は言わば雑用がほとんどで、我々がいないと喫茶店はわやになるし、誰もやりたがらない仕事。仮に、クリスがいないと、てんやわんやになるのは目に見えているし、礼文で長年働いて責任感が強くなった私はOKした。ああ、折角の休みが。それからしばらく休みがなかった。

そして、その2日後。前日にマネージャーのパンから、

「マナブ、明日は早番でやってくれない?
と言われ、感じのいい私は承諾して、その日いざ喫茶店に行ってみると、いつも遅番が来るはずなのにその日は私しかいない。そう、その日の遅番は始めから誰も連絡がつかなかったのだ。いつも二人で精一杯の仕事が一人となると。さすがに、この日は私も切れた。切れまくって途中で帰ったろうかとも思ったが、

「これで帰ったらこの後大変になるし、よし日本人の根性見せたろうやないか。」
と気を取り戻して頑張った。

それから続けて週末の日曜日。土、日曜日は無茶苦茶忙しい。しかし、2週続けて週末が早番だった私は、遅番に2週続けて新人が来て、パンから、

「マナブ、教育よろしくね。」
と。こんなに忙しい日に新人をよこすとはと、私はまたもや切れた。当然、教えてる暇はないし、2週目の日曜日に来た新人は遅番は休憩を取ったらあかんのに、勝手に休憩しやがって、その分延長もしないでとっとと帰りやがった。この時の私の忙しさ、怒りは言葉では表現できない。まるで、野田とトレードでオリックスから松永を取ったのに、

「阪神は合わなかった。」
と仕事もせんくせに、その年のオフにFAでダイエーに行きやがった時の松永に対する阪神ファンの心境だった。

この一連の出来事をChristaに話すと、

「マナブはやっぱり日本人ね。」
と笑ってた。一言、

Noと言えばいいのに、感じのいい私には言えない。

私は石原慎太郎が書いた「Noと言える日本人」には一生なれんやろう。別に私自身気が小さいわけではなく、単に自分が「No」と言ってしまった後のことを考えるとどうしても言えない。というのは、自分がいなくなっても代わりの人、もしくは周りの人々だけでも自分の埋め合わせはできるが、それは最低限で成り立ってるだけで、つまりイチローの代わりに誰が出ようと試合はできるが、その人はイチローの働きはできない。「No」と言わないことが自分のため、人のためにもよくないと言うことも十分承知だ。

「情けは人のためならず」

もし機会があったら全国の皆さん、この「Noと言える日本人」の本をこちらへ送ってもらいたい。少し勉強したい。



 「カナダ人からの日本人への素朴な質問 その1」

Russel
家の人々を中心にカナダ人が抱いている日本、日本人に対する素朴な疑問をこれから定期的に書いていこう。

その1
「日本人はいつも丁寧な言葉(敬語)を話してて、しんどくないのか?

その2
「日本でよく見かけるたぬきの置物にはどういう意味があるのか?また、なぜそんなにpopularなのか?」

その3
「日本の学生達はなぜ授業中寝るのか?何のために学校に行ってるのか?

その4
「日本人はなぜ食後にデザートを食べず、またラーメンやご飯を食べるのか?




 「偶然とはまさしくこのことやろう」

週末のある日、私はカナダ人のゲリー宅のpartyに呼ばれた。奥さんは日本人というのもあって、このpartyには多くの日本人もいた。何気なく一人のカナダ人の女性が、

「あなたをどこかで見たことがあるの?こっちにはどれぐらいいるの?
と尋ねられたが、私はこっちに来てまだ2週間ほどであったし、人の名前と人を覚えるのが大の苦手の私にとって、仮にどこかですれ違っていても覚えてるはずがない。

「ああ思い出せない。これじゃ、今晩眠れない。」
と彼女は嘆いてた。

彼女の旦那さんは日本人で長野県出身。長野と言えば私と縁が深いのは、原村のCanadian farm。私は何気なく、

「そしたら、八ヶ岳のふもとにあるCanadian farmって知ってる?

と聞いてみたら、

彼女:「日本にいる時はその近くで働いていて、そこで今の旦那と知り合ったので、もちろん知ってるよ。よく行ったもん。」
私:「俺、学生の時にそこで居候しててん。」
彼女:「思い出した。そこであなたと会ったんだ。」
私:「でも、俺がいたのは8年ほど前やで。」
彼女:「私も日本で働いていたのは8年ほど前よ。これで今晩ぐっすり寝られる。」

と喜んでいた。。なんとまあ偶然な。私がCanadian farmに居候としていたのは、大学2年の春(1993年)と3年の春(1994年)。主に、現場で働いていた私はレストランのお客さんとはほとんど話していないし、話したとしても人を覚えるのが苦手な私が覚えてるわけない。彼女にしてみたら、8年前の私と今の私が同じってことか。言われて見ると、大学3年ぐらいから髪を伸ばし始め、そしてここ数年ロンゲだったので、今の短いこの髪型は8年前と同じだ。うーん、さすがの私もこの偶然の再会にはビックリした。Canadian farmは居候が入れ代り立ち代り来るので、特に最近では長期にいる人は少ない。私も居候をしていたのは春休みの1ヶ月だけ。うーん、仮に広辞苑で日本人と調べたら、おそらく私のことが載りそうなぐらい一般的な日本人の私が、そんなにインパクトがあるだろうか。わからん。