全国6億5000万人の加藤学ファンの皆様
最終回拡大スペシャル



第11弾 ベトナム報告 その2 そして 3日だけのソウル
「やっぱり、俺はアジアが好きだ」




皆様、こんにちは。63日に帰国し、そしてその1週間後に礼文に戻って来ました。いやー、正月に日本を出ましたが、時間が短かった。全然足らなかったですね。まあ、それだけ充実した時を過ごせたということでしょう。久しぶりの日本はますます居心地が悪くなってますね。それにいかれた事件が多いし。海外にいる時も断片的に日本の情報をメールでもらってましたが、改めて雑誌、テレビや新聞で確認するとこの国が自分の祖国であるのが嫌になってきます。

さて、今回は8ヶ国回りましたが、国が代わる度に一番困るのが通貨。数字の単位が国ごとに全く違うので、入国してしばらくはいつも戸惑ってました。

1RM3.8 (リンギット、マレーシア、2000.1)
138B (バーツ、タイ、2000.6)
17,500K (キップ、ラオス、2000.3)
1330K (チャット、ミャンマー、2000.4)
13,700R (リエル、カンボジア、2000.5)
114,000VND (ドン、ベトナム、2000.5)
11,020W (ウォン、韓国、2000.6)

例えば、タイで38という単位がベトナムでは1,4000という単位になり、でも同じ$1。だから、今回の旅では私の頭の中では常にその国の通貨をドルかバーツに換算してました。それが今も直らず、日本円を思わずドルに換算してしまいます。でも、ほんと日本って物価が高いですね。私の家から大阪の難波に行くだけで、$5はかかります。$5あればベトナムのシングルホテルに泊まれるし、タイの屋台ではクイッティアオ(タイのラーメン)が10杯近く食べられます。ミャンマーのモヒンガなら50杯はいけます。だから、何のためらいもなく1000円札を出す自分にふと我に返った時には戸惑いを感じました。


今回でバックパッカーとしての人生にピリオドを打つつもりですが、そう思うと見慣れたバンコクのスクンビット通りからドンムアイ空港に向かうバスの中で寂しくなってきました。この3年間、生活の中心が旅で、新しい町に行く度に宿を探し、NZではそこにテントを張って、アジアでは重たい荷物を背負って暑い中宿探しに苦労しました。インドのデリーで倒れた時は辛かったし、バヌアツで寝込んだ時のテントでの闘病生活も辛かった。NZもよかったし、バヌアツのジャングルでの生活も良かったですが、やっぱり私はアジア諸国がいいですね。自分に合ってる。おそらく、今の私には普通のミーハーな旅はできないし、何よりも自分自身満足しない。正直、最後に行ったベトナムのtourist busでの移動は物足りなかった。その時は辛くて、二度と乗るものかと思っていたのですが、ラオスのtrack busやカンボジアのpick up trackが懐かしくなりました。いいホテルに泊まることもできないですね。日本国内ならテントかな。最悪、YHAもしくはサウナですね。部屋にダニ、クモ、蚊、ヤモリがいる方が落ち着くかもしれない。本当は、中南米、中東、スカンジナビア、東欧、アフリカと回ってみたいのですが、旅って一種の麻薬です。はまるときりがない。だから、今度はビジネスとして世界を横断したいですね。

帰りにソウルに寄ってきました。韓国はもう日本です。地下鉄なんて東京並みです。アジア諸国では庶民的なレストランにはドアがなく、テーブルに日中はハエ、夜は蚊がいるのが当たり前でしたが、韓国のレストランにはドアがある。日本では当たり前のことですが、私は始め戸惑いました。なんてきれいなんだ、と。

韓国では、日本同様英語が通じない。観光地に行けば、土産屋のおばちゃん達は日本語で話してくる。Five star hotelであるLotte hotelの地下の食品売り場では、日本語しか耳に入ってこない。私は海外では日本を持ち込みたくないので、物を買う時も英語で通しましたが、この売り場のおばちゃんに、

「あなた日本人なら、日本語で話して。」

と言われ、この売り場での店員全員は日本語が話せるようです。日本人は大のお得意さんですね。同じドミにいて休暇を取って埼玉から遊びに来ていたカナダ人のミッシエル(日本在住4年)は、韓国人と日本語で話してたそうです。ただ、彼が言うには、

「韓国は日本に似ているかもしれないが、まだ町中の韓国人の顔は明るいし、笑い声も聞こえる。それに比べて日本にいる日本人は---。」

だそうです(私も同感)。

さあ、この夏も礼文です。今年は寒い。最高気温が10前後でしょうか。本州では北海道の天気予報は札幌、旭川、釧路しか出ないですが、旭川と稚内は全然気候が違います。更に、道内の天気予報でも宗谷地方の天気は礼文には当てはまりません。礼文はいわゆる一部の地域です。だから、毎日ストーブです。

今年は有珠山の噴火の影響でお客の入りもいまいちです。しかし、私が昨年作ったホームページは好評で、ホームページを見て来ましたというお客さんが結構います。だから、少し役場に行ったりして営業してきました。やはり、今はインターネットですね。個人客は職場でパソコンを使って旅行先の情報を得ている人が増えてます。

我々、サービス業はとにかくお客のニーズに合わせていかないといけない。私が学生の時に比べて客層が全然違います。今はツアーに参加する年配層が客層のかなりのウエイトを占めています。だから、個人客で満室にするのは難しい。そして、ホテルから団体客が回ってくる。言わば、ホテルが大企業、我々民宿が中小企業。ホテルは無理な要求をしてくる。でも、それに答えないといけないのが中小企業の辛いところ。うちの大将は面倒くさいことは全然やらない。それがすべて私に回ってくる。客が少ないと言っているだけでは何も変らない。ならどうしたらいいか。とりあえず、できる限りの行動に出てみる。だめで元々。状況判断とリーダーシップ。どの世界でもこのことが大事で、今の日本人は(特に若者)これに欠けてる人が多いと思いませんか。

仕事の中で一番辛いのが部屋割り。どの客をどこの部屋に泊めるか。当然、連泊の人もいます。人数と丁間との組み合わせ。団体さんには早目に知らせないといけない。キャンセルも来るし。辛いですよ。

私の仕事は、まず5時過ぎには起きて朝飯の仕度をします。昆布漁がある日はこの時刻にはもう宿をていますが、ウニ漁の時は7時ぐらいに大将が帰ってきて、それから私がウニをむき始めます。朝飯の仕度に目処が立つと、風呂掃除をし、それが終われば急いでめしを食って洗濯を開始します。8時ぐらいからはお客さんの送迎が始まり、9時過ぎから今度はその日に泊まるお客さんを迎えます。船が来る度にお客さんを迎えに行き、宿に戻ると電話番です。できれば、予約は自分で管理したい。人に任せると無茶苦茶になる。昼過ぎには、干した洗濯を取り入れ、3時頃から晩飯の仕込みに入ります。4時過ぎからはお客さんがどんどん入ってきて、それからは接客が中心ですね。そして接待、清算し、お客さんと飲んだり電話番したりして、寝るのは12時近いですね。この生活がシーズン中ずっとですよ。その他に、添乗員との予約の確認、faxの送信、請求書の作成、ビールなどの注文。9月からは昆布作りが入ってきます。あと、もう一つの民宿との打ち合わせもやってます。今年はレンタカーからの運転手の依頼が今のところないので、去年に比べるとまだましですが、うちで働いてる女の子がいつもより一人少ないので、その分雑用が増えました。とにかく、大変ですよ。

島の人はいいですね。帰って来るとほっとします。みんな温かく迎えてくれますし。とにかく、最高です。
これから定期的にうちの民宿のホームページを更新するつもりです。

アドレス http://www.tabi-hokkaido.co.jp/hamanasu/

他と同じことをやってるといけないので、我々のoriginalityを出すつもりです。ただ、ホームページのデータは札幌の出版社にあります。だから、社長に更新内容を送り、社長の時間がある時に更新という形になると思います。皆さんも暇な時に是非見て下さい。ちなみに、今年は9月の末までここにいるつもりです。

今年でこの近況報告「全国加藤学ファンの皆様」は3年目になりますが、今回で最終回ということにしたいと思います。長々とご静聴ありがとうございました。気が向いたらまた書きます。また、どこかでお会いしましょう。



「いかれた古都ホイアンとフエ」

私はニャチャンから夜行バスに乗って古都ホイアンに着いた。ここは、京都の町並みを思わせるようなところで、漢字で書かれたお寺や絵を飾ったギャラリーが通りに並んでいる。見た感じでは、ベトナムの他の町に比べると風情はあるが、私は町を歩いたり、人と話したりしているうちに、おやっと思った。そう、レストランや屋台も含めて我々touristを騙してくる店が多く、すごく居心地が悪いのだ。ベトナム人自体、人を騙してくる人種なのは前回述べたが、このホイアンの人々は他よりもひどい。私はこの町に「touristから銭を巻き上げよう」というスローガンでもあるのかなと思ったくらいだ。敏感なtouristは私と同じような事を感じ、すぐにこの町を後にした人もいて、以前ホイアンに来た事がある人はこの町を通過して北に向かった人もいる。とにかく居心地が悪い。折角、風情がある町なのにもったいない。私も2日が限度だった。

ホイアンから北にバスで5時間ほど行ったところにフエがある。ここはホイアンに比べれば町の規模は大きく、ゲストハウスもホテルも高かったが、ホイアンよりも居心地はいい。確かに、人はぼっては来るが、普通のベトナム人だ。この町には沢山の寺やtombstupaがあり、写真を見ているだけで訪れたくなってくる。しかし、問題は銭。どこも入場料を取る。その額が平均$5。$5と言えば、フエのホテルのシングルの宿泊料金で、サイゴンやハノイの人々の約3日分の給料である。タイのアユタヤでも所々で外国人だけ入場料は取られたが、せいぜい20B(約¢60)。これなら町自体の入場料として$10払ったミャンマーのバガンの方がましだった。いかれてる。1日かけての$2boat tripもあったが、各々の入場料は各自が払う。参加した連中は怒りまくってた。実際、寺を拝観してるのはミーハー連中以外いなかった。本当に、ベトナムという国はどうしようもない。折角の風情のある古都なのにもったいないことをしている。ホイアン、フエとも感じの異なったところだが、とにかくいかれてる。私は二度と行かない。






「原因不明の高熱との戦い in Hue

前回も伝えたように、私はフエ滞在時に体調を壊して寝込んだ。ホイアンを出る前日に、少し変やなと思ってはいたが、フエに向かうバスの中ではもう辛くて辛くて。ダラットからずっとドイツ人のアンニャと部屋をshareしていたのが、フエに着いていつも通り何軒かゲストハウスやホテルを回って宿を探し、宿にcheck inした途端、私は寝込んだ。高熱、そして頭痛、咳がひどく、私は始めマラリアにかかったかなと思ったが、冷静に考えてみるとマラリアの症状じゃない。とにかく、辛くて起き上がれず、アンニャも心配してくれ、色々物を買ってきたり薬もくれた。

病院に行くのが嫌いな私は、始めは風薬と比較的相性のいいバファリンを飲んだが効かない。そして、抗生物質のケフラールを飲んでもだめだった。アンニャもドイツ製の薬を何種類かくれたが効果なし。この時点でもう3日寝たきりで、ほとんどめしは食っておらず、とにかく起き上がることができない。6時間以上寝ると床ずれを起こす私だが、その背中の痛みがほとんど気にならないぐらい辛かった。このままでは埒があかんし、いつまでも寝てる場合じゃない。アンニャは先に急ぎたいのに、予定変更で看病してくれている。これ以上迷惑はかけられない。五十嵐の中国4000年の薬(3年前の旅行記参照)があれば一発で直るのに。

そして3日目の晩、私は勝負に出た。正直、飲みたくはなかったが、抗生物質の中の抗生物質、最強の抗生物質であるフロモックスを飲むことに決めた。まず、私はアンニャが買って来たバナナを食べ、そしてシュラフにくるまっておもっきり汗をかきながら寝た。それから4時間ぐらい経ったか。飲みに行ったはずのアンニャもいつの間にか帰って寝ていた。私は全身汗でびっしょりで、体温はほぼ平熱まで下がってた。よし。私は思わずガッツポーズをしてしまったが、平熱まで下がると、現実に戻ってしまう。そして、私は3日間寝続けたつけが回っていることに気づいた。そう、強烈な背中の痛みが。3日間の床ずれは半端じゃない。どんな体勢にしても背中、腰が痛くて、これが腰痛に苦しんでた北勝海(現八角親方)の心境かと思ったほどだ。それから朝までは一睡もできなかった。

とにかく、今回の原因ははっきりしない。たぶん、夜行バスのエアコンではと思うのだが。下痢が伴わなかったのは幸いだった。ただ、私が寝込んでいる時に、アンニャを始めみんなに迷惑をかけたのには申し訳なかった。ホテルの人々も、氷をくれたり、時々部屋をのぞきに来てくれたり、私のことを心配してくれた。私は病気のおかげで、初めてベトナム人の易しさを味わった。悪いイメージしかなかったベトナム人。しかし、本当に苦しんでいる人には親切だった。フランスにいじめられ、中国、アメリカにもいじめられ、そんな彼らだからこそ困った人の気持ちはよく分かるのかもしれない。この温かさに触れただけでも、私にとってはプラスになったし、他のtouristには経験できなかったことを経験できたような気がする。






「国際クイズ and マジック合戦」

海外を旅している時に、私が特に大事にしていることは地元の人々との触れ合いである。英語でcommunicationが取れれば問題ないのだが、現実はそうは簡単にいかない。しかし、その土地の人々と仲良くなるには、まずはちびっ子と溶け合うことが大事で、言葉抜きで仲良くなるためには、いわゆる言葉のいらない芸が必要になる。私の場合、当然持ちネタはいくつかあるが、最近は簡単なクイズ、そして手品を披露して子供たちの気持ちを引き付けるようにしている。今回の旅でもそうだった。

私はベトナムのダラットにいる時からハノイまで、日本人の愛ちゃん、良君、イスラエルのエアル、ドイツのアンニャと仲良くなり、夜の暇な時間はよくトランプしてた。そんな暇な時間に、私はここぞとばかりに数々の手品を披露しクイズも出題した。しかし、外人勢もオリジナルの手品やクイズを持っており、我々はなかなか白熱した手品、クイズ合戦を展開した。ちなみに、私とハノイで別れた後、愛ちゃん、アンニャは中国からモンゴルに向かい、エアルは中国からラオスへ、良君も中国へと旅立った。さて、ここで我々が出し合ったクイズの一部を紹介しよう。ヒントなしで、もし全問解いたら断言する。今すぐ仕事を辞めて、クイズ王を目指した方がいい。

問題1(エアル出題)
家の外に電気のスイッチが3つあり、家の中には電気がある。この3つのスイッチのうち、1つだけが本物のスイッチで、スイッチ操作をして(3つのスイッチをどのように操作しても構わない)、一度だけ家の中に入ってどのスイッチが本物か当ててもらいたい。

問題2(私の出題)
アルファベットの大文字の「T」に、4本だけ直線を引っ張って(縦、横、斜め問わず)、5つの三角形を作って頂きたい。但し、三角形の定義としてそれぞれは頂点で接し、独立したものを三角形であるとする。

問題3(エアル、アンニャ出題)
4つの袋の中にコインが詰まっている。そのうちの3つは偽物で、本物は1つだけで、偽物のコインの重さを1gとすると、本物は2gである。さて、秤(普通の秤で天秤ではない)を一度だけ使って、その本物の袋を当てて頂きたい。

問題4(私の出題)
次の問いを20秒で解け。
5x5=?
15x15=?
35x35=?
55x55=?
75x75=?
95x95=?

1ヒント200円で受け付けよう。そして、そのお金を尼崎信用金庫に貯金して、阪神が優勝して利子を倍にしよう。






「ベトナムの若者と韓国の若者」

ベトナムはドイモイ政策以降、急激に民主化が進んでおり、その影響は若者にも及んでいる。ベトナムと言えばどうしても社会主義という概念が消えないのだが、若者のファッションはタイと変らない。男も女の子もオシャレで、もう厚底サンダルがベトナムにまで浸透している。サイゴン川のほとりでは、夕方になると若いカップルが集まり、私がメコンデルタのカントーにいる時に外人連中とナイトクラブ(ディスコ)に行ったのだが、その中の若者達のあまりの積極さにはビックリしたほどだ。ディスコに関しては、ベトナム人はタイ人よりもより欧米的だ。とにかく、アオザイを着ている高校生は別として、ベトナムの若者を外見だけで判断すると、ここが社会主義の国であることを忘れてしまうほど、民主化の影響をもろに受け、つまりそれだけ時代の流れを敏感に感じ取ってると言える。

一方、帰国前に少し寄った韓国の若者は、はっきり言って日本と変らない。いわゆる韓国の渋谷、原宿といった梨花女子大学前、ミョンドンでは、若者向けの店が建ち並び、学生を中心とした20歳前後の若者でひしめき合ってた。オシャレなファッションに携帯電話を首からぶら下げ、ゲームセンターではみんな踊ってる(画面の矢印に合わせて足を動かすゲーム。こんなのは日本でも流行っていたのか?)。

そして、韓国の女の子はみんな同じ顔をしている。東南アジアのように同じ国に何種類もの民族が共存してのとは違うせいもあるし、整形手術が盛んということもあるかもしらん。誰の影響かはしらんが、みんな同じメイクをしており、それがまたきっつい。化粧の臭いが大嫌いな私としては、若者街を歩いている時は辛かった。ここが眉、ここが目、ここが口っといったメイクで、濃さはハイヒールモモコの様だ。想像してもらいたい。ハイヒールモモコが前から50人ぐらい歩いてきているようなもんだ。客観的に考えても恐ろしい。

韓国には22ヶ月(実質3年)の兵役の義務があるので、町中では軍服を着た若者の姿を見かける。大抵は、大学1年目か2年目を終わった頃に行くらしいが、私個人の意見としては兵役の義務を日本にも導入して(国際的には批判は来るとは思うが)、チャラチャラした若者の根性をたたき直してほしい。

あと、日本同様彼らは英語が下手だ。私は外資系のjunk food店(マクドなど)に数軒行ってはみたが、マニュアル化された応対はあくまでも韓国国内用で、外人向けの英語の接客は全くだめだ。これなら、まだタイの方がましだった。とにかく、日本の影響をもろに受けており、日本映画はまだ解禁されたばかりだが、若者向けのファッション雑誌は浸透している。年配の人々とは違って、タイやベトナムもそうだったが、若者は時代の流れを敏感に感じ取っている。逆の意味では、日本の戦略にまんまとはまっている。確かに、日本化、欧米化もいいが、最低限これだけは譲れないというその国の文化、伝統は今の我々の世代が率先して守ってほしいし、我々日本人もそのことは肝に銘じてほしい。






東京大学植物栄養の皆様並びに卒業生に送る 「キムさんの近況と少しだけ垣間見た韓国社会」

私の東大時代に同じラボに韓国からの留学生キムさんがいた。そのキムさんとソウルで再会し、私が日本人と外国人に定期的にup dateを送っているといった話をしたら、本人から韓国にはこういう人もいるということを伝えてほしいという要望があったので、ここで最近のキムさんの近況も踏まえて紹介する。但し、少し専門的な話になったりするが、その辺りはご了承頂きたい。

キムさんは私の東大時代の先輩で、現在はソウル大学のポスドクとして日夜研究に没頭している。私はベトナムで倒れた後、急遽バンコクに戻って、韓国に行く3日ほど前にキムさんにメールを送ったのだが、喜んで時間を空けてくれた。やはり昔の仲間と会うのがうれしいのか、東大時代の茅野先生や林先生、それに我々と同時期にいた数人の卒業生に私と会うことを知らせたらしい。久しぶりに会ったキムさんはすっかり社会人ぽくなってたが、相変わらず私には厳しく、私としては懐かしがってほしかったが、

「あなた汚い。日本人じゃない」

とビーサン、ヒッピー姿の私は怒られた。滞在3日しかなかった私は、他のソウルの友人達には連絡せず、初日はキムさんと焼き肉を食べに行き、3日目もキムさんと会い(忙しい中わざわざ時間を取ってくれた)、ソウル大学を案内してもらった。

ソウル大学は日本で言う東大だが、日本以上の学歴社会の韓国では存在的にはそれ以上である。ソウル市内の郊外南側に位置して、広さ的には北大は目じゃないぐらい広大である。その規模はタイのコンケン大学には負けるが、学内に路線バスが走り、学生もそれに乗って移動しているほどだ。学生達はさすがに賢そうな顔をしているが、キムさん曰く、ソウル大学に入ることが目的達成で、大学に入ってからは目的を失う学生も多く、学生以上にその親が大学入学を喜んでいるという。この辺りは東大に似ている。

キムさんの所属は理学部。やはり生化学系の建物内はどこも同じで、廊下にインキュベーター、オートクレーブ、冷蔵庫が並んでいた。ソウル大学内のどの建物も立派だったが、私は韓国の技術がこんなに進んでいるとは正直びっくりした。キムさんのラボには、シークエンサー、PCRの機械はもちろんのこと、in situもラボ内でできる。Promoter-GUSdeletion seriesも簡単に機械で作れると言ってた(日本でもそうだろう)。学生個人にピペットマンは与えられ、クリーンベンチは実験室内に2台あり、ミリキュー水も使っている。実験室自体東大の植栄と試薬、技術的な面を踏まえてほとんど変らず、アラビドの形質転換もin plantaでやってる。ただ問題なのは、DNA操作とRNA抽出を同じ部屋で行っていることで、私はコンタミは大丈夫かと尋ねたが、実際問題ないらしい。あと、ノーザンはRIを使っているが、それも同じ部屋で行っている。最初、キムさんもこれにはビックリしたらしいが、教授がRIのライセンスを持っているので問題ないようだ。ただ、廃液だけは貯蔵室で保存する。とにかく、キムさんは東大でやってたこととほぼ同じようなことをやっていて、つまりそれだけ技術的にも東大と変らない。ロックウールを使ったアラビドの栽培も、キムさんがラボに持ち込んだみたいだ。JournalへのpublishもキムさんのラボではPMBに多く投稿しており、隣のラボではPro. NASに投稿している。我々は1時間ほどdiscussionし、現場からもう3年も離れている私だが、話し出すと専門的な知識がどんどん思い出されてきたのにはビックリした。やはり、基本的な知識は身について離れないのであろう。ただ、今はmini prepでさえもプロトコールを見ないとできないと思うが。あと、最新の技術や新たな情報を教えてもらって勉強になった。

また、キムさんは週に3200人もの学生の前で分子生物学の講義をしている。だから、その予習と自分の実験、学生の面倒、それに二児のママとして忙しい日々を過ごしている。

ちなみに、キムさんが学生達に私を紹介する時に、私は「東京大学の典型的な助教授」という風に紹介してくれと頼んだが、

「それはできない。」

と即却下され、どう紹介したのかは知らないが、ある学生がキムさんに、

「あの方、芸術家ですか?

と質問されたらしい。

キムさんは二児のママではあるが、こんな状態なので家事と下の子の子守りは家政婦さんに任せっきりである。上の女の子は小学生だが、自宅から離れた私立の学校に通っていて、毎朝スクールバスが迎えに来る。ソウル市内の私立の小学校は、このように市全域から子供たちが通っていて、各学校が市内全域にスクールバスを走らせている。つまり、近所の子供たちが全員違う小学校に通っているという現象も起き、実際キムさんの子供は同じマンションには友達がいない。友達は学校の友達だけで、友達と遊ぶにはその友達と同じ習い事に行かなければならない。びっくりしたのは、キムさんの子供はまだ8歳ぐらいだが、週に習い事が10ほどあり、それぞれの宿題もあって寝るのは毎晩深夜12時近いという。上の子の学費と習い事、そして下の子のベビーシッター代とキムさんの給料は全部子供に消えると嘆いていた。別に、キムさんが強制的に子供に習い事をさせてる訳ではなく、子供が自主的に行っている。つまり、それでしか友達と接する機会がないからだ。

ソウルでは中学校になると学区制が実施され、学区によっては進学校が集中するところもある。進学校はやはり私立に多いようで、学歴社会の韓国ではいい中学、そしていい高校、大学と行けば出世コースで、いい中学校に子供を入れるためには、家族ごとそこの地区に引越しすることが珍しくない。私はこの話を聞いて驚いた。親の子供の将来を考える姿勢には脱帽だが、果たしてそれが本当に子供のために良いのか。周りがそういう人ばかりなら、その影響を受けてしまうのは無理もないのだが。

キムさんは来年の植物生理学会には日本に来たいと言ってた。とにかく、キムさんに会えて良かった。旦那さんや子供とも会えたし(二人ともすごくかわいい)。私とキムさんは再会を誓って別れた。






「今後の東南アジア諸国の展望」

東南アジア諸国の中で、シンガポール(華僑の国なので)を除いて現段階で一番発展している国はタイであろう。特別際立った産業がない東南アジア諸国にとって、先進国に追い付いていくためにはとにかく外貨をどんどん入れるしかない。そのため現地での現地通貨から外貨への再両替は非常に難しいし(タイ、マレーシア、シンガポールは除く)、仮に替えられたとしてもレートは悪くなる。外貨導入のための第一産業として観光業が挙げられるが、これだけでは限界がある。とにかく、東南アジア諸国が発展していくためには、その手本となったタイを真似るしかない。

タイが今のように発展した要因は3つほど挙げられる。それは、売春とドラッグ、そしてドル中心の社会から円中心に変換したことである。今ではかなり規制が厳しくなったが、1980年代に氾濫したドラッグと売春によって、外貨をどっと入れ、そしてそのターゲットを外人から日本人に代えた。レートが悪かった円のレートを良くして、日本、タイ間の格安チケットをair会社と旅行会社が提携してどんどん発行し、タイに日本人社会を導入したことが大きな要因であろう。マレーシアが伸び悩みタイに抜かれたのは、おそらく宗教的にドラッグを禁止しているからだ。また、仮に他の東南アジア諸国に行くにしても、いずれにせよまずはタイに銭を落していく。タイ経由の他の東南アジア行きの便が多いのは事実だし、実際その利用者も多い。たとえ、アメリカが世界のルールを作っているとしても、アジアの中心は日本であり、そのことにいち早く気づいたのがタイである。さあ、そのことに次はどこの国が気づくか。今、円の流れはまず日本からタイに行く。その流れを自国に持ち込んで、そして予定以上のお金をドラッグと売春で落してもらう。そのことについては社会的に批判はあるが、産業のない国ではどうしようもない。国が存続していくためにはきれいごとは言ってられない。ODAによる先進国からの援助金もあるが、底辺まで行き届いてないし、政治家連中のポケットマネーになってる部分が多い。

おそらく私個人の意見として、タイに次ぐ候補国はベトナムであろう。

この秋、北米に行く前に出筆活動しようかな
頑張れ、阪神

毎日最高気温10前後の礼文から愛をこめて
18/6/2000
Manabu Kato