430日(13日目、カトマンズ)

「えっ、俺が日本語の先生?」

そうこうしているうちに、カトマンズ・トリブヴァン空港に着いた。もう深夜だ。とりあえず、しょんべんをしたが、これが空港のトイレかっていうぐらい臭い。しかし、ネパールのヴィザは空港で取れるから楽だ。30日間で25USドル。俺がヴィザの申請書を書いていると、1人の日本人に声をかけられた。

「これから一緒にカトマンズの市内に行きませんか。」

ちょっと待ってくれ。俺は今日は町中に行かず、空港で野宿するつもりだ。ちょっと考えさせて下さいと伝えた。しかし、イミグレを通って、到着口に着くとびびった。ほんまにこれが国際線の空港か。渋谷の駅より小さいで。品川ぐらいか。いやもっと小さい。川崎ぐらいか。いや違うな。おまけに外は雨が降っているし。真っ暗やし。よし決めた。おっちゃんと一緒に行こう。しかし、ここからが俺のネパールでのドラマの始まりだ。外に出るとおびただしいほどの客引きが待っていた。すごい。客の取り合いで喧嘩している。とりあえず、おっちゃんがこのタクシーに乗ろうと言って乗った。俺はおっちゃんに今日は宿に泊まるつもりはないと言うと、カジノへ行こうと言ってきた。カジノは24時間営業でカトマンズに何ヶ所かあって、今から行くところはネパール人立入禁止のところらしい。ほとんどがインド人みたいだ。まあええか。どうにでもなれ。おっちゃんも付き合ってくれるみたいだ。

やがて、王宮近辺に着き、1人づつ100ルピー取られた(1Rs=2円)。それから、カジノに入った。なんと深夜にもかかわらずちびっ子がいる。夜中の1時だ。カジノ内は入場無料で、しかもある程度安い飲みものは飲み放題。ちなみに、俺はチェンマイでのトレッキング最終日からずっと腹が痛い。それやのに、バンコクに帰ってからもビールを飲みまくり、機内では缶ビールを3本も飲んだ。我ながらあほだ。ここでも正露丸を飲んだが効き目がない。俺はいつも腹が痛いと正露丸を飲むのだが、正露丸の効き目がないのは初めてだ。北大時代、ある日風邪をひいて風邪薬を持っていなかったので正露丸を飲んだのだが、それで風邪が治ったことがある。それぐらい俺の身体には正露丸が合っている。その正露丸が効き目なし。普通の腹痛ではないな。

とりあえず、おっちゃんがネパールのチャを飲もうと言って頼んでくれたのだが、これがまた甘い。これは佐々木(東大のラボの後輩で、ものすごく甘党)向けだ。俺はほんとはカジノで一儲けしたかった。しかし、あまりの腹の痛さと眠気で席にじっと座り、おっちゃんと話してた。おっちゃんの名前は矢野さん。もう10回以上もネパールに来ているみたいでとても詳しい。矢野さんは企業を辞めて、自分でネパールから銀や貴金属を買って帰り、日本で商売しているらしい。でも、あまり儲からんみたいだ。

矢野さんに色々ネパールの情報を聞いて、やがて夜が明けたのでここを出ようということになって、外に出てカトマンズの市街を見てびっくりした。えっ、これがカトマンズか。これがネパールの首都か。でも、ここが日本の東京だ。建物はぼろぼろ、至る所ゴミだらけ、野良犬だらけ。このゴミ捨て場を人間があさった後、犬があさるらしい。そう考えると、バンコクは大都会だ。

矢野さんは自分が泊まるホテルに荷物を置き、それから俺の宿探しに付き合ってくれるらしい。要は交渉。それがネパールでは肝心みたいだ。

早速、俺と矢野さんはタメルに向かった。バンコクのカオサンみたいな所だ。適当なゲストハウスに入って、そこで俺が受付に色々条件を聞く。なかなか思ったよりも高い。そうすると、色々矢野さんがアドバイスをくれる。どうもまだ俺の交渉の仕方は甘いみたいだ。もっと押してと言われた。しかし、なかなかいいところは見つからない。1100ルピー以上はだしたくない。

それから、場所を変えて2人で歩いていると、

「矢野さん。」

1人のネパール人が声をかけてきた。どうやら矢野さんの知り合いみたいだ。彼はタメルでネパール人に日本語を教えているらしく、かなり日本語もうまい。その後、俺と矢野さんはその学校に招待された。こんなこと言うと失礼だが、この建物自体もこれが学校かって感じだ。先生の名前はラメさん。ラメ先生は以前筑波大学に留学していたみたいだ。ラメ先生は1日に何クラスか受け持っているらしく、俺らが行った時は午前7時からの2学期のクラスの生徒たちがいた。みんな人が良さそうな学生だ。そこの学生の1人で、ブヴァンという青年が俺に近くのゲストハウスを紹介してくれた。1100ルピーで、トイレ、シャワーなし。まあええか。せっかく紹介してくれたんやから。ここにしよう。

それから学校に戻り、ラメ先生から俺に今日からここで日本語の先生をしてくれないかと頼まれた。えっ、俺が日本語の先生。うーん。でも、おもろそうやな。よしやろう。ラメ先生に

「毎日びっちりは無理ですが、自分の都合のいい範囲でよければ。」

と言うと、

「それで十分です。」

と喜んでくれた。今日から俺がこの学校のネパール人の日本語の先生だ。俺自身も正しい日本語はよくわからん。まあなんとかなるやろう。しかし、ここの生徒たちはなんとかして日本語を勉強しようと必死だ。それに、たった2ヶ月かそこらしか習っていないのにうまい。

カトマンズ、特にタメル近辺の住民の産業のほとんどは観光と言っていい。だから、日本語、英語、フランス語といった外国語が必要となってくる。ネパールでは日本のヴィザを取るのはほんとに難しい。というのは、昨年のネパール人の平均年収は210USドルで、アジアワースト2らしく、仮にネパール人がヴィザを取って日本に行ったとしても、ネパールには帰って来ないらしい。日本の方が稼げるからだ。だから、大使館側もなかなかヴィザを発行しないらしい。そんなネパール人には不利な状況でも、ここの生徒たちは日本に行くことを夢見て必死に勉強に取り組んでいる。たくましい。なんとかしてやりたい。

早速、俺は今日授業をした。ラメ先生に今日は1時間でいいから、彼らと一緒に会話をして欲しいと言われた。俺は彼らにゆっくりとした日本語で話し始めた。なんせ周りにネイティブな日本語を話せる人はいなく、なかなか聞けないらしい。俺はブヴァンとラヴィという学生とずっと話した。

今日はこれから忙しいので明日来ますと言って、矢野さんと一緒に学校を出た。矢野さんはこれから買い物のためカトマンズ中を歩き回るらしく、45日して日本に帰るみたいだ。矢野さんにはほんとお世話になった。ほんとにありがとうございました。何度も丁寧に矢野さんにお礼を言って、俺はインド大使館に向かった。次の国インドのヴィザを取らなければ。なんかインドのヴィザを取るのは面倒くさく、1週間はかかるらしい。

大使館でヴィザの申請書を書いて、1000ルピーだして500ルピー返ってきたので、なんや申請するだけで500ルピーもかかるんやと思ってふとレシートを見ると、300ルピー。なにー、200ルピーぼられた。もう一度窓口に戻って、おかしいんちゃうかと言いに行くと、騙される方が悪いって顔で相手にされない。怖るべしインド人。タイを出る時もみんなに言われた。

Don't trust Indian, Manabu!!!(学、絶対インド人は信じるな)」

大使館の連中まで人を騙すのか。俺はがっくり来て、パンを買って宿に帰って寝た。それから夕方起きて、めし食ってまた寝ようとしたがまだ腹が痛い。大丈夫やろうか。

51日(14日目、カトマンズ)

「あなたスケベですね」

今朝起きるとまだ腹が痛い。大丈夫か。それから朝7時半頃、学校へ向かった。もう7時からの2学期のクラスの授業が始まっていた。ここの学校は初級を1学期、中級を2学期、上級を3学期という分け方をしている。俺はラメ先生の授業を始めて見学した。生徒数は4人だけだ。俺はこの生徒たちの目を見て驚いた。なんやこの目は。すごい真剣な眼差しだ。こんな学生は果たして日本には何人いるか。生徒数は4人だけだが、彼らは積極的で、途中どんどん授業を止め、納得するまでラメ先生に聞く。ラメ先生が分からないところは俺に聞いてくる。ラメ先生は以前日本に留学していたが、漢字の読み書きはできない。先生の授業方式は、あるテキストの文章を黒板に書く。その文章を一文一文丁寧に説明していき、そこから少し派生して、その単語や文法に関連したこと、あるいは日本の文化についてなどを教える。はっきり言って、文章自体もぎこちない日本語で、ラメ先生の説明も少し間違っているところもある。しかし、生徒も先生も必死だ。すごい言葉のやりとりだ。日本語、英語、ネパール語が飛び交う。途中、何度も先生が俺に質問する。俺はそれに答える。先生にも勉強になる。先生の日本語でおかしいと思うところはたくさんある。しかし、先生にもプライドがあるので、あえて俺はここでは指摘しない。

そうこうしているうちに、7時のクラスは終了。その後、今日は昼からラヴィと会うことにして、12時にまたここで会おうということにして、俺は一度宿に戻った。

11時半頃俺はまた学校に戻り、11時の1学期のクラスの生徒2人に、ラメ先生に代わって残り20分ほど授業した。ランバアドウサイシイという青年とソフィアという女の子だ。まだ日本語を習い始めて10日ぐらいだ。わからんのは無理はない。いざ自分が日本語を教え始めると、日本語の難しさに気づく。でも彼らは真剣。将来日本に行くことを夢見てがんばっている。俺はなんとかして彼らを日本に行かせてあげたい。しかし、現実はそう甘くない。なんと言っても、彼らにはヴィザがおりない。

それから12時過ぎに、ラヴィが学校に来て、まずラヴィの家にお邪魔した。ラヴィの部屋にはパソコンがあり、Windows95が内蔵されている。ラヴィの家庭はカトマンズではかなり裕福だ。この日本語学校の授業料が確か月600ルピーだ。ネパール人の平均月収が18USドル、現在1ドルは約60ルピーとすると、平均月収はルピーでは1080ルピーになる。それを考えると、この授業料はかなりの額だ。それに、ラヴィは夜間にもう1つ違う日本語学校にも通っている。家にはカラーテレビもある。しかし、彼は自分が裕福な家庭にいるという感覚はない。それが怖い。

ラヴィに彼女の写真を見せてもらった。すごく美人で、英語の先生らしい。ネパールの学校は小、中、高で10年、大学は2年間みたいだ。ラヴィは今19歳で、学校を卒業して、コンピューター会社に就職し、今はそこも辞めて日本語を勉強している。彼女も歳。彼女もそうだが、ネパール人もすごくきれいだが、ネパール人には申し訳ないが俺はタイ人の女性の方が好みだ。

ラヴィは彼女との結婚を考えているらしいが、そううまくはいかない。ネパールには色んな人種がいて、ラヴィはネワール人で、ネワール人同士では独自のネワール語で会話する。彼女はバフン族で、民族が違うもの同士の結婚はそう簡単にはいかないし、ラヴィ家ではバフンの血が一族に加わるのはOKみたいだが、彼女の家族の方が納得していないらしい。それに、結婚前の男女が町で一緒に歩いたり、手をつないだりすると白い目で見られる。だから、カトマンズの町中は男同士、女同士が手をつないで歩いている光景は日常茶飯事だ。うーん。日本のような自由恋愛の国では考えられない世界だ。

ラヴィと今日はモンキーテンプル(スワヤンブナート)に行くつもりだったが、俺はどうしてもバングラディシュ大使館に行きたいと言って、ラヴィに付き合ってもらうことにした。インドのヴィザ同様、バングラのヴィザもネパールで取っておきたい。それから、三輪車みたいなバス(チャンプ)に乗って大使館に向かった。小さい荷台に10人も人が乗る。俺はチェンマイのバスを思い出した。

大使館に着いて、ラヴィの分も金を払ってやった。2人で8ルピーだ。しかし、大使館は休みだった。そうか。今日はメーデーや。それと、大使館の張り紙を見てびっくりした。ネパール人でヴィザ取得まで15日かかると書いてある。信じられん。こんなんやったら東京で取ってきたらよかった。

俺ががっくり落ち込んでいると、大使館の横の建物はラヴィが前に勤めていたコンピューター会社のオフィスやと言うので、そこを訪ねることにした。そこには、ラヴィのボス、ラヴィの妹、いとこがいた。ラヴィははっきりいって男前だ。顔的にはジャニーズ系だ。そのせいか、妹もいとこもすごくかわいい。ボスは昔何年間か日本のコンピューター会社にいたらしく、日本の色んな所に行っている。そのせいか、日本についてはかなり詳しく、ちなみに日本にいる時は新杉田に住んでいたみたいで、上野のオフィスまで京浜東北線と東海道線を使って通勤していたらしい。今度はカナダでコンピューターの勉強をして、金を貯めて、ネパールにコンピューターを持って帰ってきて、どんどんコンピューターを普及するのが夢みたいだ。是非、がんばってほしい。

ボスと色んな話をしてオフィスを出た。その前に、JICAの藤本さんに電話した。藤本さんは以前バンコクのJIRCASのボスで、つまり今の鈴木さんの前任に当たり、現在はJICAの一員としてネパールにいる。バンコクを出るに当たって、ネパールに着いたら是非藤本さんによろしくと鈴木さんに言われ、鈴木さんは藤本さんにFaxを送ってくれたみたいだ。藤本さんのオフィスはパタンにあるみたいで、明日もう一度連絡が欲しいとのこと。

ボスのオフィスを出て、その横の建物にもラヴィの知り合いがいるというので、俺も一緒に会いに行った。そこも日本語学校で、ラヴィのボスにこのフロアーを借りているらしい。そこには女の先生が2人いて、1人は日本語の先生、もう1人は英語の先生だ。2人共きれいだ。日本語の先生はラクシミ先生で、以前京都YMCAで日本語を勉強していたらしく、なかなかうまい。しかもたった1年間だ。

「あなたはすごくきれいですね。」

と俺が言うと、

「あなたスケベですね。」

おいおい。なんで1年しか日本語を習っていない奴が、スケベって知ってんねん。

ラクシミさんに週末に彼女の友達と一緒に飲みに行きましょうと誘われ、電話番号を書いた紙を渡され、土曜日に電話するように言われた。

それから、ラクシミさんにも俺にここに来て日本語を教えてもらえないかと言われた。そうなのだ。ネパール人の日本語の先生自身も日本語を勉強したいのだ。ネパール人の英語、日本語、フランス語等の先生はたくさんいるが、彼らもそれぞれの言語を習っただけで、ほとんどの人は実際にその国に行ったことはない。彼らには到底国外なんて行けない。特に日本には。それに、彼らのほとんどの日本語の先生は漢字が読めない。それとおもしろいことに、ラメ先生も言っていたのだが、ラクシミさんも敬語が全然わからないらしく、是非勉強したいみたいだ。無理はない。日本人にとっても漢字は難しい。俺はなんとかして、生徒だけでなく、先生方にももっと日本語を勉強させてあげたい。それに、いらなくなったものでもいいから、日本語の教材を彼らに送ってあげたい。

それから、ラヴィの家に戻って、ラヴィのおかんに軽く晩飯を御馳走になった。今度ラヴィの家に泊めてもらうことになったが、あんまりネパール人の家に泊めてもらうのはやめよう。あまりの歓迎ぶりでかえって申し訳ない。彼らはそんなに裕福じゃないのに。始めは、どんどん現地の人の家に泊めてもらおうと思っていたが、これは申し訳ない。よし、安い宿を探してそこで泊まろう。たかが100ルピーそこそこだ。15001000円の旅行の予算だから、たぶんやっていけるだろう。

ラヴィの家族と写真を撮って、俺は学校に戻って少し授業をして宿に戻った。今日は色々勉強になった。腹も少し回復した。

52日(15日目、カトマンズ〜パタン)

「ネパールの農業事情」

今日はタメルゲストハウスをチェックアウトして、藤本さんと王宮前で待ち合わせだ。王宮前のマーカンタイルというところで俺が突っ立ていると、運転手付きの車に乗られて藤本さんが来られた。なんか見るからに人の良さそうなお人だ。その後、パタンの藤本さんのオフィスへ向かった。藤本さんのオフィスはネパール農業局の中にあるのだが、なんともお粗末なところにある。こんなこと言うと失礼だが、バンコクのJIRCASとは大違い。なんせカトマンズ自体が貧しい町だ。

ネパールはアジアで平均国民所得がワースト2らしく、ちなみにワースト1はブータンだ。ほんとネパールは貧しい国だ。日本の就職難なんて比じゃない。日本では、フリーターみたいな身分でも職を選ばなければバイトでもやっていけるが、ネパールには仕事自体がない。失業率が70%とか。町の至る所に浮浪者がいるし、その町事態が汚く、埃っぽい。

藤本さんにネパールの農業状況を示すデータを見せてもらったが、とんでもなくひどいものだ。ここ20年間ほとんど進歩がない。肥料の使用量も他のアジアの国に比べると極端に低い。なんせ肥料が買えないのだ。仮に買ったとしても輸送手段がない。国土の北の方にはヒマラヤがある。この山岳地方への輸送手段はほとんど無いと言ってもいい。それと、米、とうもろこし、小麦の主要穀物の農業生産高を見ると、ここ20年耕地面積はどの作物でも若干増えている。それに伴って、トータルの乾物生産量も増加しているが、耕地面積当たりの乾物生産量はほとんど変化なし。つまり、農業技術の進歩が見られない。しかし、人口は年々2%増えているらしく、俺は今後のネパールの食糧問題が気がかりだ。それに、ネパールの土壌は元々亜鉛(Zn)欠乏土壌が国土の多くに存在し、Zn欠乏になると柑橘類が大きな被害を受け、特にネパールではシトラスが大きな被害を受けているみたいだ。また、ネパールの国土はZn欠乏土壌のみならず、ホウ素(B)欠乏土壌もかなりのウエイトを占めているらしい。B欠乏になるとラディシュやカリフラワーの中心部分が腐ってきて、実際マーケットに売っているカリフラワーを見たのだが、中心部が腐っているのがなかにはあった。ポカラにはこのような不良土壌下で研究している農業局の試験所があるらしく、俺は農業局の人に無理言って、今度ポカラに行ったらその試験所を見学させてもらうことにした。

次に、この農業局内にあるラボを見せてもらった。とんでもない所だ。こんな所で研究ができるのか。床は埃だらけ。机は汚いし、器具はないし、試薬もない。ここで土壌中の成分分析、特に窒素(N)、リン(P)、カリウム(K)とZnを測るらしい。どうやって測るねん。新しくN分析用にケルダールの装置を購入したらしいが、俺はふと疑問に思った。ドラフトがないやないか。これでは使えん。それと、たぶん比色法でP分析用に使うんやろうが、吸光度計があったがどうも使えそうにないし、実際使っていなさそうだ。イオン交換水(IEW)も濁っているし、たぶんこの色は鉄がコンタミしているな。ほんまにカラムを通してるんか。でも、このラボでは今度原子吸光を買うらしく、肝心のランプは金がないので次の年に買うとか。どうやら、原子吸光をこのラボの目玉にして宣伝したいらしい。それも、インドからの中古とか。分析もいい加減で反復もしていないとか。そんなデータはデータとして成り立たんぞ。やっぱり統計処理せんと。第一、こんな環境で微量元素なんて測れるのか。コンタミしまくってるぞ。それに、Bを測るにはガラスの器具はあかんし。信じられん。おい、日本からのODAはちゃんと使われてんのか、ネパールのお偉いさんよ。お前らの懐に入ってるんちゃうんか。それと、ここの農業局の連中。お前ら原子吸光とか、ケルダールとか買う前にもっとすべきことがあるやろ。まず、実験ができる最低限の環境を作れ。もっと頭を使わんかい。

ラヴィが俺に言っていた。ネパール人の多くはネパールのテレビの番組はおもんないから、インドの番組ばかり見ているらしい。おい、制作側の問題やぞ。

藤本さんと6日に食事をする約束をして、今日はパタンのユースに向かった。うそー。最低だ。今日もシャワーを浴びられない。ああ、シャワーが浴びたい。もう何日入ってないんや。髪の毛が油っこくなってきている。明日は少しええ所に泊まろう。

夕方、少しパタンの町を歩いた。古都っていう感じだ。古いお寺がたくさんある。しかし、カトマンズ同様汚いし、クラクションがうるさい。もう明日はカトマンズに帰ろう。早くインドのヴィザを取ってポカラに行こう。

53日(16日目、パタン〜カトマンズ)

「はじめまして、たま美です」

今朝は早く目が覚めた。気づいたらこのユースに泊まっていた外国人は俺だけか。あと周りはみんなネパール人。ネパール人は朝が早い。おい、周りのことももっと考えろ。このドミトリーはあかん。もう二度と来ないぞ。

それから、俺はパタンからカトマンズまで約15kgの荷物を背負って歩いた。どうやったらタメルに戻れるかはわからん。とにかく、ひたすら北を目指そう。

今日は土曜日だ。ネパールでは休日が日曜日ではなく土曜日だ。休みというのに道端では人だらけで、なにをすることなくボーッとしている。おい、なんかすることないんかい。お前らせんだみつおか。

その後もテクテクと歩き、王宮から少し南にある広場に着いた。やっぱりタイと同様、ネパールのちびっ子はサッカーをしている。それに、クリケットも人気のようだ。その横のコートではおっさんたちがバレーボールをやっている。なんでか知らんが、みんな1回で相手のコートにボールを返す。ルールは知っているのか。自分のコート内では3回ボールをつないでもいいんやぞ、と俺は教えてやろうかと思ったが、おっさんらはけらけら笑いながら楽しんでやっている。まあ、楽しいのに越したことはない。それに、俺は人の趣味にけちを付ける気はない。言うのをやめた。

それから、タメルに戻り、王宮周辺でめしを食おうかなと思い、ある食堂のドアの取っ手に手を当てて、なぜかそこでやめた。なんでやめたのかはわからん。それがまか不思議。なにげなく一昨日行ったパン屋に入って、1人の日本人らしき女性に、

「どこか、安い宿知りませんか。」

と尋ねた。聞くだけやぼだった。この時期日本ではゴールデンウィークだ。それを利用して来ている観光客が泊まるところだ。俺とは違う。この女性の名前は北村たま美さん。東京の出版社に勤めているらしい。たま美さんと意気投合して、今晩一緒にめしを食うことになった。

とにかく、俺は宿探しだ。ブディストゲストハウスというところで、2泊するからというので1150ルピーにしてもらった。ちょっと高めだが、なんと言ってもホットシャワーがある。部屋もまずまずだ。それから、俺は3日ぶりか。シャワーを浴びる。快適だ。生きててよかった。バンコクでのポンピモール家での生活が嘘みたいだ。俺はかなり疲れていたのか、知らん間に眠ってしまった。

夕方7時にたま美さんと待ち合わせて、たま美さんが行きたがっていたレストランに行った。そのレストランに3時間ぐらいいたか。たま美さんとは色々な話をした。たま美さんは結構色んな国を旅行しているらしく、いわば俺から見るとベテランだ。それに、趣味で写真を習っているらしく、いいカメラを持っている。また、このレストランの店長がインチキネパール人で、自分で日本人とかぬかしていた。でも、結構いい人で楽しかった。たま美さんは俺が行っている学校に是非行ってみたいと言ったので、明日また会うことにした。

たま美さんとお話しをして改めて考えさせられたのだが、こうやって旅先で会う日本人はなんか同じような、どこか共通するような所を持っている気がする。俺はつくづくそう思う。果たして、彼らの考えというのは世論の中ではどういう位置を占めているのか。価値観の違いといえばそれまでだが、彼らはみんな彼らなりのポリシーを持っている。では、果たして企業で働いている人々は、このような人々をどのように思っているのか。俺は旅先で会う人を見ていると、俺の周りの人にはないたくましさを感じる。この人たちが正しいとか悪いとかは分からないし、人の考えに良い悪いもない。しかし、俺はこの人たちとは少し違った考えを持っている。やっぱり、日本での経験がものをいうのか。学生としての視点、会社員、研究者、自営業としての視点。色んな角度から1つの事柄を見るとすごく楽しい。今回の旅行ではこれらの視点以外にも、日本人および日本人以外の人の視点を大事にしたいし、今後もそのような角度で色んな事を勉強したい。それに、自分が見た、聞いた、経験した事に対して自分なりの意見を持つように今まで心がけてきたし、これからもそうしたい。改めてネパール人の視点で日本という国を見ると、ほんと日本という国の大きさを感じる。例えば、水を飲むということを哲学的に考えてみると、水は何のためにあるのか。タイやネパールでは飲料水は買う。水を、飲むためのものとして考えると、ジュースとかビールと同様に買って当たり前だ。しかし、その水を日本では普通にただで飲めるし、注文しなくてもレストランに行くと出てくる。うあー、日本てすごいな。

こういうふうに、日本という国を改めてすごい国だと最近つくづく思う。それに、最近自分の祖国日本を誇れるようになりつつある。

54日(17日目、カトマンズ)

「はじめまして、ケビン・コスナーです」

このゲストハウスも蚊だらけで、また通りがうるさい。それと、ネパール人は朝が早い。朝起きて軽くパンを食って、学校で少し授業をして、それからラヴィの家に行った。ラヴィは俺がしばらく学校に顔を出さなかったので心配してた。途中で、ラヴィの彼女から連絡があり、ラヴィがしばらく彼女に連絡していなかったため、彼女は怒っているようだ。ラヴィは俺のことを彼女に話していたらしく、しばらくして俺と代わった。

俺、「はじめまして。」

彼女、「はじめまして。あなた、名前はなんて言うの。」

俺、「ケビン・コスナーです。」

彼女、「ふーん、ケビン。いい名前ね。ケビン、あなた結構日本人にしては英語うまいじゃない。」

しもた。ケビン・コスナーを知らんのか。つっこんでくれると思ったのに。これじゃ、ボケ殺しや。

ラヴィの家で軽くお菓子を御馳走になって、今日はたま美さんを学校に連れていく日だ。午後1時にあのパン屋で待ち合わせて学校に向かった。たま美さんは教室に入るやいなや、とても熱心に写真を撮り続ける。すごく一生懸命だ。さすが写真の勉強しているだけあっていいカメラを持っている。途中、たま美さんも授業に加わってみんなといろんな話をした。たま美さんも満足してくれたみたいだ。

ここの教室の横には、若者たちが集うミーティングルームがある。俺はこの学校に来るようになって、そこの何人かと仲良くなった。こいつらは将来のネパールをなんとかしたいという夢があって、みんな政治に興味がある。そのうちの1人と俺は特に仲がいいんだが、そいつの顔がゴリラーマンそっくりだ。ネパールの男はみんな日本の女のことを大好きだと言うのだが、ゴリラーマンだけは日本の女のみならず、女はみんな嫌いだという。俺がゴリラーマンにその理由を尋ねると、

「俺を見るだけでみんな逃げていくんや。」

と、ゴリラーマンは嘆いてた。ゴリラーマンはたま美さんに、

「なんで。なんでか教えてくれ。なあ、おねえちゃん。」

と、泣きそうな顔をして聞いてた。たま美さんは答えるどころじゃなく、必死に笑いをこらえている。俺は言ったろうかなと思った。

「お前、鏡持ってるか。」

しかしゴリラーマン。これからのネパールはお前に任せたぞ。

午後5時頃学校を出て、今日は7時からラクシミさんとめしを食うことになっている。せっかくやからたま美さんにも声をかけ、午後7時までたま美さんとコーヒーでも飲みに行こうということになった。たま美さんは一見ひ弱そうに見える。しかし、すごくしっかりしていてたくましく、色んな国を女1人で旅している。ちなみに、たま美さんのお薦めはベトナムらしい。

途中、たま美さんは頭が痛いと言って、ホテルに薬を飲みに帰った。ちょっと心配だ。見た目がひ弱そうで、心臓病かなにかを持ってそうな雰囲気の人だ。趣味はバイオリンって感じだ。俺はその間ラクシミさんと待ち合わせのスパンスというお店を探した。しかし、午後7時を過ぎてもラクシミさんは来ない。そうこうしているうちに、たま美さんが戻ってきた。大丈夫みたいだ。とりあえず、ラクシミさんの家に電話したら、ラヴィに今日の午後5時頃にオフィスに連絡くれるように伝えたらしいが、俺には伝わっていなかった。ラクシミさんは今から行くからと言って、先に俺とたま美さんはスパンスに向かった。

それからしばらくして、ラクシミさんが来た。ラクシミさんは今年また日本に留学したいらしく、ここに京都YMCAからの入学案内書を持ってきて、俺にこの書類について教えてもらいたいみたいだ。俺は書類を見て、さすがにひどいと思った。外国人には理解できない抽象的な文章だ。その書類には、入学の際には学費負担者が必要と書いてある。しかし、ラクシミさんは学費は自分で出すと言っている。以前日本に留学していた時は、滋賀のある病院の院長が保証人になってくれていたらしいが、そこは琵琶湖の周辺らしく遠くていやらしい。通学に片道2時間はかかったみたいだ。俺が保証人になってやってもいいが、はっきり言って怖い。でも、なんとかして日本に行かせてあげたい。たま美さんとなんとか力になってあげようという話をした。たま美さんはもう明日ポカラに行ってしまう。だから、俺は明日ラクシミさんのオフィスに行ってあげるから、その時詳しい書類を見せてくれと頼んだ。必要なら一緒に日本大使館に行こうと。

それから、たま美さんをホテルまで送って、俺はスパンスに戻ってラクシミさんと少し飲んだ。やばい、ラクシミさんに口説かれた。やっぱり、30歳前後の女性はどの国の人間でも怖い。日本だけやないな。そんなことより、どうも俺の身体がおかしい。寒気がするし、頭がふらふらする。それに、すごくだるい。俺はラクシミさんに断って、宿に帰ることにした。それから、ベッドに倒れたところまで覚えている。そこからは記憶がない。

55日(18日目、カトマンズ)

「ついに俺も・・・」

最悪だ。目を覚ますとひどい頭痛と寒気と下痢だ。やっぱり、俺もかかってしもた。チェンマイから腹が痛かったのはこのせいか。しかし、午前7時半にたま美さんとこのゲストハウスの前で待ち合わせをしている。たま美さんはポカラに行く前に、俺の写真を撮りたいみたいだ。起きなければ。しかしつらい。起きられる状態やない。

やがて7時半頃、たま美さんはやってきた。たま美さんは俺と会った時の俺の笑顔をもう一度見たかったらしい。しかし、俺にはできない。たま美さんには申し訳ないが、立っているのもつらい。とりあえず、たま美さんがシャッターを押している間はなんとかがんばった。

その後、これはなんか食べなあかんと思い、たま美さんと一緒にパン屋に行った。水も買った。そこで、たま美さんとは別れた。たま美さんには悪いことをした。申し訳ない。宿に帰る前に、どうしても学校に行かなければ。今日はラヴィの家に泊まりに行く日。それに、夕方ラヴィが通ってるもう1つの日本語学校にも行くことになっていた。断らんと。ラヴィ、申し訳ない。ラヴィはがっかりしてた。ラメ先生は、

「風邪の時はネパールではお湯を飲みなさい。」

と教えてくれ、ブヴァンにも同じようなことを言われた。皆さん、ご迷惑かけてすいません。今日は授業ができません。

とりあえず宿に戻って、一口パンをかじり日本から持ってきた抗生物質を飲んだ。ラクシミさんにも断った。明日必ず行きます。よし、絶対に直すぞ。

それから少し寝たが、良くなった感じではない。やばいな。抗生物質でもあかんか。よし、五十嵐(北大の農芸化学の同期ですごく仲のいい友人)にもらった中国の変な薬を飲もう。五十嵐は俺が日本を出る前に、わざわざこの薬を俺の家まで持ってきてくれた。五十嵐が今年の3月中国を旅行している時にあいつも体調を壊して、中国の薬局でこの薬を薦められて飲むと直ったらしい。まあ、この際なんでもいいや。もう一度抗生物質とこの薬を飲み、とりあえず明日を待つことにした。

56日(19日目、カトマンズ)

「神様、仏様、藤本様」

なんと元気になった。80%は直った。さすがに抗生物質はすごい。しかし、それ以上にすごいのは五十嵐の薬だ。これは使える。

今日は藤本さんとめしを食う日だ。朝、電話して今日は泊めてもらうことにした。藤本さんとマーカンタイルで待ち合わせて、藤本さんのお宅に行くことになった。まあ豪華だ。門番もいるし、番犬もいる。中もきれいだ。なんと奥さんは俺にお粥を作ってくれた。感激だ。奥さんも人の良さそうな方だ。たまにこういう温かい家庭に入るとホッとする。たまにはこういうのが欲しい。

それから、部屋に荷物を置かせてもらってバングラの大使館に電話した。しかしでん。とりあえず、日本大使館に電話して、バングラの情報を聞こうとしたが、なんとも態度の悪いこと。頭にきて途中で切ってやった。おい、大使館のお役人さん。お前ら海外で困っている日本人のために働いてるんちゃうんか。お前らの金は俺らの税金ちゃんか。俺は礼文といい、東京での巡回といい客商売が長いせいか、こういう態度はほんと許せん。俺が上司やったら俺の電話に出た奴は首や。

とりあえず、奥さんは買い物をするというので、車でバングラの大使館まで送ってもらった。やがて、バングラの大使館に着くと、ここのおやじは、

「エアーで行くならここでヴィザはやる。陸路で行くならインドで取れ。」

と言ってきた。そんなあほな。なんでやねん。何回もなんでやって聞いても相手にされん。ショックや。インドのヴィザといい、ヴィザってこんなに面倒なんか。

俺はがっくりきてラヴィのボスのオフィスに寄った。ボスは相変わらず元気そうで、俺を歓迎してくれた。ラヴィのいとこもいた。

それから、ラクシミさんのオフィスにも行った。ラクシミさんは俺を待っていて、早速YMCA のパンフレットを見せてもらったが、やはり保証人だ。ただでさえネパール人が日本へ行くのは難しいのに、果たして保証人なしで日本に行けるのか。ラクシミさんは8000USドル持っていると言う。ほんまかどうかはわからんが、その銀行の手形のコピーをYMCAに送るとFaxし、今はその結果待ちらしい。俺が思うには、その手形と日本、ネパール間の往復航空券があればええんとちゃうんかな。YMCA側はとりあえず金を確認したいんやろ。とにかく、今はその返事待ちということで、ラクシミさんに家に来ないかと誘われた。やばい、また口説かれるんちゃうか。

ラクシミさんの家までタクシーで行き、それから部屋に入り、おお、これは広いぞ。それに、さすがにきれいだ。それから、ラクシミさんが以前日本にいた時の写真を見ながら、ラクシミさんの話を聞いてあげた。そこで、問題が発覚。ラクシミさんには日本で勉強した後、何がしたいかがない。今はとにかく日本に行きたいだけ、それだけだ。でも、ネパール人が日本に行くことはどんなにすごいことか。高い銭払って日本に行って、日本語を勉強するんやから、将来それを生かしたらと言ってあげた。ラクシミさんは悩んでいた。彼女の友人も俺と同じような事を言っているみたいだ。

「お前は何のために日本語を勉強してるんや。もし何も考えへんで、高い銭出して日本に行くんやったらお前はあほや。」

俺も彼らと同じ意見だ。

仮に彼女が日本に行ってネパールに帰ってくると、その時はおそらく持ち金ゼロだ。それに、ネパールでは失業率がすごい。そしたら、人にはない日本語を話せるという特権を利用するべきやと思う。日本では海外に留学して、その国の言語や文化を学んでも、将来その関連で仕事をしていかなくてもいける。しかし、ネパールでは日本とは国の事情が違う。ラヴィは日本に行って日本語を勉強して、将来ネパールで日本語学校を作りたいと言っている。他の俺の生徒には、トレッキングのガイドで日本人ともっと会話がしたいとか、ホテルの受付でもっと日本語を話したいとか、ちゃんと目的をもって勉強している。うーん。ラクシミさんは先のことはあとで決めたいと言っているが、果たしてネパールという国でそんなことが通用するのか。ちょっと甘いんちゃうか。それに、彼女も30歳になる。俺にはどうしたらえのかわからん。

それから、タクシーに乗ってタメルまで戻ろうとして、タクシーを止めると、なにー、100ルピーやと。どう考えてもぶっかけてる。

「おい、俺は日本で有名な空手家や。嘘ついたら承知せえへんぞ。」

そしたら、30ルピーになった。そんなもんやと思った。

それから、少し学校に寄って藤本家に戻った。俺を待っていたのは奥さんの手料理だ。奥さんもほんと感じがいい。俺は先にシャワーを浴びさせてもらった。当然、ホットシャワーだ。それから、めしを頂いた。ハイネケンを飲み、ひじきには感動した。うーん、幸せだ。結構食えるもんだ。朝、お粥を頂いて以来なんも食ってへんかった。

めしの後は冷えた麦茶を飲みながら、藤本さんの今までの人生経験を聞いた。ブラジルにもいたし、なんと帯広の試験所にもいたことがあるらしい。すごい幅の広い人だ。それに、人間がでかい。こんな人間には憧れる。その後、色んなおもしろい話を聞かせてもらって、12時ぐらいに寝た。

57日(20日目、カトマンズ)

「カトマンズ在住の日本人たち」

蚊取り線香のせいか、こんなにぐっすり寝たのは久しぶりだ。快適だ。朝食は奥さんの手作りのパン。うーん、うまい。コーヒー、ミルク、ジュースもある。幸せだ。こんなに贅沢な気分を味わえたのはポンピモール家以来だ。

今日はインド大使館に行く日だ。俺はインド人と戦う態勢はいつでもOKだ。かかってこんかいって感じだ。なんかうまくいく気もするし、いかない気もする。しかし、昨日藤本さんの家で見せてもらった新聞で、阪神は調子がいいらしい。グリーンウェルも帰ってきたらしい。ええ感じだ。

それから、運転手の車で大使館まで送ってもらうことにした。よし、気合い十分だ。それにしても、相変わらずインド人の英語はわからん。まず、掲示板で自分の名前を確認しろと。えっ、俺の名前がない。そしたら、Aカウンターに行けと。Aカウンターに行くと、写真を持ってゲートに行けと。ゲートに行って用紙に必要事項を記入し、パスポートと一緒に提出すると、1200ルピー出せと。俺が1500ルピー出すと、つりはない、ちょうど出せと言ってきやがった。つりぐらい持っとかんかい、インド人。俺は怒った口調で、

「今日もらえるんか?」

「午後4時半にBカウンターに来い。」

とりあえず、俺は大使館を出て、午前の1学期のクラスで授業し、それからラヴィの家に向かった。ラヴィの家には1人の日本人の女の子がいた。彼女は23日前にラヴィと知り合ったみたいで、神戸で花屋に勤めていてがそこを辞めて、4月から8月までカトマンズにずっといるつもりらしい。俺は、

「なんか目的は。」

って聞くと、特にないらしい。そんなんで8月までカトマンズでなにするねん。まあ、人それぞれだ。

それから、午後4時過ぎにラヴィの家を出て、さあインド大使館や。

「かかってこんかい、インド人。」

最近の俺の口癖だ。気合いを入れ、Bカウンターへ。よし、取れた。ヴィザが取れたぞ。ちょっと待てよ。よう見たら、シングルやないか。ダブルって書いたやろ。まあええ。とりあえず、インド人に勝った気分や。対戦成績11敗か。でも、インドからバングラに入って、またインドに戻るという当初の予定を変えなあかんな。ほんま、インディアンは嘘つかないのに、なんでインド人は嘘つくんや。よし、これからも戦っていくぞ。

それから、藤本家に戻り、今日はホテル木戸にあるレストラン田村というところで、藤本夫妻が入っておられる写真同好会のお食事会があるらしく、俺も同行させてもらうことにした。全部で13人か。同好会にはカトマンズ在住の日本人の他に1人ネパール人の俳優さんがいるらしいが、今日はその人はいなかった。俺はその中で日本大使館に勤務しておられる人々とずっと話してた。俺の電話にでた人はむかついたが、この人たちはいい人だ。1人は大使館の主治医で、もう1人はただの酔っぱらい。あと、青年海外協力隊の人なんかもいた。他の人は企業の駐在員で、あとはその同伴者だ。彼らはネパールではほんとマハラジャ生活だ。みんな運転手にメイド付き。コックがいる人もいる。話していておもしろかったのは、みんな日本に対して否定的な意見を持っている。

「あの国はどうかしてるよ。おかしいよ、日本は。」

やっぱり、海外が長いとそう見えるのか。俺は逆の意見だ。俺はタイ、ネパールと来て、日本を改めてすごい国やと思えるようになったし、日本にいる時は大阪を出て改めて大阪弁でよかったと思っていたが、今はその前に自分が日本人であることを誇りに思っている。それと、やはり最終的にはみんな日本に帰りたいみたいだ。しかし、海外でのこんな贅沢な暮らしに慣れ、それに自分たちが海外勤務している間にも日本の技術はどんどん発展し、仮に日本に帰ったとしても、果たして今の自分たちがその社会で通用するのか。日本という国で自分たちが生活していけるのか。すごく不安みたいだ。そうかもしらんな。うーん、すごくいい話を聞かせてもらった。海外勤務ってのは大変なんや。改めて考えさせられた。

ちなみに、今日の会費は11000ルピー。日本円にして2000円ぐらいだが、今の俺にしてみればすごい額だ。たかが2000円。それであんな御馳走を。俺は自分の分は自分で出すつもりで、1000ルピー払ったが、藤本さんが俺の分も払ってくれていたみたいだ。ほんとに申し訳ございません。

それと、帰る直前に協力隊の人が言っていたのだが、

「ネパールではなにもいらん。日本で必要としていたものはなにも必要ない。テレビも新聞も。そんなもんなくても生きていける。あんなものはいらん。それがこっちに来て分かった。」

うーん。確かに生きていくためだけやったらそれでいいかもしらん。でも、決してそうではない。一生ここで暮らすわけでもないし、自分がここにいる間にも世界は動いてる。やっぱり、俺は自分の国が今どうなってるのか、他の国はどうなっているのか、そういう情報を常に知っておきたい。東大の2年間、俺は朝から深夜までのラボだけの生活やったら、たぶん気が狂っていた。しんどかったが、土、日に営業をしていて結果的によかった。そういうこともあって、やっぱり俺は周りの状況が気になるし、新聞とかそういう情報網に目を通せる時は通しときたい。ちなみに、今は円相場が気になる。

ほんと今日は勉強になった。同好会の皆さんは、こんな飛び入りで参加した俺なんかに色々本音で話してくれた。ほんとおもしろかった。ありがとうございました。レストランの外では、彼らの運転手がご主人様を待ち構えている。そういえば、大使館の酔っぱらいは明日の昼御馳走してくれると言ってたな。ほんまか。とりあえず、明日の朝電話してみよう。今日も心地良いベッドで眠れる。ほんまカトマンズは気候がええ。インドはもう40℃とか。

58日(21日目、カトマンズ)

「酔っぱらいなんて失礼しました」

今日もぐっすり寝られた。目覚ましで起きるなんてほんま信じられへん。朝食は昨日同様奥さんの手作りのパンだ。今日は昨日とは違ったパンだ。うまい。ほんと至福の喜びとはこのことだ。

それから、日本大使館に電話したところ、昨日の酔っぱらいはちゃんと俺に昼飯を御馳走することを覚えていて、今日の午後1時に大使館に来てくれとのこと。ほんまやった。

昼ぐらいに藤本さんが帰ってきて、運転手がその車で大使館まで送ってくれた。藤本さん夫妻とはとりあえずお別れをした。奥さんはポカラから帰ってきたらまた来るように言って下さり、藤本さんも是非ポカラでの話を聞かせて欲しいと言って下さった。ほんとにお世話になりました。カトマンズに戻ったらまた連絡します。

今日は王宮周辺は渋滞だ。だれか皇族の結婚式らしい。俺らにとっては迷惑な話だ。王宮周辺の道は全て通行止めだ。そのため、運転手は裏道を行ってくれた。しばらくして大使館に着くと、酔っぱらい、いや富山様がいらした。ここから少し歩いて行ったところに、富山様お薦めのレストランがあるらしい。それから、そのレストランまで歩いて行き、そこのメニューを見ると、おお、おっしゃる通り安い。注文は富山様にお任せすると、チキン、ポーク、ナン2人前、カレー、焼きめし、レモンジュース2杯、コーヒー2杯が順次運ばれてきた。結構うまい。これ全てで300ルピー。安い、600円だ。富山様は俺がポカラから帰ってきたら、また御馳走してあげると言って下さった。ええ人や。その節は酔っぱらいなんてお下品な呼び方をして申し訳ございませんでした。また、お電話さしあげます。

富山さんの所属は外務省で、3年間はネパールに赴任でその後3年、3年という具合に海外勤務するらしい。日本での基本給以外にも海外手当がつくらしく、ネパールでの生活では、手当だけでも月にかなりの貯金ができるらしい。結構儲かるみたいだ。だから、毎年夫婦で海外旅行に行っているらしい。うらやましい身分だ。

それと、富山さんがおもしろい話を教えてくれた。去年のある日の午後、大使館(去年の秋までは王宮周辺にあった)の周りをぶらぶらしていると、人だかりを見つけ、ふと覗いてみると、猿岩石がタコの人形を売っていたらしい。その上、彼らはレストラン田村でめしを食っていたらしい。それと、ほんまかどうか知らんが、救援物質を郵送しただけじゃなく、松本明子もレストラン田村にいたとか。やっぱり、テレビだ。田村は高すぎるぞ。富山さんはあんな事はするなと怒っていた。大使館側としては猿岩石のことをよく思っていないみたいで、あれを真似て同じようなことをされるのが非常に困るらしい。彼らにはもしもの時のために、カメラマン兼ディレクターがいた。そりゃそうだ。もしも彼らになにかあれば、番組上取り返しのつかないことになる。それを知らない日本人の若者が、同じ事をしかねないので非常に困っているらしい。なにかあれば大使館にも責任がかかってくるとか。俺も大使館側の意見に賛成だ。こっちに来て思ったのだが、特に、1人でのヒッチハイク、野宿は絶対危険だ。それと、マスメディアを使って国民を騙すのはやっぱりよくない。まあ、それがテレビといえばそれまでやけど。そんな嘘をつかなくてもあの2人はすごいことをやった。正直にどこどこのレストランで食ったとか、その国の事情で仕方なしに飛行機に乗ったとか言っても、おそらくだれも文句は言わん。俺が藤本家に泊まったみたいに、たまには息抜きが必要だ。じゃないと死んでしまう。あの2人はちゃんと仕事をする時はやったんやから。俺は猿岩石に対しては、あんなけ国民に感動を与えたのだからすごいなと感心するが、制作側がとった態度には否定的だ。

それから、富山さんにお礼を言って、俺は2日ぶりにブディストゲストハウスに戻った。受付の兄ちゃんは俺のことを覚えていて、この前と同じ値段でええぞと言ってくれた。なかなかいい奴だ。それから、学校で少し授業をしラヴィの家に向かった。ラヴィとは、今日彼が夜間に通っている日本語学校に一緒に行こうということになっていた。しかし、今日彼は体調が悪いみたいだ。俺は、

「今日はゆっくり休んでまた他の日に行こう。」

とラヴィに言った。

ラヴィの家の1階にはTシャツ屋があって、ラヴィ家はその部屋を貸しているみたいだ。そこの兄ちゃんの奥さんは日本人らしく、兄ちゃんは日本語ぺらぺらだ。ラヴィの家に行くといつも俺はこの兄ちゃんと話をしていく。最近、兄ちゃんの嫁さんが体調を壊したらしく、明後日から夫婦で日本に行くみたいで、俺が明日ポカラに行くというと、兄ちゃんの弟がポカラのレイクサイドでお店をやっていて、是非そこを訪ねてくれと言われた。せっかくやから顔を出すか。

さあ、今日はたま美さんがポカラから帰ってくる。まさかまたカトマンズで会えるとは思わんかった。なんせ今度東京で会おうという話をしていたのだから。こうやってまたたま美さんと会えるのも俺が寝込んだおかげだ。たま美さんは今日はラクシミさんの家に泊まるらしく、3人でまためしを食おうということになった。夕方6時半頃ラクシミさんに電話し、夜9時に2人はやって来た。たま美さんも相変わらず元気そうだ。ラクシミさんは昨日俺のために夕御飯を作って待っていてくれたらしく、このゲストハウスに連絡したみたいだが、昨日俺はここにはいなかった。悪いことをした。

それから、3人で1時間半ぐらい楽しい時を過ごし、2人はタクシーでラクシミー家に帰っていった。実はラクシミーさんに、今晩俺もラクシミー家に来るように言われたのだが、たま美さんがダーメと。それと、俺は明日からポカラに行く予定やし、ポカラ出発は早朝だ。俺はラクシミーさんに明日ポカラから電話するので、今日は勘弁してくれと伝えた。さあ、明日はカトマンズ脱出。その前に朝6時に起きんと。

59日(22日目、カトマンズ〜ポカラ)

「はじめまして、大畑です」

6時半にイミグレーションオフィスに向かった。ここには、ポカラ行きのバスがたくさん並んでいる。それから、あるおっちゃんが俺にチケットを見せろと言って、俺が乗るバスまで案内してくれた。なんや親切なおっちゃんやなと思っていると、俺のかばんをバスの屋根の上にくくりつけ、これで10ルピー取られた。バスはかなりぼろい。日本では絶対車検は通らん。それと、ネパールの車からでる排気ガスはかなり黒い。なんとガソリンに灯油を混ぜているらしい。そのため、車で込み合っているところはかなり空気が汚いし、もし俺がコンタクトレンズをしてたら、目を開けてられへんかったやろう。

もう少し値段の高いバスにしてもよかった。このバスは一番安いバスだ。だから、ネパール人の割合もかなり高い。とにかく、座席の前がかなりきつく、足の長い俺にとってはかなりつらい。おまけに、カトマンズの市街を過ぎるとかなり道が悪いし、途中からは舗装された道がなくなる。来年はVisit Nepal '98なので、それに向けてこれでもだいぶよくなった方らしい。途中2回休憩をしたが、俺はなにも食わなくてよかった。もし食ってたら吐いてた。

俺はポカラまでの道中ほとんど眠っていたので、なんとなくしか覚えていないのだが、峠を越えてポカラに近づくにつれて田園が広がり始めた。峠まではトウキビ畑が中心やった。カトマンズは標高1500mぐらいで、ポカラで900mぐらいか。適地適作って感じだ。

午後2時半頃、ポカラに着いた。けつは痛いは疲れたでくたくただ。ちなみに、インド行きのバスはもっと最悪らしい。やっぱり標高の差か。ポカラはカトマンズに比べてかなり暑い。俺はこのバスの中で1人の日本人と知り合った。大畑君だ。大畑君は茨城の田舎の方に住んでいて、とてもユニークな青年だ。年齢は俺より1つ下だ。

ポカラのバス停にはすごい数の客引きが待っていて、特に今はシーズンオフで宿側も大変だ。とりあえず、大畑君と一緒の宿に行くことにし、おもいっきり交渉して俺らは160ルピーでトイレ、シャワー付きのゲストハウスに泊まることにした。

やがて、ゲストハウスに着き、部屋を見るとまずまずだ。ここの兄ちゃんにもう1ついい部屋があると言われ、そこを見に行くと、なんと藁葺きの離れではないか。おお、これはいい。ここは180ルピーらしく、俺はNoと言うと、2人で150ルピーでええと。言ってみるもんだ。大畑君と相談して、ここにしようということになった。

それから、2人とも腹ぺこで、もうここでええかという感じで、近くのちょっと高そうなレストランに行った。

「いらっしゃいませ。」

おお、ここの店員の1人はホモか。たぶん女の子から日本語を習ったな。彼の話す日本語はどうもホモっぽい。

大畑君とめしを食いながら色んな話をした。彼は映画関係の専門学校に通っていて、それから海外を旅してみたくなったらしく、一番金儲けできる仕事はなんやろうって考えて、その結果遠洋漁業とトラックの運転手が浮かんで、結局トラックの運転手をして金を貯めたみたいだ。それに、

「加藤さん、耳かきの先のふわってしたやつ、なんて言うか知ってます。あれは、ぽんてんって言うんですよ。」

とか、

「ガスレンジでフライパンとか、やかんを置く黒いやつなんて言うか知ってます。あれは、ごとくって言うんですよ。」

とか、なんでそんなこと知ってんねん。とても頼もしく、ユニークな青年だ。俺の周辺にはおらんタイプや。

それから、レイクサイドを散歩した。ポカラはカトマンズより静かでええ。レイクサイドで、ペワ湖の眺めがいいブリティッシュなレストランを見つけ、明日ここで朝飯を食おうと決めた。

それから、宿に戻り少し寝て、気づいたら停電や。俺らはその中を懐中電灯を持ちながら、隣の高そうなレストランに行った。その前に、俺は約束通りラクシミさんに電話して、カトマンズに戻ったら連絡欲しいとのこと。このレストランの催しとして、チベットダンスが踊られていて、なんと俺らは舞台に引き込まれて特別参加した。まあ、楽しいこと。いい経験だ。

その後、宿に帰る途中ふと空を見上げると、停電のせいか、なんとも星のきれいなこと。俺はこんなにきれいな星空を見たのはサロマ湖以来だ。いや、それ以上だ。我ながら感動した。それから部屋に戻り、なんとかしてトレッキングに行きたいなと大畑君と話し、とりあえず情報を集めようということになった。大畑君は元々あと3日ぐらいして、インドに行く予定やったみたいだ。しかし、あくまでも予定らしい。

俺は疲れていたせいか、知らん間に眠ってしまった。

510日(23日目、ポカラ)

「トムとジェリー」

目が覚めたら8時半で快適な目覚めだ。俺はシャワーを浴び、外に出てふと北の空を見ると、すばらしい景色では。ヒマラヤだ。俺が子供の頃からずっと憧れていたあのヒマラヤだ。雲がかかって、頂きしか見えなかったがなんときれいなのか。八ヶ岳とは比べもんにならんぐらい高い。俺も大畑君も感動して、しばらくその場で立ち止まった。よし、やっぱりトレッキングに絶対行くぞ。俺はそう決めた。大畑君もそう決めたみたいだ。

その後、俺らはあのブリティッシュなレストランに行って、モーニングを頼んだ。贅沢な気分だ。前には湖、右側にはヒマラヤの山々。うーん、役者気分だ。俺は改めてキムタクを意識した。

それから、俺はラヴィ家の1階のTシャツ屋の兄ちゃんの弟の店を探すことにした。少しすると見つかり、兄貴の店と同じくTシャツ屋だ。次男と三男と四男で経営していて、次男は夕方帰ってくるらしい。

四男にチャを頂いて、それから俺らはダムサイドへトレッキングの情報を求めに行った。さすがにダムサイドには日本人が多い。それに、日本語で書かれた店も多い。途中の本屋のポスターで、俺はポカラからのヒマラヤベストポイントはダムサイドにあることを知り、そこを探した。しかし、ダムの南側まで来てしまい、そこは地元の人が洗濯をしたり、水浴びをしたり、髪の毛を洗ったりする生活の場だった。そこで、俺らは少しちびっ子たちと戯れ、ちびっ子と写真を撮ったりし、少し散歩をした。俺らが散歩をしていると、1人の女の子があとをついてきた。

ちびっ子、「あなたたち、名前はなんて言うの。」

俺、「俺がトムで、こっちがジェリーや。」

ちびっ子、「トムとジェリーか。いい名前ね。」

しもた。またボケ殺しや。

ネパールの女のちびっ子はほんとシャイでかわいい。しかし、男はあかん。すぐ金くれと言ってくる。まあ、観光客が多い所はしゃあないか。こっちにも責任がある。しかし、男女問わず、ちびっ子たちはほんといい目をしている。俺が昔、エチオピアかどこかの難民キャンプの子供たちの写真を見て感動したあの目だ。

それから、ベストポイントを発見。明日来ることにした。

ダムサイドでラーメンを食って、Tシャツ屋に戻るとまだ兄貴は帰っていないというので、しばらく待つことにした。やがて、兄貴が帰ってきて、トレッキングについて色々聞いたが、やはりガイドがいた方がいいみたいだ。この時期シーズンオフやから、山賊がでるらしく、最近2人組の女の子が襲われたらしい。うーん。どんなコースがあるのか、どこがいいのかもわからん。それに、山歩きの用意をして来なかった。もう少し考えよう。

晩飯を食って、宿の兄ちゃんにトレッキングについて聞こうとしたが、まだ帰っていない。その弟に聞いたが、兄ちゃんに聞いてくれと。それと、この宿の屋上からでもヒマラヤは見えるらしい。この弟は、明日の朝俺らに1時間10ルピーでチャリを貸してやると言った。ダムサイドまで歩くのはたるい。まあええかと思い、ふと空を見上げるとやっぱり星がきれいだ。今日は蛍は見えなかったが、昨日俺は生まれて初めて蛍を見た。ものすごく感動した。しかし、今日は見えなくて残念だ。とにかく、明日の朝を待とう。

511日(24日目、ポカラ)

「ヒマラヤの神々」

5時半に目を覚ました。昨日の夜は最悪や。蚊がうるさくて寝られへんかった。おかげで今日は眠い。

「加藤さん、来て下さい。」

大畑君の声につられて、俺は屋上に上がって北の方の空を見ると、おお。なんと神がいる。ヒマラヤだ。なんともいえんすばらしさ。まさしく神だ。これが俺が子供の頃から憧れていた神、ヒマラヤか。写真なんかでは表現でけへん。この世のものとは----。朝日がだんだんと神を照らし始め、神がその姿を現し始める。俺は呆然として、知らん間にカメラのシャッターを押し続けていた。やがて、神の1つマチャプチャレの頂きに光がさしかかり、その姿を現し始めた。俺は思わず祈ってしまった。これは絶対間近で見るぞ。

その後、俺らはダムサイドでも神を拝もうと、この宿の兄ちゃんにチャリを借りに行ったが、案の定寝てて起きへん。仕方なしに俺らはダムサイドまで歩くことにした。その間にも次々と神々が姿を現し始め、昨日見つけたあのダムサイドのベストポイントからの眺めも最高。本屋で見たポスターそのままや。やっぱり、写真なんかで見るのはあかん。生で見んと、こういうのは。もう感激だ。間近で神に会うためにもどうしてもトレッキングの情報をつかもうと思った。

それから宿に帰り、今日は近くのパン屋に朝飯を食いに行った。110ルピーのパン3個とチャで35ルピー。結構安上がりだ。そこで1人のある日本人のねえちゃんと会った。ねえちゃんは日本を出てもう2ヶ月近く経つらしく、彼女はバングラにも行ったらしい。バングラに行くとカレー味のめしばっかりで、ほんまめしには困ったらしい。それと、ツーリストが珍しいので、ずらっと地元の人間がついてきて困ったみたいだ。このねえちゃんにバングラについての色んな情報を聞いた。

さあ、今日は俺らはトレッキングの情報集めだ。まず、レイクサイドの北の方まで歩いて行った。ポカラではよく物を売りに来るチベットのおばちゃんに会う。

「見るだけ。物々交換。」

これがおばちゃんらの口癖だ。彼女たちはTシャツ、ボールペン、ライターをやたらほしがる。100円ライターをもっと持ってくればよかった。俺は昨日考えて、日本の硬貨と物々交換がでけへんかと思い、今日はそれを試しまくった。俺は彼女たちにとっていやな日本人やろ。しかし、頭は使いよう。彼女たちは日本の硬貨をもらっても、ネパール国内では使いようがない。そんなことは俺は百も承知。彼女たちも硬貨とそれ以上にルピーを要求。結局、俺があきらめて帰ろうとすると、彼女たちも値を落とす。少し要領を得たので、明日再度チャレンジ。それと、おばちゃんたちに、

「物々交換っていうのは物と物を交換することであって、物を要求しさらにお金を要求するのはルール違反やで。」

と教えてあげた。やっぱりおばちゃんたちにはこんな事を言ってもあかんかった。

昨日、あるガイドが150USドルでトレッキングのガイドをしてやると言ってきた。そいつは、自分がガイドした日本人の写真や手紙を持ち歩いて自慢してきやがる。どうもこういう奴はうさんくさい。でも、今日は120USドルで、23日のガイドをしてやると。俺はどうも高いような気がして、情報を探し続けた。

その後、2人の日本人姉妹にあった。彼女たちは125USドルで1週間トレッキングに行ったらしく、ガイドが最低でラムカジというガイドには近づくなと。2人共むちゃくちゃ後悔してた。ガイドを雇うんやったら18USドルが相場らしい。そのことをTシャツ屋の兄貴に聞くと、そんなもんやろうと。

それから、俺らはダムサイドに仲間を捜しに行った。しかし、手がかりなしだ。それに、今はシーズンオフで人も少ない。それにしても、今日のポカラは暑い。30℃は超えているやろう。くたくたになって歩き続け、途中でTシャツ屋の兄貴の所で休ませてもらい、もうあきらめてあのガイドに頼むかという話をし、宿に帰ろうとしていたところ、隣のレストランで2人の日本人と出会った。大畑君はそのうちの1人とタイで知り合ったらしい。俺らは彼らにグッドなトレッキングの情報をもらった。彼らが薦めるコースに行くなら、ガイドは必要ないと。どうやら、そのコースで充分らしい。4000m を超えちゃうと高山病にかかる恐れがあるが、俺らのこの軽装では寒くてやめた方がええと言われた。ちょっと残念だが、最後の頼みはやはり日本人か。すごく詳しく教えてもらい、俺らは明後日出発することにして、明日イミグレでパーミットを取ることにした。

しかし、ほんとこういう旅をしている日本人はどこか共通している。なにかと言われるとわからんが、彼らの両親の存在が見えない。

「ほんまにあなたたちは人の子なの。」

って感じだ。東大の連中は正反対で、ほんまにその肩の上に親の顔がちらつく感じだ。特に、男にはその母親の。北大生もそういう感じの奴が多いが、東大生ほどひどくない。要するに、旅先で会う人はたくましく、しっかりしていて、俺の基準でいう大人だ。今までの俺の周りには、俺よりもワイルドな奴は少なかったので、彼らの中に入ると俺はまだまだ子供だ。上には上がいる。すごく励みになる。しかし、大畑君やたま美さんはこんな俺のことをすごく尊敬してくれ、東大生でありながらすごい人生経験をしているとほめてくれる。俺は彼らの方こそほんとにすごく、すばらしい人たちだと尊敬しているし、彼らはいや俺の方こそすばらしいと言ってくれる。決して建て前ではない。なんかすごくいい関係だ。俺はこういう関係を大事にしたい。俺を見て、皆さんが東京大学というところを身近に感じてくれたら俺も嬉しい。そんなに東大はすごいところではない。普通の国立大学の1つにすぎない。東大生は単なる1大学の学生にすぎん。

今日は朝、昼で90ルピーしか使ってないので、夜はビールを飲んだ。今晩は蚊防止にファンを使って寝よう。

512日(25日目、ポカラ)

「物々交換」

昨日はファンをつけたまま寝たせいか、今日は熱っぽい。失敗した。朝、チャリを借りて50ルピー払ってイミグレへ向かった。ちょっと迷ってイミグレに着くと、1人のおばちゃんがいた。どうやら、パーミットを取るには1600ルピーかかるみたいだ。しゃあない。ついでに、大畑君はそこでネパールのヴィザを延長した。

それから、俺らはダムサイドの方をサイクリングし、ちょっと先の滝を見に行った。なんとそこで俺らの宿の経営者の弟の方が、金持ちインド人親子の家族旅行のガイドをしていた。ポカラはインド人がよく来る観光地で、インド人は新婚旅行としてもよく来るみたいだ。

その後、ダムサイドにあるアニールモモというレストランに行った。ここは昨日のトレッキングの情報をくれた日本人が紹介してくれたお店で、ここに日本語で書かれたものすごく詳しいトレッキングマップがおいてあるらしい。それと、ここは日本人のたまり場で、メニューから何から何まで全て日本語。俺らはその一部をコピーしてもらい、おじやを食った。それにしても、今日もポカラは暑い。35℃ぐらいはあるやろ。牛も気持ちよさそうに汚い水たまりで水浴びをしている。

それから、パーミットがもらえる夕方まで、俺はチベットのおばちゃんたちと物々交換を試みた。しかし、やっぱり日本の硬貨では難しい。そこで、靴下でつることにしたが、相手もしぶとく、これは新しくないからさらに金を要求してくる。何組かのチベットのおばちゃんたちと対決を繰り返していると、昨日の姉妹と出くわした。トレッキングで125USドルも払ったあの大馬鹿野郎だ。この姉妹は愛知の片田舎から来ていて、どうもこの姉貴の方はあほっぽい。俺と同じ年やが、どう考えても考え方は1819の小娘だ。同じ年でも色んな奴がいるもんだ。まあ、トレッキングで失敗してかわいそうやから、晩飯をおごってあげることにした。

その後、あまりの暑さに耐えきれず、Tシャツ屋で休憩することにした。ほんとこの店にはお世話になっている。俺らは都合のいい時だけ利用しているような感じだ。しかし、この兄弟はいつもほんとに歓迎してくれる。また、この店の前に大きな木があって、この木陰が気持ちいい。俺らが行った時は兄貴は出かけていて、四男にチャを御馳走になり、そこでネパールで人気のタイガーゲームを教わった。将棋みたいなやつで、まず虎か羊かを決めて、虎の駒を置いた将棋盤のような盤に羊の駒を置いていき、最終的に羊で虎を囲んで虎を動けなくするか、虎が羊を食って羊が虎を封じ込めなくなるかで勝負が決まる。たぶんよく考えれば有利なのは羊だ。俺は最初にルールを教えてもらい、四男と2試合行った。結果、俺の2勝。当然、虎でも勝ったし、羊でも勝った。頭は使いもんだ。四男は、

「お前ら日本人はクレバーだ。」

と言ってきた。俺は生野高校時代、ハンドボール部に所属しながら、一時期将棋部の部長も兼任して改めてよかったと思った。

それから、イミグレでパーミットをもらった。実は、トレッキングに行くと両替もでけへんと思って、午前中にここで両替をしてもらったのだが、なかなかグッドなレートだ。手数料もゼロだ。しかし、今日は円ががんばっていた分、ドルは少し不利か。

その後、もう一度昨日のチベットのおばちゃんとこに行き、物々交換を試みた。よし、俺の勝ちだ。俺は使い古しの靴下2足と、きらら397のポケットティシュと、100円玉と100ルピーで、ブレスレット2つ、ネックレス2つ、小さいブレスレット1つ、数珠1つ、指輪4つをゲット。ほんとに買ったら1000ルピーはしてるやろう。かわいそうやから、このうちいくつかをあの姉妹にやろう。

夜、あの姉妹を宿の近くのめし屋に招待した。この店は俺らが昨日見つけた安い店だ。しかし、結構うまい。あの姉妹に高いレストランはもったいない。ここでええ。ああ、今日も停電や。ポカラではほんまろうそくが役に立つ。この姉妹とめしを食っていてつくづく思ったのは、ほんまにこの姉貴はあほや。妹の方がしっかりしている。こんなにあほな同じ年は久しぶりだ。もうあきれて物も言えん。これからもがんばってくれとしか言いようがない。俺は途中から真面目に話を聞いていなかった。東京で仕事をしていた時の巡回で会うねえちゃんたち以下だ。先が思いやられる。

やがて、この姉妹をホテルまで送っていき、俺らも宿に戻った。さあ、明日からはトレッキングだ。しかし、ちょっと風邪気味だ。

513日(26日目、ポカラ〜ランドルン)

「ヒマラヤトレッキング初日 〜俺ってなんて無力なんや〜」

トレッキング初日。朝5時半に起きて、80ルピーでタクシーに乗ってフェディ行きのバス停に向かった。どうやら、フェディまで22ルピーかかるみたいだ。なんかぼられているような気がするな。バスに乗ったのはいいが、俺らはフェディがどこかわからん。俺の隣のおっちゃんに、

「フェディは終点か。フェディまでどれくらいや。」

って聞いても、なんでもOKって言ってくる。どうも英語がわからんみたいや。

それから40分ぐらいして、後ろのおばちゃんが、

「フェディやで。」

と教えてくれた。ここからダンプスまで登りだ。甘かった。軽く考えてた。この登りはほんまにえらい。俺らはヘトヘト。しかし、地元の人はあんなに重たそうな荷物を持っているのに、全然平気そうだ。彼らは頭で荷物を支える。頭を視点にして背中に荷物を置くような感じだ。さすがだ。すれ違う地元の人がみんなこの持ち方をしているのを見ると、この持ち方が一番楽なんやろう。

それからしばらくして、山間に住むある女の子が俺に声をかけてきた。

Photo, photo.

私の写真を撮らしてあげる代わりに、金をくれと言っているようだ。ネパールのガキは、特にポカラに来てそう思ったのだが、ほんまにかわいい。男はすぐ金をくれというのでむかつくが、なんと女の子まで言うとは。あんなにきれいな目をしているのに。俺はショックを受けた。

フェディを出て2時間ぐらいして、ようやくダンプスに着いた。俺も大畑君もヘトヘトだ。とにかく、この小屋でめしを食おう。なんと、目の前にはあのマチャプチャレが。おお、ポカラで見るより間近だ。ほんまにすげぇ。これは山口さん(東大の隣のラボの先輩で、山登りが大好きな人)を連れてこないと。とりあえず、めしを食おう。うーん、まずい。しゃあないな。ここでBoiled waterをもらったが、なんか色んなもんが浮いている。あかん、見たら飲めなくなる。そうや、ポカリの粉を入れよう。バンコクで鈴木さんにもらったやつだ。そのまま入れると濃いから、薄くしよう。北大でハンドボールをやっている時、試合のハーフタイムでマネージャーが作ってくれた薄めのポカリを思い出した。疲れている時は薄めがいい。うーん、ばっちりだ。

途中にポリスボックスがあり、ここから先はパーミットが必要だ。2つ目のチェックポイントで、そこのおばちゃんに水くれって頼むと、コップに1杯の冷たい水をくれた。

「ほんまに飲んでもOKか。」

って聞くと、OKやと。まあ、この際あたってもええか。明日が怖い。

途中で、1人の韓国人とガイドを連れた元自衛隊の日本人の2組にあった。この韓国人はアンナプルナのベースキャンプまで行くみたいだ。この韓国人と俺らは抜いたり、抜かれたりを繰り返すうちに仲良くなった。俺らと彼はポタナに着くと、彼は真昼から酒をくれと言って、ラクシーを1リットル買い、それを飲みながら歩いて行った。すごい奴がいるもんや。

それから、アップダウンを繰り返し、ベシカルカでめしを食い、やがてトルカに着いた。そこで、自衛隊のガイドが、

「俺らは今日ここで泊まる、お前らもここで泊まれ。この先ガイドなしでは危ないぞ。」

と言ってきた。俺は大畑君と相談し、今日は次の町のランドルンまで行く予定なので、やっぱり予定通り行こうということになった。そこで、この自衛隊とガイドと韓国人とさよならをした。

それから、1時間ぐらいでランドルンの町外れに着いた。ここで、ある宿のおやじがここに泊まっていけと言うので、俺らはかなり疲れていたせいか、今日はここで泊まることにした。2人で20ルピーだ。

「ホットシャワー、OK。」

と言うから浴びようとすると、洗面器1杯の水を沸かしてくれ、あとは水を使ってうまくやれと。こんなん寒すぎて死んでまう。やめた。しかし、ここの女の子がせっかくお湯を持ってきてくれたので、顔だけ洗った。この子はほんまによう働く。12歳で、シャイで、かわいい子だ。

その後、この子とじゃれあって、ふと彼女の家の中に入ると1人の女の人がベッドに横たわっていた。足全体の皮がめくれて真っ赤になっており、俺はこの傷口をまともに見られないぐらいだ。シーツも血で真っ赤だ。これはひどい。ここのオーナーが俺に薬をくれと言ってきた。当然、俺は下痢止めと抗生物質と五十嵐にもらった薬しか持ってない。隣町のガンドルンから医者に来てもらったらしいが、薬もなくどうしようもないらしい。この辺りには薬もなく、医者もいない。だから、この辺のガキはツーリストが通ると、ちょっとした擦り傷でも薬をくれと言ってくる。俺はしゃあないから1人のガキにバンドエイドを巻いてやると、明日また取り替えてくれと。そんなもん唾でもつけとけ。頭にきた。でも、この女の人はなんとかしてあげたい。起きることもできなく、ただ寝ているだけしかできない。ここにいるだけでは一生直らん。かわいそうだがどうしたらいいのか。俺は迷った。そうや、あの自衛隊の兄ちゃんならなんか知っているかも。俺は、

「明日、ある日本人とそのガイドがここを通り過ぎるから、事情を言ってみてくれ。」

と言った。それぐらいしか俺にはでけへん。大学院まで行ったのに、俺ってなんて無力なんや。

医学はどんどん進歩している。なのにこういうところには全然普及していない。医者自体がいないのだ。ネパールにはこういう所が至る所にある。なんとも悲しい話や。農業も全く進歩していない。圃場は石だらけでやせているし、肥料をあげている形跡はない。今のままの技術では向上しない。トウキビも虫に食われまくっている。やっぱり、技術の普及が必要だ。

ランドルンの町は電気がない。夜は真っ暗ですることがない。もう寝るしかない。晩飯もまずかった。大畑君はラクシーを頼んだが、どうもここには置いていなかったみたいで、ここの人は隣町まで買いに行ってくれたらしく、3時間ぐらいして帰ってきた。ないならそう言ってくれればいいのに。俺らはもう寝かかっていた。お気の毒だった。

514日(27日目、ランドルン〜タラパニ)

「ヒマラヤトレッキング2日目 〜アミールという少年〜」

トレッキング2日目。朝起きると、おお。目の前にアンナプルナサウスがあるでは。高けぇ。ポカラから見た時は遠近法の関係で、マチャプチャレの方が高かったが、実際はアンナプルナサウスの方が高い。ランドルンで標高1610mあるが、ここからでもその頂上はかなり上だ。これが8000mの世界か。

6時半頃、俺らは出発してガンドルンに向かった。ガンドルンまでは急な下りに急な登りだ。要するに一度谷まで下りて、また上るかたちになる。そのため、ランドルンからはガンドルンの町並みが見える。早朝に出たので涼しかったせいか、下りは思ったより楽やったが、登りはかなりきつい。こんなに登りが続くのはダンプスまでの道のり以来や。

やがて、2時間ぐらいしてようやくガンドルンに着いた。この町は水力発電があって、なんと山間にもかかわらず電気がある。ちょっとした都会だ。俺らはあるレストランに朝飯を食いに行くと、なんとボイルした上にフィルターを通した水があるでは。それも飲み放題や。俺らはがぶがぶ飲んだ。

ここで少し休んで、俺らは次を目指した。また登りだ。しかし、ガンドルンまでの登りに比べれば大したことはない。途中、バシカルカでめしを食って、そこの兄ちゃんにタラパニのGRAND VIEW LODGEというゲストハウスを紹介してもらった。

それから、タラパニまでさらに登り、今日は予定通りここで泊まることにし、さっきの兄ちゃんに紹介してもらったゲストハウスに行った。なんとここには結構人がいる。ちなみに、昨日のランドルンの宿では俺らだけやった。シンガポールの登山部、カナダ人3人組、イスラエルのカップル、オーストラリアのギャル2人組、トランプばかりしてる4人組。結構楽しい夜になりそうだ。ここにホットシャワーがあったが、なんと太陽電池だ。よし、太陽が沈む前に入ろうと思ったが、なんせシンガポールの連中が順番に1人づつ入る。やっと俺と大畑君の番が来て、先に大畑君が入った。すると、大畑君は震えながら出てきた。まさかと思ったが、大畑君の後俺も震えながら出て行った。この俺を見て、カナダ人のねえちゃんは、

「あなた、あんな冷たいシャワーを浴びたの。信じられない。風邪ひくよ。」

と言ってきた。ほっといてくれ。入るんじゃなかった。タラパニは標高2630mあり、夕方になるとかなり冷える。それにしても、ようあんな冷たいシャワーをシンガポールの連中は浴びよったな。

シンガポールのパーティは大学の登山部だ。男5人、女9人、あと数人のガイドにポーターという大所帯だ。あいつらは金持ちや。見るからにそうや。そのうちのリーダーと俺は仲良くなった。リーダーは26歳。

「俺は何歳に見える。」

って聞くと、

28歳かな。えっ、僕より年下。信じられないな。」

ほっとけ。シンガポールにも多くの日本人が訪れていて、国自体の物価がだんだんと上がり、シンガポール自体がだんだん東京化しているらしい。この状態には結構困っているみたいだ。また、タイ人もネパール人もそうだったが、シンガポール人の男も日本人の女性に対してはすごく憧れを持っている。俺は言ってやった。

「日本の若い女の子はわがままな奴が多いぞ。お前らが思っている程良くないし、それに金を持ってない奴に対しては、相手にせえへんあほんだらが多いぞ。」

「それはシンガポールの女性にも言える。」

とリーダーが言ってきた。リーダーから見たシンガポールの女性は、なによりも金らしい。おお、こわ。それと、やはり彼らは日本に一度でいいから行きたいみたいだ。でも、金が高くて行けないそうだ。

リーダーは日本の芸能界に詳しいらしく、松田聖子のファンで部屋にポスターを貼っているらしい。それに、チェッカーズや中森明菜のポスターもあるみたいだ。おいおい、いつの話や。俺は芸能界についてはあまり詳しくないが、日本で今一番人気は安室奈実恵というねえちゃんやとリーダーに教えてあげた。それにしてもシンガポールの女の子もきれいだ。男もそうだが中国人に似てる。さすが華僑の国だ。

俺は晩飯の時、1人のネパール人の少年とずっと話をしてた。彼の名前はアミール、14歳。彼の家庭は貧しく、現在このゲストハウスで住み込みで働いている。実家はガンドルンで、両親はもうかなりの年で、兄貴2人はどこかで働いているらしく、姉貴5人はもう嫁いだらしい。もう今の両親ではアミールの世話もしてやれなく、それでアミールは親元を離れて働いている。彼はほんまにいい奴だ。それに、立派だ。果たして、俺がアミールと同じぐらいの時、こんなにしっかりしていたか。彼はいつか日本に行くことを夢見て、俺に色々日本のことを聞いてくる。なんとか力になってやりたい。

ネパールではこの年代、いや子供でも俺らを見るとすぐに金をくれと言ってくる。俺はネパールの子供に対する見方が変わった。インドではネパール以上やろ。貧しいのは分かる。しかし、子供にまであんなに惨めな思いをさせる親の教育に腹が立つ。ツーリストを見つけてねだる親の姿を見て育ったのか、もしくはそうするように教育されたのか。子供たちの将来が心配だ。まあ、俺らにも問題があるのは確かだ。それに、貧しさの極地になると、そんなきれい事を言っていられないのかもしれない。しかし、あんなにきれいな目をしているのに。大人がだらしない。日本でもそうだ。たまごっちとかプリクラとか、近頃の若い者は、と言っている野郎がこの若者向けに金儲けをしている。中高生、それに20代の前半の連中もまだまだ考え方が子供だ。その連中を金儲けのために騙しているようなものだ。ああ、この連中とアミールを会わせたい。アミールはほんまにいい青年だ。一生懸命、その言葉がぴったり合う。俺にトレッキングについても色々教えてくれた。

「お前、いつ英語覚えたんや。」

と聞くと、

「ツーリストと話しているうちに覚えた。」

と。たいした奴だ。それにしても、ほんまネパール人の英語力には感心する。我ながら中、高と6年も英語を勉強してるのに情けない。

その後、アミールの友達の少年2人がやって来た。彼らは2人で乳牛14頭、水牛15頭、やぎ60頭を連れて遊牧している。まだ12歳ぐらいや。たくましすぎる。俺はこんな話を聞くとほんま自分の情けなさを痛感するが、欧米人特にイスラエル人は、こういう話を聞くとどう思うのか知りたい。

515日(28日目、タラパニ〜ゴレパニ)

「トレッキング3日目 〜ヒマラヤの小学校〜」

トレッキング3日目。昨日の夜は隣のイスラエルのカップルがうるさくて、なかなか寝られんかった。おい、部屋と部屋がベニヤ1枚でしか仕切られてへんのが分かるやろ。ほんま旅先で会うイスラエル人にはいい奴はおらん。どないなってんねん。

それにしても、アンナプルナサウスはいつ見てもきれいだ。昨日泊まったカナダの3人組は、今日からアンナプルナベースキャンプを目指すらしい。そのうちの1人のねえちゃんは、今度の7月から北海道に英語の先生として来るらしく、俺は美瑛を薦めた。 ここタラパニは標高2630mあって、朝晩はかなり冷える。たぶんこの時期でも10℃はきってるな。俺は朝飯にチャパティとお湯を頼んで、そのお湯にインスタントのみそ汁を入れて飲んだ。バンコクの鈴木さんにもらったものでほんと感謝だ。しかし、俺は欲張ってお湯を入れすぎた。しもた、薄すぎや。せっかくもらったのに。

それから、俺はシンガポールのパーティーのポーターが持っている荷物を持とうと挑戦した。これはあかん。俺には到底運べん。こいつらどんな足腰してんねん。肝心の学生たちはナップザックのみだ。あれじゃハイキングだ。

その後、アミールと写真を撮ってさよならをして俺らは出発した。アミール、また会おうな。先に、オーストラリアのギャルが出発したが、あいつらはめちゃくちゃ早い。しかし、持久力がなくすぐ休む。こいつらはウサギで俺らはカメだ。案の定、俺らが先にゴレパニに着いた。

途中で、俺らに1人の青年が近寄ってきた。こんな山奥やのに。俺はこれは山賊の手下だと思った。あとで聞くと大畑君もそう思ったらしい。

「お前らガイドはいないのか。」

そればかりを聞きながら俺らの後ろを着いてくる。それも、バンタンティを出てすぐぐらいからデオラリの手前まで来たので、約50分ぐらいか。ははーん、山賊の手下に間違いないな。俺は、

「俺らにはガイドは必要ない。俺らは格闘家や。だから、ガイドがいなくても全然平気や。」

と言ってやった。こういう時はひるんだらあかん。強気にでんと。結局、あいつは何者やったんやろ。途中で、俺らの前から消えた。

途中のデオラリで標高3180mある。かなり風が冷たい。そこで、なんと俺らにしつこくガイドしてやると言ってきたあのポカラのガイドに会った。彼はイギリス人とアメリカ人の2人組をガイドしていた。彼には悪いことをした。彼はほんまはええ奴なのは分かっていた。しかし、金が高すぎた。これもビジネスだ、そう彼は俺らに何度も言っていた。それに、今はシーズンオフだ。ガイドたちも生活が大変やろう。当然、副業なんてないやろうし。

それから、デオラリからゴレパニまでの途中の丘で少し休んだ。なんとすばらしい景色なのか。言葉にはならん。だんだんと標高が高くなるに連れて樹木の数が減っていき、やがて森林限界を超えると植生が失われて、山が丸裸になっていく。その森林限界のさらに上は、万年雪で覆われた神々の頂きが姿を現す。これが自然の摂理か。なんか俺は天下を取った気分だ。こんなこと言うと登山家や山登り愛好家から批判がくるかもしれないが、俺は日本ではそれほど山登りには興味がなかったが、もう日本では山に登られへんかもしらん。こんなん見せつけられるともうあかんで。

その後、昼過ぎにゴレパニに着いた。標高2853mだ。俺らは少し高台にある眺めのいいHILL TOP LODGEに泊まることにした。とりあえず、今日は日が昇っているうちにシャワーを浴びておこう。うん、今日は温かい。このゲストハウスは眺めがグッド。そのうちに、オーストラリアのギャルやイスラエルのカップルが着くのが見えた。今日この宿に泊まるのは俺らとスイス人とそのガイドだ。このスイス人の名前はクリスチャンで、なんと経済学者らしく、今週末にはスイスに帰るみたいだ。しかし、俺が会うガイドはほんとにみんないい奴だ。イスラエルのカップルのガイドもいい奴で、ゴレパニで再会した。モヌンという奴で、まだ16歳だ。たくましい奴で、ポーターも兼任してて、その上セッタを履いている。結構セッタを履いたガイドにはよく会う。

俺は昼から近くの小学校を見学に行った。みんなむっちゃかわいい。1人のお嬢ちゃんがうまそうなものを持っていたので、俺は近くの店で同じものを探して思わず買ってしまった。ヌンというパンみたいなやつでちょっと油っこいが、ちびっ子のおやつとしてはもってこいだ。その後、また小学校に戻り、ちょっと教室を覗いてみた。みんな俺と目が合うと照れていた。職員室も、えっこれがっていう感じだ。先生たちは急がしそうだったが、俺らがうろうろしていてもなんも言わないとこを見ると歓迎してくれているみたいだ。クラスは3クラスあって、012歳までのちびっ子がいるみたいだ。この学校では兄弟で来ているちびっ子たちもいて、お姉ちゃんが弟をおんぶして面倒を見ながら授業を受けている。ほほえましい光景だ。

放課後、先生と生徒がグランドで遊び始めた。どうやら、椅子取りゲームみたいなのをするらしい。当然、椅子なんかないので、椅子の代わりにブロックのかけらを使っている。低学年以下のちびっ子はルールが分からず走っているだけで笑っている。隣では高学年がバレーボールを始めた。これはネットが高すぎる。先生も楽しそうだ。俺はドッジボールを教えてやろうかと思ったが、ちょっとスペースがないな。しかし、ちびっ子はほんと楽しそうだ。一度、俺の近くにボールが転がってきて、俺はそこから向こうのコートにサーブを打ってあげた。しもた、速すぎてちびっ子には取れへんか。我ながら大人気ない。

やがて、下校時間になり、その中の3姉妹だろうか。お姉ちゃんが1人をおんぶし、1人の手を引っ張って、なんと買い物に行くでは。偉いぞ、お姉ちゃん。これからもちゃんと妹たちの面倒見てやれよ。

それから宿に戻って、ボーッとしていると、なんと学校の先生が俺らの横を通り過ぎるでは。先生は隣のゲストハウスの娘さんらしい。彼女は22歳で、きれいな先生だ。この小学校では7教科教えているみたいで、この先生は国語(ネパール語)と英語を教えている。それと、先生は昔日本のガイドブックに載ったらしい。俺は先生に、

「先生のところの生徒はほんとかわいいね。」

と言うと、

「じゃ、私は。」

と聞いてきて、俺は、

「先生もきれいだよ。」

と言ってあげたが、なかなか図々しい先生や。

ゴレパニという町も電線らしきものはあるが、電気は通っていないみたいだ。俺はもう電気のない暮らしには慣れ、今この日記をキャンドルライトの中で書いている。なんか長渕の「乾杯」の世界だ。それにしても、このトレッキングで会う山間の町にはちびっ子が多い。みんなほんといい顔している。それに、なんと言っても目がきれいだ。神々が見守る中、こんなにすばらしい自然の中にいるのだからせこく育って欲しくない。ほんとそう思う。

516日(29日目、ゴレパニ〜タトパニ)

「トレッキング4日目 〜ヒマラヤの温泉〜」

トレッキング4日目。昨晩は俺らとクリスとガイドの4人で色んな話をした。クリスは俺がこの旅で会ったツーリストの中で一番といっていいほどの紳士だ。ガイドや俺らへの気配りもグッドだ。さあ、寝よかっと思ってしょんべんしに外に出ると、な、な、なんと。すごい。プラネタリウムだ。こんなにすごい星空は初めてだ。星が降ってくるとはこのことか。手でつかめそうだ。でも、クリスに言わせれば、こんなんではまだまだらしい。アルプスはもっときれいで、今日は月が明るすぎると。深夜に一度大畑君がしょんべんしに行った時は月明かりもなく、ほんま感動したらしい。俺が見たものとは比べものにならんかったみたいだ。俺もその空が見たかったがこれでも充分だ。今度その星空を見よう。

クリスと俺は星空を見ながら俺が東大でやっていた研究について話し、やがて分子生物学全般の話に展開し、クリスはやっぱり最後はアメリカやということを言っていた。クリスは、

「お前はここまできたんやから、アメリカでPh.Dを取るべきや。」

と言ってくれた。クリスはアメリカの大学を出ているらしい。俺は、

「それは選択肢の1つや。」

と答えた。やっぱりアメリカか。うーん。それにしてもおかしいもんだ。日本人とスイス人がネパールでアメリカについて話してる。わけわからん。

今朝4時半に起きて、懐中電灯で足下を照らしながら、プーンヒルへ向かった。俺らはクリスたちより一足お先に向かった。登りは40分ぐらいだ。プーンヒルは標高3194mで、俺の24年の人生の中で最高到達点だ。しかし、あいにく今日は曇り。頂上に着くと俺は4番手。マチャプチャレ、アンナプルナサウスにもうっすら霧がかかっている。ポカラから見た時はマチャプチャレの方が高かったが、プーンヒルからははるかにアンナプルナサウスの方が高い。しかし、アンナプルナサウスよりももっと高いタウラギリの方は深い雲だ。しゃあない。さすがに3194m は冷える。俺らはホットコーヒーを飲んだ。それから、だんだん雲がでてきた。不運だが仕方ない。もうこれで充分だ。次に俺が会うのはアルプス、アンデス、ロッキー、キリマンジャロと決めた。このことをクリスに言うと、なんとクリスはアルゼンチン生まれで、アルプスに来る時は是非連絡くれと、アンデスに行く時も是非と言ってくれた。ほんま偶然や。クリスと写真を撮りアドレスを交換して、モヌンとも写真を撮って、俺らは下に降りた。

やがて、宿に帰ってチャパティーを食って、クリスたちとお別れをした。俺らが再会するのは次はアルプスか。それから、タトパニに向けて出発した。俺らが出発する前に降っていた小雨もやんだ。タトパニまでは下りで、ここから一気に約1500m下る。それと、所々にすごい下りがある。これを登るのは大変だ。おもしろいことにゴレパニからタトパニに下るに連れて、山間の圃場ではバレイショからトウキビへと代わっていった。適地適作だ。葉の形からしてバレイショはメークインらしきものか。それにしても、相変わらず土壌は最悪だ。とにかく石を拾え。こんなんじゃ根がはらんし、痛むぞ。途中の農家では畑を耕すのに水牛を使っていた。原始的な農耕だ。ほんまにネパールには水牛が多いな。この近辺の道はくそだらけやないか。それに、遊牧民らしき連中は馬にも乗っているし。途中で、鉈を使って水牛を解体しているのには驚いた。

途中で1回休んで、約5時間後タトパニに着いた。タトパニの標高は1100mでカトマンズより低く、さすがに暑い。この辺りでは「パニ」という言葉が地名につくところが多いが、ネパール語では「水」という意味で、タトパニとは温かい水、つまり「温泉」という意味だ。ここタトパニには温泉が湧いていて、日中は外気が暑すぎるので、どうやら、温泉に入るのは夕方がいいらしい。とりあえず、俺らは昼飯を食って少し昼寝をして、夕方5時頃温泉に向かった。

おお、思ったより人がいる。なんや、外人も結構温泉好きなんや。どうやら入浴するには5ルピーいるみたいだ。横には川が流れていて流れもかなり早く、タウラギリの方からの雪解け水が流れているのかは知らないが、水は結構冷たい。それにしても、イスラエル人はどこでもうるさいな。なにはしゃいでんねん。俺は最近すぐにイスラエル人を見つけられるようになった。

それから、少しすくのを待って俺らも温泉に入った。浴槽自体はかなり汚い。浮遊物も浮いている。しかし、湯加減の方はまずまずだ。それにしても、色んな奴がいるな。はしゃいでいるイスラエル人、お経を唱え続けるネパール人、新婚のインド人、湯が流れてくるところの上に屈み、バスタオルで身体を覆ってサウナを作っている地元のおばちゃん。途中で、タラパニの宿から一緒のねえちゃんが来た。どこの国のねえちゃんかは知らんが彼氏と来てるみたいで、いつも他の2人の兄ちゃんと彼氏と4人でトランプをしている。この4人とは顔馴染みで、俺らが温泉に行くと言うと、

「おお、さすがジャパニーズだ。」

と言ってきた。このねえちゃんと俺はほんと仲良しだ。ほんまにすごくきれいな人だ。系統的には美人顔で、映画俳優のような顔をしている。しかし、少し意地悪なところもあって、プーンヒルで俺はねえちゃんが温かそうな上着を着ているのを見て、

「寒い。」

と言うと、

「だったら走れば。」

と言ってきた。でも、ほんまに俺らは仲がいい。

その後、ある1人の日本人が入ってきた。俺は最初現地の人かなと思った。大畑君もそう思ったらしい。しかし、兄ちゃんの方から、

「こんにちは。」

と言ってきた。この兄ちゃんはすごい人だ。旅ばかりしている人で、俺らよりも軽装で、5000m近いところを1人で歩いてきたらしい。もう日本を出て5ヶ月経つとかで、ネパールにはもう2ヶ月目とか。ポカラでは毎日暇やからガンジャ(大麻)を吸っているらしい。この後、この温泉にいたサドゥー(ヒンドゥーの修行僧)たちとめしを食うみたいだ。色んな人がいるもんだ。上には上がいるとはまさしくこの兄ちゃんのことだ。

温泉を出て帰る途中、サドゥーの小屋にあの兄ちゃんがいた。兄ちゃんが少し休んで行けと言ったので、俺らはそうすることにした。サドゥーは猿を連れていて、この猿が俺や大畑君の肩や首の周りをうろうろする。猿と言えば、エイズ、狂犬病----。俺は頼むから噛むなよと祈った。サドゥーは俺らにガンジャを薦めてきた。パイプの中に葉っぱを積めて吸う。これが思ったより難しそうだ。さすがにサドゥーはうまく、兄ちゃんもうまい。俺は今もうタバコを吸うと咳こむ身体になってしまったので、吸うのをあきらめた。でも、煙だけでも変な気分だ。

この兄ちゃんは来年は1年間ネパールに来るとかで、これからは今までのように日本を拠点にした考えはやめて、金がなくなったら現地で働いていくように考えを変えるみたいだが、ほんとは働くのは嫌いらしい。うーん。果たして、失業率が高いアジアの諸国で仕事を見つけて、金を貯めることがそんなに容易か。この兄ちゃんと俺は旅に対する観点がかなり違うな。しかし、兄ちゃんの考えはしっかりしている。でも、俺はあーいう生き方はできない。旅をする目的が違う。兄ちゃんは旅自体が生活になっている。俺は一生旅で行く気は100%ない。旅は一時的なもんだ。旅、日本と繰り返してこそ、旅の良さ、日本の良さ、あるいは欠点が分かるし、なんと言っても目的のない旅はしたくない。そうしないと、時間だけが無駄に過ぎていって、俺はいったい何してたんやってことになる。俺の今回の旅行の目的はあくまでも農業(食生活を含めた)と人とのふれあいだ。観光には興味ない。でも、ネパールでは絶対トレッキングだ。これは胸張って人に薦められるし、このことに関してはこの兄ちゃんと同じ意見だ。

それから宿に帰ると、ツーリストだらけ。みんなトランプとかしている。あの兄ちゃんと会ってからすごく哲学的になったが、彼らは何を考えて旅をしているのか。彼らが外国旅行をできるのはたぶん金持ちだからだ。日本人は逆でアジア諸国を旅しているバックパッカーは貧乏人が多く、というのは俺らは平気で立ちションをするが、外人は臭いトイレでも必ずトイレに入ってする。それに、高いもんをいつも食っている。しかし、悔しいがやっぱり英語だ。あいつらは流調に話せる奴が多いので、すぐ友達になる。その点、俺ら日本人は日本人同士かたまってしまう臆病者だ。日本に帰ったらまず英会話だ。

今日は久しぶりに電気のある町でビールを飲んだ。うまい。ビールを飲みながら、ふとあの兄ちゃんのことが頭に浮かび、長渕の「ガンジス」の詩が頭をよぎった。

「旅をするのは帰る家があるからだ さすらいの旅ほど寂しいものはない」

ガンジス、待っていてくれ。もうすぐ行く。

517日(30日目、タトパニ〜ラフガード)

「トレッキング5日目 〜おり紙〜」

トレッキング5日目。やっぱり電気があるとみんな夜更かしをする。俺らも部屋に帰ったのは午後9時半頃だ。もし山間の村に電気がきたらどうなるだろうか。今までの生活が楽になる点、よけいな問題が起こるだろう。「世界まる見え」で一度見たことがあるが、中国の洞窟の中のある村に電気がきて、そうすると夜遅くまで脱穀機の音が鳴り響き、子供は夜更かしをするようになって昔の方がよかったと言う意見が多くなった。果たして、ネパールでもそうだろうか。俺としては電気は人間が考え出した貴重なものだと思う。つまり遺産だ。進化とも言える。こういったものはどんどん普及すべきだと思う。しかし、そのためにこのすばらしい景観が損なわれるとなると。うーん、難しい問題だ。

朝起きると、そう朝風呂だ。案の定、人はいない。俺は朝風呂の良さを欧米人に教えてあげたい。さあ、めし食って今日はベニーまでの予定だ。温泉の近くのサドゥーともおさらばしてつり橋近くまで行くと、おお。今日はタウラギリがきれいだ。それにしても高いな。俺はいつものように祈った。

それから、ラトパニを過ぎてアップダウンを繰り返し、ティプリャンのロッジで休憩した。そこには、小学生らしき女の子がいた。名前は忘れたがすごくかわいい子だ。そのおかんもきれいな人だ。この子に教科書を見せてもらった。しかし、ネパール語でようわからん。どうやら、この子はビニールを使ってブックカバーを作っているみたいだ。ビニールを本の大きさに切り、針と糸を使って本に縫いつける。どうもその針に糸が通せないみたいで、おかんも苦労しているみたいだ。そこで、俺の出番だ。日本人の手先の器用なところを見せる時がきた。俺は糸と針を渡してもらうと、おお、これは難しい。5本の糸を通そうとしている。そこで、俺は考えた。よし、2本づつ通そう。完璧だ。ものの2分だ。女の子もおかんも俺の頭脳に感心してた。俺は改めて東大に行っててよかったと思った。

しばらくして、俺は出内さん(2年ほど前に東大のラボの事務仕事をしていて、すごく親切な人)にもらったアメリカみやげのルーズリーフを折って、鶴を作ってやった。彼女はびっくりしてた。まず、紙の材質の良さにびっくりしてた。知らん間に近所のちびっ子が集まってきた。いつの間にか、俺が彼女のための作った鶴を1人のくそガキがとっていきやがった。しゃあないから、あともう2つ鶴を作ってやった。彼女はお礼にネパール流紙飛行機を俺に作ってくれ、なんとその飛行機を俺に向けて投げつけてけらけら笑っている。

「おかん、なんとか言わんかい。」

と思って、おかんの方を見るとおかんも笑っている。ひどい親子だ。でも、ほんとかわいい子だ。なんと言っても、目がきれい。ルピー、ルピーと言うガキより、あーいう照れ屋の子はいい。

やがて、この親子とさよならをして、しばらく歩いて途中バイサリで休憩した。そこのロッジのおかんは英語が話せない。困った。俺らの飲んだペプシーがなんぼなのかもわからんみたいだ。ペプシーの値段を隣のロッジに聞きに行っている間に、俺はここの娘とじゃれあっていた。年にして3歳ぐらいか。ほんまかわいい。なんでこんなにネパールの子はかわいいんや。むかつくガキも多いが、特に女の子はほんまにかわいい。なんと言っても、目がきれいだ。日本の子にはないなにかを持っている。

それからまた歩き続け、今日はベニーまでの予定だったが、ラフガードで地元のちびっ子が川で泳いでいるのを見て俺らも水浴びした。なんせ今日は暑かった。川に入ると、なにー、冷たすぎる。むちゃくちゃ冷たい。こいつらあほか。でも、今日1日ほんまに暑かったので気持ちいい。

今日はこの川岸のRIVER SIDE G,Hに泊まることにした。ここのコーラは今まで飲んだ中で一番冷えている。最高だ。宿の人もみんないい人だ。客も少なく、みんなベニーに向けて素通りして行く。思わず俺らはビールを頼んでしまった。それにしても、静かなところだ。耳を傾けると川のせせらぎだけが聞こえる。ここにしてよかった。

夕方から雨が降ってきた。風もでてきた。これで少しは涼しくなるだろう。

518日(31日目、ラフガード〜ポカラ)

「トレッキング最終日 〜無事ポカラに帰ってきました〜」

トレッキング最終日。ここはほんまに静かなところだ。夜は川の音しか聞こえない。料理も良くて人もいい。ちなみに、昨日のゲストハウスもめしは良かった。でも、ほんまにここの人はええ人ばかりで居心地もいい。

俺はトレッキングの間、一度もトイレに入ったことがない。ずっと立ちションだ。ヒマラヤを見ながらのしょんべんは超快適。自然から得たものを自然に返す。当然のことだ。しかし、うんこはあかん。ランドルンで一度野ぐそをして以来うんこはでない。いつもなら毎日でたはずなのに。何度もグッド野ぐそポイントを見つけたが、どうもでん。やっぱり繊維不足か。とりあえず、ポカラまで待とう。

出発の際に、イギリスのグループからベニーからトラックがでると聞き、大畑君とどうしようか考えたが、結局歩くことにした。それから、宿の人にお薦めのコースを教えてもらい、約40分後ベニーに着いた。なかなか大きな町だ。ここから最終地点バグルンまでは登りだ。そして、3時間ぐらい平坦な道を歩き、そこから1時間ぐらい登ってバグルンに着いた。ベニー同様大きな町だ。ついにゴールだ。俺のトレッキングもこれでおしまい。とりあえず、ファンタを飲み、タラパニで作った愛用の杖ともここでお別れだ。どうもお疲れ様でした。トレッキングを終えての感想は、とりあえず疲れた。今はその言葉に尽きる。

さあ、ポカラに戻ろう。そして、ポカラ行きのバス乗り場に行くと、相変わらず最悪なバスだ。日本では絶対車検をパスできない。しかし、カーマニアは喜ぶだろう。いざ出発。山道を上がったり下ったりする。途中、何度もバスは止まる。その度にラジエーターに水を入れる。バスが止まると猛烈に暑い。ネパールではバスがすれ違う時、お互いに譲り合わない。待つということを知らない。バスに乗ってくる客もそうだ。降りる人を待たず、自分がいかに席を確保するかしか考えていない。ある1人の行商のおばちゃんがでっかい荷物を背負って降りようとしているのに、構わず乗り込んでくる。この辺のところは教育すべきだ。

その後も、どんどん人が乗ってくる。屋根の上も人だらけだ。乗車率300%ぐらいだ。途中、金を払おうとしないガキがいて乗務員の兄ちゃんと喧嘩。結局、山の真ん中でガキは降ろされた。

それから2時間ぐらいして、いきなりバスが止まった。どうやら、運転手たちスタッフのめしタイムらしい。俺らはあいつらのめしが終わるまでただ待つだけ。頭にくる。その後、出発しても人はどんどん乗ってくる。おまけに、横のガキはゲロを吐きやがった。こんな揺れでゲロを吐くようやったら、このガキのネパールでの将来の生活が思いやられる。ゲロを吐いたのはしゃあないとして、その親はゲロの処理もせずバスから降りていきやがった。俺は怒りの頂点だ。

俺は東京で外回りをしていて一番むかつくのは、電車やバスでの人のマナーの悪さだ。人が降りる前に乗り込む奴は論外として、最後の客が降りようとするその瞬間に乗り込む奴が多い。おい、もうちょっと待てんか。それに、電車内での携帯電話やウォークマンの音だ。それと、優先座席なんていらん。身体の不自由な人は立ってるのがしんどいんやし、その人に席を譲ってあげるのは当たり前だ。立ってられないから座る、立ってられる人は立つ。暑いから服を脱ぐようなもんだ。だから、優先座席なんていらん。特に、札幌の地下鉄では絶対若い人は優先座席に座らん。空いてたら座ったらええやん。車が来ていない赤信号は待てへんやろ。それといっしょや。こういう感覚じゃ俺はネパールでは生活でけへんな。

4時間後、ようやくポカラに着いた。もうヘトヘトだ。とりあえず、タクシーの運転手と交渉して、レイクサイドまで70ルピーで行ってもらうことにした。また、こいつがむかつく。観光したろかとか、どこどこ行ったろかとか。俺は思わず、

「お前はとりあえず俺らをレイクサイドまで連れていけ。もし次、同じこと言ったらぶっ殺すぞ。」

しばらくして、宿に着いた。久しぶりにホッとした。とりあえず、朝からなんも食っていなかったので、近くでまずビールを飲んだ。ぬるい、失敗だ。それから、一度行きたいなと思っていた近くの中華料理屋に行った。ここは当たりだ。久しぶりに贅沢した。ビールもまずまず冷えている。

それから、いつもの水を買う店で水を買って、宿の隣のレストランで1人の日本人と2人のギャルにあった。彼らはインドをずっと旅していたらしく、インド人は男と女に対して全然扱いが違うらしい。男に対しては最悪で、女に対してはむちゃくちゃ甘いらしいが、痴漢されまくるみたいだ。彼らにインドについての色々な情報を聞いていると、ここで働いているある日本人がやってきた。とこさんというニックネームの45歳のおっちゃんで、どうやら不法滞在でヴィザが切れてもう何ヶ月も経っているらしい。俺は藤本さんに聞いたんだが、不法滞在になると金を払うか刑務所に行くからしいが、ほとんどの人は金を払うみたいだ。というのは、ネパールの刑務所に入ると死んでしまうらしく、それはめしはなく差し入れのみだからだ。だから、金持ち以外の人や身内のいない人は餓死してしまう。

とこさんはここのレストランのなんでも屋で、鹿児島生まれで北九州で不動産屋兼土建屋を経営しているらしくが、もうしょっちゅう海外にいるみたいだ。彼は昔気質で頑固者って感じだが、いい人なのはいい人だ。カナディアンファーム(大学23年の春に居候していた長野県原村のレストラン)のハセヤン、プラス後藤先生って感じか。とこさんはほんまの意味でのボランティアをやっている。なかなかできないことだ。いわばただ働きだ。だから、JICAやボランティアと名乗る連中をすごく毛嫌いしている。このとこさんに付いているある日本人の青年がいた。加藤君、20歳だ。彼は静岡の大学を中退して、たった2万円しか持たずカトマンズに来て、チャリを買ってポカラに来る途中Kで全部金がなくなって、ここでとこさんに拾われたらしい。彼は今晩2000ルピーもらって、明日チトワンに寄って、カトマンズに戻って日本に帰るみたいだ。彼はまだまだ子供だが運のいい子だ。これからが楽しみだ。

やがて夜8時半ぐらいに、日本人の兄ちゃんとギャルはダムサイドの方に帰っていって、残った4人で12時ぐらいまで話してた。加藤君やとこさんにビールやポテトを御馳走になった。とこさんは俺らに色々語る。彼も寂しかったんやろ。すごく言っていることは正しいと思う。しかし、俺はこういうタイプは苦手だ。自分の主張のみで、あまり俺らの意見に耳を傾けない。つまり、会話が成立せず、言葉のキャッチボールができない。それに、俺や大畑君の意見をはなから否定する。それと、途中から自慢話が入ってきた。酒も入ってきた。でも、言ってることは正しいと思う。例えば、とこさんはネパールに今一番必要なのは教育と医学と言っているが、俺もそう思う。しかし、俺はあーいう人は苦手だ。加藤君は俺らの話を聞いているだけだ。でも、時々とこさんに罵られる。まあ、俺は最近人それぞれに色んな生き方があるというふうに割り切っていて、特に人の趣味にはけちを付けないことにしている。人の生き方に他人がどうこう言う権利はないし、特に周りに迷惑をかけるんじゃなく、自分にしか責任がのしかからなければそれでええんちゃうかって感じだ。俺はとこさんに対してあえて自分の意見は言わなかった。あーいう人には言っても無駄なのは東大の連中で百も承知だ。

それから、お礼を言って宿に戻った。今日もポカラは停電だ。あー、蚊だらけだ。

519日(32日目、ポカラ)

「ネパールの不良土壌」

久しぶりのポカラの朝だ。今日は何日かぶりにうんこがでた。しかし、固かったが、一時の喜びを感じた。それから、シャワーを浴び、いつものパン屋で軽くめしを食った。今日は、俺はAgriculture Research Station (ARS)に見学に行く日だ。その後、50ルピーでチャリを借りて、何度も迷いながらARSに着いた。俺は、カトマンズのネパール農業局の人に紹介されたT.K. ラマさんを訪ねた。あらかじめアポも取らなかったのに、ラマさんは快く俺を迎えてくれた。この試験場は思ったよりもでかく、作物のフィールドと、道路を挟んで柑橘類のフィールドがあった。ラマさんは昔静岡の試験場にいたらしいが、日本語はダメで、その上ラマさんの英語は聞き取りにくい。聞き取るのにかなり苦労した。

まず始めに、柑橘類のシトラスを見せてもらった。ミカン、シトラスなどの柑橘類は亜鉛(Zn)に対してはsensitiveだ。これを見ると、この圃場内の土壌がZn欠乏であることが一目瞭然だ。もう見た目ですぐにその兆候が分かる。葉が小さく黄色くなり、斑点状になって直立してしまう。同じ圃場内にコーヒーの木があったが、コーヒーはZnに対してtolerantみたいだ。あと、シトラスの中にはグラフティングして栽培しているのもあった。当然、俺はこの台木はZn欠乏にtolerant なんやと思ったが、どうやらそうでもないらしい。訳わからん。

次に、ラディシュ、カリフラワーが植えられている圃場を見せてもらい、この圃場ではラディシュ、カリフラワーの中心部が腐って穴があき、その兆候はラディシュで著しい。ほんと中が腐ってきている。もろにホウ素(B)欠乏の症状だ。しかし、トウキビ、インゲン、トマトはその症状はなく、B欠乏に対してtolerantだ。

俺はラマさんに肥料はあげているのかと聞いたが、この試験所ではコンポストを少し播いているみたいだ。やはり、ネパールには肥料を買う金がないらしく、それと交通網が発達していないために、仮に買ったとしても輸送手段がないらしい。それから、俺はラボを見せてくれと頼むと、ここにはないと。ここには研究者自体いなくて、分析等は他に委託しているみたいだ。全くどないなってんねん。こういう施設が国内に26ヶ所ぐらいはあるらしい。

その後、この試験所のデータ(Annual Report)を見せてもらったが、なんじゃこれはというデータだ。植物の乾物や高さの年変化とか、そういった物理的なデータしかない。あれじゃペーパーにならん。俺は実際にネパールの土壌中のZnB濃度はどれぐらいなのか、また欠乏症が見られる作物内のZnB濃度はどれぐらいなのかと尋ねたが、測ったことがないらしく、正確には測れなくてわからないみたいだ。そりゃそうやろ。窒素やカリウムならまだわかるだろうが、ZnBのような微量元素は無理やろう。

ネパールでは、この試験所のようなZnB欠乏土壌のみならず、マグネシウム、モリブテン欠乏土壌も国内に広がっているみたいだ。なんとか改良の余地はないものか。仮に最新の技術を普及しても、問題はネパール側の意識だ。というのは、とこさんが言っていたがネパール人はあまり働かんらしい。果たして、国のこの不良土壌の改良のために、肝心の現地の人がどれだけ一生懸命になれるか。うーん、どうすればベターになるのか。

俺はラマさんに言った。まずは技術とか肥料とか云々より、地道な作業が大事ではないか。例えば、圃場作り。単純作業だが、石拾い。あんなに石だらけの圃場では、そりゃ根っこも張らんわ。そういうことから始めたらどうか。果たして、地元の人間はこういうことを嫌がらずにちゃんとできるか。自分たちの国の問題だ。もっとその国を支えている国民がしっかりしないと。ODAのような援助に頼る前にやるべきことがあるんじゃないか。

2時間半、見学したり、ディスカッションしてここをでた。ほんとこれからはこれら不良土壌の改良というのが、俺ら植物栄養学の分野では大きな問題の1つだ。特に、この辺りの諸国では深刻みたいだ。それに、地球の温暖化や、森林破壊といった地球規模の環境破壊と戦っていかなければならない。また、医療の分野の進歩に伴った出生率の増加や寿命の増加による人口増加。それによる食糧問題の危機。うーん、やるべきことがたくさんあるな。やっぱり、これからも研究はしていきたいな。

途中、イミグレに寄って闇両替して、Tシャツ屋に寄ってあの3兄弟に、明日帰るよって言ってさよならをした。ほんとこの兄弟には世話になった。俺らは都合のいい時にしかここに行かなかったのに、その度に俺らを歓迎してくれた。ほんとに感謝だ。

それから宿に帰って、大畑君といつもの安めし屋に行くと、すごい。ものすごい雨が降ってきた。道がだんだん川になっていく。みんな雨宿りをしている。やがて、少し小降りになってきて、俺らはまたチベットのおばちゃんを探して物々交換をしようとしていると、また雨が降ってきた。たまたまその辺りの家のひさしで雨宿りをしていると、そこの家の娘2人にそのおとんが勉強を教えていた。リリーちゃんとサラちゃんという7歳と8歳の女の子だ。2人共ほんとかわいい子だ。ネパールのちびっ子にしては人見知りをしないで、すごくはきはきした元気なちびっ子たちだ。この家の人間はどうやらクリスチャンらしい。宗教が違うとこんなにも性格までも変わるものか。リリーちゃんは理科を英語で、サラちゃんは英語を勉強している。それにしても、すごい英語力だ。おとんもつきっきりで教えている。大畑君はサラちゃんのテキストが理解できないと俺に言ってくる。リリーちゃんが俺に何か問題をだしてと言うので、

「空気中で全体の80%を占める元素はなーに。」

と言うと、

Nitogen(窒素)。」

たいしたもんだ。果たして、俺がこの年代の時こんなことを知っていたか。それに、この2人はほんとに勉強が好きみたいだ。

ここでも、俺はこの2人のために鶴を折ってやった。2人は大喜び。そこに、俺らと同じように雨宿りをしてたアメリカのおばちゃんも、

「おり紙、おり紙。」

と大喜び。そして、お礼にサラちゃんは俺の似顔絵を描いてくれた。髪型は難しいと言って、毛が1本だけだ。俺は思わず日本語で、

「それは加藤茶や。」

と言ってしまった。それから、サラちゃんが私の似顔絵も描いてと言うので、俺は描いてやった。しかし、我ながら改めて絵のセンスのなさを痛感した。やがて、雨も止んだので俺らは帰ることにし、

「絶対手紙書くからね。」

と言って、一緒に写真を撮った。サラちゃんは寂しそうだ。どうやら、俺のことが好きになったみたいだ。

その後、俺らはあるアクセサリー屋に寄った。そうだ、まだ物々交換が残っている。しかし、突然俺に糞魔がおそった。俺は思わず近くの蝿だらけのトイレに走った。やっぱり、ずっとでてへんかったから腸がおかしくなっていたのか。少しして治まった。しもた。このトイレには水がないやんけ。ネパールのトイレには必ず水瓶みたいのがあって、終わったらその水でけつを拭き、自分のうんこを流す。とりあえず、大畑君にティシュを借りていたからけつを拭くのは良かったが、肝心のうんこは残ったままだ。うんこをやったままのやり逃げは、俺のモラルからして一番の犯罪だ。どうしよう。おお。なんとさっきまでの大雨のおかげで、俺の周りは水たまりだらけやないか。俺は桶でこの水をくんでうんこの処理をし、何もなかったかのようにアクセサリー屋に戻った。まだまだ神様は俺の味方なのですね。

さあ、物々交換開始だ。俺はどうしてもチベットのネックレスが欲しかった。そこでいくらと聞くと、350ルピーやと。そこで、何回も履いた靴下とバンダナを出すと、150ルピーと。やめようとすると125ルピーでええと。100ルピーではと言うと、これ以上は下げられないと。わかった、110ルピーにせえと言うと、もう兄ちゃんには負けたよという表情で、OKやと。まあ、ほんとに欲しかったのでここまで下がればいいか。

それから、昨日行った中華料理屋に行くと、今日もまたポカラは停電だ。それに、雨が降り続いている。明日はカトマンズに帰れるか。というのは、選挙後テロが相次いで起こっていて、俺らがトレッキングから帰ってくるバスもポカラ近くでゲリラに襲われた。明日はバスがでるかどうかわからんらしい。

それにしても、今日も停電だ。俺がポカラに来て停電じゃなかった日は1日ぐらいか。ネパールの発電は水力発電なので、今のような乾期では水不足で電力が充分に供給できない。まあ、しゃあない。それにしても、今日はすごい雨だ。

520日(33日目、ポカラ〜カトマンズ)

「久しぶりのカトマンズ」

昨日から降り続いた雨も今朝ようやく止んだ。今日はカトマンズに帰る日だ。なんとかバスもでるみたいだ。このグッドやゲストハウスとも今日でお別れか。俺は最後にヒマラヤの神々をもう一度拝みたかったが、あいにく雲がかかっている。ほんとポカラでは色んな人と友達になった。ゲストハウスの大げさな兄ちゃんとその兄貴、MOON LIGHTのホモ、Tシャツ屋の3兄弟、パン屋のおやじ、安めし屋のおやじ、チベットのおばちゃん、トレッキングで会った人々。やっぱり、別れるのは寂しいが、もうポカラには来ないかもしれない。絶対もう1回来るぞという情熱は湧かない。というのは、ネパールに対する先入観が良すぎたので、実際来てみるとイメージダウンだ。なんせ子供の頃から憧れていた国だ。今はそれほどネパールがいいとも思わないし、このような気持ちにさせ、一番ショックを受けたのはトレッキングで会ったちびっ子たちだ。確かにみんなかわいく目がきれいだが、金を要求したり、なんでもねだったりするあの態度にはほんと愕然とした。全ての子がそうではないんだが、悪い子ばかりが俺の心に強烈に残った。責任は俺らにもある。俺ら自身も反省すべきだ。しかし、あんなにすばらしい自然の中で、神々に見守れながら暮らしているのだから、せこい人間にはなって欲しくない。ほんとそれに尽きる。ポカラにはインド人の家族づれ、新婚が多い。みんな金持ちだ。特に、子供は甘えん坊で、見るからにボンボンだ。東京で中学受験がどうとか言ってほざいてる塾通いのガキと同じだ。

やがて、ツーリストバスが来た。トレッキングの帰りにあのおんぼろバスを乗っているだけに、ツーリストバスはきれいな方だ。カトマンズまではこれから8時間ぐらいだろう。それから、宿の兄ちゃんに見送られながらポカラをあとにした。

カトマンズまでは3回休憩したが、相変わらずぼこぼこ道だ。もう慣れた。来年はVisit Nepal'98なので、それに向けて急ピッチでカトマンズ、ポカラ間の道路の舗装をしている。来年は1年間のヴィザが取れる。絶対ガンジャ目当てのツーリストが集まってくる。もう目に見えている。

ゲリラに襲われることなく、カトマンズに到着した。相変わらず騒がしく、汚く、クラクションのうるさい町だ。ネパールのトラックの後ろには、HORN PLEASE と書いてある。クラクション、OKの国なのだ。バスが着いたイミグレ前は相変わらず客引きだらけだ。タメルゲストハウスの兄貴とも再会した。でも、兄貴には申し訳ないがもうあそこには泊まらん。また、ブディストゲストハウスに向かった。

そこで、1人のきれいな大阪のねえちゃんと会った。彼女は今ネパール語を習っているみたいだ。彼女にお薦めのレストランを聞いて、そこに行った。確かに安くてうまい。なんで今までここの存在を知らんかったんや。

そこで、軽くめしを食って久しぶりに学校に向かった。大畑君も一度見てみたいと言って、インド行きを延ばして、俺と一緒に国境越えをすることにしたみたいだ。ラメ先生も相変わらず元気そうだ。久しぶりなので、クラス編成も少し変わっていた。俺が行った時は、1人のアメリカ人が生徒としていた。カトマンズでアメリカ人がネパール人から日本語を習っている。おもろいもんだ。

その後、タメルをぶらつきながら、夕方また停電だ。それから、飛行機で会った大阪のおっちゃんとも再会した。おっちゃんとはほんまよく会う。タメルにいると11回はすれ違う。その後も大畑君とぶらぶらしながら、昼に食った向かいのレストランに行ってみようということになって、晩飯を食いに行った。このレストランは向かいの店はいつも満員なのに、ここは客がまばらだ。味はまずまずか。ここで、1人のイギリスの女の子と1人のアルジェリア人と会った。2人共きれいだが、俺は生まれて初めてアルジェリア人と会った。言葉にするとエキゾチックという感じだ。しかし、名前は忘れた。俺はつくづくあほだ。人の名前が覚えられなく、顔もすぐに忘れてしまう。日本からの悪い癖だ。イギリス人はジェーン。ジェーンは日本で英語を教えていて、少し旅して一度イギリスに帰って、8月には日本に戻るみたいだ。足立、川口、三郷、越谷辺りで教えているらしく、俺らは東京で会うことにした。この辺は俺のテリトリーだ。ものすごい感じ悪いが、たぶん俺はジェーンの顔を忘れているので、ジェーンから声をかけてくれと頼んだ。ジェーンは物覚えがいいらしく、OKしてくれた。

やがて、雨が降ってきた。大雨だ。ポカラと同じだ。俺らは雨が止むまで待つことにし、彼女たちは帰った。しばらくして1人の日本人のおっちゃんが入ってきた。なんとポカラで会ったおっちゃんで、俺らに色々アドバイスをくれた人だ。当然、そのおっちゃんのことに気づいたのも大畑君だ。おっちゃんはヴィザの延長でカトマンズに来たみたいだ。おっちゃんは学生ヴィザを取って、さらに1年ネパールに残るつもりらしい。このおっちゃんはおもろいおっちゃんだ。なんでおもろい人は大阪の人間が多いんや。不思議なもんや。俺が旅先で会う人で、関東より東の人間でユニークな人は少ない。大畑君もそう言ってた。西の人間、特に大阪の人間が多い。このおっちゃんはチャンという甘酒らしき飲み物がおいしいと薦めてくれた。通りから少し離れた小さな店に置いているらしく、明日買うことにした。おっちゃんに色んな情報を聞いて、雨が小降りになってきたので、おっちゃんと別れて宿に戻った。今日はすごく疲れていたせいか、知らん間に眠ってしまった。

521日(34日目、カトマンズ)

「お父様、プラパシーさん、申し訳ございません」

昨日は知らん間に寝てしまった。今日はネパールを出るに当たってするべきことがある。そうだ、インド用の服を買わねば。ネパールの国境でさえもう40℃は超えている。ジーンズや俺の持ってきた服では暑すぎる。しかし、ジーンズは俺のかばんには入らん。そこで気がかりなのは、バンコクでプラパシーさんに買ってもらったジーンズと、おとんからもらった黒の長袖。こういうものは手放したくない。なんと言っても、お金では買えない気持ちがこもっている。俺は困った。日本に送り返そうかとも思った。しかし、金銭的にそんな余裕はない。仕方ない。俺は悩んだあげく、これらを売って金を貯めて、インド用の服を買うと決めた。プラパシーさん、ほんとすいません。あなたに買って頂いたジーンズを履いて、ヒマラヤの神々に会ってきました。物としては残らないことになりますが、俺の記憶には一生残ります。どうかお許し下さい。

俺は目に涙を浮かべながら、プラパシーさんのジーンズを始め、売る物全てをカメラに収めた。

それから、いつものカフェで朝飯を食い、まず今日自分が履く薄いズボンを1枚買った。どうしても欲しいデザインのズボンが1つあった。250ルピーだ。俺は懸命に値切ったあげく、お店側はどうしても190ルピー以下には値切れないと言ってきた。もしこれ以下の値段で欲しいんやったら他に行ってくれと。いつもと状況が違う。ほんまにこれ以下ではあかんみたいだ。仕方ない。俺は190ルピーで買うことにした。

それから、久しぶりにラヴィの家を訪ねた。あの日本人のねえちゃんもいた。俺はラヴィにフリーマーケットするならどこがいいかと聞くと、ラヴィはニューロードがいいと教えてくれた。早速、俺と大畑君はニューロードへ向かった。ニューロードは思った以上に人だらけで、露天を出すにはちょっとスペース的に無理がある。そこで、歩きながらすれ違う人に聞いていくことにした。

やがて、ダルバール広場まで来ると、さすがはダルバール広場だ。声をかけて1人が寄ってくると、バーと人が来る。俺はプラパシーさんのジーンズを500ルピーで売ろうとするが、やっぱり誰も買わん。そうかもしらん。なんせバンコクを出る時からずっと履いていて、これでトレッキングにも行き、その上一度も洗っていないのだから。よく臭うとかなり臭い。しかし、俺は全部で1000ルピーは見込んでいた。

それから、何人か尋ね歩き、あるネパール人のおっちゃんに会った。そしたらまた人がバーと来た。おっちゃんは俺のジーンズを見て、

「これなら150ルピーで売れていいところだ。それ以上では絶対売れへんぞ。」

もうええか。結局、このジーンズを150ルピーでおっちゃんに売った。

次に、おとんの黒の長袖だ。この服の襟のところにはアメリカの国旗のラベルがある。俺はてっきりアメリカ製と思っていた。それが、よく下の方を見ると、「MADE IN KOREA 」の文字が。これはあかん。俺はばれへんようにこのラベルをサバイバルナイフで切り取り、

MADE IN USA.

と言いまくると、2人のおっちゃん同士が取り合いになった。この服はまあよくて100ルピーかなと思っていたが、なんと200ルピーで売れた。思わぬ誤算だ。言ってみるもんだ。そりゃそうや。家のおとんがアメリカ製の服なんか着るわけがない。たぶんジャスコのバーゲンかなんかやろう。それと、俺の汗まみれのぼろタオルを買ってやるという物好きのおやじもいた。5ルピーだ。結局、おとんの黒の長袖が200ルピー、プラパシーさんのジーンズが150ルピー、穴あきジーンズが50ルピー、ぼろタオル5ルピーなどで、合計500ルピーの売り上げだ。予定以下だがこんなもんか。500ルピーもあれば服3着、ズボン2つは買えるやろう。

最終的に、Tシャツが1つ残った。4年前に礼文島であるねえちゃんにもらったやつだ。もう襟は伸びているし、実験でブリーチをつけてしまって色あせているし、もうぼろぼろもええところだ。しかし、利点が1つだけある。このTシャツはアルマーニだ。そこで、俺はこれを持って、露天のブレスレット屋に行った。ここの兄貴に、

「このブレスレットを俺のTシャツと換えてくれ。」

と言うと、

「こんなぼろぼろじゃあかん。」

と。

「なに言ってんねん。これはアルマーニやぞ。」

「なんや、アルマーニって。」

そうか、アルマーニを知らんのか。俺も人のことは言えん。大畑君に教えてもらうまで、アルマーニがどこの国のブランドなのか知らんかった。結局、200ルピーするブレスレットを、このTシャツと70ルピーで無理矢理換えさせた。ちょっと悪いことをした。

それから、朝カフェで会ったねえちゃんに再会した。ねえちゃんはあるかばんが欲しいらしく、俺はねえちゃんのポーチと交換したらどうかと言ってあげた。結局、俺らは手伝ってあげて、210ルピーするかばんをポーチと100ルピーで換えることができた。ねえちゃんは俺らにすごく感謝してた。

その後、ラヴィ家に戻り、今日はラヴィ家に俺らの荷物を置かせてもらうことにした。これからラクシミ家だ。みやげにチャンを買い、チャンプでチャカラバータの彼女のオフィスに向かい、久しぶりに俺らは再会した。相変わらず元気そうだ。

しばらくして、タクシーでラクシミ家に向かった。今日はまた停電らしい。電気がないので、俺らは庭で涼むことにした。夜になると月明かりがきれいで、周りにはジュンギリ(ネパール語のホタル)がいっぱいだ。やがて、ラクシミ家の上に住んでいる家族と一緒にビールとチャンを飲み始めた。チャンはすっぱかった。すっぱいのは少し古いみたいだ。上のおばちゃんはおもろい人だ。旦那さんは外科医で、今はニュージーランドにいるらしい。昔、旦那さんは筑波大学にいたみたいで、おばちゃんも娘のアディティーも日本語はまずまずだ。アディティーは12歳なのに少しビールを飲む。なかなかかわいらしい子で、少し大人っぽい。どうやら、明日はネパールではブッダの生まれた日で祝日みたいだ。

やがて、夜10時ぐらいになって部屋に戻った。少しして電気がついてラクシミさんは晩飯を作り始めた。しかし、俺らはテレビでクリケットの試合を見ながら眠ってしまった。しばらくして、ラクシミさんが料理を持ってきてくれた頃に俺らは起きて、ラクシミさんは遅くなって申し訳なさそうだ。めしとダルとじゃがいもとチキンだ。うまい。俺らは朝からめしを食っていない。ラクシミさんは料理が下手と自分で言っていたが、うまい。俺は腹一杯だ。しかし今日は眠い。その後、すぐ寝た。あー、今日も蚊だらけだ。

522日(35日目、カトマンズ)

「ブッダが生まれた日」

今日はブッダの生まれた日。祝日だ。朝、ラクシミさんは簡単な食事を作ってくれた。トーストとスクランブルエッグだ。それから、シャワーを浴びさせてもらい、ラクシミさんと色んな話をした。

ネパールという国は、インドと中国、特にインドからの強い圧力を受けて、自分の国だけでは何もできないらしい。特に、物資の輸送となると、ネパールは海に面していないので、必ず中国かインドを経由することになる。空輸なんてそんな資金はこの国にはない。でも、俺はラクシミさんに言ってあげた。

「時間がかかるかもしれないが、何か行動に移さなければ何も変わらん。ミャンマーのスーチーさんみたいでもええ。そんなにインドからの圧力がいやなら、インドとの関係を絶ってもええ。それで、国連やアメリカ、日本に助けを求めてもええ。日本も戦後の貧しい時期にアメリカに助けてもらって、高度経済成長を遂げた。困った時はお互い様や。」

ラクシミさんには実感のない話のようだ。今のネパールが変わるとはどうも思えないらしい。まあ、言葉で言うのは簡単やが、実際行動に移すとなると色んな要素が関わってくるから、俺が思っているほど簡単ではないかもしらん。しかし、やってみる価値はあると思う。

それから、上のアディティーとおかんも呼んで写真を撮り、ボタナートへ向かった。今日もカトマンズは暑い。ボタナートに着くと、さすがにブッダの生まれた日だ。チベット仏教とヒンドゥー教徒でいっぱいだ。俺らは運のいい日に来られた。しかし、ほんまに彼らの宗教への信仰心はすごい。神への信仰はただごとやない。塔の横の方にチベット仏教の偉いさんらしき人がいる。ちびっ子は頭をなぜてもらう。おばあちゃんは祈りまくる。ここでは、塔の周りをみんな時計回りに回る。やがて、俺らは塔に入ろうとすると、1人の門番らしき人が、

「ちょっと待て。お前らヒンドゥーか。」

と聞いてきた。

俺は迷わず、

Yes.

「そしたら中に入って祈れ。今日はヒンドゥーは金はいらん。」

と言ってくれた。ばれたら殺される。でも、入った。ほんま俺らにはわからん世界だ。それにしても、このボタナートは乞食だらけだ。

それから、パシュパティナートへ向かった。火葬場だ。ここは思ったよりこじんまりとしてる。ガートでは人間の死体が焼かれている。猿もこの辺りにはいっぱいいる。

少しして、リクシャーでタメルに戻り、めしを食って、ラヴィの家に向かった。今日はラヴィの家に泊まる日だ。一度、俺は体調を悪くしておじゃんにしてしまった。今日は大丈夫だ。ラヴィの家にはまたあのねえちゃんがいた。とりあえず、俺らは荷物を置かせてもらって、大畑君が自分のスリッパを売りたいというので、ダルバール広場へ向かった。俺は正直言って、これじゃ売れへんでと思っていたが、やっぱり売れない。

それから、大畑君はインドに向けて帽子を買いたいと言うので、またタメルに戻った。彼は物を買う時はこだわりが強く、自分のことで必死だ。俺がいるにも構わず、どんどん違う店を見ていく。悪く言えば、女の買い物みたいだ。こういう時は1人がええ。しかし、彼には俺の存在なんて見えない。一言俺に、時間がかかるかもしれないので、何時頃にどこどこで待ち合わせしましょうと言って欲しかった。

俺は途中で自分のベストを探すと言って、彼と別れた。俺はどうしてもベストが欲しい。あのいかにもネパールって感じのベストを着て、銀座を歩いてみたい。俺が欲しそうなデザインの物は安くて300ルピーはする。しかし、ネパールに来た時の俺はもういない。浪速の商人の魂がよみがえった。新しくなった俺だ。店の人間は俺をぼってくる。俺はそれに戦いを挑む。結果、150ルピーまで落とした。軽いものだ。

それから、薄めのズボンと薄めの長袖だ。この上下で200ルピー。結構苦戦した。これでインドへ行く準備はそろった。あとはチケットを買うだけだ。とりあえず、今日はラヴィの家に戻ろう。今日はラヴィの家があるジャッタ地区は停電らしく、予定通り午後7時半に停電になり、その間、町でたむろしているラヴィの友達に会いに行った。みんなええ奴や。そのうちの1人も日本語を習っていて、もうすぐ日本に行くらしい。1人はかっこよく、ハレーダビットソンにでてきそうな奴。ネパールのプレイボーイって感じだ。その他みんなと俺はすぐに仲良くなって、みんなは明日からも毎日ここに来てくれ、と言ってくれた。

そうこうしているうちに停電は治まって、ラヴィの家に戻った。ラヴィのおかんは俺らにネパール料理を作ってくれた。すごい量のコリアンダが入っている。さすがの俺もこの量には参った。ちなみに、大畑君は大のコリアンダ嫌いだ。はっきり言って、うまいとは言えない。俺の口にはネパール料理は合わない。しかし、気持ちが感じられる。

それから、ラヴィの1番上の兄貴が帰ってきた。俺と同じ歳で、コンピューター関係の会社に勤めている。彼の英語は分かりやすく、話してて楽しい。それから、ラヴィの2番目の兄貴も帰ってきた。顔はラヴィに似ているが、少しホモっぽい。ラヴィのおかん、お姉ちゃん、妹は恥ずかしがって部屋から出てこない。ちょっと残念だ。ラヴィ3兄弟と俺らは少し話をして、タイガーゲームをしようということになった。そして、ラヴィと俺が勝負したが、当然俺が勝った。少しやばかったが、タイガーゲームでは俺は無敗だ。それからトランプをして、12時過ぎになったので寝ようとしたが、ものすごい量の蚊だ。ラヴィ家の蚊取り線香は効かん。どないなってんねん。

523日(36日目、カトマンズ)

「さよなら、俺の生徒たち」

昨夜はひどい蚊だ。腕には何十ヶ所も蚊に刺された跡がある。昼前にはラヴィの家を出て学校に行った。今日は11時半からの1学期のクラスにお別れを言う日だ。このクラスの生徒はほんまかわいい。俺がポカラに行っている間にクラス編成が変わっていて、午後2時のクラスの学生もいた。少し最後の授業をして、アドレス交換をしてさよならを言った。特にこのクラスの中でも、ランバアドウサイシイは俺になつき、俺が来るとラメ先生の授業を聞かず俺にばかり話しかけてきて、授業が終わると自分で書いた日本語の作文を俺のところへ持ってきて、添削してくれと言ってくる。すごく一生懸命だ。ソフィアもがんばっている。俺はラヴィのクラスもいいし、夕方5時からの女の子ばかりのクラスもいいが、この1学期のクラスが一番好きだ。なんかこれでお別れと思うと寂しい気分だ。でも、仕方ない。正直、もう少しここにいたいが、俺は日本に帰る人間だ。きりがない。ラメ先生に25日にもし来れたら来ますと言って学校をあとにした。

それから、あの安くてうまいレストランに行くと、なんとポカラで雨宿をしたリリーちゃんとサラちゃんの家で会ったあのアメリカのおばちゃんに再会した。おばちゃんもびっくり、俺もびっくりだ。おばちゃんは財布をなくしたらしく、大変そうだ。おばちゃんはワシントンD.Cに住んでいるらしく、それから俺のこと、おばちゃんのことなど色んな話をした。最近偶然が相次ぐ。怖いぐらいだ。

おばちゃんとさよならをして、次にインド行きのバスチケットを買いに行った。700ルピーと聞いていたのだが、400ルピーで取れた。しかし、あとで聞いたんだが、もう少し安くてもいけるみたいだ。これで全て完了。今朝、インドの「地球の歩き方」も物々交換して手に入れたし、あとは日本のみなさんに手紙を書いて送るだけ。

さあ、手紙を書くために絵はがきを買おう。がーん。俺の手帳には電話番号しか書いてへん。そうや。今まで手紙なんかめったに書けへんから、いつも友達に住所なんか聞けへんねや。忘れてた。知ってるのは、茅野先生、北大、東大、たま美さん、総合企画、あけみおねえさんだけや。日本を出る前にみんなと約束したのに。相変わらず俺はあほや。

それから、コーラを飲みながら手紙を書き、今日は大使館の富山さんとも会おうということになっている。しかし、富山さんは仕事で忙しい。会えるかどうかわからん。とりあえず、今日は藤本家に泊めてもらうことになっているので、夕方ラヴィの家に荷物を取りに戻り、藤本さんに少し遅くなりますと言うと、今日はデモがあるかもしれないという情報が日本大使館からJICAの事務所に連絡があり、夜は危険なので外出禁止令が出たらしい。カトマンズはもうすぐ選挙なので、選挙が終わってしばらくするまでは治安がよくない。富山さんに連絡すると、富山さんもそのように言っていた。仕方ない、富山さんと会うのはあきらめようか。

午後5時にラヴィ家の人々とさよならをした。ラヴィのおばあちゃんは俺らにお守り袋をくれた。どうやらおばあちゃんが縫ってくれたらしい。感激だ。みんな今度いつ来るの、とか、インドからまたネパールに来るんでしょう、とか言ってくれる。ラヴィは俺のことをほんとの兄貴のように思っている。だから、俺が腕相撲をしようと言っても絶対いやがる。彼は兄弟と争うのが嫌なのだ。しかし、彼は俺を頼る。日本に行く時は手伝ってくれと言う。正確には手伝いなさいと。こういう態度は考えもんだ。手伝ってやってもいい。もし俺が保証人になって招待すると、彼は簡単にヴィザが取れる。しかし、彼は1ヶ月のヴィザを取っても、1年も、2年もいるつもりで、つまり不法滞在するつもりらしい。どうやら、ネパール人のほとんどがそうするみたいだ。要するに、日本に行くほんとの目的は金だ。ラヴィは、もし俺の紹介で日本に来て、彼が不正をすると俺にも迷惑がかかることがわかっていない。そんなことしたら二度と日本に行かれへんぞ。もっともっとあいつにも教育が必要だ。ほんまネパール人に対しては教育の必要性を感じる。彼らネパール人は、ネパールは汚い、汚いといつも言う。しかし、彼ら自身が至る所にごみを捨てるし、平気で唾を吐く。それに、鼻水もよく道路に出す。鼻をかめないのは紙がないから仕方がないとしても、彼らの意識改革が必要だ。

それから、ラヴィにお別れを言って、藤本家へ向かった。途中、広場ではもう集会が始まっている。やがて、久しぶりに藤本家に着くと、奥さんが快く迎えてくれた。なんかなつかしい雰囲気だ。藤本さんも元気そうだ。藤本家で久しぶりに新聞を見せてもらったが、ああ、阪神は5位だ。今年ももう終わった。まあ、巨人が6位というのでよしとしよう。しかし、清原を取ったり、ヒルマンを取ったりしても、巨人はあかんねや。ええ気味や。野球は金やないんやで。あんなけ選手を補強しても、うちよりも下か。ざまあみろ。

その後、シャワーを浴びさせてもらい、今日の晩飯は天ぷらだ。感激だ。まさかネパールで天ぷらが食えるとは。奥さんは残り物を天ぷらにしたとおっしゃってたが、とんでもない。俺には御馳走だ。俺は腹一杯食った。

めしを食ってからはいつものように夜12時ぐらいまで話をした。藤本さんはほんまに大きな人間だ。広い視野をもっておられる。やはり、人間を作るのは人生経験かなといつも思う。俺は藤本さんのような人間には憧れる。奥さんもいい人だ。お2人共明日も泊まっていったらとおっしゃってくれたが、もうここまでしてもらえば充分だ。これ以上甘えたら罰が当たる。明日はラクシミさんにまた来てと言われていたので、ラクシミさんの家に行くことにしよう。ほんまに藤本夫妻にはなんと言ったらいいのか。

今晩は久々にあのベッドだ。おお、快適。昨日は蚊だらけだったので、なんと天国なこと。インドへ向けて準備万全だ。

524日(37日目、カトマンズ)

「もう少し自分の人生を考えたら」

藤本家の朝。いつも通り奥さんの手作りのパンが俺たちを待っている。オレンジジュースも久しぶりだ。ああ、幸せ。

今日は藤本夫妻は10時ぐらいから新しい家を探しに行かれるみたいで、どうやら7月には引っ越しするらしい。もっといい家に住みたいとか。俺らはその間留守番で、洗濯をさせてもらった。あとで奥さんに聞いたんだが、どうも俺らが使ったのは洗剤じゃなくて漂白剤で、なんか色が落ちると思った。俺の服はかなり色あせた。それから、靴も洗い、台所の皿も洗っておいた。

昼過ぎに藤本夫妻は帰ってこられ、どうも不動産屋にぶっかけられたみたいだ。1ヶ月の家賃が50000ルピーと聞いていたのが60000ルピーになったらしく、他に1000USドルで借りたいという人が現れた、と不動産屋はかまをかけてきたみたいで、藤本さんはどうぞと言って帰ってこられた。不動産屋の負けだ。不動産屋も必死で、というのは彼には1ヶ月分の家賃が礼金として入る。ネパールの国民の年平均所得を210USドルとして、礼金は1000USドルとするとすごい額だ。タイでの国民の年平均所得はネパールの10倍で、日本がネパールの100300倍で、日本人の年平均所得を500万円とすると、日本でのこの礼金は2500万円に相当する。藤本さんが帰ろうとすると、不動産屋が車にしがみついた気持ちがよくわかる。それだけの金が一瞬にして手に入るとなると彼も必死だ。どうやら、この不動産屋は藤本さんの運転手の紹介らしく、運転手が藤本さんの情報を不動産屋に流し、どうもこの2人はグルみたいだ。

それから、奥さんが昼飯にチャーハンとスパゲティを作って下さり、ふと自分の服を見ると、なんと俺が買ったベストが少し濡れていて、そこから下のTシャツに色がしみでているでは。やっぱりネパール産だ。俺はその後ネパール産の服を全てブリーチを入れて洗った。怖ろるべし。

藤本家の庭には桃の木があって、今ちょうど桃が食べ時だ。奥さんはその桃をおそらく砂糖とお酒かなんかと煮込んで、デザートとして食後にいつも出して下さる。これがまたうまい。かっぱえびせん並に、食べ始めるとやめられない、とまらない。タイではマンゴのうまさに感動した。ほんとこの辺の諸国の果物はうまい。藤本さんは、

「インドに行ったらどんどん色んな果物を食べてみたら。」

と薦めて下さる。果物はそんなに腹にあたったりしないから安全だと。マンゴー、マンゴスチン、ドリアン。少し楽しみができた。

午後2時頃に藤本夫妻はもう1つの物件を見に行かれた。俺らはまた留守番しながら、皿を洗い、それから少しして夫妻は戻ってこられ、俺らは4時頃にここを出た。今日はラクシミ家だ。藤本家に荷物をおかせてもらって、チャンプでチャベルに向かった。いつも彼女のオフィスのチャカラバータに行って、タクシーっていうパターンやったので、チャンプに乗ったのはいいが、どこがチャベルかわからん。ラクシミ家の近くのリングロードのチョークは覚えていたにで、ちょうどそこにさしかかったので降りた。それから、ラクシミ家に到着し、彼女は相変わらず元気だ。上のおかんもアディティーも元気そうだ。俺は上のおかん宅からおかんが出てきたので、てっきりおかんやと思ったので話しかけると、おかんは知らん顔。なんとおかんの姉貴らしく、よー似てる。窓からおかんがこの光景を見てて笑ってた。おい、笑う暇会ったら出てこんかい。

今日はなんか雨が降りそうだ。よし、ラクシミさんのためにチャンを買わねば。近くの店にチャンを買いに行くと、その店のガキがチャンを貯めている瓶に柄杓みたいなやつですくう。このガキの手がまた汚い。ちびっ子が泥遊びした後のような手だ。おい、思いっきりチャンに手が当たってるやないか。最悪や。インドに行く前にまた下痢か。もう万馬券を祈るだけや。ラクシミ家に戻ると今日は焼きめしだ。さあ、チャンを飲む。今日のはむちゃくちゃまずい。強烈にすっぱい。これはほんまに強烈や。しかし、焼きめしはうまい。もう明日にかけよう。

それから、ラクシミさんの日本行きについて色々話した。彼女の考えはあやふやや。俺に絶対手伝いをしろと言ってくる。俺はそういった態度が気にくわない。

「今度日本に行くのですが、もし私に困ったことがあったら、忙しいとは思いますがお力になって頂けないでしょうか。どうしても日本に行って、日本語を勉強したいのです。なんとか自分自身でがんばりろうと思いますが、なにぶん他の国なので、わからないことがあるかと思います。その時はよろしくお願いします。」

普通は人に物を頼むときは、こんな感じやろう。でも、ラクシミさんにはこれっぽっちもこんな気持ちはない。俺は以前彼女に言ったのだが、9月始めまでは礼文に残って大将の手伝いをするつもりだ。昆布の出荷を少しでも手伝ってあげたい。その後はすぐに学会がある。俺が今年の3月に植物生理学会や土壌肥料学会で発表しなかったのは、この国際学会で発表したいがためだ。だから、9月の末には大阪に帰って手伝ってやれる。それまでは無理だと。その時はそれで納得してくれた。しかし今日は、

「あなたは前に9月はずっと大阪にいると言ったでしょう。もしあなたがいないのなら、あなたの家族に私の手伝いをするように言ってちょうだい。」

と言ってきやがった。俺はかなりむかついていた。とにかく、9月の末までは無理だ。俺は正直、他人のことに構うほど自分に対して余裕がない。そのことは前にも彼女に伝えたのに、自分にいいようにことを運ぼうとする。それに、ネパール人が日本に行くということはすごく大変なこと。まして、彼女は今までコツコツ貯めた金を全て使ってまで行こうとしている。以前日本にいた時はスポンサー付きでプリンセスのような生活をしていた。生活に必要な物は全て与えられ、ベンツでの送り迎えもあったらしい。しかし、今回は生活全てを1人でやっていかなければならない。ネパールでは、彼女たちネワール人はカーストがかなり上位で、彼女の実家には爪を切ってくれる人、髪を切ってくれる人、髭を剃ってくれる人、洗濯をする人などが、先祖代々から使用人としている。その使用人たちは全てアウトオブカーストの人々だ。その上、現在彼女はマンションを借りて一人暮らしをしている。一人暮らしができる人なんて、カトマンズでもわずかちゃうか。そんな裕福な暮らしをしている人が、果たして京都で自分で稼いだ金で生活し、勉強していけるのか。仮にできたとしても、問題はその後だ。日本語を勉強した後、何がしたいんかがわからんみたいだ。日本人がちょっとアメリカに留学して、英語を習うのとは訳が違う。彼女も大人だ。もう28歳だ。俺は自分のことや今彼女がおかれているネパールでの地位とかをもっと真剣に考えたらどうかと注意してやった。少し理屈っぽく説教してやった。ほんまは彼女の人生やから、俺が口出しする必要はない。しかし、彼女の考えはあまりにも甘すぎる。俺は嫌われ者を演じた。正直、俺にこんな事言う資格はない。そしたら、お前はどうやねん、自分の事もできてないくせに人にとやかく言うなと言われても仕方がないからだ。果たして、俺はこれで正しかったんやろうか。

それから、色々な話をして寝た。今日はネパール最後の夜だ。明日はついにインドや。もう45℃はいっているらしい。インド人と戦う前に、腹の具合が心配や。果たして、明日はOKかな。

525日(38日目、カトマンズ)

「もう一度奥さんが作ったあの桃が食いたいです」

ネパール最後の朝。なんと腹の具合もグッド。かなり俺の腹も強くなっているのか。インドへ向けて体調は万全だ。ラクシミ家でチャを飲んで、彼女ともお別れだ。

「加藤さん、必ず手紙書いてよ。」

書く、書く。そんなことよりも、とにかくがんばって下さい。

俺らはリクシャーでタメルに戻り、いつものカフェでパンを食べ、近くのコンビニに寄った。そのレジにはかわいいねえちゃんがいる。実は、以前大畑君は彼女に会うために、毎日このコンビニに寄って、コーラを買っていたらしい。しかし、大畑君は英語がダメだ。そこで、俺が色々彼女のことを聞いてやった。彼女の名前はスマンティー。現在19歳で、カレッジで物理学を専攻している。カレッジと言っても、日本で言う専門学校だ。朝8時から昼の2時までコンビニで働いて、その後学校に行っているみたいだ。偉いぞ、スマンティー。ネパール人でバイトをしている学生に初めてあった。顔からしてネワールではなくチベット系だ。ちなみに、大畑君のことを覚えているかと聞いてみたが、全く覚えてないらしい。この事を大畑君に伝えると、がっかりしてた。人生そんなもんだ。それにしても、スマンティーの英語は分かりやすい。

それから、学校に行って、ラメ先生や11時のクラスの生徒にお別れを言った。すごく寂しいがきりがない。みんなまた会おうな。

その後、コピーした日記を持って中央郵便局に向かった。国境を渡る前に日記を東大の後藤さんに送らなければ。それにしても、ぼろい建物や。これがほんまに中央郵便局か。ここで封筒を買ったが、しもた。のりがない。誰かのりを持っている人はおらんかなって探し回っていると、なんとトレッキングの途中のタラパニで会ったあのカナダ人の2人のねえちゃんに会った。彼女たちもびっくりしてた。そのうちの1人が今度北海道に来ると言っていたので、どこになったかを尋ねると、宮城やと。なんや北海道ちゃうんか。道内やったら礼文の後、会いに行ったろうと思っていたのに。彼女も北海道を希望していたみたいで、ちょっとかわいそうだ。まあ、英語の先生やから駅前のNOVAとかとちゃうかな。ねえちゃんが俺のアドレスを教えて欲しいと言ってきたので、教えてあげた。彼女の名前はクリスタで、年にすると2526歳って感じか。最近、偶然が相次ぐ。ほんま不思議や。

でも、こうやって人と再会する時は、実は大畑君のおかげだ。大畑君が俺に教えてくれる。俺はいつもの事ながら、人を覚えるのが標準語を話すのと同じぐらい大の苦手だ。それに、名前も覚えられない。試験とかで暗記するのは得意なのに、人とのつながりの中で一番大切なことができない。ほんま最低や。巡回をしている時も苦労していた。だから会社に報告書を出しに行く時も、巡回で会ったねえちゃんと再会するのが怖い。嬉しいことにねえちゃんはほとんど俺のことを覚えてくれていて、

「加藤さん、この前はどうも。今度また巡回に来て下さいよ。」

「加藤さん、今度ご飯食べに行きましょうよ。」

とか言ってくれる。しかし、俺は覚えていない。感じが悪すぎる。なんとかならんもんか。

それから、電話局に行って、実家にコレクトコールした。約1ヶ月ぶりだ。おかんは電話代のことは気にせんでええよって言ってくれたが、国際電話なのでそうはいかない。元気でやってるよ、とだけ伝えて切った。

その後、藤本家に帰る途中に道に迷ってしまって、変な所に出てしまったが、そこでなんと高級な百貨店を見つけた。ちょっと覗くとすごい。こんな所がネパールにもあったんか。1階は食品、2階は食器、おもちゃ、スポーツ用品、3階は服、時計のフロア。食品のフロアには日本製品もいっぱいある。俺はキッコーマンの醤油が欲しかった。しかし高い。わさびなんかもおいてある。棚割とか、フェイスもまずまずで、ディスプレイもきれいだ。俺は3階の宝石売場のおねえちゃんに、ある宝石を持って

「きれいね。」

と言うと、

「こっちなんかもいかがですか。」

とねえちゃんが言ったので、

「いや違う。きれいのはあなたです。」

彼女は真っ赤な顔をして、

Thank you!!

まあ、こうやってちゃかすのもたまにはええか。それにしても、俺も口がうまくなったな。これなら役者でやっていけるかも。それと、この百貨店はマハラジャインド人ばかりだ。それに、客があまりにも少なすぎる。入口の所でお客さんのチェックを行っていて、どうもこの百貨店にふさわしくないような客は入れないみたいだ。よう俺らが入れたもんだ。もう少ししたらたぶんつぶれるな。

それから、雨の中を藤本家に戻り、お2人はいつも通り俺らを迎えて下さり、藤本さんは、

「ネパールを出る前にネパールのアカを落として行きなさい。」

とおっしゃって下さった。奥さんも俺らのためにめしを作っている最中で、その上ビールまで御馳走して下さった。俺は厚かましく、

「最後に、奥さんのあの桃をもう一度食いたいです。」

と言うと、

「好きなだけ食べて行きなさい。」

と言って、ニコニコしながらタッパーごと桃を持ってきて下さった。それに、

「バスの中で食べなさい。」

と、お弁当まで用意して下さった。もう、感激だ。感動を通り越して涙も出ない。これは日本に帰ったら絶対なんかお礼をしよう。おまけに、藤本さんは休日の運転手をわざわざ呼び出して、俺らをバス停まで送っていくように言って下さったみたいだ。もうなんと言ったらいいのか。ここまで赤の他人に世話してくれるなんて。俺はバンコクの鈴木さんの紹介で電話しただけなのに。それに、今回は大畑君を連れていったのに、嫌な顔を1つもせずに歓迎して下さった。よし、決めた。礼文から昆布を送ろう。俺と大将で取った昆布はたぶん間に合わないから、利尻昆布でも上等なやつを送ろう。

俺らは藤本さんとお別れをしてネパールをあとにした。ここで俺がタイ、ネパールで知り合いになった人たちを整理してみる(図12)。全員は多すぎるので主な人だけに絞る。

その他ツーリストは数知れず。主なメンバーだけでこんなにいる。我ながらすごいと思う。逆に俺がこうやって旅を続けられるのは、この人たちの支えがあったからだ。ほんとに感謝してます。しかし、ネパールにはもう一度来ようとはあまり思わない。あまりにもネパールに対する俺の先入観が良すぎた。しかし、結果は良くない。特に、山間のちびっ子たちがすごくショックだ。もしもう一度というなら、今度はルクラからエヴェレストかな。山にはもう一度登ってみたい。しかし、来ない確率の方が高い。まあ、もし暇があったらって感じか。来年はVisit Nepal'98だ。ガンジャ目当てのツーリストが集まるやろう。よし、次はインドや。戦うぞ。ネパールでは負けてばかりや。待ってろ、インド人。