Chapter 4 「カナダ、アラスカでのヒッチは二度とやらない」

Fairbanks, Alaska - Haines, Alaska (1130miles, 15rides)
Haines - Prince Rupert, BC by ferry
Prince Rupert- Vancouver, BC (1498km, 8rides)




Jun 26 Fairbanks -Denali NP (123miles, 2 rides)

Faribanksを出る時は、ダリンがわざわざ迎えに来てくれ、町外れで降ろしてくれた。そして、そこからヒッチを開始したが、そこは登り坂の途中で、ちょうど一車線から二車線になっとところで、ヒッチとしては最悪な所。車がここからスピードを出すからだ。でも、これより先は登り坂で、仮に歩いてもその頂上までは見当がつかない。よって、私はここで車を待つ事にしたが、案の定3時間以上は待った。途中、WhitehorseDeadhorseと再会したあのライダーの青年がここを通りすぎ、私が立ってると気づいて戻ってきた。彼と会うのはこれで最後になると思う。それにしても、アラスカも再会の多い所だ。 行く所が限られてるからな。

最終的に、ここからAnchorageに向かうというじいさんがpick up。じいさんはしばらくDeadhorse周辺で住んでいた。じいさんと私は北極海周辺の事、極寒の冬の生活などの話題で盛り上がった。

Denaliに来るのは、正直迷った。それは、ここは有名な観光地だからだ。私は、ミーハー客が集まる所には興味がない。でも、私にはどうしてもここに立ち寄る必要があった。それは、ここには北米で一番高いマッキンリーがあるからだ。高いと言っても7000mもないが、この辺りではその高さは目立つ。私にはネパールのヒマラヤを歩き、NZ最高峰マウントクックを見たとあっては、この北米最高峰にも興味が注がれる。と言っても、登るのではなく見るだけ。この辺は私も根性なしだ。折角やからここに立ち寄るか。最後の最後まで迷ったあげくここに寄る事にした。


いざ、visitor centerに行ってみると、私の予想以上にミーハー観光客の数々。バスの予約には長蛇の列。ここでは何もかも予約しないといけない。全く困ったものだ。とりあえず、私はマッキンリーが一番間近に見えそうなWonder lakeに行くつもりだったが、そこのキャンプ場は数日予約でいっぱい。そこまで行くshuttle busもそう。この日のそこまでのバスはもう終わってたし。よって、この辺りでキャンプしないといけなくなったが、銭を払ってテントを張るのもあほ臭い。しかし、こんなけ広大な国立公園でテントなんてどこでも張れそうだがすべてここの許可が要るし、一般のキャンパー用のバスも予約しないといけない。そこで私は、ここから少し離れた森の中にこの日、Wonder lakeの近くのマッキンリーが見えそうな森の中に次の日テントを張る事にした。

すると、今度はその周辺の等高線の入ったかなり詳しい地図を買わなあかん。一枚$4.00で、私の場合は二枚。そして、次はその地図に私がテントを張れる領域を鉛筆で線を引く。それ以外の所ではテントを張ってはいけない。ここまで来ると、私もいらいらしてきた。それが終わると、今度は熊対策用のビデオ観賞。もしこの周りに花瓶があったら間違いなく私は割ってたであろう。それぐらいむかついてた。30分のこのビデオを見た後は、今度はカウンターのねえちゃんからこのビデオの内容のテストがある。20歳そこそこの小娘が、

「熊を避けるためにはどうしたらいいの?そうね。bear, bearって叫びながら歩くのよ。」
と、私をまるで幼稚園児のように扱いやがった。私は頭の中でこのねえちゃんをおもっきり殴ってた。そして、余りにも頭に来たので、

「おい、そしたら日本語で熊、熊って叫んでも、熊は分かるんかい?
と聞くと、

「もちろんよ。」
と笑ってた。ほんまか。その後、やっとバスのチケットの予約。ここでの全部の行程で2時間ぐらい費やしたと思う。だから、ミーハー観光地は嫌やねん。



「マッキンリーを追い求めて」

マッキンリーとご対面する前の夜は、Visitor centerから2kmほど歩いた森の中にテントを張った。周りは所々木のcolonyはあるが、湿地帯らしき平原。でも、そこしかテントを張る所はなかったからな。

次の日の朝、再びVisitor centerまで歩いて、そこからキャンパー用のバスに乗ってWonder lakeまで向かった。ツアーバスと違って、キャンパーバスは人が少ない。天気は曇り時々雨という最悪で気温もかなり低かった。バスは所々休憩しながら進んで行き、野生動物が姿を見せるとその都度止まる。途中、オオカミ、ムース、羊、グリスリーを見たが、オオカミ以外は見慣れた動物だったので、私には特に興味なし。ただ、天気は悪かったが、所々の景色はアラスカと思わせるほどのスケールで、ツンドラの平原と山脈が広がってた。私はバスの中ではほとんど寝てたが。

そして、Wonder lakeで降ろしてもらい、私はバスの運転手のおばちゃんにマッキンリー方向を指差してもらった。そして、その方向が一番よく見える小高い丘を探して、その上を目指して歩く事にした。この湖自体は天気が悪いせいか特にきれいでもないし、私には余り興味がなかった。

いざ、丘を目指すといっても、私は本格的なトレッキングをするつもりではなかったので、服装も装備も十分じゃない。雨が降ってて、地面は濡れてるのもあって靴はすぐに濡れ、服も冬用の防寒具なんてない。この時点で気温は5は切ってたと思う。寒い、寒い。そして、ツンドラの潅木林、湿地帯を歩きながら、ひたすら丘の上を目指したが、所々野生動物の糞がある。もちろん、周りに人なんていない。私は、北極海で熊と遭遇したのがあって、熊にはかなり警戒心を持っていた。今回は本当に周りには誰もいない。

そして、ずぶ濡れになりながら何とか目的の丘周辺にたどり着き、湖が近くにあって、テントの中からもマッキンリーが見渡せる所でテントを張った。体はかなり冷え切ってる。私はとりあえずラーメンを食って体を温め、めしを作った所、食材を置いておく所、そしてテントの位置がそれぞれ一辺100mの三角形になるようにし、余りの寒さとする事がないのですぐにテントに入った。ちなみに、食糧保存用で熊防止用の筒はvisitor centerであらかじめ借りていた。そして、濡れた靴をガスで乾かし、持ってる服を全部着込んで寝る事にした。もちろんこの時点ではまだ雨も降っていて、マッキンリーは姿を見せなかった。

午前2時ぐらいか。私は余りの寒さに目が覚め、何気なくテントの外を見ると、ぽかんと高いピークが二つ姿を現してるではないですか。おお、これこそマッキンリーでは。マッキンリーはヒマラヤの中では低い方だが、ここではダントツに高い。頂上はもちろん雪で覆われていて、とにかく他に比べて桁違いに高い。私はこの突然のご対面に感動し、少しボーとしながらその雄姿を眺めていたが、しばらくするとすぐに雲がかかった。朝になって、バスが来るまでひたすらマッキンリーとの再会を待ったが、この場所では再び見る事はなかった。大体、Denaliを訪れる人の中でマッキンリーを見る事ができる人は全体の30%という。私は自負した。この日、おそらく何百人という人がここを訪れたと思うが、マッキンリーを見る事ができたのは間違いなく私だけだと。しかし、Vancouverに戻って写真を現像してショックだった。フラッシュを焚いてなかったせいか、折角間近で見た雄姿が現像されてないでは。しまった、2枚撮っておけばよかった。私は、まるで右上手ばんぜんで土俵際まで追いつめたが突然霧島にうっちゃられた水戸泉の心境だった。





 「ツンドラの世界」

私は世界を旅してて、色々な気候帯を経験した。温帯、熱帯雨林、サバナ、ステップ、冷帯、そして今回アラスカで初めて寒帯(ツンドラ)。ツンドラの事は中学校の社会の授業で習ってたが、冷帯と寒帯の差は余りはっきりとは認識していなかったが、ここに来てその差が歴然である事を確認した。特に、ここDenaliでは実際ツンドラの平原を歩いたので、その特徴をある程度把握した。

まず何と言っても木が少ない。木はあるがいわゆる潅木。冷帯のタイガとは全く異なる。植物自体も背が低く、まるで地を這う様だ。長い冬が終わり短い夏が来ると、植物は一斉に小さな体を広げで葉を展開し、長い冬に備えて十分に二酸化炭素を固定して根に貯蔵する。遮るものがない分、風も強く、そのせいで地上部を小さく保ってるのかもしれない。高山植物もよく見かける。リンドウやツリガネニンジンらしきものもあった。冬が長く、もちろん雪でその平原は覆われるので、全体的にツンドラの平原は湿地帯だ。至る所に水溜まりがあり、そこから水が周りに染み出ている。私はこの平原を歩きながら、ツンドラの植物を踏みつけるのに心が傷んだ。地に足を踏みつけると、それはふわふわとスポンジのようだ。

ところで、こんな隠れようがない平原で、野生動物達はどこに住んでいるのだろう。この事はずっと疑問だった。Dall sheepは急な斜面に住んでいるしな。ムースがよく水溜まりで草を食ってたのを見かけたが。なんで、こんな寒い所に蚊がいるのか。彼らは極寒の冬の間どうやってるのだ。ツンドラはまだまだ私にとって馴染みのない世界なので、様々な疑問を残してくれた。

もうしばらくツンドラを経験する事もないだろう。




Jun 28 Denali NP -Anchorage (235miles, 4 rides)

Denali NPの入口まで歩いてヒッチを開始したが、まずは速攻地元のラフティング関係の兄ちゃん2人をget。彼らが止ってくれた理由は、彼らもヒッチハイカーだからだそうだ。ラフティングと言えば、私はPrudhoe Bayでの北極海ツアーにここで働いているというねえちゃんが2人いた事を思い出し、そのことをこの2人に聞いてみると、何社かラフティング会社はここにあるが、そのねえちゃん達は、この兄ちゃんと同じ会社らしい。全く偶然だ。

その次は、1時間ほど待って地元で宿を経営してる夫婦。そして、すぐにDenaliで働いてる兄ちゃん。ここまではまたもや短距離の継投リレー。この日はかなり天気が良かった。歩いてても気持ちがいい。ここから少し歩くとマッキンリーと再会。本当にこの山は他と比べると群を抜いている。それだけでかいしきれいだ。この辺りの景色は最高。道の両側に山々が連なる。この規模は半端じゃないし、何と言っても美しい。この辺りに居着きたくなるのが分かる気がする。

それから、Anchorageを超えて更に南に行くという兄ちゃんをget。この日初めてのlong distance。この兄ちゃんもDenaliで働いてて、これからしばらく休暇だという。また車を飛ばす、飛ばす。おかげで予定よりも早くAnchorageに着いた。

しかし、この兄ちゃんもAnchorageは初めて。私ももちろん初めてで、ガイドブックがない分、どこがどこか分からん。そして、降ろされた所は町からかなり外れ。私は歩いてる人にdowntownの方向を指差してもらい、そっちに向かって歩き始めたが、運よく近くにバス停があった。そして、すぐにバスが来た。このバスには感心。普通、こっちのバスは日本と違って、行き先をアナウンスしない。だから、降りたい所は自分で窓の外を見て、ボタンを押すか、ひもを引っ張って運転手に知らせないといけない。しかし、このバスはアナウンスはあるし、どの通りを走ってるかまで掲示で出る。バス自体もきれいしな。

私はアンチYHA派だが、バス停の終点がYHAの前となればここに泊まらざるを得ないだろう。しかし、このYHAは最悪だった。人は無愛想やし、やたら規則があってすぐに部屋やキッチンが閉められる。最悪な所だ。二度と来る事はないだろう。

Anchorageはきれいな町。こんなに観光客が多いとは思わなかった。そのほとんどはアメリカ人かな。みやげ物屋もたくさんある。もちろん、日本人のツアー団体も見かけた。私がここに来た目的は、どうやってVancouverに戻るかを検討するためだ。できればもうヒッチはしたくない。こりごりだ。そして、モールにある旅行代理店に行ったら、飛行機は無茶苦茶高い事が判明。なら、南のValdezからの船はどうか。ここからカナダ方面に下る船は1ヶ月に一度しかない。よって、選択肢はヒッチしかない。しかし、ここからferry terminalのあるHainesSkagwayまでは800milesほどある。その行程を考えるだけでぞっとする。でも、それ以外の方法はない。

Anchorageでももちろん飲み屋に行ってみた。しかし、観光地という事もあって、飲み屋は大抵混んでた。私のここでの目的は、"Alaskan Brewing"の地ビールをすべて飲むこと。しかし、アメリカの飲み屋の場合、ビールを頼む度にチップを払わないといけない。しかし、宿ではアルコール禁止やしな。ビールのラベルコレクションが趣味の私にとって飲まないわけにはいかないし。結局、この4枚のラベル(Alaskan Amber, Alaskan Pale, Alaskan ESB, Alaskan Stout)をgetするのにかなり高くついた。



Jun 30 Anchorage -Tok (335miles, 7 rides)

先に言おう。この日のヒッチはこの旅2番目に辛かった。

Anchorageの町中からのヒッチは過酷になる。そう思って、今回は地元のバスで町の外れまで向かった。そこからのヒッチは速攻。その先の交差点まで乗せてくれたのは地元のおっちゃん。おっちゃんもヒッチハイカーだそうだ。

ここからのヒッチはいつも通り苦戦。2時間以上は待ったかな。そして、少し先の町まで行くというおっちゃんが止まってくれた。おっちゃんはインディアン。インディアンの人が乗せてくれたのは初めてかも知らん。おっちゃんの車はガスと電気のハイブリッドカー。こんなトレンディな車には初めて乗った。しばらくして、2人でBurger Kingに寄った。ここでおっちゃんの息子さんと一緒にめしを食った。この息子さんは、Prudhoe Bayで働いてて、この時は休暇の週。北極海関連の人とよく会うな。そうなると私とも話が合う。実際に現地で働く人の話を聞くとその大変さが分かる。

それから、再びおっちゃんと一緒に移動。今度はおっちゃんの叔母さん宅に寄った。そこでは、インディアンの人々がダンスをしてた。ちびっこは無茶苦茶かわいかったな。

おっちゃんにこの先の工事現場の手前で降ろしてもらって、そこからはこの工事現場が終わるまで少し歩くかっと簡単な気持ちでいたら、この工事現場は5milesも続くという。信じられん。私がてくてく歩いてると、後ろの車を先導するパイロットカーが私を拾ってくれた。これはラッキーだった。

この工事現場の後は、地元のoutdoor系の学校で働く兄ちゃんとチリ人のねえちゃんが止ってくれた。こういった学校は世界各地にあるらしい。彼らは、夏はここで生徒に色々教え、冬は南半球に行くと言ってた。結構いい生活やな。

途中で氷河を見た。氷河はNZ以来やな。なんで氷河ってあんなに青いんやろう。そして、そこからの水は川に注いでる。この辺りもかなり景色が好かったが、標高が高い分少し寒かった。それにしても、どうもここ最近小刻みリレーが続いてる。長距離がgetできない。アラスカでは、比較的地元の人が乗せてくれる事が多いからな。そうなると、どうしても短距離になる。

この2人に降ろされた後はまたもや大苦戦。ヒッチポイントとしてはいい所だが、何と言っても車がどんどん飛ばしていく周りは何もない所。ここでのgetは少し難しい。私はしばらく待ったが、景色がいいのでまたまた歩く事にした。

しばらくすると、一台通り過ぎた車がこっちに戻ってくる。そして、私の横で止り車の窓が開くと、なんとそこにはドイツのキルシュナー夫妻が。彼らは私と分かって戻って来てくれたのだ。なんと親切な。彼らは私をDenaliでも見かけたみたい。2人は私とYukon Bridgeで別れた後のトステンの動向を心配してた。それと、遅れていたドイツのおっちゃん2人の事も。まあ、彼らは旅慣れてるし何とかなるやろうと私は言ったが。

この2人は、Whitehorseを出発して、アラスカにある道路をすべて制覇してるつわもの。ドイツではトラック会社を経営してる。この先南のValdezまで行った後は、今度はまた北に戻ってDenaliまでのマイナーな道を走るという。そして、南のHainesまで下って、Skagwayに船で渡るとか。大した冒険家だ。この行動力には私も脱帽だ。2人とはこれで最後となるであろう。彼らもそれを承知で、

「マナブ、とにかくKeep in touchな。ドイツに来たら寄れよ。」
とつたない英語ではあるが心のこもった温かい言葉を私に贈ってくれた。年齢差は30歳ほど離れてるが、それを感じさせない気遣いと2人の思いやりには頭が上がらない。ほんといい人と会えたな。ありがとう。

感傷に浸ってる場合じゃない。私はこのどうしてもTokまで行きたかった。ValdezTok行きとの交差点で2人に降ろしてもらい、そこからは速攻車がつかまった。しかし、またもや短距離のget。このおっちゃんも昔は旅人やったらしく、近くの交差点で降ろしてもらうつもりがその先の飲み屋に一緒に行って、ビールを御馳走してくれた。こんなところでビールを飲んでる場合やないが、ビールを飲めるのに越した事はない。おっちゃんも色々気を遣ってくれ、この先のキャンプ場まで送ってやると言ってくれたが、私はまだ先に進みたい。この時点で時刻は夜の7時ごろ。ただ、心配なのは空。ここまでの道中、所々にわか雨があってすっきりしない。しかし、ここからしばらく歩くとなると、天気を気にしない訳にはいかない。立ち止まって待ってるだけでは埒があかんし。私は賭けに出た。車が少ないのでとにかく歩こう。

しかし、それは裏目に出た。途中から激しい雨が降ってきた。始めは、近くに郵便局がぽつんとあってその庇で雨宿りしてたが、雨が小降りになったので再び歩き始め、しばらくするとまた激しい雨が。しかし、周りには遮るものがない。私にはどうする事もできない。歩く以外は何もないが車は通らないし。私はびしょ濡れになりながらひたすら歩き続けた。

そして、1時間以上経って一台の車が止ってくれた。座席の乗るスペースがないのと、私がずぶ濡れだったので、トラックの荷台に乗せてもらうことになったが。いやー、助かった。彼らはミネソタから来てるおかんと息子。おかんは学校の教授で、シンポジウムみたいのがアラスカであったみたい。専攻は地質学かな。彼らはこれからミネソタまで4日で帰るという。信じられない行程。118時間は走ると言ってた。しばらく行くと、全く雨が降ってる気配がない。ほんとこの辺りはどうなってるのだ。

私は一瞬考えた。彼らのルートはカナダに入ってアルバータ方向に進む。となると、カナディアンロッキーの近くを通る事になる。そっち方面も面白いかもしれない。一緒に行ってもいいな。しかし、そうなると2日ほど時を共にしないといけないし、親子の車に他人が同乗するのもどうかなと考えた。結局、色々考えたあげく、予定通りTokで降ろしてもらった。ほんとこの2人には感謝やな。色々面白い話も聞かせてもらったし。

Tokに着いた頃は、もう夜の11時は回ってたかな。私は近くのガソリンスタンドの裏庭にテントを張らしてもらって、ラーメンを食って速攻寝た。いやー、この日のヒッチもかなり過酷やった。どうも小刻みリレーが多い。しかし、耐えれば後半で巻き返せる。何事も忍耐力やな。本当にそう思った。




July 1 Tok -Haines (437miles, 2 rides)

Tokからのヒッチはこの旅最大の難関となると予想してた。それは、国境を越えないといけないからだ。Hainesまで行くには、一旦カナダに入って、それからまたアラスカに戻るという複雑な事をせなあかん。見知らぬ人を乗せての国境越えは人は嫌がるやろう。そう思ってヒッチを開始すると、速攻車がつかまって、その行き先はWhitehorseの少し先。無茶苦茶ラッキーだ。乗せてくれたのは地元のじいさん。じいさんは、これからしばらく休暇でWhitehorseの近くに住む友人宅を訪ねて、四六時中釣りをすると言ってた。

じいさんは元々空軍兵で、今は政府の機関に所属して、インディアンの生活保護関連の仕事をしている。だから、インディアンについてはやたら詳しい(vol.117参照)。じいさんは国境近くに差し掛かると、アラスカ側でガソリンを入れた。そう言えば、カナダに比べてアラスカの方がガソリンは安い。そして、いざ国境へ行くと、まあ何ともいい加減な。アラスカ側ではチェックはなく、そしてここからカナダ側までは20milesも離れている。なんでこんな距離があるねん。昔はアラスカ側の税関はTokだったらしい。カナダ側でのチェックも簡単で、じいさんは運転免許書と車検書、私はパスポートを見せて、

「拳銃は持ってないか?」
で終わり。もっと厳しくせんかい。

久しぶりにカナダに戻ってきた。いやー、やっぱりカナダやな。道路標示はkmに変わったし、ガソリンもリットル単位やし。このAlaska Highwayも久々だ。ただ、この辺りは道幅が狭くヒッチには適してないので、じいさんに乗っけてもらって助かったな。こんなところで降ろされたら次が大変だ。この日も雲が多く天気は安定しない。しかし、周りの景色はきれいし、途中の湖の規模のでかさには感動した。じいさんも色々気を遣ってくれ、コーヒーやパンをくれたり。私はまたしても考えた。このままじいさんとWhitehorseに行ってもいいな。しかし、Whitehorseまで行ってしまうと、また同じ道を帰る事になるので、それは面白くない。結局、色々なパターンを考えたあげく、予定通りHaines Junctionで降ろしてもらった。それにしても、かなりの長距離ドライブだった。

当初の予定ではこの日はここまで。しかし、予想以上の速さでこの時点でまだ昼の2時。よって、私はHainesに進む事にしたが、その前にこの交差点にあるスーパーに行ってみた。そう、久々のカナダドルだ。米ドルの世界にしばらくいた後のこのカナダ社会は、なんと安いのだ。この安さにはびびった。それだけ米ドルが強いってこと。スーパーの値段は両国で同じだが、肝心のドルの価値が異なる。1米ドル=1.5カナダドル。これは非常にカナダ側からは苦しいレートで、つまりカナダドル300が米ドル200にしかならない。私はここぞとばかりに、持てるだけの食糧を買って、牛乳も飲んでめしも食って準備万端にした。

そして、ヒッチ開始といきたいとこだが、この日はカナダでは祝日でその分交通量も少ない。Alaska Highwayは比較的交通量は多いが、Haines方面は通らない。船に乗ってアラスカ方面に向かう車は多いので、逆向きは多いが、私が行きたい向きには車は1時間に3台ほどしか通らない。途中で、後から来たヒッチハイカーにルール違反をされて先に行かれるし。歩き始めてもよかったのだが、前日の苦い経験があるし、天気が安定してないので先には進めない。ここまでのヒッチが楽だった分ここでは辛かった。

そして、4時間近く待ったか。一度は通りすぎた車が戻ってきてくれ、行き先はHainesまで。おお、ラッキー。乗せてくれたのは、カップルとちびっこ。と言ってもこの2人は恋人同士でもないし、このちびっこ(エミリー)は彼女(ジェリー)の娘で、2人は彼(ケビン)宅で一緒に住んでいる。エミリーの父親はフィリピン人。詳しく彼らの関係を述べるのはここではやめよう(とても複雑)。

ジェリーは見るからにヤンママ。3人はWhitehorseの中華料理屋にめしを食いに行った帰りだった。ジェリーはどんどん飛ばす。平均時速140kmってとこかな。音楽はがんがんやし。ケビンは助手席でジェリーと話してる。後部座席のチャイルドシートに座ったエミリーは、私の事が気に入ったのか色々話してくる。ジェリーはビールを飲みながら運転してるし、私にも薦めてくる(もちろん頂いた)。この辺りは景色がいいので、私はゆっくり周りを見たかったが、エミリーはどんどん話しかけて来るし、ジェリーはガンガンに音楽をかけて、うるさくてエミリーの声が聞こえない。私はかなり疲労が溜まっていたが、そんなのエミリーには関係なしでとにかく私から離れない。まるで「お母さんといっしょ」状態だ。

国境付近になると、ビールの臭いを隠すというのでガムを噛んだり、空き瓶を隠したり。そして、国境に差し掛かったがここもいい加減。やる気のないじいさんが出てきて、ジェリーが、

「我々はアメリカ人。彼は途中で拾った日本人。」
と言っただけで、私のパスポートを一応は見たが速攻通過。おい、アラスカ・カナダのイミグレの諸君。そんなんでいいのかい?もっと真面目に働かんかい。

再びアラスカに戻った後は、ジェリーはここぞとばかりに更に飛ばし始めた。ビールで酔っぱらってきたのだろう。恐ろしい奴だ。後部座席ではまだおかあさんといっしょ状態やし。こんなヒッチもある意味嫌だ。もう、こんなヒッチは二度と嫌だ。私はまじで死ぬんとちゃうかと思ったぐらいだ。

Hainesは海と山に囲まれた小さな町。なかなかきれいな町だ。ケビンは元々Texas出身ではあるが、この町でスーパーの店長をしてもう6年になると言ってた。ケビンはこの町を気に入ってる。逆に、ジェリーはこの町が大嫌いで、近いうちにこの町を出ると言ってた。彼女はここに越してきて6年目。両親は近くに住んでいるが同居せず、ジェリーはエミリーと共にケビンと一緒に住んでいる。ジェリーがこの町を嫌うのは分かる。それは礼文と同じで、小さい町であるゆえ人は家族同様だが噂もすぐに広がる。特に、ジェリーとエミリー、そしてケビンとの関係は複雑である分、彼女には余計にそう思えるのかもしれないし、ここにいて社会恐怖症に陥ったと言ってた。

私は彼らの御好意で、ケビン宅に泊めて頂く事になった。



 「エスキモーとインディアン」

私はこの旅の間結局エスキモーの人々とは会えなかったが、ヒッチで乗せてくれた色々な人から彼らの事を聞いたし、インディアンの事も教えてもらった。特に、この時乗せてくれたじいさんは仕事でインディアンの生活保護的な事をしてるので、事細かく彼らの生活について語ってくれた。

一般的に、アメリカ大陸の先住民は3種類いる。エスキモー、インディアン、そしてアールユー。何千年も前の氷河期に、ユーラシア大陸と北米が氷の橋で結ばれ、インディアンがやって来た。そして、エスキモー。どうりで、彼らはアジア人に似てるわけだ。エスキモーの方がよりアジア人に近いモンゴロイド系らしい。

エスキモーは大陸の北端、そしてインディアンはアメリカ大陸全土に住み着いた。アールユーはアラスカ南東部に住み着いたらしいが、彼らの文化はエスキモーで、顔はインディアンに似てて頬骨が出てるらしい。アールユーについては謎だらけと言ってた。

エスキモーはもちろん狩猟民族。極寒の地でひたすら男は狩りをし、女は食事を作り裁縫をする。長く辛い冬を生きていくには、何と言っても狩りのできる男手が必要。そのため、エスキモーは2人目の女の子が産まれると殺してしまう(もちろん、今は違う)。そうなると、エスキモー社会は男社会となり女性が不足していく。では、その不足する女性をどうするか。そう、インディアンの村からさらってくるのだ。だから、エスキモーとインディアンの争いは昔は絶えなかった。いまだにお互い嫌ってるという。

現在のエスキモーはお金持ち。そう、北極海沿岸では石油が出るからだ。よって、仕事をしないでフラフラしてる連中もいるようだが、この状態を決して怠慢と言うべきじゃないとある人は言ってた。彼らの真冬での生活を考えたら・・・。その環境で生き抜いてる彼らの事を考えたら・・・。

インディアンは北米全土に住んでいるが、彼らもある程度生活を保護されており、そのnative villageには必ず彼らの生活をcareする白人がいる(アラスカでは)。子供が10人以上いると学校があるし。私はこの生活保護が彼らをlazyにしてると思うが。白人と同じ権利を与えるべきだと思うが、白人が彼らの土地を奪ったのだからこの扱いは仕方ないかもしれないが、資本主義社会の中に社会主義社会が存在するようなもので、そのコントラストを考えるとインディアンをすごく悪者にしてる気がする。アングロサクソンの国はこういった先住民とのトラブルが絶えないからな。NZのマオリ、OZのアボリジニーもそう。NZのマオリは他の国に比べると、比較的国に溶け込んでいるが。

都会にいるインディアンに対しては誰もcareしない。だから、彼らもやりたい放題で、朝から酒を飲みhang outしている。彼らは元々お酒を飲む民族じゃないので、白人文化が入ってきた100年そこそこで、そんなに体質は変わるわけじゃない。遺伝的に彼らはアルコールには向かないのに、都会での彼らは惨めなものだ。折角、いい文化・伝統を持ってるのに、もっと彼ら自身自分達に誇りを持って欲しい。

白人社会が日常になるに連れて彼らの文化自体も廃れ始めてる。もちろん子供たちは英語を使う。そのため、学校以外で老人達が子供たちに独自の言語を教えてると言ってた。エスキモーも基本的に若い世代は英語ができると言ってたしな。

私はこのじいさんに北米と南米のインディアンは違うのか聞いてみると、似てる所もあると言ってた。しかし、南米のインディアンは何と言っても文明を持ってる(インカ、アステカ)。彼らは頭がいいし、彫刻、建築など色々な技術を持ってるし、その技術をどうやって身に付けたか謎である。北米のインディアンにはそういった技術はない。南米にはスペイン人が進出してきて、彼らの文明を壊してしまったらしい。今の所、なぜ、どうやって彼らがそういった技術を身につけたか、北米と南米のインディアンのルーツ等は謎に包まれたままである。

私はこの旅の最中で、エスキモーの人々と会えなかったのが残念だ。彼らに会うには更に僻地に行かないといけない。




 
「ささやかな食事 in Haines

私はHainesにいる間はケビン宅でお世話になった。ケビンとは特に色々な話をした。私は、ここまで連れてきてくれたお礼と、特に4歳のかわいいエミリーのために何かできないか考え、彼らが日本料理が好きというので、私は出発の船の時間までの昼と夜ご飯を作ってあげる事にした。まさか、ここまで来て料理を作ると思わなかったので、問題は食材と調理料だ。こんな小さな町なので果たして手に入るか。とにかく、私はケビンの勤めるスーパーマーケットに行ってみた。

私がメニューで考えたのは、昼はあんかけやきそば、夜は散らし寿司、揚げ出し豆腐とテリヤキ。最低限必要なものはみりんと酢。なんと、こんな小さな町にも両方ともあるでは。これはラッキー。野菜は品が少ない。もやしはなかったし、当然椎茸やゴボウもない。コーンスターチは品切れで、もう一軒のスーパーでそれを見つけた。味噌汁を作ったあげたかったけど味噌なんてないし。彼らはたまにJuneauにあるジャパレスに行って日本料理を食べる(当然、この町にはない)。味噌汁はエミリーがお気に入りで、ジェリーは"Magic soup"と呼んでた。店の人に味噌の事聞いてみると、

「味噌ってなんだい?
と聞かれたし。インスタントはあったが味気ないしな。

私は何とか品数は揃えて、まずそばを茹で、ニンニク、ピーマン、ニンジン、マッシュルーム、エビをごま油で炒め、ほんだし、塩、コショウ、醤油で味付けて、コーンスターチでソースを仕上げた。結果は大好評。肝心のエミリーには少しコショウが効き過ぎてたみたいだが、他の
2人は大満足。まず第一ラウンドはよしとしよう。


そして、メインの晩飯。散らし寿司用の酢飯は少し水っぽくなったが、ニンジン、インゲン、マッシュルーム、薄焼き卵を具にして、テリヤキ、揚げ出しはいつものように作った。結果はまたまた大好評。ケビンは、

「もう少しここにいろよ。」
と言ってた。彼らはこんな家庭的な料理はしばらく経験した事がないという。いつも外食かjunk系だそうだ。特に、揚げ出し豆腐はここでも絶賛やったし、散らし寿司も初めてやったみたい。肝心のエミリーも喜んでくれ、彼女は特にテリヤキチキンを気に入ったみたい。

これは私からのささやかなプレゼント。かわいいエミリーも喜んでくれてし。彼女の笑顔が見られたのが一番嬉しい。彼らの関係は複雑でここでは触れないが、本当にまたまたいい人達と会えた。エミリーと別れる時は辛かったな。



July 2-4 Haines -Prince Rupert (took a ferry)

Hainesからは船に乗る事にした。かなりの人に薦められたし、自分自身もここから南へ下る間に通る島々を見たかったのもあったし、ヒッチで少々疲れ気味なのもあった。ケビンは親切に町から少し外れたferry terminalまで送ってくれた。彼は非常にしっかりした青年。私とも話が合ったし、自分をちゃんと持っている。彼は、冬にここに戻って来いと私に言ってくれた。オーロラがすごくきれいらしい。またもやいい人と出会えたな。

フェリーは思ったよりもでかい。私のチケットはここで乗って一度Juneauで乗り換えないといけない。船の中は人でいっぱい。この船はSkagwayからワシントン州のBellinghamまで行く。日本の船と違って座敷はないので、夜になると椅子の周りの床に人が寝出す。そうなるとわやだ。暗い上に足の踏み場もなくなる。さすがに、Hainesまで来ると夜は暗くなるし、私は午前2時ごろには下船しないといけないので、結局この船の中では空いたスペースに座りながらひたすら船が着くのを待ってた。乗っていたのは4時間ぐらいかな。

Juneauでは3時間近く待って、Prince Rupert行きの船が来たが、私は危うく寝過ごす所だった。やばかった。前日は雨であったがこの日は晴れていた。そうなると景色もいいが、天気は非常に変わりやすいのと、西側は雨が多いのとで、すぐに雨雲へと変わっていった。島々の間を船が走るわけだが、天気が良くなかったのと、私は既にユーコン川でカヤックを経験してたのもあって、それ程周りの景色には感動しなかった。ユーコン川で嫌というほど中洲を見たからな。そうなると、船の中では退屈で退屈で。top deckに折り畳み用の椅子兼ベッドがあり、私はその一つをgetしたが、屋根はついてるがopen spaceなので寒い。中に入ってもいいのだ、夜になると人が床で寝出すのでそれは嫌だ。

1日以上は船に乗ってないといけないので暇で仕方がない。レストランでめしを食ってもいいが高いし。飲み屋もあってそこに行ったりもしたが、そこに要る時間はしれているし、余り長くいると銭の無駄使いになる。周りの人と話したりもしたが、それでもしれているし。シャワーを浴びたりもしたが、とにかく暇で暇で仕方がなかった。

船は所々の集落に寄っていく。これら集落は船か飛行機以外には立ち入られない辺鄙な所。もちろん、町間の道なんてない。港に近づくと多くの漁船が目につき、そうなると磯の香りが何とも懐かしい。それにしても、こういった僻地にも人の生活があるのには感心だ。能登半島の先端や津軽、対馬を走ってた時もそう感じた。もちろん、他の人から見れば礼文もそう感じると思う。いざ、ここに住めと言われたら私にはできないな。短期間ならいいが、飽き性の私には一生は無理だ。今回はここには寄らないが、もし時間があったらこれらの島々を全部立ち寄って、人々と話してみたい。きっと、面白い話が聞けるはずだし、この辺りの産業は漁業なので、おいしい魚が食べられそう。珍しい魚も目にすると思うし。


やがて、船はBC州のPrince Rupertに着いた。やっと、BCに帰って来たで。なんかほっとした反面、少し寂しい気がした。それは、色々あったアラスカがもうはるか北のかなたに行ってしまったのと、ここまで来るとはっきりと夜があるからだ。白夜が懐かしい。

ここの税関はさすがに厳しかった。一人一人ちゃんとチェックしていく。これぐらいじゃないとな。私はカナダのVisaを持ってるので速攻通過した。


July 4 Prince Rupert -Terrace (exactly Usk) (170km, 3 rides)

Ferry terminalから町中までは歩いた。距離にして3kmほどかな。これぐらいの距離は私にとってどうってことない。Prince Rupertの町は規模的には小さいが、モールもあるしなんでも揃っている。Prince Georgeと並んでBC州の北ではでかい町であろう。私はモールで買い物を済ませて、町外れまで歩き始めた。途中、図書館に寄ってメールをチェックした。ここからのヒッチも大苦戦。ほんと誰も止ってくれないし、考えてみれば町から出る人も少ないかもしれない。これより次のでかい町まではかなりの距離もあるし。私はしばらくは待っていたが、埒があかないので歩き始めた。この時点で3時間以上は経過してたと思う。

そして、1時間以上は歩き続けた。車はいっこうに止ってくれない。しばらくして、この先の交差点まで行くというおっちゃんをget。大体の車はここで右折して行くらしい。おっちゃんはこの近くに別荘を持ってて、もし夜7時ぐらいになっても私がここにいるようだったら迎えに来てやると言ってくれた。私は正直迷った。おっちゃんと一緒に行ってもおもろそうやし。一応、おっちゃんにこの交差点で降ろしてもらったが、こういう時ってすぐに次の車がつかまる。大体こんなもんだ。

このおっちゃんは、移動中ずっと無口だった。私は基本的に車の中では運転手に合わせる。話好きな人なら話すし、単なる好意で乗せてくれた人には、相手が静かな時はそのまま黙っている。このおっちゃんはとにかく無言だった。そうなると、私は眠くなる。よって、移動の途中からずっと寝てたように思う。


おっちゃんに降ろしてもらったTerraceは町としてもまずまずの規模で、縦に細長く町がある。そうなると、ヒッチには最悪の町で、私はとにかく町の外れのヒッチのできそうなところに向かった。この時点でもう夕方。となると、家路に着く人がほとんどで、ヒッチは大苦戦。私はここでもかなり待ち、そして町外れまで犬を散歩しに行くというおっちゃんが止ってくれた。おっちゃんはすごく親切であったが、降ろされたのは小さなチャペルの前。そして、別れ際に、


「君は英語が読めるかな?
とキリスト関連の冊子を何冊か私に渡した。こういう落ちやったんか。こういうのはありがた迷惑だ。こういった物をもらっても捨てように捨てられん。NZでもこんなことがあったな(NZ1998参照)。

私はこのチャペルで寝ようかなとも思った。しかし、できるだけ進みたい。Prince Georgeまではかなりあるし、もう後はVancouverに帰るだけなのでやりたい事もない。しかし、この時点でもう薄暗くなり始め、車もほとんど通らなくなった。私は近くにテントを張れそうな所を探したが、それらしき所はどこにもない。最悪このチャペルしかない。そう思ってた時に、たまたま犬の散歩で通りかかった夫妻がいて、私は彼らにテントが張れそうな所を訪ねてみたら、彼らは快く家においでと言ってくれた。なんといい人達なんだ。

この辺りには小さな昔ながらの集落(Usk)がある。川を挟んで反対側も含めて、今は60人ほどしかいないと言ってた。彼ら(デイビットとマリリン)はTerraceで働いていて、デイビットは弁護士。彼らの家の庭の広さにはびびった。バレーコートもあるしな。彼らは色々気を遣ってくれるが、私はここでテントを張る事にし、テントを張った後は彼らの御好意に応えて、家の中でお茶を頂いた。2人は家の中を好きに使ってもいいと言ってくれたが、そこまで甘えるわけにはいかない。それにしても、またまた感謝やな。この旅でどれだけの人にお世話になったか数え切れない。



 「明日を夢見る少年 in Terrace

デイビット宅でテントを張らしてもらったが、彼らの独り息子のジュリューは私にすごく興味を持った。そして、我々は私のテントの近くで火を焚きながら色々語り合った。

彼は今年高校を出たばかりで、この9月からカレッジに行く。場所はVancouverから少し北にあるKamloops。彼は今時珍しい自分を持った青年で、outdoorにすごく憧れてる。だから、私の事にはすごく興味を持ったみたい。彼自身この小さな町で生まれ育って、これからは自分の視野をもっともっと広くしたいと語ってた。色々な人と接して学び、よく遊びよく学びの精神でこれからの学生生活を送りたいとも。始めにVancouverのようなでかい街に行ったら、こんな田舎で育った彼は自分を見失ってしまうと判断し、できれば後々UBCに編入したいと言ってた。うーん、なかなかしっかりした考えだ。18歳にしてはたいしたものだ。今時の子は都会に憧れて、こんな片田舎で育った子ほど都会に行きたがるのだが。

ジュリューは私との出逢いを心の底から感動してた。全く他人の日本人が、ここでテントを張っている。偶然にここに来て、次の日はどこにいるか分からない。その答えは誰も分からないし、私自身も分からない。彼はこういった生活に憧れてるみたいで、将来的には色々な国を旅したいと言ってた。私はできる限りのアドバイスをしてあげた。旅に関してはこちらも経験が長いので、数々のテクニックや、旅の仕方など(もちろんヒッチのことも)。outdoorに関しては、キャンプ用品、装備、トレッキングの仕方など。学生生活の過ごし方は、今まで嫌と言うほど悩める日本の学生達に言ってきた事を英語に訳して教えてあげた。あと、お金の使い方なども。彼はそれに熱心に耳を傾け、

「あなたは聞き上手。」
と言って普段は誰にも話さない胸の内なんかもどんどん話してた。うーん、pureな青年だ。

「いつまでもその気持ちを大事にして、自分を見失わないように。」
私はそう何度も念を押した。





July 5 Terrace - Quesnel (exactly Strathnaver) (669km, 1 ride)

このチャペルの前のヒッチは再び苦戦。車が飛ばす分止まりようがないし、その風圧が車が通る度に私に襲いかかる。この辺りは比較的曇りの日が多いらしいし、Prince Rupertなんて曇ってる日がほとんどという。この日も今にも雨が降りそうで気温もかなり低い。そこで私は考えた。おもいっきり寒そうな格好をしよう。すると、一台の大型トラックが止まってくれた。理由は、私が寒そうにしてたからだそうだ。またしても作戦成功。

この運ちゃん(Willy)は両腕に刺青だらけでいかにも怖そう。歳は私と同じぐらい。しかし、我々はすぐに仲良くなり、移動の間ずっと話してたと思う。Willyはアルバータのバンフの近くまで行くという。Calgary Edmonton、そしてVancouverに向かうから一緒に来ないかと誘われた。私は結構これに心を引かれ、彼に合意してVancouverまで一緒に行く事にした。

WillyPrince Rupertで荷物を降ろしたのもあって、荷台が軽いのかかなり飛ばす。と言っても車体自体全長30m近くあるでかいトラック。我々はとにかく気が合って色々な事を話し合った。お互いの事、仕事の事。一日ずっと一緒に車に乗っていたが、沈黙の時はなかったと思うな。

そして、しばらくするとPrince Georgeに差し掛かった。やっと、ここまで帰ってきたか。私は非常に懐かしかった。ここで、トラックの運ちゃん達用のガソリンスタンドでシャワーを浴びた。こんなところがあったんやな。それからは晩飯。Willyお勧めのレストランでハンバーガーを食ったが、その通りかなりうまくボリュームもあった。私は彼に御馳走してあげるつもりだったが、逆にWillyが御馳走してくれた。それは申し訳ない。私は何度も出すと言ったが、彼は受け取らない。いやー、悪い事をした。


トラックをでかい町で駐車するのは大変なので、我々は更に南下する事にした。もう太陽は沈みかかってる。そして、しばらくしてトラックの休憩所みたいな所があって、この日はここで泊まる事にした。もちろん、Willyは座席の後ろに寝るスペースがある。私はトラックの外でテントを張ってもよかったが、私には後ろの空になった荷台が気にかかる。ここはテントを張るにはもってこいだ。Willyも、

「ここで張ってもいいぞ。」
と言ってくれてるし。そして私がこの荷台でテントを張ると、こういった光景は珍しいのか、通り過ぎるトラックが無線で冷かしてきた。いやー、この日は長距離がgetできたな。まさかここまで来られるとは夢にも思わなかった。



  「トラックの運ちゃん達」

トラックの運ちゃん達はかなり孤独だ。一人で荷物を運んでどこかで降ろし、またどこかで荷物を積んで運んで行く。カナダ、アメリカはでかい分、移動だけでも大変で、行きに2日、帰りに2日といった行程は珍しくない。もちろん、帰りには新しい荷物を積んでくる。その間はずっと一人。寝泊まりはもちろんトラックの中。シュラフや食糧も用意してる。そのせいか携帯電話を持ってる人が多いようで、トラックには無線もついていて、すれ違うトラック、近くにいるトラック同士情報交換をしたり話し合ったりする。

基本的に、トラックはヒッチハイカーを乗せてくれない。孤独なら乗せてくれてもいいのだが、それには色々な要素が考えられる。でかい車体を路肩に止めにくい、先を急いでる、仕事中であるなどなど。ただ、truck stationで交渉すれば乗せてくれたりする。

トラックは、各provinceに入る時はスケールチェックを受けないといけない。どれだけの荷物を積んでいるか、トラックの状態等。しかし、場所によってはいい加減でスケールが閉まっている時もある。町に入る度にこのスケールチェックに立ち寄らないといけないのは少々面倒くさいが致し方ない。

とにかく、ただ荷物を運んで降ろして、そしてまた荷物を運んでとroutineな仕事なだけに、Willyは飽きてくると言ってた。定期的な休みはなく、週に1日は休めるが、運ぶ場所によってその日程は変わってくる。

トラックのヒッチの醍醐味は、何と言っても上からの視界で、周りが見下ろせることであろう。ただ、その分重い荷物を持ってトラックに乗り込むのは大変だが。ブレーキには空気圧のものもあり、少々面倒くさそう。今回のヒッチでは三度しかトラックに乗らなかったが、今までのヒッチの経験も踏まえて、トラックの運転手は無茶苦茶陽気で親切な人が多い。なんしか太っ腹でうまい食べ物屋もよく知ってる。一度トラックに乗ると癖になってしまうほどだ。



July 6 Quesnel - Vancouver (659km, 4 rides)

トラックの運ちゃんの朝は早い。Willyは午前5時前には起きていた。我々は南下する前にここからすぐそばにある木材加工場に寄った。そう、今度はこの木材を運ぶのだ。この辺りはやたら木材加工場がある。もちろん日本にも輸出される。トラックにたっぷり木材を積んだ後は、再び南へ向かった。

トラックは、各provinceでスケールチェックを受けないといけないが、Williams Lakeに入る頃か。いつものようにWillyはスケールに立ち寄ると、そこで呼び止められた。私はしばらく助手席で待っていたが、彼はなかなか帰って来ない。そして、様子を見に行ったら、Willyは目に涙を浮かべてかなり落ち込んでこっちに向かって歩いてきた。話によると、トラックの運転手は数キロごとにトラックのチェックをして、それをレポートに記録していかないといけないが、Willyも一応はしておいたがその記録が不足してて ペナルティを課せられた。罰金は$3009月には裁判所に行かないといけない。アルバータ州ではそれほど厳しくないのだが、ここBC州はかなり厳しいという。あの陽気なWillyがかなり落ち込んでいて、私自身もこうなったらどうしようもない。それでもWillyは明るく振るまって見せたが。私は色々考えた。この状態で彼と一緒に付いていくのは申し訳ない。一人にしておいてあげよう。そう思って、予定を変更してVancouverに戻る事にし、Willyもそれを了承してくれた。

そして、Cache Creekで降ろしてもらう事にしたが、Willyは親切に無線で他のトラックの運ちゃんに連絡を取ってくれ、Vancouverの近くまで行くというトラックが私を乗せてくれた。ほんとWillyはいい奴だ。刺青が入ってて見た目は怖いが気持ちの優しい奴。別れる時はお互い寂しかった。ほんとありがとう。

新しいトラックのおっちゃんは、Willyと違って無口。よって、俺もおっちゃんに合わせる事にした。しかし、おっちゃんは口数は少ないが、昼飯をおごってくれたりと色々おっちゃんなりに気を遣ってくれた。

Vancouverに近づくにつれてすごく懐かしかった。さすがに、highwayは交通量が多いし、ヒッチハイク禁止と所々にサインが見える。乗せた方もペナルティだとも。私は、Vancouverの手前50kmほどの所でおっちゃんに降ろされたが、ここはまだSurreyよりも西側。一体どこなのだ。近くのGSで詳しく聞いてみると、バスがSurreyまで出てて、そこからスカイトレインでdowntownまではいける。しかし、まだVancouverはバスのストが続いてるらしい。全く困ったものだ。仮にdowntownまで行ってもそこからタクシーに乗るしかないからな。私は考えた。ここまで来たらヒッチで通したい。しかし、highwayはヒッチ禁止。そこで、highwayの入口から少し離れた所まで歩き、警察に気を付けながらヒッチを開始したら、速攻downtownまで行くというゴルフ帰りのおっちゃん2人をget。そして、久々にRobson St.に帰ってきた。

久しぶりのdowntownの人の多さにはびびった。なんせ今まで余り人を見なかったからな。街路樹の緑もいっぱいで、今が一番いい季節であろう。ここまで来たらタクシーなんて乗るつもりはない。ヒッチのみ。そして、DavieBurrardの交差点まで歩き、そこでヒッチを始めると速攻UBCの学生がpick up。彼らは橋を越えたキツラノまでしか行かない予定だったが、親切にKerrisdaleまで送ってくれた。ありがとう。

Kerrisdaleまで来たらもう庭だ。以前働いていたレストランに行くとみんな大歓迎。私からの絵葉書も届いたようで、私の突然の訪問を温かく迎えてくれ、戻って来いとうるさかった。そして、ここでコーヒーを頂いて、懐かしのSouthlandの我が家に向かい、家に着くとまず小犬のフランキーがいつものように私に飛びついてきた。私をよく覚えていたな。そして、Christaと対面。Hainsから一度連絡はしたが、私の余りにも早い帰宅に彼女はビックリしてた。残念ながら、Davidはもう南米に旅立ってた。Christaの友人のリアンもそこにいて、彼女とも久々の対面。そして、早速今晩のpartyに誘われた。

いやー、長かった。NZと違って、カナダ、アラスカはとてつもなくでかい国。よくも最後までヒッチで貫き通したと我ながら感心する。自分の意図する「旅」を考えた時に、今回の旅はかなり完成度の高いものだったと思う。先進国でこれだけの旅ができるとは思わなかったし、気晴らしで思い付いた旅なのに、おそらく一生忘れられない旅となるだろう。でも、カナダ、アラスカのヒッチは二度とやらない。もう懲り懲りだ。



 「ヒッチハイク哲学 〜理論編〜」

私は旅先でよくヒッチハイクのコツを聞かれるが、はっきり言おう。ヒッチハイクは運だ。それ以外の何物でもない。ただ、一般的な最低限すべき事はあるので、それらを中心に「哲学」らしきものを書いてみる。

まず、一番重要視しないといけないのは、運転手の立場でものを考える事だ。車が止まりやすい所をまず探す。路肩がなるべく広い所で、運転席から目につきやすく、車がスピードを落しやすい所だ。交差点の少し先とか、特にroundaboutの先は効果的。

次に、できるだけ運転手からの恐怖感をなくす。旅行者である事を分からせ、彼らに危害を加えない事も分からせる事が大事。だから、ヒッチボードで行き先を書くのは効果的。ただ、雨の日は極力避ける。濡れた人を乗せたがらないし、仮に自分が運転手でも同じ気持ちだと思う。

町中のヒッチははっきり言って難しい。まず、車が止まりにくいし、それ程遠くに行く人はいない。こういう時は、町外れまで歩くか、路線バスがあればそれを利用するのもいいし、あらかじめ地元の人にヒッチポイントを聞くのもいい。

もし、自分より先にヒッチハイカーがいたら、暗黙の了解で下流に回るのが礼儀。ただ、頭を使えば、あとで来たにもかかわらず車をgetできる方法がある。それは、前に立ってる人のわずか20mほどの下流位置で立つと、前のヒッチハイカーに気づいた運転手がブレーキをかけ、最終的に止まるのは自分の前になる。運転手はどちらのヒッチハイカーであろうが気にしない。しかし、こういう時は必ず運転手に前に立ってるヒッチハイカーも乗せてくれないかと頼むのが思いやり。ヒッチハイカー同士は同じ場所にいる時は、敵同士だが、そこを離れれば同じ辛さを味わう同士。ハワイ出身の曙と武蔵丸みたいなものだ。

一般的に、交通量が多いほど車はつかまりやすい。よって、目的地に二通りの行き方があるなら、交通量の多い道を選択するのが普通だが、これはあくまでも一般論で、交通量が少ない道の方が車が情けで止まってくれる事もある。だから、始めに述べたがヒッチハイクはすべて運次第。ヒッチ経験が長くなるほど、理論では語れない空気が分かってくる。ヒッチにもブラックジャック同様必ず流れがある。その流れを待ちきれるか。いい流れがすぐ来る時もあるが、大抵何時間も待つ事になる。

統計的に考えても、カナダ、アラスカのヒッチは車獲得率は1%もなかったと思う。それだけ難しかったし、人々はヒッチハイカーを乗せたがらない。仮に1%の確立とすると、車が多い通りでは100台待って1台得られるという事になるが、その待ち時間も少なくて済む。逆に、車の少ない通りではそれだけ時間を待たないといけないという事になるが、これはあくまでも理論で、実際は人情という計算できないファクターが絡んでくる。つまり、田舎ほど人は親切なのだ。だから、何度も言うがヒッチハイクは運でしかない。あとは、最低限守るべきルールを守って、ひたすらその運を待つのみ。

乗せてくれやすい順序としては、一番楽なのが女の子一人のヒッチ。かなり高い確率で成功するが、その分危険性も多く含んでいる。次は、女の子2人。私が一番お勧めするパターン。その次は、男女のカップル。一般的に、乗せてくれる運転手は男が多いので、こういう時は女の子が助手席に座るべし。次は、男2人で、一番難しいのは何と言っても私のような男一人であろう。しかし、男一人が時として一番楽になる時がある。それは、運転手がホモの場合だ。よって、やはりこれも運次第。とにかく、ヒッチは運でしかない。



 「ヒッチハイク哲学 〜楽しみ方編〜」

私がヒッチハイクにこだわるのには様々な要素がある。まずは、何と言っても経済的な理由。仮に、今回の旅をヒッチなしで行ってたなら、移動費だけで数十万円というコストがかかったと思う。もちろん、私の今回の移動費は0円(船に乗った料金は除いて)。

ヒッチで移動すると移動最中も旅になる。というのは、仮にバスに乗ってしまうと大抵は寝て過ごすであろう。それは非常に勿体無い。確かに、ヒッチにはかなりの危険性も伴う。決して女の子一人は薦めないし、アジア諸国では私はほとんどバスを利用してるし、アメリカ本土ではするつもりはない。

運転手は色々な意図で我々を乗せてくれるが、大体は暇潰しの話相手欲しさ。まあ、乗せてやろうって気の人も少なくないが。地元の人に載せてもらうと、地元の人からでしか聞けない様々な面白い話を耳にする。ガイドブックには載ってないような。観光客が乗せてくれる場合も、お互いの国の事など情報交換できる。仲良くなって方向が同じならそのまま乗せてくれるし。

待ち時間が長い分、乗せてくれた人々の温かさは身に染みて感じると思う。もしできるならささやかなお礼はすべし。それは、お金を渡すのではなくて、温かい気持ちをくれたのだから、こちらも温かい気持ちで返す。人によくされたり、良い情報をもらった後は、私は必ずそれを他の誰かに返すようにしてる。すると、面白いものでまた自分に返ってくる。世の中はこれの繰り返しだ。

とにかく、「旅」は辛い。「かわいい子には旅させよ」という言い伝えがあるが、これはその言葉通りだと思う。高い銭を払ってluxuryを求めたならば、本当の旅は味わえず表面しか経験できない何とも哀れな旅になるはず。そういう旅しかできないあほどもがまた他人に旅を語る。そして、それを聞きつけたくだらん旅行会社が彼らの欲求を満たすような更にくだらんツアーを考える。あほか。お金が物事の本質を台無しにしてるのは旅だけじゃないはずだ。

一旦、「辛さ」、「楽しさ」の両方を経験した後に、ふと我に返るとたくましくなった自分に気づく。それは「自信」へとつながるが、この「自信」は決して「過信」ではないことにも気づくはず。それは、楽しい部分に隠れてる辛い部分を体が嫌と言うほど覚えてるからだ。

でも、私はよっぽどのことがない限りヒッチハイクは人には薦めない。それだけ辛いのだ。



 
「ヒッチハイク哲学 〜頭脳・心理編〜」

さて、最後にヒッチハイクの上級編をここに紹介する。基本的なルールを把握したら、後は応用編。
ヒッチハイクはある意味、人と人との駆け引きでもある。つまり、相手側をこっちの間(ま)に引き込めばこっちの勝ちだ。それには色々な方法があり、そのいくつかを紹介する。

・笑って立つ
笑顔で立って運転手の恐怖感を和らげる。しかし、余りにも笑い過ぎるとかえって不気味なので注意。

・サインボード
私は基本的にはボードを持たないが、今回は始めから持つ事にした。その使いようは様々で、普通は目的地の地名を書くだけ。しかし、それを更に発展させ運転手の心理をくすぐる。私が今回行った作戦をいくつか書いてみる。

・・・わざと遠い地名を書く。これは運転手の同情を引く効果的な方法。「かわいそうやから乗せてやろう。」といった同情を引き出す。ただ、余りにも行き先が遠いので、「ちょっとしか進まないから、逆に申し訳ないな。」という逆の発想も起こりかねないのでこれも運次第。

・・・ヒッチボードにわざと多くの文字を書く。行き先以外に多く文字を書く事によって運転手の読みたいという気を引く。すると、間違いなく運転手はスピードを落し読もうとし、その内容が面白いと笑って止まってくれる。これはかなり効果的。

・・・逆の方向を書く。行き先と逆の地名を書き、親切な運転手が止まって指摘してくれるのを待つ。実際この方法を今回はやらなかったが、かなり効果的だと思う。

・・・ヒッチボードを芸術的カラフルにする。これは運転手の気をかなり引く。

・辛い格好をする
長時間待ってるという辛さを体全面で表現する。これは田舎に行くほど効果的。

・歩きながらヒッチをする
これは皆がよくやる方法だが、運転手の我々に対する恐怖感をかなり和らげる。つまり、実際に目的地へ向かってて、車を襲うつもりでないと分からせる事ができる。しかし、重たい荷物を持っての歩きながらのヒッチは少々辛い。

・車道のできるだけ近くでヒッチする
これは少々危険だが、「分かった、分かった、乗せてやるよ。」という運転手の同情を引ける事がある。

一つ一番肝心な事を忘れていた。それは、ヒッチの最中は絶対恥ずかしがらないってことだ。以上。