Chapter 3 「北極海はまだ凍っていた」

Circle- Prudhoe Bay (Arctic Ocean) - Fairbanks, Alaska(1156miles, 15rides)




Jun 18 Circle -Fairbanks (162miles, 2 rides)

Circleからは再びヒッチ生活。しかし、ここはかなりの僻地。人口も100人もいない所。ヒッチは大変になることは予想はついたが、始めに地元の人に5milesほど乗せてもらった後は悪夢だ。なんと、車が全く来ないのだ。周りは森で、道はもちろん舗装されていない。この日は気温もかなり上がり、風がない分蚊が寄ってくる。信じられん。とにかく、どうしようもない。歩いてもひたすら森の中やし。私は車が来るのを待ち続けるしかなかった。

そして、3時間ぐらい経ったか。一台車が過ぎた後の次の車をget。グラサンをした怖そうな兄ちゃん2人だったが、この一人のダリンは私に今晩家に来いという。私は一瞬この2人はホモだと思ったが、空気的に彼らはいい間(ま)を持っていたので、ダリンの言葉通り私は彼の家にお邪魔することにした。

Fairbanksに行く途中の峠では、まじでそのスケールのでかさに圧倒された。標高が高いので、木は生えていなかったが、ひたすら続く丘は礼文のエリア峠に行く道、西上泊に行く途中に見える景色の何千倍というスケール。風が強いのはいかにも礼文のようで、私は非常に懐かしかった。

そして、Fairbanksに入ったが、私は正直もっと小さな町を想像してた。しかし、highwayはあるし、それなりにでかい。人口8万ぐらいいる。町はホテル、みやげ物屋が建ち並び、観光一色で、夏はアメリカ人、冬はオーロラを見に来る日本人でいっぱいになるという。町の中心には川が流れてて、ちょっとした町ではあるがきれいな所だ。ちなみに、この日お世話になったダリンのうちは町から外れた高台にある(vol. 106参照)。



ダリン宅で一夜を過ごした後は、私はdowntownBPstayした。ダリンはもう一泊しろと言ってくれたが、それは申し訳ないし、少し買い物もしたかったので、downtowに行くことにした。私が泊まった宿はじいさん一人でやってて、いかにもやる気なし。当然、私が行った時点で客はいなく、私がテントを張りたいと言うと、

「まあ、今日も客が来ないだろう。」
ということで離れの部屋を使わせてくれた。ほんとやる気のないじいさんだ。Fairbanksは町の規模的にはそうでかくなく(始めはでかく感じたが)、それでいて何もかも揃っている。比較的、人は町の外れの高台に住む傾向があり、よって大型スーパーマーケットなどは町の外れにある。映画館も少し外れ。町の周りは丘に囲まれていて(いわゆる盆地)、よって夏は暑く冬は寒い。その寒暖の差はおそらくアラスカでも1,2を争うと思う。私がいた時も日中は30近かった。もちろん太陽は沈まないが朝晩は寒くなる。とにかく、すごく居心地が良く私は正直ここなら住んでもいいかなと思った。



 「ダリン宅でのBBQ

ダリン宅では、突然の私の訪問にもかかわらず、家族の皆さんは大歓迎してくれた。ダリン宅はFairbanksの外れの丘の上。私は始め、どこに連れて行かれるんやろうとまじで思ったぐらい町とは全く違う所。Fairbanksの人々は、こうやって町から離れて、丘の上に大きな家を構えて住んでいる人が多い。ダリン宅もかなりでかい。地下、1,2階とあり、でかい庭もあるし、何と言っても景色が最高。テラスにはBBQの一式があるし。私は、とりあえずシャワーを浴びた。ここまでの6日間、シャワーを浴びていなかっただけにその時の爽快感は言うまでもない。

この日は、近くに住んでる兄弟もやって来てのBBQ。みんな、突然の私の訪問であったが大歓迎で、特にここまでの道中には感心してた。カヤックをしている間、ろくな物を食ってなかったので、この日のサラダ、チキン、ポテトは無茶苦茶うまかったし、何と言っても野菜が食いたくて仕方がなかった。デザートはお母さんが作ったレモンパイ。これがまたうまい。私は、この日まさかこんな展開になるとは夢にも思わなかった。


食事の後も、ダリンを始め、家族の皆様は私に色々気を遣ってくれた。お父さんは電話会社に勤めてて、電話代はただらしい。だから、私に日本に電話するように薦めてくれ、私は何度も断ったが、結局することになった。私は海外は長いが、初めて国際電話をしたかもしらん。実家には電話したことがないし。しかし、折角の電話であったが実家には誰も居なかった。まあ、予想はついてた落ちだが。もちろん、internetfree。私は貯まりまくってたe-mailのチェックを試みたが、残念ながら日本人のメールは読めない。にもかかわらず、エンジニアのダリンは何とか日本語が見える様にと頑張ってくれた。

この日、私は久しぶりにベッドで寝た。なんて気持ちがいいのだ。貯まってた洗濯もできたし。次に日の朝は、お母さんがエッグマフィンを作ってくれた。遥かにマクドのよりもうまい。彼らは本当に色々気を遣ってくれてこちらの方こそ申し訳ない。私はヒッチハイカー。拾ってくれたダリンに、私の方こそ感謝をしないと。ダリンは、私にもう一日泊まっていけと言ってくれたが、これ以上甘えるわけには。折角の誘いだが、私はお断りした。ダリンは、今年の8月から3年ほど旅に出る。旅に関しては素人で、私に色々尋ねてきた。もちろん、できる限りの情報をアドバイスはしてあげたし、いまだにメールで連絡は取り合ってる。彼は本当に心の優しいいい奴だ。ありがとう。




Jun 20 Fairbanks -Gobblers Knob (215miles, 5 rides)

町からのヒッチはいつも大変。かと言って、この町のhighwayは歩行者禁止になってる。よって、ヒッチポイントを探すのがかなりの苦労。私は前日にあらかじめそれらしき所を押え、この日そのhighwayの入口でヒッチを開始したが、思った通りヒッチは大苦戦。車は通るが誰も止まってくれない。でも、ここから動きようがないし。結局、ここで3時間近く待って、町外れまで乗せてくれるというおっちゃんをget。このおっちゃんは本当に親切で、仕事中だというのにわざわざヒッチがしやすい町からかなり外れた所まで乗せてくれ、

"Welcome to Alaska."
と私を歓迎してくれた。いい人やったな。

そこからも苦戦。町外れになると、そう蚊が寄ってくる。ここで1時間ぐらい待って、rock climbingに行くという地元の学生がpick up。私もそれに誘われたが、遊んでる場合じゃない。

ここまで来ると道はダート。周りはすっかり山の中。交通量も少なくなったし。そこでは、Fairbanksに住む夫婦ルークとスーザンがstoppedvol. 112参照)。そして熊狩りに行くというおっちゃん2人(ライフルが私の真横にあった)を次いで、ようやくYukon Bridgeまで来た。

ユーコン川とは久しぶりの再会。相変わらず流れは速いし淀んでいる。橋はもちろん金属で作られてるが橋の上は木造。私は久しぶりにユーコン川と会ったので、ここでテントを張ってもいいかなとも思った。時刻はこの時点で、午後7時ごろ。でも太陽は沈まないし、できれば夏至の日までに北極圏に入りたかった。よって、さらに先に進むことにしたが、相変わらず車は止まってくれないし、ここまで来ると交通量も極端に少なくなった。それでも私はヒッチを続け、そして普段は絶対止ってくれないキャンピングカーをget。止ってくれたのはTexasからのじいさん(Jimじいさん)。たまたま、じいさんの奥さんが後で合流するというので、この時はじいさん一人だった。よって、乗るスペースがあった。じいさんの英語はTexas訛り。聞き取りにくかったな。


とりあえず、じいさんと2人で北極圏を目指した。北に進めば進むほど周りの木々は少なくなってくる。フラットの平原も増えてくるし。その規模は広大。野生動物も姿を現す。道路が舗装されていない分、車が通りすぎる時はすごい砂埃。トラックが通るとわやだ。アラスカを旅してる車、地元の人の車は、ほぼ100%運転席の前のガラスに亀裂が入ってる。車がすれ違う時に小石が飛んでくるからだ。手でガラスを抑えてその衝撃を緩くすると効果的なのに、彼らはそうしない(なぜだろう?)。お構いなしなのかな。

北極圏では簡単な記念撮影で澄まし、これから少し先にある丘にじいさんは行きたいと言って、我々は更に進んだ。ちなみに、北極圏にはキャンプ場はあったが、人が多いしおびただしい蚊がいたので、私もここに泊まるつもりではなかった。北極圏から17miles程しか離れていないこの丘は、横で工事はしていたが眺めは最高。我々はここで面白い一団にあった。

彼らと私は、ここに来るまでに何度も追い越したり、追い越されたりを繰り返してた。実際には、いつも私が先手で、車で移動してる彼らが私よりも遅れていたのには、彼らはその度にびびってた。私を追い越す時はいつも彼らは手を振ってくれてた。彼らは私を乗せてくれようとしていたが、何しか車にスペースがなく、彼らも申し訳なさそうに断ってた。でも、本当にいい一団(車4台)で、話によると、この次の日にここから更に上に歩いて上がった高台で結婚式を挙げるという。めでたいことだ。この日は彼らはこの先の町のmotelに泊まると言って、先に進んだが、最終的に彼らも私と同じPrudhoe Bayに行くという。我々は再会を誓った。





 「太陽の沈まない白夜の世界」

夏至の前日の620日。私は無事ここまで乗せてくれたジムじいさんと北極圏に入った。もちろん、この時期太陽は沈まない。私は頭の上で太陽が回るのを是非見たくて、この日は天気も良かったし、夕暮れを楽しみにしてた(と言っても、もちろん深夜だ)。じいさんと一緒に来たここGobblers Knobは眺めは最高。一応、丘の頂上なので、周りが見渡せる。じいさんはキャンピングカーなので車で寝られるが、私はこの丘の上でテントを張ることにし、じいさんもここで泊まることになった。

太陽がだんだん低くなるに従って、じいさんは絶対sunsetを見ると言い出した。私は何度も、

「だから、太陽は沈まへんって。」
と言い聞かせたが、じいさんは聞かない。そして、何を血迷ったか、ここから少しある丘に登ると言い出した。もちろんここは車では行けない(一応、工事用の車道はある)。そして、その頂上に向かってビールを片手に歩き始め、

「お前も来い。」
と言ってきた。よく見るとその尾根にtrailらしきのがある。そこを歩けばいいのに、じいさんはひたすらツンドラの斜面を歩く。草と潅木だけなので、まあ歩くことはできるが、歩きにくいし、何と言ってもおびただしい蚊だ。そして、じいさんはすぐへたってた。

そこの頂上からの眺めは最高で360のパノラマ。この広大さは、さすがはアラスカと思わせるもので、この広大な土地にDalton highwayの一本道とAlaska Pipelineはやたら映えてた。そして、じいさんとビールで乾杯。周りには何もない分、ここは風が強く、よって蚊はいない。これはラッキーだ。

この時点で午前0時少し前。理論的には午前0時が太陽が最下点に来ることになる。我々は午前0時半近くまでここで太陽を眺め、寒くなってきたので、この丘を下りることにしたが、太陽をよく見ると更に赤くなってきているし、まだ下に沈んでいる。そうだった。私は肝心なことを一つ忘れてた。今は、summer time実施中なので、通常よりも1時間早いのだ。それに、ここはアラスカの時刻を表わす子午線よりもずれている。よって、計算してみると、ここでの太陽の最下点は午前1時半頃。我々は丘を下りて元の位置に戻ったが、たまたまそこにアリゾナから来てた兄ちゃん2人も太陽を見ようとしていたので、一緒に話しながら時間を潰した。

そして、午後1時半頃。我々が話していると、山の向こうの太陽が上がり始めてるでは。正確には、こちらからは山脈が錯覚になって、どうも真横に進んでる。一般的に、太陽は我々のいる位置から遠くなるほど、赤っぽく見えるが(これは太陽が発する様々な光線のうち、波長の短いものほど大気に吸収されてしまうからだ)、しばらくすると明るくなってきた。うーん、神秘的だ。

白夜は理論的には分かるが、いざ体験してみると何とも不思議な世界。「太陽が沈まない」、普通の生活では考えられないことだ。もちろん、冬は太陽が昇らないということになる。太陽が四六時中あるってのは不思議だ。子供は夜まで遊んでるし、明るいから寝るのが勿体無い。テント内では明るくて寝られないし。この北極圏に来るまでは、緯度が高くなるほど日が長くなってきたが、ここまでは一応太陽が沈んだ(沈んでも、すぐに上がってくるので真っ暗にはならない)。でも、ここでは本当に沈まなかった。分かってはいるけど、本当に不思議な現象。神秘的だ。ちなみに、2001年度の夏至と冬至のアラスカ各地の日の出、日の入り時刻を下記に示す。















 

Jun 21 

Dec 21

 

Sunrise

Sunset

Sunrise

Sunset

Barrow

Sun never goes down.

Sun never comes up. 

Fairbanks

2:59

0:49

10:59

14:41

Anchorage

4:21

23:43

10:15

15:42

Juneau

3:52

22:08

8:45

15:08




Jun 21 Gobblers Knob -Deadhorse (Prudhoe Bay) (282miles, 6 rides)


先に言おう。この日のヒッチが、この旅で一番hardだった。

Jimじいさんと別れてからは(じいさんは奥さんをpick upするために南に戻らないといけない)、再び北を目指してヒッチ。しかし、車が通らない。北極圏を過ぎると本当に車が少なくなった(少ないと言うよりも、通らないと言った方がいいかもしれない)。そんな中、ここから少し先のColdfootの工事現場に行くという兄ちゃんがトラックの荷台に乗せてくれた。

pick up truckはカンボジアで嫌というほど乗っていたので、非常に懐かしかった。カンボジアの道はほんと最悪(特に、シソポンからシェムリ、詳しくはasia2000参照)。それに比べりゃ、ここも同じダートだが全く問題なし。荷台から見る景色は非常に素晴らしい。丘を越えてからは山脈も多くなり、天気は今一つだったが、非常に心地いい。

Coldfootからは更に北へと思っていたら、なんと前日の結婚式の一団の一台の車と偶然に会った。彼らは前日ここに泊まったみたいだ。Prudhoe Bayまでヒッチしてる人が珍しいのか(多分他にいないと思う)、彼らは私にサインを求めてきた。それと写真。芸能人並みだ。そして、この日は車にスペースがないのを承知で、私も少し先まで乗せてくれた。この気持ちには頭が上がらない。彼らは私を応援してくれている。夜の結婚式の準備で忙しいというのに。このうちのあるおばちゃんはアラスカのどこかのNPvisitor centerで働いてて、

「今まで色んな日本人が訪ねてきたけど、添乗員さんも含めて、あなたの英語が一番うまいよ。」
と誉めてくれた。私の英語はまだまだpoor。一体どんな人達と接していたのだろう。


彼らと別れてからもヒッチを開始したが、本当にここまで来ると車が来ない。もちろん、この辺りは北緯65度を超えている。それと、周りの景色がかなりいいので、車をひたすら待ってるのも勿体無いし、私はトレッキングがてら歩きながらヒッチすることにした。山々の頂がまだ雪で覆われ、山というよりも山脈なので、利尻富士を見慣れてる私には、山脈の方が新鮮だ。空気もきれいしな。

しばらくして、今度はアラスカ大学の学生3人がpick up。詳しいことは分からんが、彼らは生態調査らしきものをしている。私を合わせて4人で車を走らせたが、それにでかいワン公がいて、こいつがやたら私を気に入って、ずっと私にくっついたままだ。おい、暑苦しい。まるで満員電車だった。途中で、野生の鷲を見たのには感動した。でかいし、何と言っても飛び方が優雅で、それはNZのダニーデンで見たアルバトロスのようだった(NZ1998参照)。

それから、再び歩き始めた。今度は上り坂。重たいバックパックが私の肩に圧し掛かる。丘を越えた所には、広大な平原が広がってて、この辺りからはほとんど木がなくなった。平原は湿地帯のようだ。それにしても、車が一台も通らない。私は3時間ぐらいひたすら歩き続けたように思う。

そして、3人家族をget。彼らは、この近くのB&Bを探してるという(一緒に今晩泊まろうと誘われた)。またしても、short distance。どうも小刻みリレーで、まるで阪神の投手陣のようだ。彼らはFairbanksに住んでるが、元々はBoston出身。Bostonと言えば、そうRedsox。野茂がいる球団。彼らはもちろんRedsoxのファンで、野茂のことも知ってるし、イチローについては「信じられないほどすごい選手」と絶賛してた。


しばらくすると、Brooks Rangeに差し掛かった。ここはFairbanksからPrudhoe BayまでのこのDalton highwayの最大の難所。windな道を駆け上がり、峠は無茶無茶寒い。周りはまだ雪が残ってる。ここで、dall sheepを見た。彼らはなぜか急な斜面で住んでいる(どうやって寝てるんやろう)。

そして、彼らに峠を降りた所で降ろしてもらったが、峠の反対側はまるっきり別世界。木はないし、周りはひたすら平原。そして、異常に寒いし、雨が降ってる。Dalton highwayはダートなために、所々でトラックが水を撒いている。ここでもそうで、それに雨が伴って道はどろどろ。私は雨宿りをしようと思ったが、なんせ木がない。突っ立ったまんまやと寒くてどうしようもない。もう歩くしかない。

30分ほど歩いて、今度は大型トラックがpick up。トラックは基本的に止ってくれないが、ここまで来たら情けやろう。しかし、またもや50milesほど。どうも長距離は行けない。この兄ちゃんは怖そうやったがほんと気を遣ってくれ、サンドイッチをくれたり、チップスをくれたり。私はこの時本当に申し訳ないと思った。それは、こうやって親切にしてもらっても、私ができることは、「ありがとう」としか言えないことだ。ちょっとハンカチを落して拾ってもらっても、「ありがとう」。しかし、その「ありがとう」とこの「ありがとう」は全然違う。もっと他にいい言葉はないのか。私は真剣にそう思った。

T字路で兄ちゃんに降ろしてもらった後は地獄だった。車は全く来ないし、雨も激しくなってきた。しかし、歩く以外どうしようもない。この日は「夏至」。夏至にどうしても北極海に着いておきたかったが、ここからまだ100miles以上はある。どこかでテントを張ってもよかったのだが、時刻はまだPM7時。ここまで来たら行くしかない。しかし、雨はひどいし、周りの湖はまだ凍ってるほど寒い。そんな中、私はひたすら歩き続けた。

2時間は歩き続けたと思う。その間、当然車は一台も通らない。そして、車がようやく来たがそれはshuttle bus。運転手のねえちゃんは、私を乗せてくれようとしたが、それはお金を払って乗ってるお客さんに申し訳ない。よって、私はそのofferを断って、またもや歩き続けた。

しばらくすると、今度はpipelineで働いてるおっちゃん。始めは通り過ぎたが、これも情けやろう。おっちゃんは戻ってきてくれた。おっちゃんはやたら飛ばす。知らん間に、さっきのbusを追い越した。おっちゃんには仕事のことを色々聞いた。色々親切に教えてくれたし。当初は、Prudhoe Bay80milesほど手前のHappy Valleyで降ろされる予定だったが(労働者用のstation)、おっちゃんと私はすっかり仲良くなり、ここでガスを入れ、コーヒーや果物をいっぱい持って来てくれ、おっちゃんは深夜(でも、明るい)やというのに、わざわざPrudhoe Bayまで飛ばしてくれた。いい人やな。

DeadhorsePrudhoe Bayはあくまでも湾の名前で、そこの中心の町はDeadhorse)に行く道はツンドラの平原の中にひたすら一本道があるだけ。周りには所々トナカイの集団がいる。Deadhorseに着いた時はもう0時近かったが、残念ながらこの日は曇ってて夕日は見られなかった。テントを張る所をわざわざおっちゃんも探してくれ、私は空港の前の敷地でテントを張ることにした。そして、おっちゃんの車から降りると(おっちゃん、本当にありがとう。)そこは真冬だ。気温は28°F(マイナス2ぐらいかな)。近くの湖は凍っている。私はとりあえず湖の水を汲んでラーメンを食って、持ってきた服を全部着込んでテントで寝た。そう、私のシュラフは夏用なのだ。

いやー、長い一日だった。小刻みリレーで何とかここまで来れたのは、まさしく阪神の勝ちパターンだ。先発の薮でこけて、中継ぎで何とかふんばって、遠山、葛西で締めくくったってとこかな。というか、この日は徳川家康の気分かな。
「泣かぬなら、泣くまで待とうホトトギス。」

「自分で自分を誉めたい。」
久しぶりの有森祐子の気分でもあるな。





 「北極海での一時」

Deadhorseに来た目的は、もちろん北極海(Prudhoe Bay)に行くことだし、この旅の最大の目的でもある。Deadhorse自体は、単なる労働の町といった所で、お店は一軒だけあるが、そこは半分観光客向けのお土産や、半分ここで働く人達の生活用品が売られてる。レンタルビデオもあるし。Deadhorseでは、Prudhoe Bayに行くか工場見学以外する事がない。ここは我々個人での立ち入りは禁止されており、ホテルが主催する見学ツアーに参加するしかない(Prudhoe Bayだけなら$25、工場見学込みなら$50)。このツアーは一日34回ある。Prudhoe Bayだけのツアーなら1時間ほど。この日、私は午前11時からのツアーに参加する事にした。

私以外にもアメリカからの老夫婦、Denaliで働く女の子2人がいた。北極海での私の目的はもちろん泳ぐ事。一応、海パンとバスタオルは持って行ったが、何と言っても気温は0近く。近くの湖もまだ凍っている。一体、北極海はどんな状態なのだろう。そして、我々を乗せたバスは工場を通りすぎ、いざ北極海へ向かった。

工場地帯を通り過ぎると、周りは何もなくなった。そして、北極海とご対面すると、岸から30mほどは溶けているが、それより向こうはまだ凍っている。バスから降りてみると、まだまだ真冬の寒さで、遮るものがないので風も強い。水温については言うまでもない。目の前は一面氷の平野が広がっている。岸沿いの水はそれ程きれいじゃない。流木も所々見かけたし。これはあかん。こんなところで泳いでる場合じゃない。よって、終了。この時は、我ながら自分の根性の無さを痛感した。お笑いタレントならもちろん飛び込むんやろうなと思ったりもした。でも、私は素人やし。

この海の向こうはもちろん北極点だ。この近辺では石油が採れ、所々海から炎が上がってた。ここで働く人に聞いていると、この日は無茶苦茶温かいと言ってた。そりゃそうやろう。冬は極寒やからな。私は、海をボーッと眺めながら、ついにヒッチでここまで来たなと道中を振り返ってた。でも、マラソンで例えるとここが折り返し地点。それを考えるとゾーっとした。



 「熊との遭遇」


Prudhoe Bayを見学した後、私はDeadhorseをぶらぶらしてた。とそこに、フォークリフトに乗ったおっちゃんが、

「おい、どこ行くんや。こっちに熊がいるから見に来い。」
と言ってきた。私は、始め何を言ってるんやろうと訳が分からんかったが、いざおっちゃんが言ってくれた方向に行くと、な、な、なんと、でかいごみ箱の中でグリスリーがゴミをあさってるでは。周りには人が数人いて、警備の車やパトカーもいる。このグリスリーは体長は3mはあったと思う。かなりでかい。そして、フォークリフトに乗ったおっちゃんがそのリフトに私を乗せてくれ、わずか10mぐらいの距離まで近づいてくれた。グリスリーは鋭い歯とその力で、ゴミ袋を噛み千切っている。おっちゃんが言うには、これぐらいのグリスリーなら人間を2分以内に殺してしまうという。私は、初めて間近で見たそのグリスリーのパワーに圧倒されっぱなしだった。おっちゃんはと言えば、この辺りで熊が出るが頻繁なのか、全く普通で、

「お前、ところでカメラ持ってるか。ここからはいいアングルやから撮ればいい。でも、このズームではいまいちやな。もう少し近づいてやる。」
と呑気なもんだ。私は何枚か写真は撮ったが、おっちゃんは、

「おいおい、今熊が立ったやろう。今のを撮らんかい。今のアングルは絶妙やで。」
と全く訳の分からん事を言ってる。おかげで、私はこのグリスリーに10枚近くフィルムを使ったしまった。極めつけは、

「お前はどこの出身や?おお、日本か。日本には、駅の近くにベッドだけいっぱい並んだ安いホテルがあるらしいが、そこは酔っぱらってても泊まれるんか?
と、目の前に熊がいるというのに、なんでカプセルホテルの話せなあかんねん。おまけに、パトカーに乗った警官も私の所に来て、


「今晩、テントは気を付けろ。まだ熊がこの辺りに潜んでいるから。ところで、お前は日本人か。俺も昔神戸には行ったぞ。」
と間近に熊がいるというのに世間話を仕出した。全くどうなってるのだ。

この辺りには、現在14頭ほどの熊が住みついており、ここの労働者が出すゴミを頻繁にあさりに来る。毎日のように熊が出て、すっかりここの人々は慣れてしまってる。そして、各熊には名前がついてるみたいで、私がこの日見たのはテディー(名前を付けてる場合じゃないやろう)。警備の車は四六時中この辺りを走ってていつも監視してる。ここには労働者用の宿泊施設も多いが、その入口には必ずごみ箱があり、ゴミをとにかく特定の場所以外には出さない様にしてる。熊が寄ってくるからだ。

私は、この日の朝Whitehorseで会った日本人ライダーとここで再会して、熊の話をお互いして、こんなところには熊は出ないやろうという結論に達したが、とんでもなかった。今思えば、前の日はテントの中でご飯を食べ、食糧はテントに置きっぱなしだったのはまさしく自殺行為だ。私はこの熊との遭遇の途中で、大変な事に気づいて、それはこの現場から私のテントまでは50mほどしか距離がないってこと。私は熊に見つからん様に急いでテントに戻って、食べ物をテントから離れた所に置いた。そして、この晩は警官と航空会社の人々の計らいで、私は監視塔の中で寝る事になった。

それにしても、この突然の熊との遭遇にはまじでびびった。警備の人は常にいるが、彼らは熊が出て来ても殺さない。だから、熊は毎日のようにここに戻ってくるし、ゴミがある場所をもう覚えてしまってる。この敷地内のどこかで隠れてるのもたまにいるとか。全く困ったところだ。熊もそうだが人もそうだ。お前ら、もっと気を引き締めんかい。



 「北極海で働く人々」

ここPrudhoe Bayでは、何と言っても石油が出る。この敷地の規模は北米一で、ここから南のValdezまでAlaska Pipeline800 miles続いている。そして、アメリカ本土の他の48州に運ばれる。そのスケールは壮大ではあるが、その分メンテナンスも大変で、その途中には12station(実際機能してるのは8かな)があり、ヘリコプターが常に上空からこのPipelineを監視している。

Prudhoe Bayには、多くの石油会社とその関連会社が乗り込んでいて、その従業員は数千人。冬になると倍になるらしい。勤務時間は、日中と夜勤の2交代制で、2週間働いて、2週間休みというシステムになっている。休みには、ここからFairbanksAnchorageなどへ専用の飛行機で皆自宅へ帰る。ここまで、毎回車で来てたらわややし、飛行機でしか行けない所から来ている人もいるからな。

ここで働く労働者は、とてもfriendlyで、お互い車ですれ違う度に手を挙げて挨拶する。それは、観光客にも同じで、私が歩いてるだけでも挨拶してくる。彼らは、この敷地内に数ヶ所あるホテル(モーテルって言った方がいいかな)で寝泊まりしており、食事はバフェ形式になっている。もちろん、3食無料だ。ここにある一軒しかないお店には、食料品が売ってなかったので、というかこれだけ食事をちゃんとしてくれてると、個人で作る必要はないのだろう。その料理の質も悪くないし色々ある。飲み物も飲み放題だが、法律でアルコールは禁止されてる。酒を飲んで働いたらえらい事になるからな。

ここに来る観光客は、北極海に行くツアーに参加する以外やる事がないので、ツアーの時間までに着いた人は、それに参加してすぐに逆戻りしていく。夜に着いた人は、朝のツアーに参加してすぐに帰る。それぐらいここはやる事がない。しかし、私はここに二泊した。もちろんテントを張ってるのは私だけ。二泊もする人は珍しいのか、私はここの人々とかなり仲良くなった。熊騒動で警官とも仲良くなったし。私はこの辺りを散歩しようと思って、午後2時ぐらいに歩き始めたが、そうすると色々な人が話しかけてきた。その間に熊騒動も起こったのだが、これから勤務に行くというおっちゃんが止ってくれたりして、

「どこ行くんや。乗っけたる。」と乗せてくれて、ドライブをしてくれるのはいいのだが、また同じ場所に戻される。私が行きたいのは別の方向。そして、また歩き出すと、今度は違うおっちゃんが、

「ちょっとドライブしてやる。」とまた私を乗せてくれる。このおっちゃんもこれから勤務に行くというので、その前にホテルに晩飯を取りに行った。もちろん、私の分も取ってきてくれ、その弁当箱には、野菜炒め、春巻き、サラダ、チャーハンとばっちりのメニューで、おまけに大量のリンゴジュースをくれ、

「いいか、食べた後のゴミはちゃんと捨てるんやぞ。そうじゃないと、熊が匂いを嗅ぎつけるから。」
とまたもや私のテントの所まで戻された。一体どうなってるのだ。

結局、散歩を始めたのは午後6時を回ってた。いざ、散歩を始めたのはいいが、もうすでにかなり寒くなってたので、速攻止めた。一体、この4時間は何やったんやろう。










Jun 23 Deadhorse (Prudhoe Bay) -Yukon Bridge (358miles, 1 ride)

Deadhorseからのヒッチはまたまた苦難になることは予想はついていた。なんせ車は通らんし、人はいないし。Alaska pipelineの人々は止ってくれないのは仕方ない、と言うか止ってもらっても仕方ない。彼らは、近くのstationに仕事をしに行くからだ。長距離トラックも無理。よって、ひたすら乗用車を通るのを待つしかない。可能性は、前日ここに着いて、午前中のツアーに参加した人が帰るのを待つ。となると、正午近くなる。それまでの時間は勿体無いので、私は重い荷物を背負いながら、てくてく野鳥を見ながら2時間ほど歩き続けた。

そして、私の予想通り、正午過ぎに観光客をget。その車はドイツから来ていたキルシュナー夫妻。彼らは英語がほとんどできない。しかし、辞書を使ったりして色々話してくれる。飲み物をくれたり。私はこの気遣いには頭が上がらなかった。

Fairbanksまでは行きと同じ道を帰るので少々退屈。ただ、行きは天気が悪かったが、今回は天気に恵まれたので、特にBrooks Range周辺の景色は最高だった。2人はColdfootmotelに泊まる予定で、私はここで降ろしてもらったが、しばらくするとまたまた2人がpick upしてくれた。motelは満室だったそうだ。ここまで来ると、北極海周辺の寒さが嘘のように、かなり暑い。特に、Coldfootは年最高気温と最低気温の寒暖差のアラスカ記録を持ってるほどで、この日も30近くあったと思う(ちなみに、Deadhorseでは2ほどだった)。そして、2人の行き先のYukon Bridgeまで一緒に行くことにした。今回は楽なヒッチだった。

Yukon Bridgeで私も泊まろうか迷った。というのは、ここからFairbanksまでそれほど遠くない(と言っても、200km以上はあるが)。しかし、ひょっとしたらという気持ちはあった。それは、時間的に考えて、Circleで別れた他のカヤック連中は、大体この日がYukon Bridgeに差し掛かる頃だ。そして、いざYukon Bridgeに着いてみると、見慣れたテントが。そう、トステンのだ。我々は久しぶりの再会を果たし、よって私も彼の横でテントを張ることにした。

カヤックをしていて一番困るのが、シャワーを浴びられないことだ。結局、トステンはDawson Cityを出てから浴びていない。もう10日は経つ。所々にある集落で浴びられるのだが、シャワーだけで$10近くする。これはあほらしい。このYukon Bridgeにあるmotelもそうで、飲料水もただではくれないぐらいけちってる。一体どうなってるのだ。そこで、私はここまで乗せてきてもらったキルシュナー夫妻に頼んで、トステンのタンクに水を汲んでもらうことにした。トステンも彼らもドイツ人なので、もちろん彼ら同士は話が進む。ユーコン、アラスカとやたらドイツ人が多い。それは、ドイツのフランクフルトからWhitehorseまで直行便があるからだ。

残念ながら、ここまで来ると彼らカヤック団体もバラバラになってしまったらしい。健一君は先に行って、ドイツのおっちゃん2人はトラブルがあって遅れているという。私はDeadhorseで仕事場のおっちゃん達から色々もらった差し入れをトステンにあげた。これでトステンともお別れやな。それにしても、またもやおびただしい蚊だ。全く彼らはどうなってるのだ。





  「生態系の移り変わり」

アラスカ、ユーコンと道が少ない分、移動の最中は同じ道を走り続ける事になる。土地がでかい上に、長く走れば走るほど周りの景色の変化の気づく。特に、このDalton highwayは真っ直ぐ北に向かう分、その変化は顕著だった。

Fairbanks周辺は、いわゆる冷帯気候。針葉樹を中心に、所々白樺のcolonyがあり、この時期綿毛を飛ばしてる。花粉症の人にはかなり辛いやろう。針葉樹は、真っ直ぐに伸び、枝分かれしていないのがほとんど。建築資材にはもってこいだと思うが、その強度は分からない。この樹形はユーコン川周辺でもそうだった。

北極圏近くまで来ると、針葉樹のcolonyよりも、ツンドラの平原が目立つようになり、Brooks Rangeを超えてからは、木々はなくなり、気温もかなり下がって、ツンドラの平原のみとなる。この生態系の変化は、土地がでかい国ならではで、OZのアデレードからダーウィンを旅してる時もそう感じた。あの時は、温帯からステップ、そしてサバナ、熱帯雨林へと。

アラスカの場合は、この生態系の変化にさらに白夜が拍車をかける。夏は、日が沈まないし、雨が少ない分、針葉樹林が乾燥し易い。そして、乾燥しきった森林に稲妻が落ち、山火事が発生する。ただ、この山火事は望まれたもので、集落に影響を与えない限り、火はそのままにしておく事が多い。というのは、手付かずの森林が多いので、その寿命で枯れ果てた木々がそのcanopyを独占して、新しい木々の生長を抑制するからだ。もちろん、一旦山に火が点くと、その若い芽も焼かれてしまい、動物にも影響を及ぼすが、土壌にはいい肥やしとなる。それが自然の摂理で、うまい具合にそのサイクルが輪廻している。ただ、山火事が一旦起こると、実際火は消えても、その根元では火はくすぐり続け、いつ再び発火してもおかしくない危険性は常に存在する。

私はこのDalton Highwayを移動中に、所々その焼け跡を目にしたし、枯れ果てた木々が占領する惨めな集団も目にした。アラスカは土地がでかいが、人口が少ない分、まだまだ原生林が土地の大部分を占める。おそらく、これらはこれからも保存され続けると思うが、これら生態系を変える要因は、過剰なまでの狩猟と、地球規模の環境破壊(特に温室効果)以外には考えられない。



Jun 24 Yukon Bridge - Fairbanks (139miles, 1 ride)

Fairbanksに向かう朝は、トステンと色々話したり、visitor centerの人々と話して、結局昼前のスタートとなった。ここからのヒッチは先が見えてるので楽だ。しばらくして、キャンピングカーを引っ張ってたおっちゃんをget。おっちゃんは工事現場で働くトラックの運転手。アメリカのミネソタからわざわざここまで来てる。このキャンピングカーは中古で30万円程で買ったらしいが、中は普通の家と変わらないほどの設備(東京の1 roomマンションよりも遥かにいい)。おっちゃんとは色々話した。Fairbanksまで休む暇なくずっと話してたと思う。仕事の話、拳銃の話(vol. 112参照)。

そして、Fairbanksの外れで降ろされて、てくてく元いた宿に戻ったが、相変わらずじいさんはやる気なし。この日も客は少なく、

「先週末は10人も来た。」
と私に自慢してたが、この稼ぎ時に10人でどうすんねや。

ちなみに、今回のFairbanks滞在は、少しの休憩とダリンやルーク&スーザンに会うためでもあった(vol. 113, 114参照)。それにしても、この町はいい所だ。ここならまじで住んでもいいと思う。NZTaurangaに次ぐ居心地のいい町だ。



 「アラスカの道路事情〜工事現場のおっちゃんより〜」

Yukon BridgeからFairbanksまで向かう道中は、ミネソタから来てた道路工事用のトラックの運転手のおっちゃんに乗せてもらった。おっちゃんとはひたすら話してた。その分色んな事を教えてもらった。

おっちゃんにとって、アラスカは今回が初めて。仕事をしながら購入した中古のキャンピングカーで生活をしている。おっちゃんがわざわざアラスカまで来たのは、もちろんギャラがいいからだ。ちなみに、おっちゃんのミネソタでの年収は$45,000ほど。ここでのギャラはそれを遥かに超える。仮に、Fairbanksなど町中での仕事をすると、大体時給が$30。しかし、町を外れると、今度はアラスカ州の管轄になり、時給も$36にアップ。労働時間が週40時間を超えると、BC州同様、超過分の給料が1.5倍にアップ。よって、仮に超過分も考慮して、週に72時間働いたなら、税(25%ぐらい)を引いても、手取りで週$1,800は稼げて、月に換算すると$7,200は稼げる。労働の期間は、6月から9月と限られてるが、その期間だけでも$30,000は稼げて、地元のアラスカ民の中には、これだけで冬は遊んで暮らしてる人もいるという。これはおいしい。北極圏を越えると、その労働者すべてに宿泊所と食事が支給されるらしい。

おっちゃんは冬もここに残ると言ってた。ちなみに、奥さんももう直ここに来る。冬は道路工事はないので、FairbanksからDeadhorseまでの物資の運搬が仕事となり、月に何度か運搬するだけで、月$6,000近く稼げると言ってたが、これはかなり危険だ。なんせ、峠は越えなあかんし、道は凍ってるし、何と言っても極寒やからな。


私はおっちゃんに、なぜこの辺りの道を舗装しないのか聞いてみたが、おっちゃん曰く、仮に舗装してしまうと冬の寒さですぐに道路が傷んでしまうからだという。その補修工事用の労働者を常に確保できないのが問題だとも言ってた。考えてみればそうだ。冬の寒さで道路の水分が凍って、その体積の増加で道路には簡単に亀裂が入る。そう考えると、まだダートの方がいいかもしれない。これらの問題は土地が広く、極寒地のアラスカならではの問題だ。


おっちゃんには、拳銃の事についても聞いてみた。おっちゃんはミネソタにいる時は常に拳銃を携帯してる。それは護身用のためで、その証明書は犯罪歴のないおっちゃんは簡単に手に入る。ヒッチに関しては、アメリカのほとんどの州は違法で、乗せる側もヒッチハイカーを怖がると言ってた。そして私に、

「俺はお前を殺す気はないから心配するな。」
と笑ってたが、こういう会話は笑い事やないやろう。でも、このおっちゃんもほんといいおっちゃんやったな。



 pub巡り〜Fairbanks編〜」

Prudhoe Bayに向かう前日に、夜少し時間があったので、downtownpubに向かった。私がたまたま入ったpubnativeのインディアンしかいなかった。そうなると、人は人懐っこく話しかけてくる。私がカウンターに座るやいなや、あるおばちゃんが話し掛けてきて、結局しばらくこのおばちゃんと話すことになった。

私は地元のビールを頼んだが、カウンターにいる他の人々は全員バドワイザーを飲んでいる。よくもあんな不味いビールが飲めるもんだ。私はその疑問をこのおばちゃんにぶつけてみると、

「バドは世界No.1よ。これよりいいビールはないよ。」
と言ってたが、彼女達の味覚はどうなってるのだ。そして、おばちゃんはバドワイザーの意味を教えてくれた(ほんまかな?)。

But (b), you (u) deserve (d) what (w) every (e) Indian (i) should (s) enjoy (e) regularly (r).

このおばちゃんの旦那は、私が次の日にヒッチで北へ向かうと言うと、

「いいか、紙に南のValdezと書くんだ。すると、何台か車が止ってくれ、間違いなく方向が違うと指摘してくれる。そして、言うんだ。まずは北へ向かうと。」
なかなかいい案だ。これは使える。

この2人が帰った後は、また違うおばちゃんが近寄ってきた。このおばちゃんはかなり酔ってるし、どうやら私を誘ってるようだ。余りにもこのおばちゃんはしつこいので、私はこのおばちゃんを軽くあしらって帰る事にした。


Prudhoe BayからFairbanksに戻った後は、ダリンと飲み屋に行く事になった。この日行ったのは町から少し外れたホテルの飲み屋。となると、客は白人ばかり。私はダリンには世話になっていたので、この日は全部私のおごり。ダリン自身、この町には5年ほどいなかった。ロシアに行ったり、コロラドでしばらく働いてたからだ。ここには以前よく来たらしい。我々が入ると、そこにはダリンの友人が数人いて、我々はそのうちの女の子3人と一緒に飲む事になった。彼女達はダリンの高校の同級生。そのうちの2人はもう結婚している。私は旦那を放ったらかして、こんなところで飲んでていいのかを聞いてみたが、問題ないという。

ダリンの高校のクラスメートは135人にて、そのうちの60人もこの町に残っていないという。ダリンも将来はここに戻らないと言ってたし。私にとってはいい町だが、ここで生まれ育った彼らには少々退屈かも知らんし、仕事となるとどうしても他に行かざるを得ないかもしれない。そして、一度都会に行ってしまうと、もうここには戻りたがらないかもしれない。礼文の子が札幌に行って、礼文には戻りたがらないのと同じやろう。でも、町の規模が小さく、同級生も少ないせいか、彼ら達は大阪で育った私の高校時代のクラスメートよりも、よりclosefriendlyかもしらん。彼女達は久しぶりに会ったダリンと懐かしがってたし、クラスメートの近況を語り合ってた。いつまでも、仲良く、これからも連絡を取り合って欲しい。



 
「ルーク&スーザン宅でのdinner

FairbanksからPrudhoe Bayに行く途中で、Fairbanksに住むルークとスーザンが乗せてくれ、その時に、

Fairbanksに無事戻ったらうちにおいで。ご飯と寝床ぐらいしか提供できないけどね。」
2人は言ってくれ、私に電話番号を書いたメモを渡した。私は旅を始めて4年ほど経つが、基本的に旅先で会った人々と住所交換はしない。特に、日本人は住所交換をしたがるが、結局人のアドレスを集めるだけで、実際に連絡し合う事は余り多くない。私にとって人の住所を集めるのは趣味ではないし、住所交換をするって事は本当にこれからも連絡を取りたいって事なので、私に住所を教えてくれた人には図々しくいつも私は連絡する。すると、大抵の場合喜ばれ、実際訪ねると大歓迎される。今回もそうで、私はすでにFairbanksで宿を取っていたので、彼らの家で泊まらせてもらう事はお断りしたが、私が連絡すると、わざわざルークが町外れから迎えに来てくれ、夕食に招待してくれた。

彼らもダリン同様、町外れの高台に住んでいる。私がまずその家に着いてびびったのは、なんと自家用セスナがある事だ。すごい。セスナの免許は、費用がかなりかかるがそれほど難しくない。この日、ルークはたまたまこの年初めての飛行をしてきたらしい。ルーク宅もかなり広い。庭はでかいし、家の建物もきれいで、庭にはBBQ setがある。ワン公も4匹いるし家庭菜園もある。2人とも、私がここまで無事帰って来たのを喜んでくれ、道中の事を色々聞かれた。そして、この日のdinnerは白身魚のステーキと牛肉のステーキ。アラスカでヒッチ生活をしていると野菜不足に陥る。途中で食料品を買う事もできなく、食べるものと言えば、パン、パスタ、ヌードルとjunk系のものばかり。そういった中、この日のサラダは格別にうまかった。

ルークは一見怖そうだが、味のあるいいおっちゃん。スーザンは無茶苦茶かわいい。2人にはもう孫がいる。特に、スーザンは見るからにいい人って感じで、私はこの2人が大好きになった。食事の前に、少し家庭菜園を見学させてもらったが、作物はすくすく育っている。レタスも虫に食われてなかったし。Fairbanks自体、周りを丘に囲まれた盆地であるので、夏冬の温暖の差は激しく、この時期日中の気温は30近くまでなる。しかし、彼らのいる高台は比較的涼しく、特に馬鈴薯などの作物にはいいかもしれない。

2人ともう少し時間を過ごせたらなと正直思ったが、もうここまでしてもらえば十分やし、余り人に甘えるのは私の旅のポリシーに反する。本当にありがとうやな。ダリン宅といい、ルーク宅といい、このFairbanksでは温かい空気に触れたような気がする。この町は本当にいい町。ここなら本当に住んでもいいと、まじでそう思った。

ここで、私が日本語の読めるパソコンを探してるとスーザンに話すと、この次の日スーザンは色々調べてくれ、アラスカ大学の北極圏研究所にそのパソコンがあるという事を確認してくれ、わざわざ私の事をあらかじめ言っておいてくれた。そして、いざそこに行ってみると、そこの人はこの大学で留学してる日本人学生に私の事を言ってくれ、私はそこの図書館で2時間ほどメールのチェックができた。しかし、おびただしい数のメールが来てたので、返事を書いたりしてるうちに疲れてきて、途中で帰る事にした。ここまで世話してくれたスーザンにはほんと頭が上がらない。またしても、ありがとうやな。